239話 地方自治
自由党は首相の正平を頂点に、国会議員、地方議会議員、一般党員の組織体制が整えられていくが、組織がまとまっていく間に、いくつかの問題も抱えるようになっていく。
その一つが国家議員と地元選挙区の地方議員とのつながりが強くなると、地元の要望が直接国会議員に持ち込まれることだ。
当時の県レベルでは県知事は国からの勅撰で決められており、地方の議会には対応しきれない案件が多くあった。
「うちの村に鉄道を通して欲しい」「うちの村ではまだ電気電話も通じてない。早く通してくれ」そんな要望が次々と国会議員に持ち込まれることになる。
地元の要望ばかり聞いては党利調略に陥った、政友会や民政党の二の舞になる。と言って、地方議会レベルでは予算規模や権限が少なくて、解決できないことが多かった。本来なら国会議員が担当するような問題ではないのだが、地元の要望を断れば次の選挙に差し支える。痛しかゆしだった。
明治に入って廃藩置県が行われ、県の改正などもあったが、知事は勅撰で決められていた。知事を選挙で選ぶようになっても権限が国に集中しており、これを地方に移さなければならない。また県レベルでは人口、経済の規模が小さく、大型の予算も組めないので、単独での開発計画も小規模のものしかできなかった。
「いっそのこと、複数の県を一緒にして、州として権限や予算を独自に出来るようにすればよいのではないか?」
そのような声が党内から上がるようになっていた。
地方自治は政策の根本問題でもあり、研究会だけでなく自由党全体を巻き込んだ論議になる。
「県を纏めて州にしたほうが効率的だし、地方の繁栄にもつながる。」という考えが広まっていく。
また東京と大阪への産業と人口の集中傾向が起きていることも地方を改造しようと言う考えになった。
「経済が東京や大阪を中心に動いて、他の地域は経済が回っていかない。このままでは東京や大阪ばかりに人も金も集まり、地方が廃れてしまうのではないか?」
そのような声が上がるのも当然だった。
「州の大きさにまですれば、欧州当たりの国家レベルの大きさになる。その中で得られる税収で予算を計上し、交通網や通信網などを企画開発させていけば、地方独自の産業も育ち、文化も生まれる。」そのような考えだった。
「州に拡大しても、そこで必ず州の中のどこかの都市に金と人が集中する問題が起こり、過疎地域はうまれるのではないか?」そのような反論も当然出た。
「いや、それでも今のように、東京や大阪に金と人を吸い上げられるよりはよい。州レベルの地域において金も人が残ることになり、まだましだ」とその反論も出る。
そして自由党内では県を束ねて州にし、州知事は勅撰ではなく選挙で選ぶ方向で話がまとまる。
東京と大阪の経済力は抜きんでていて、これを抱えた州が格別に大きな存在になってしまい、特別都市として州と同等な権限を持つ行政機関とする考えに落ち着く。
次に台湾と朝鮮をどのように扱うかも課題になった。
日清戦争勝利で台湾は日本領土となり、日露戦争以後のいろいろな経緯もあって朝鮮は日本に併合された。
日本政府はこれの地域に手厚い保護行政をした。例えば台湾では耕作に適さなかった地域に大規模な水利施設を設けて、穀物地帯にした。朝鮮では糞尿まみれと言われた都市に下水道を造った。教育や保健衛生の面でも多くの投資を行い、住民の寿命が大幅に伸び人口も増加したほか、小学校なども各地に建設され、国立大学なども設置された。
これを欧米のなどの植民地と比較すれば大違いである。欧米諸国は日本よりも100年以上早くアフリカやアジアの植民地経営に乗り出したが、住民の寿命が延びた例はほとんどなく、大学が作られたこともなかった。
例えばパラオ諸島はドイツの植民地であったころ、劣悪な施策をして住民の人口が減少し続けていたのに比べ、日本統治になってから人口増加に転じている。さらに小学校、病院などができたのも日本が統治してからだった。欧米の植民地政策は収奪だったのに対し、日本は育成を目指していたと言える。
そして台湾は日本からの投資より、これを上回るほどの税収を上げるようになった。その実績もあって台湾では選挙で住民代表を選出したい声が上がるようになる。
「台湾は日本政府の援助がなくても自立できるのに、大学設立は朝鮮よりも遅れていた。これは台湾が朝鮮より蔑ろにされているからではないか。台湾の住民にも選挙権を与えられ、代表をだして台湾住民の声を日本政府に上げなければならない」
その願いは理に適っており、自由党内では好意的に受け止められていく。
一方の朝鮮では税収が日本政府からの援助を上回ったことがなかった。
「いつまで、朝鮮に金をつぎ込めば、独り立ちできるようになるのか」正平には不満であった。
正平はこうした議論には直接口を出さないつもりだった。
「自動車専用道路の計画を推し進めていけば、地方自治が絡んで来る。知事を選挙で選ぶなど私の考えていたことと似通っている。党内の論議にあまり口をはさむべきではない」
ところが、10月の自由党の会合で台湾人に選挙権を与えると言う意見に対し、「台湾人に選挙権を与えるなら、朝鮮人にも選挙権を与えないと不公平だ」という意見が出た。
それを聞いた正平はつい感情が先走る。
「朝鮮統治ではこれまで一度も黒字になったことがない。この先、後10年も金をつぎ込んでもまともに自立できるかも疑わしい。朝鮮人は怠け者で働こうとしないからいつまでたっても赤字を垂れ流し続けるんだ。そんな朝鮮人に選挙権はいらない。朝鮮なんか切り捨てるほうがましだ。」と思わず言ってしまった。
身内だけの席であり、あまり深い考えで言ったのではなかったが、少し語気を荒げた言葉に出席メンバーは何も言えなくなる。
普段は努めて冷静で穏やかな口調の正平が発した言葉に党員たちは黙り込んだ。
そしてこれが思わぬ波紋を生むことになる。
どこからか、それが外部に漏れ伝わり、「塚田首相は朝鮮を手放す気ではないのか?独立させる気ではないのか?」と憶測を呼ぶようになる。
ただこの時は、誰もその言葉が重大事になるとはだれも思ってもいない。
41年6月にドイツとソ連の戦争が始まりヨーロッパが新たな激動局面になったが、日本は好景気に沸き返っていた。正平はドイツとの同盟をやんわり断りながらも、ソ連との戦争も辞さずと言う姿勢を見せ、外交では中立を保っていた。国内の政務を淡々とこなして、そのまま1941年は経過していく。




