23話 帰国挨拶
帰国すると、真っ先に桑原に無事な姿を見せに行った。
陸幼に入る前から桑原の家に寄宿し、物心両面で世話になっていた。正平にとっては実父以上の存在である。
「よく無事に帰って来た」桑原も嬉しそうに迎えてくれる。
桑原としては正平を実子以上に可愛いと思っている。その桑原の眼は正平の黒い眼帯に止まった。それはどうしたという疑問を示している。
正平はかいつまんで戦地の様子、負傷した事情などを説明した。
「うむ。ご苦労だった」桑原の言葉は安堵と労いの言葉があった。
いつもながら言葉は少ないが真心のこもった口ぶりに正平は思わず頭を垂れてしまう。
「ところで、お前はいつまで、軍服を着ているつもりだ」
「いつまでとはどういうことですか?」
これまで桑原は正平が軍人になることに反対をしてこなかった。それだけに軍服を脱ぐ気はないのかと言われるのは意外だ。
「お前のその体で一線を張るのは難しいだろう。お前の適した道は他にもあると考えないか」
別の生き方を考えろという桑原の言葉は片目になった正平を案じてくれたものだった。
片目だからといって、現場の指揮ができないわけではない。
ただ大きなハンデになるのは事実であり、非常時に的確な判断ができるか、自信が揺らぐこともある。
「私は国から命令があるまで、軍服は脱がない所存です」
「うむ。」それを言ったきり桑原は少し黙った。
正平の頭の良さは子供の時から承知している。陸幼から士官学校までほとんど首席で通した男だ。
桑原としては正平をこのまま軍人するのではなく、政治家にして国の将来を担う存在になって欲しかった。出来るなら自分の後継者、行く末は大臣か首相になって欲しいと考えていた。
だが、時局が緊迫し、日露戦争が勃発した段階で、正平の軍服を脱がせるなんて出来なかった。黙って戦地に送るしかなかった。
桑原は大局を見る目を持っている。もしそのまま正平が戦死したならそれも本人の運であり、正平の定めであると考えていた。
今こうしてようやく無事に帰り、おまけに目に負傷をしている。正平に軍人を諦めさせたいと思ったのだ。
「お前のその体で、軍人が務まると思うか?」
「確かに私は目を負傷しました。しかし、片目であり盲になったのではありません。片目になったことで以前、見えないことも気づくようになりました。軍人としてまだやれる覚悟はあります」
桑原は人の気持ちを読むのは心得ている。それだからこそ、薩長土肥出身でないにも関わらず、出世し大臣などの重要職をこなすこともできた。
部下を渋々従わせるのと、納得させて従わせるのでは成果が大きく違う。
ここで無理に正平の軍服を取り上げようとすれば、正平は従うだろう。
正平が従順なのはよく知っている。でもそれでは正平は納得しない。
屈服した気持ちになればいずれ正平の大成する道が遠くなり、閉ざされると感じた。
それっきり軍服を脱げとは言わなくなった。
しばらく旅順での話や東京の出来事など話した帰り際に桑原が思わぬことを切り出した。
「どうだ、外国に留学をしてみないか?」
「お前は俺の一番出来の良い息子だ。海外に行って、広い知識を身に着けて日本を動かす人物になってもらいたい」
桑原には2男3女がいる。そのうち男子は一人が早死にし、一人は病弱だった。娘たちは官僚に嫁がせたが、桑原の眼にはどの婿も物足りないらしかった。
「お前がもう少し、年が上なら娘をあげてやれるのに」昔、そんなことを漏らしたこともある。それほど、正平を買っていた。
「軍人をそのまま務めるにしろ、もっと広い目を持つべきではないのか。世界は広い、世界の事情を知るのもよいだろう」
思わぬ提案だった。
正平はこのまま軍務に戻り、陸軍将校として生きていくつもりだった。
それが、もっと広い視野で世界を見ろと言われた。
軍服を脱げと言われれば、反発をしないわけにはいかなかったが、外国に行けと言われれば反論できない。
「分かりました。言われる通りにいたします」
桑原が言い出したことだ。陸軍にはいろいろ手を回し留学の辞令はいずれ来るだろう。敢えて逆らわないことにした。
故郷に帰ると両親も正平が無事に帰ってきたことに喜ぶとともに、片目を失ったことにひどく悲しんだ。
「そんなにしてまでお前は苦労したの」母は泣き顔で言ってくる。
「よくやった。お前は偉い」父も息子を称えながらも半泣きである。
その二人がいつの間にか、体が小さくなっているように感じられた。
思えば父はすでに50を超え、定年を迎えようとしている。
「今日、無事な姿をお見せすることと共に、この家を良助に譲りたいと思います」
以前から考えていたことで、軍人なら戦死は覚悟をのしている。実家は弟が継ぐべきと考えていた。ただ、学校卒業も軍事訓練や出征の準備などもあり、その話は後回しにしていた。
弟の良助は無事に役所に入っているが、まだ走り使いの域を出ず、給料も低かった。彼の給料だけでは3人の居る下の妹弟の学費までは賄いきれないはずだ。
今は正平の仕送りがこの家には大きな支えとなっていた。
「弟や妹たちが皆、就職し、嫁に行くまでは仕送りを続けますよ。」安心させるように言った。
それ以降、故郷に帰ることはあったが、正平はほとんど実家のことについて関りを持つことはなかった。




