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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
21章 第二次世界大戦
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208話 リョートフの亡命

読者の皆さんはスターリンが本名ではなく、ペンネームだったことをご存じだろうか。

日本でも明治の元勲、木戸孝允が何度も本名を変えているのは有名で、生まれ時は和田小五郎、幼児ですぐ桂家に婿養子となり桂小五郎になっている。元服時に孝允と(いみな)を名乗るが桂小五郎として一般には知られている。成長して志士として倒幕運動に身を捧げることになるが、幕府による長州征伐時には、小五郎は藩の外で身を隠していた。高杉晋作のクーデターが成功して改革派が実権を握ると、藩政を司るために呼び戻され藩主より木戸性を与えられる。このあたりの事情は定かではないが、桂小五郎の悪名が広まっていて、桂小五郎のままでは命を狙われたからと言われる。明治になって、諱と通称名の併用は禁止されることになり、正式に木戸孝允となった。このように日本ではやむを得ない事情で本名を変える例はあるが、明治以降において改名は珍しいことになっている。


ところが、ソ連の指導者にはいくつもの通名を持っていた。ソ連の建国者ウラジーミル・レーニンの本名はウラジーミル・ウリヤノフであるが、他に150もの筆名があり、レーニンはレナ川に由来する。

そしてスターリンもいくつもの名を持ち、それどころか出生にも謎が残っている。彼はロシア帝国支配下のコーカサス地方のグルジアに靴職人のヴィッサリオン・ジュガシヴィリと農奴の娘エカチェリーナの子供として生まれたことになっているが、生年日には1879年と1878年の2説がある。どうしてこうなったかも不明で、しかも父親に関しては母親が当時家政婦として働いていた、金持ち商人ではなかったかという説があるのだ。どうしてそんな話が出ているのかと言うと、金稼ぎのない貧乏靴職人では学校に通わせられなかったはずと主張する。酒飲みでぐうたらの父親を持つ息子にしては、確かにスターリンはコーカサスの辺境地域で不釣り合いなほどの教育をうけていた。今となれば真相は分からない。ただ、教会学校での成績は大変優秀な生徒として記録が残っている。


その後、神学校に入学するが、文学の才も発揮して詞も残している。彼の故郷はグルジア人、ロシア人、アルメニア人が共存し、周囲のイスラム勢力と対抗していた。ただ、敵対する勢力のために団結しただけで、民族間のいざこざは常にあった。ここにカスピ海沿岸で石油が発見され、チフリスを中心に石油産業が急速に発展し、労働力不足を補うために周辺国からも労働者が入り込むことになり、労働環境が悪化し労働争議も頻発していた。多感なスターリン少年がこれらに影響を受けないはずはなく、時に民族ナショナリズム、時に社会運動に参加していた。このことは学校にもばれ、退学処分を受ける。そして成人する頃にはロシア政府からも目を付けられるほどの運動家に成長し、シベリアにも送られている。若きスターリンは捕まっては脱走を繰り返していた。


その中で、彼は身を隠すためにもいくつもの変名をし、有名になったのが「スターリン」だった。「スターリン」は本名の「ジュガ」をロシア語化したものとされ、鋼の意味を持つと流布されている。ただ、「ジュガ」はグルジア語の単なる名前の一つであり、この説に信憑性はない。もう一つリベラルのジャーナリストにエフゲニー・スターリンスキーと言う人がいて、これが「スターリン」の基ではないかとも言われている。若い頃に詩を書くほどの才能を見せていたので、ジャーナリストに憧れていたのは分かる。いずれにしろ本人が真意を明かしてない以上、本当の所は分からないままだ。ともかく、レーニンやスターリンという代表的な指導者が通名のまま、歴史に名を残すのがソ連の奇妙な点だ。


そして30年代後半、ソ連はこの謎に満ちた指導者によって、完全に掌握されていた。スターリンにとって、重工業を発展させ、軍需産業を伸ばさなくては国の安全は保てないと考えており、農民を犠牲にしてでも重工業に力をいれていた。ソ連の主な輸出品は小麦だ。農民から強引に農産物を徴収し、外貨とした。当然農民は反発するが、富裕な農家が農産物を秘匿しているとして、見せしめに処刑し、さらに農民の多くを集団農場に押し込めた。夫のこのような政策を見て、スターリンの妻は嘆き、挙句に自殺してしまう。それでも彼の意思は鋼鉄のように固く、政策を実行続けた。名前の意味に少し疑問が残るが「スターリン」は文字通りの「鋼の男」だった。

ただスターリンのこのような性格は、側近においても恐怖を与えるものだった。政策に反対したら処刑されるのは必然で、失敗しても容赦なく追放された。例えばこの時期のソ連では工場や公共機関で火災などが頻発していた。これを体制に反対する者が意図的に破壊したものだと断定し、経営管理者の多くが逮捕されたが、その妻たちも同じだった。このようにあまりスターリンに敵対する可能性も低い者まで含め、粛清された数は36年からの4年間で68万もいた。

側近でも失敗すれば処刑は免れない恐怖を常に持っていた。


共産党に不満を持つ分子の摘発は内務省のエジョフが行っていたが、38年の暮れになって突然内務人民委員を解任された。摘発の行き過ぎが共産党内部で問題になったためだ。

このことに危機感を抱いた一人に部下だったリョートフがいた。彼はエジョフとともにいずれスターリンによって、追及され責任を負わされると考えた。自分や家族に身の危険が及ぶと考えて、シベリア鉄道に乗りモンゴルから満州のハルピンに逃亡した。ここにはまだロシア人が残っていて、通常の暮らしが保てると考えたからだ。

これが関東軍の目に留まった。


「ソ連の内部情報を教えたら、家族緒含めて身の安全を保障し、待遇も大幅に良くしよう」関東軍幹部の言葉にリョートフはすぐに飛びついた。リョートフも日本に情報を高く売れる判断したから、満州に逃げ込んだのだ。

「日本国内にいるソ連スパイの情報を持っているぞ。」

この言葉に関東軍だけでなく、内務省や警察の関心が集まる。

始めはソ連の一介の役人の亡命と考えていた警察幹部は証言を取り寄せるたびに驚きの声を上げた。

リョートフはソ連社会の不満分子摘発のために、密告だけでなく、組織内部に内部告発網を作り上げていた。そればかりか外国にスパイを送り込むことにも手を貸していた。特に満州と日本においては情報に関与できる立場にいたのだ。当然どれだけの情報が日本からソ連にもたらされていることを知っていた。

「ここまで我が国は共産主義者に汚染されていたのか。」

「国内の政治家や官僚の周辺を洗いだせ」


このことは内務省の金子を通じて正平にも伝えられた。正平にとってもソ連のスパイに汚染されていることは驚きだった。

「これは早急に対応することになるが、後のことも考えなければならないな。国内のスパイを撲滅するのは当然として、我が国にもスパイ養成機関を作る必要があるな」

国防省に特務機関は存在していたが、ソ連のものと比較すれば小規模で幼稚な水準だった。

「陸軍内部に秘密機関を作り、そこを基にスパイの養成学校を造ろう。リョートフのしてきたことを参考にすればカリキュラムなどに費やす時間は少なくて済むはずだ。対スパイ対策の構築も急がせろ」

ソ連の小役人の情報が、これほどまでに危機感を与えたものはなかった。

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