254話 憲法改正
正平は衆議院選で自由党が過半数を占めたことで、より強く自分の考えを政策に反映しようとした。
そして首相就任以来取り組んできたのが、軍部にはびこる派閥争いだった。その典型が陸軍と海軍の争いであり、陸軍の中にも統制派と皇軍派が争ったようにいつも派閥がらみの揉め事があった。
組織においては派閥争いがつきものだが、軍部内の争いは時に暴力事件を引き起こし、クーデターに繋がる。正平はそれだけに軍部内の宥和に必死だった。
その一環として、国防省、防衛学校の創設がある。更に軍部の幹部養成を考えて国家戦略学校を創設した。
陸軍では陸軍大学出身者でないと幹部になれない制度があり、入学は所属する連隊長の推薦が必要だ。言ってみればどんなに優秀な軍人でも連隊長に気に入られないと大学に入れず、幹部の道は閉ざされてしまう。大学に入れなかった者は現場に回され、隊付き将校と呼ばれ、将官になれなかった。この不満が226事件の一つの要因だった。海軍も少し事情は違うが似たようなものだった。
正平は国防省創設と同時に防衛大学も作った4年後、陸軍大学と海軍大学を廃止し、新たに戦略学校を作り幹部候補の教育機関とした。
この学校の入学には条件は付けず、試験のみとした。これにより、軍人であれば経歴など一切問われないで、陸海空3軍に所属していれば試験に合格すれば誰でも入学可能だ。それなら現場付き将校と呼ばれ鬱屈した気持ちを持つ将校がなくなると考えた。また陸海空軍の幹部を目指す者が机を並べて勉学に励むことで、将来的に陸海空の垣根を払えると考えてのことだった。
その開校式、新しい幹部候補生の前で正平は次のように言った。
「ドイツのエクヴォルト将軍は“将校には四つのタイプがある。有能、無能、勤勉、怠惰である。多くの将校はそのうち二つを併せ持っている。
有能で勤勉なタイプは参謀将校にするべきだ。何故なら勤勉で頭が良いから周囲の状況を良く掴めるので、補佐役にはうってつけだ。
無能で怠惰なタイプは軍人の9割にあてはまり、ルーチンワークに向いているが、重要な判断を任せられない。
有能で怠慢なタイプは高級指揮官に向いている。なぜなら決断する際、図太さを持ち合わせているからだ。怠け者だから部下をうまく使おうとするし、部下を危険にさらさず大事に扱う。
もっとも駄目なのは無能で勤勉な者で、いかなる責任ある立場も与えてはならない。愚かだから失敗をするしその反省もできない。そして勤勉だから同じ失敗を何度も繰り返す。こんな奴が部隊にいれば大変な損害を被る。殺してしまえ“と言っている。
君らに望むのは有能で怠慢なタイプだ。如何に状況を把握し、部下を大事に扱える人物になってもらいたい。
また “戦端を開かないうちから作戦会議の時点で目算して既に勝つのは、勝利の条件が、相手よりも多いからである。まだ戦端も開く前に目算で勝てないのは、勝利の条件が相手よりも少ないからである。勝利の条件が多い方が実戦でも勝利するし、勝利の条件が少ない方は実戦でも敗北する。ましてや勝利の条件が全くない戦いは論外である。私はこの勝利の条件に基づいて観ているので、戦いの勝敗が見えるのである。”と孫子の兵法にある。
戦略とはただ戦術を考えるものではない。如何に状況を掴み、良い状況に持って行くかである。戦法が重要ではなく、世界の政治経済や歴史文化を学び、我が国と他国の違いを良く知ることが大事だ。とりわけ、今の戦争は国家総力戦となっており、工業力が軍事力を支えている。経済規模の大きさが戦争の勝敗を左右する。
君たちにはこのように経済や政治・文化をなど総合的な視野を持ち、“戦わずにして勝つ”戦略を研究してもらいたい。それが国防軍幹部の候補生である君らの使命だ」
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そして、軍部暴走を食い止めるのは最終的には憲法に民主的な選挙で選ばれた者が戦争の判断を決めると明示して、歯止めを掛けようと考えていた。
“国民から選ばれた者が、戦争の判断ができるし、その結果の責任も負える。”という信念だった。
ただ流石に、正平も一気にそこまで踏み込んで、憲法を変えるのは無理と思っていた。
何しろ憲法は“不磨の聖典”とまで言われ、当時は手の付けられない存在だった。また憲法と共に手を付けられないのが統帥権だった。
憲法は絶対的と考えられ、憲法違反の判断を下されれば、その者は地位や名誉を奪われてしまいかねない。
“天皇が統帥する”という極めて短く、曖昧な文章のために、軍部や保守派の政治家はすぐに「統帥権を干犯している」と騒いで混乱させた。
この二つの論議だけで、国会は何度も紛糾し、暴力事件が引き起こされた。
かつて憲法学者美濃部達吉は天皇機関説を批判され要職を追われ、統帥権を変更しろと言った高橋是清は命を絶たれた。
た。
正平自身、前から「誰かが、憲法や統帥権に手を付けなくてはならない」と考えていたのだが、口にさえ出せない状態だった。
「理想を言い出すより、憲法改正の道を開くのが先だろう。」と密かに憲法改正への手続き探るように法制局に指示を出すのが精一杯だったのだ。
それが日ソ戦争に勝利したことで、正平の立場を圧倒的に強くした。
国民は熱狂的に正平を支持するようになり、正平への批判はかき消されてしまう状態になっていた。
「今なら、憲法改正を言い出して、統帥権をいじくろうとしても、俺に文句を言えまい。」との判断だ。
「明治維新より、日本は大きく発展し、領土が拡大し、多くの民族も日本国民になった。これだけ大きくなった領土を維持・統治し、民族の違う国民と共存共栄するためには、多くの制度を変える必要が出てきた。明治に制定された憲法には言葉も風習も違う民族が一緒になることは想定してない。また首班指名や国防の在り方なども明記されてない。統帥権は曖昧な文章で、解釈に違いが起きている。憲法を改正しよう」と主張した。
しかし、実行しようとすると抵抗は起きる。
自由党内には反対意見はなかったが、当然野党、民政党や政友会からは「憲法改正、まして統帥権を侵すなど容認できない」などと批判が相ついだ。
これを正平は多数決で押し通そうとする。批判意見には「226事件が何故、起きたのか考えてみろ。憲法にクーデター禁止が明記されてないために、一部の軍人の暴発を招いた。憲法を後生大事にするよりも、より良くすることが大事だ」と正論をぶつける。
これに反発して国会審議の場で民政党代表が「塚田首相の考えは我が国の存亡に関わるものだ」と厳しく詰問してきた。
「私が、国家存亡に関わるようなことをいつした。日ソ戦で勝利を導いたのは誰だ。」
日ソ戦勝利を持ち出されると野党側は強く言えなくなってしまった。
また新聞などの論調も226事件再発を防止するためにも憲法改正は必要の立場が多かった。
野党幹部には統帥権を振りかざして、国会を紛糾させた過去があり、あまり正面切って強い反対をすると、過去をほじくり出され国民の批判を浴びる心配も出てきた。
結局、国民の圧倒的な支持を受けて、正平は国会を乗り切った。
そして2年間の審議を経て、憲法に「人は平等、民族に優劣はない」「国会の決定で首相を任命する」「担当大臣が輔弼して統帥する」と書き加えられた憲法改正案が通過し、国民の審判を仰ぐことにこぎつけた。
44年の春に国民による直接選挙が行われ、憲法改正が正式に決まった。




