244話 モンゴル派兵
3月末になって、モンゴルに政変が起こる。有力部族のダグドルジが共産政府に反旗を翻し、実権を掌握し日本に支援を要請してきた。
正平は内大臣の木戸幸一と謀って、御前会議を開いた。
「モンゴル国内で政変が起こり、社会主義者の首相が倒された。ソ連政府はモンゴルの伝統・文化を破壊して、共産主義を推し進めてきた。しかしモンゴルは古来より、遊牧生活を営み、ラマ教を信じてきた。伝統を重んじる社会に、共産主義はなじまず、このような事態になったと考えられます。
モンゴルには邦人が1000人近く暮らしており、安全な場所に避難しており今の所、無事を確認しております。しかしながら、事態は急変し、緊迫している状況を見て、いつ法人を安全に国外に脱出させることを想定しておかないとなりません。
もう一つは実権を握ったダグドルジが我が国に支援を要請してきました。ここで支援を断れば、我が国はモンゴル国民の信頼を損ないます。政府としては早急に派兵を決断すべきと言う考えでありますが、皆様方のご判断を伺いたく集まっていただきました」
「左様。わが国は昔モンゴルの徳王が蜂起した時、見殺しにしてしまいました。あの時にもっと迅速に介入していれば、モンゴル人はソ連の圧政に苦しむことはなかったと思う。是非早く、派兵の決断をすべきと思う。」呼応するように木戸が発言する。
これにより会議の流れは決まる。モンゴルの国内事情や兵力などの質問が続いた後、モンゴル派兵が承認され、派兵する兵力は国防大臣に一任された。
その間、昭和天皇は何一つ発言されなかった。しかし、正平がモンゴルへの派兵決定を上奏した時に下問される。
「塚田は北支撤退を熱心に主張したが、何故、今回はモンゴル派兵に熱心なのか?」その言葉には正平への不信が滲んでいた。昭和天皇は正平を、反戦を考えている数少ない政治家、軍人と思っていた。それなのに、今回の派兵は裏切られた気分だ。
一方の正平は本当の理由が言えない。ソ連に対し極東地域の割譲を強要するためにモンゴルに親日政府樹立を狙っているなど、口に出せるものではない。
「ソ連は3年前、一昨年と日本周辺で越境騒動を起こし、戦闘に至りました。今はドイツとの戦いに明け暮れ、日本に攻め込む気配を見せませんが、いつまた、日本侵攻を狙って来るか分かりません。その為にも、モンゴルに親日政権を樹立し、ソ連からの脅威を取り除く所存です。ソ連にとって、モンゴルを失うことは東アジア侵攻の足掛かりを失うことを意味します。その後の日本にとって、より安泰な事態となります」そう答えるしかなかった。
平和を願う天皇とソ連を叩ける絶好の機会と見る正平とは考えがあまりに違っていた。
正平がモンゴル派兵に積極的だったのはソ連に圧力を掛けたかっただけではない。
モンゴルは日本本土の20倍以上の国土面積ながら、総人口は200万に達していなかった。首都ウランバートルが最大の都市であったが、10万人にも足らず、防衛を預かる兵も数千人規模でしかない。日本とモンゴルを比べれば圧倒的な兵力差だ。これまで日本がモンゴルに手出ししなかったのは、ロシアとその後を継いだソ連との関係を考えていたからだ。
「支那は人が多すぎて、日本が進出すれば必ず一部の支那人から反感が生ずる。逆にモンゴルでは人が少ない分、日本の進出の仕方次第では歓迎される声も大きくなるはずだ。」
派遣される軍隊にはモンゴル人との軋轢を生まないように、モンゴル派遣の意義を説明しておいた。
「モンゴル人から反発されるようでは今度の派遣は失敗に終わる」
出兵した日本軍は総兵力、40万、戦車、装甲車を中心に首都ウランバートルに乗り込んだ。対するソ連軍は独ソ戦に勢力を集中するために、予備役の軍人中心で、兵力も1000人を越えていなかった。ソ連政府もモンゴルを日本が狙っているとは気づいていたものの、モンゴル防衛に兵力を割くことができなかった。
またモンゴルの共産軍の士気も低く、抵抗の構えを見せない。彼らはソ連兵に顎で使われるよりもダグドルジの命令に従った。
これらの結果、派兵からわずか1週間で共産党政府は壊滅し、首相だったチョイバルサンが捕えられた。
日本軍は治安維持を最優先しながら、住民と積極的に進行を深めていくことを心掛けた。
赴任先では部隊長が、現地の族長に挨拶に行き、部隊進出に断りを入れる。そして伝統・風習を重んじる態度を見せるのだった。
各地のラマ教寺院の復興にも力を貸し、病院や学校建設も始まる。特に喜ばれたのが従軍の軍医が病人を無料で診察してくれることだった。
「日本人が患者を診てくれる」その噂が広がり、日本軍の駐屯地には住民が馬車や馬で遠くから駆け付けた。
こうして日本軍の進出は大きな抵抗もなく、モンゴル全土に展開されていく。
ダグドルジが首相となり、親日政権が樹立する。
「モンゴルの栄光を取り戻せ!」「新たなチンギスハーンを誕生させよう!」「モンゴルの伝統復活」そんなスローガンが声高に叫ばれた。
そしてこの政権とは「漢人に支配されている内モンゴル地域をモンゴルに編入する。その時は日本軍が支援する。その見返りにモンゴル領内に日本の軍事基地を許可する」という密約が交わされていた。
文中で木戸の発言で“徳王”と言う言葉があるが、36年に関東軍は内モンゴル王族の徳王を担ぎ出して、親日的な政権を内モンゴルに樹立しようとした。しかし、徳王の軍は蒋介石軍に破れてこの企ては失敗し、加担していた日本特務機関の将校なども殺害された。




