213話 選挙勝利
自由党からの立候補者は安田が多く集めた。女子生徒の就職斡旋をしてきたころ、知り合えた者達だ。子女を東京の学校に送り込めるのは財力にゆとりのある人物で、有力者が多い。その伝手を使い、自由党から立候補してもらった。以前より地方議会でも昭和会として自由党は少しずつ議席を獲得しており、それが国会議員候補者を後押しした。
また、退役軍人出身も多くいた。宇垣が退役軍人会の代表として声をかけたことが大きい。
彼らの一部には正平が軍隊を北支から撤退させ、また張作霖爆殺事件の詳細を公にして責任を負わせたことに不快感を持っていた。しかし、国防省を創設して国軍の機械化を推進し、ノモンハンの戦いに勝利したことに評価を変えた。
「首相のやり方は間違ってない。軍部の暴走を止めたから勝てた」軍人は冷静な評価ができることが特徴だ。
「軍部の体制を変えるには、過去の過ちを質すことが必要で謀殺事件などを有耶無耶なままにするのは良くない。何よりも支那問題にいつまでも関わっていては国内の改革は進まない。軍都の建設は支那問題が片付かなければできなかった」そう考えるようになってくれた。
彼らの間から自由党員になるものが増え、今回の選挙で立ってくれた。
もう一つ、政友会から鞍替えしたものが10数名いた。彼らは今回の政変が、政友会幹部と松岡の共謀で起きたものと考えていた。
「何も人気の高い首相に歯向かってまで、自分たちの要求を押し通すことはなかった。首相にもう少し譲歩していたら、今度の選挙はしなくて済んだ」そんな不満を持つ者がいた。そこに安田や昭和会から誘いの言葉が来ると心が動く。「首相の人気にあやかれば当選は難しくない」そう考える者がいてもおかしくない。
かつて「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙で落ちればただの人だ。」と名言を残した政治家がいた。彼らにとって当選するかしないかでは天地との開きがある。しかも政友会所属議員のままでは今度の選挙に逆風を感じていた。
「政友会のままでは戦いづらい」そう考えて鞍替えをするものが重なり、政友会の勢力を減らすことになった。
選挙の結果、自由党が大躍進をして、国会議席の34%を占め第一党になった。民政党は30%を維持したが、政友会は離脱派や国民の反感を受けたこともあって、21%に勢力が減少した。また、左派系の社会大衆党は都市部で躍進して1割を超えた。
「勝った」選挙結果が伝えられ、支援者から“万歳”が沸き起こる。遊説の疲れが残る中で、自然と正平の顔も緩んだ。
「やりましたね」留吉と熱い握手を交わす。
メアリは泣き出しそうだった。始めて投票所に行き、夫の名前を書いた。そして夫がトップ当選した。もう言葉がでない。
回りを囲んだ女性から「おめでとう」の言葉を掛けられ、ただ頭を下げた。
正直、選挙がこんな大変なこととは思っていなかった。全国で様々な人に会い、その声を聴けたことが一番大きなことだとも思った。
「どのようなことを言えば聴衆が反応してくれるか。有権者がどのようなことに関心を持っているか」肌身で分かるのが選挙だ。
民主政治の一番良いことは為政者が有権者の言葉を真剣に聞く選挙があることだとつくづく思う。
そしてこれから、この声をどのように政治に反映するかが重要だ。正平は今一度身を引き締める思いで万歳三唱を聞いた。
自由党は過半数を占められなかったが第一党になり、正平は西園寺から首班指名を受けた。
犬養毅が凶弾に倒れ、首相の座を降りて以来の、衆議院選挙で第一党の党首が首相になった。
「政党政治の復活」新聞紙面でこの活字が躍る。
これにより、正平は直ちに民政党と協議をして、連立して内閣を組むことにした。両者を合わせれば三分の二を占めることになり安定した政権維持が考えられた。政友会と連立してもなんとか過半数にはなるが、少数与党の不安定さは拭えなかった。何よりも前の政権末期での政友会の態度は許せるものでなかった。
第二次塚田内閣の特徴は松岡外相の排除だ。
政友会議員が去り、自由党と民政党議員が多く占めたが、大蔵大臣、外務大臣、国防大臣、内務大臣などの要職が変わらない中で、松岡だけが外された。替わりの外相にはイギリス大使の吉田を招聘する。
「松岡外相はドイツとソ連を信用しきっていた。外交には信頼関係の構築が重要と言うことは理解するが、信用しきるのはまずい。特にアメリカとの関係が微妙なだけに、ドイツと交渉して、アメリカのご機嫌を損ないたくなかった。」
「随分、アメリカには弱腰ですね」
「私が軍人として見れば、もっとも戦いたくない相手が、アメリカだ。少し前に陸軍の研究では、アメリカに勝てる見込みはほぼゼロだった。アメリカとはなるべくことを構えたくない。」
「ルーズベルト大統領は難しい相手です。それはなかなか厄介ですね」吉田もルーズベルトの気性は把握していた。それだけに安請け合いはしない。
「だから君を呼んだのだ。このまま英米と仲が悪いままでは外交で躓く。国内景気は何とか持ち直しているが、英米との関係がこれ以上悪化すれば、ドイツ同様に制裁を受けかねない。そうなれば我が国の経済は壊滅する。英米との関係改善を何とかしなくてはならない。」
「それには中立宣言を出すしかないと思います。」
吉田の提案はドイツ側にもイギリス側にもつかないと言うことだ。これまでの外交関係でドイツとは非常に上手く行っていて、ここで中立宣言を出せばドイツとの関係にほころびがでかねない。
「中立宣言は必要と思うが、タイミングを考えなければならない」
吉田とはどこのタイミングで中立を宣言するか尚も検討が続いた。
実際に松岡の更迭は40年第二次近衛内閣の時に起こった。この時は近衛首相が松岡の独断専行ぶりに処断したものだったが、この時にはすでに日独伊の三国同盟が締結され、日本は連合国側から完全に敵国扱いされることとなった。松岡だけの問題ではなく、近衛が優柔不断で引きつられてしまったのも後の太平洋戦争に繋がった。
旧陸軍将校の回想でも“陸軍内部ではドイツとの同盟に懐疑的”だったと言われる中、“だれが三国同盟にはしらせたのか分からない”声がある。日本が道を踏み外したのはもっと前からでもあったが、決定的にしたのは三国同盟だった。松岡によるドイツとの交渉が破局していたなら、どうなっていたか不明だ。




