21話 旅順陥落と捕虜
旅順のロシア艦隊が消滅した時点で、旅順要塞をそれ以上日本は攻める理由も、そしてロシアは守る戦略的理由はほとんどなくなっている。
日本は来るべきロシアとの南満州での決戦に備えて、早く乃木軍を北上させておく必要があった。
奉天に退却したロシア軍には増強が相次いでおり、いつまた南下して戦いを起こしてくるか分からない。
そのためには乃木軍が早く北上し、備える必要があったのだ。
そして、旅順のロシア兵は疲労し、壊血病も流行り、士気も低下していた。
それまで必死に耐えてきたロシア兵も目の前の艦船が攻撃を受けた姿は衝撃だった。
「バルチック艦隊が来ても合流して戦えない」そんな無念な思いが士気を低下させた。
「もうどうにもできないな」それ以上に毎日のように山から降って来る砲撃は神経に応えた。
203高地が奪われ旅順市街地は丸裸になり、ロシア兵にとって砲撃から身を守る手段は息をひそめ隠れることしかなくない。
もしここで、旅順の包囲がなくなってもロシア側から遊撃軍を出すほど戦意は残ってない。
旅順での勝敗の行方は明らかになっていた。
戦術的に乃木軍の一部を残し、大半を早く北上させて来るべき戦いに備えた方が合理的であった。
ロシアとしても旅順艦隊がせん滅されれば守る意味はなくなる。
双方とも旅順要塞の意義がもうなくなっていたのだ。
それでも、旅順要塞は戦争のシンボル的な位置づけになっていた。
日本は何としてでも旅順を陥落することに拘り、ロシアは徹底的な抗戦を固めていたのだ。
「旅順を陥落すべし」それが日本軍の大命題だった。「旅順を守り抜け」それがロシアの意思だった。
ロシア艦隊が消え去っても、戦いは続けられた。
旅順司令官コンドラチェンコ少将はこの困難な状況を必死に取り戻そうとして、前線にも足を運び、兵士を激励していた。
その彼が12月15日砲撃により爆死してしまう。
全く偶発的な事故であるが、旅順の守備側の精神的な衝撃は大きかった。
更に旅順の周囲の堡塁陣地も次々と攻略されていく。
後を継いだ司令官ステッセルは29日に「これ以上の戦闘の意味はない」と判断し緊急会議を開いた。
「まだ戦闘は続けられます」ロシア将校の多くはまだ戦闘続行を主張した。
ただ彼らも31日になって日本軍によって最後まで残っていた松樹山堡塁が爆破されると、降伏の道を選んだ。
翌年1月1日、ロシアから日本に降伏が伝えられた。
あまりに多くの犠牲者を出して、旅順要塞は陥落した。
正平はロシア語が話せる数少ない将校として、降伏文書の調印や、戦後処理の応対に駆り出された。
会ってみたステッセル司令官の態度は堂々として、敗残兵の卑屈さは微塵も感じられず、誇り高き将軍と感じた。
他のロシア将校も同じだった。
203高地から砲撃されれば守る術はない。少しずつ、陣地を奪われ兵士を失くしていく。
旅順で戦える術はロシア側にはなくなっていた。
それどころか旅順の将校は半月以上も日本の攻撃によく耐えたと言って良い。
ロシア将校には自負心を高く持ち、負けたと言う打ちひしがれた様子も見られなかった。
また日本軍の捕虜に対する扱いも丁重なことも彼らの自尊心を傷つけることはなかった。
この扱いにステッセルは愛馬を乃木将軍に贈るなど謝意を示している。
「立派な二人だ。互いに敬意を示し、侮りのひとかけらも感じられない」正平はこの寄贈にも立ち会って、二人の将軍の有り様に感銘を受けた。
ただ、後のソ連政府の判断はこの時のステッセルの行為を裏切りと見なした。
「徹頭徹尾戦い抜け」ソ連共産党の教条的な考えによって、ステッセルは後に処刑されてしまうことになる。
また他の将校にもシベリアへの流刑が出される。
「まだ、旅順には弾薬が残っていて戦えたはずだ」だが、それは後世の判断だ。それも共産党による都合の良い解釈と言える。
「裏切り者、売国奴は許さない」共産主義の冷酷な一面だ。
「ロシア軍は誰一人卑怯な真似などしないで懸命に戦ってきた。俺は彼らを対等な立場で接しよう」正平はそう心に決めた。
ロシア将校からの要望には実直に対応した。
それはロシア将校にも分かったようで、いつしか「ショウヘイ」と名前で呼ばれるようになっていく。
片目の眼帯によりすぐ顔も覚えられたし、何よりも正平がロシア語に通じていたことも大きい。
特にキミレンコという将校とは年が近いこともあって、お互いに呼び捨てで言い合うほど、仲が良かった。
「正平はロシアのことを良く知っているが、何で興味を持ったんだ?」
「隣の国のことだし興味を持つのが当然だと思う」
キミレンコにとりこの言葉は意外に感じたようだ。彼の隣国とはドイツやポーランド、ウクライナであり、シベリアの先の日本を隣国だとは到底思えなかったようだ。
敵として戦った日本の将校からまさか我が国が隣国として考えられていたとは思いもよらなかったのである。
「ならばロシアのどんなことにひかれた?」
「俺はロシア文学に興味を持った」
「じゃあ、トルストイは知っているか?」
「『戦争と平和』なら読もうとしたが、長大で全部は読めなかった」
思わぬことから、キミレンコとは文学好きと分かり、打ち解けるようになった。
そして正平にとっては意外な旅順のロシア事情も知ることになる。
正平は日本の旅順攻撃が始まる前から、ロシアは防御を固めていたと思っていた。それがキミレンコによって攻撃前に突貫工事でようやく仕上げたこと、しかも203高地は工事が完了してなかったことを知った。
「もし、日本に正確な情報が入っていたら、いや情勢分析が出来ていたなら、こんな損害が生じなかったのではないか?」
旅順攻撃に際し日本は約13万が参加し、5万9千人が死傷している。仮に28センチ砲の到着を待ち、それから攻撃に移れば、そして早くから203高地に照準を向けていたなら、損害は半数以下になったのではないか。
参謀室ではそんな議論や検証もしてなかった。皆勝利に浮かれ、検証をする様子は見られない。
「不条理」子供の時に感じたことが、正平にまた蘇った。




