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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
21章 第二次世界大戦
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207話 東京オリンピック中止

ドイツのポーランド侵攻とイギリス、フランスの参戦により始まった第二次世界大戦勃発は多くの混乱をもたらすことになる。

ここで当時の指導者がどのように考えていたのか話す。

ルーズベルトは第一次世界大戦の戦後処理を主導したウィルソン大統領に傾倒するあまり、ヴェルサイユ体制で敷かれた国境線の変更を認めなかった。ヴェルサイユ体制が民族の事情や状況を無視して作られたことに考慮しないばかりか、それが新たな戦争の原因になることも考えようとせず、ドイツだけを一方的に非難する。しかもドイツと一緒になって、ポーランドを分割したソ連に対しては何の文句もいっていない。

このような姿勢にはアメリカ政府内に共産主義者やその協力者が多くいたことを示す他、彼自身の独善的な性格が日独伊を軍事独裁国家として見なし、自由民主主義国家に敵対すると考えていた。

ただアメリカには中立法があり、交戦中の国家には武器の輸出は禁止されていた。更にアメリカ国民はヨーロッパの民主主義国家には同情的だったが、それでも力を貸してやると言う雰囲気はなかったのだ。ルーズベルトはアメリカ国内の状況から変えていかなくてはならなかった。


勇ましくドイツに参戦したイギリスとフランスはどうだったか。

チェンバレンは3月に“ポーランドの独立保障”を宣言し、9月にドイツに宣戦布告しながら、大陸に派兵するのをためらっていた。

戦争が始まると直ぐに軍事物資の調達に走るが、アメリカからはすんなりと供給してもらえない。アメリカからの支援の目途が立たない状況ではポーランドに派兵など出来ないことだった。

これはフランス政府も同じだ。ドイツがポーランドに侵攻しても派兵しても腰を上げることはなかった。

アメリカからの支援が期待できない状況では迂闊に戦いを起せなかった。

結局、宣戦布告はしてみたものの、両国はポーランド見捨てたことになる。

実際にイギリスが取った行動はドイツへの経済封鎖以外は、西武戦線に拡大が広がる準備のため、10月になってフランスに派兵しただけだった。

英仏を巻き込んだ本格的な戦闘になるのは、翌年の4月になってドイツ軍がデンマークに侵攻してからだ。


ソ連のとった行動はドイツと歩調を合わせている。

ポーランドに侵攻したのに続き、バルト三国への圧力を強めいていき、三国は国内でのソ連軍基地建設を認め、事実上のソ連の支配下になった。

これは後に説明しようと思うが、スターリンは11月30日になってフィンランドに冬戦争を仕掛ける。

第二次世界大戦はドイツの侵略として理解されているが、ソ連の行為も見逃されないものだと思う。


正平はこの事態にヨーロッパ諸国に中立を宣言している。

「ヨーロッパが如何様なことになろうと、我が国はどこの国とも同盟を結ぶことはなく、参戦をしない。

ドイツはソ連と不可侵条約を結び、我が国との防共協定を反故にしている。このようなことはこれからも起こり得るし、どこの国との協定や条約でも簡単に破棄されることを念頭に置かなければならない。欧米の国とは信頼できないと言うことだ」

このように閣議で述べると反対意見は出なかった。

「蒋介石の国民政府とは比較的うまくやれるようになってきた。小さないざこざはあってもこれが大事に繋がることだけに専念すればよい。

要注意すべきはソ連だ。ノモンハンでは勝利をしたが、ソ連が欧州の混乱に乗じて何を狙って来るか分からない。沿海州のウラジオから我が国迄、飛行機を使えば一っ飛びの距離しかない、簡単に爆撃されてしまう。警戒を緩められない」

「アメリカはどのように出るのだ。一番の脅威はアメリカではないか」そう発言したのは閑院宮国防相だった。

「アメリカの実力は圧倒的ですが、太平洋を給油なしで飛べる飛行機は開発されてない。アメリカの軍艦を警戒すればわが国には脅威はないと考えます」

この考えに全員が賛同する。


「ただ、残念ながら東京五輪は取りやめになることになるだろう」

「IOCの事務局からは何か言ってきているんですか?」

「正式には届いてないが、外務省の報告だと難しいようだ」

36年にドイツで開催されたベルリンオリンピックは、ヒットラーが国の威信をかけただけあって、大規模なものとなり、新規の企画も多くあった。例えばオリンピックスタジアムは陸上競技の他にも、サッカー、ハンドボールが行われた。スタジアムの横にはプールが併設され水泳競技が行われ、総合スポーツ施設の走りとなった。

参加する選手のための宿泊施設として選手村が作られたのも新企画だったし、聖火リレーはベルリン大会が初めてだった。これは古代オリンピックの発祥の地ギリシャのオリンピアでわざわざ聖火して、松明によりベルリンまでリレーして運んだ。後のバルカン半島侵略のために現地の事情を探るためと言われることもあるが、ヒットラーが本格的に国外侵攻を始めたのは3年も後のことなのでこの考えには無理がある。あくまでもドイツの威容を宣伝するためと考えた方が良いだろう。

また、テレビ放送もこの時に行われた。空港や鉄道、ホテルなども新たに建設されヒットラーが如何にオリンピックに力を入れたかが分かる。

この後を受けた、東京大会で日本もみすぼらしい真似はできない。ドイツ以上の盛大な大会を目指していた。ドイツを参考にスタジアム、空港、ホテルなどを建設したほか、テレビ放送まで行うつもりだった。聖火リレーはギリシャから広大なユーラシア大陸を横断して運ぶのは不可能なので、国内だけで行うことにした。それでもアジアで初めて行われることになるオリンピックへの国民の期待は大きい。

それだけに、オリンピックに替わるスポーツ行事を開催したいと考えた。


「世界の国から多くの選手が来て、国際スポーツ大会をするのも難しいが、近隣の諸国や国内から選手を集めるのは難しくないだろう。国際友好を謳って、スポーツ大会をするのはどうだろう」

「それはいいですな。国民のオリンピックへの期待は大きいです。そのためにも国民挙げてのスポーツ大会にするのは良いことです。」多くの閣僚も賛同し、準備には内相が当たることになった。

ベルリン大会では49の国と地域が参加して最大のものとなった。ヨーロッパで戦火が広がった以上、大きな国際大会にするのは無理となった。だが、満州国やタイなどの参加は期待できる。蒋介石の国民政府にも参加を呼びかければ友好関係構築を確かなものに出来る。

「引き続き、開催の道をIOCとは探るが、中止になっても戦争終結後、東京の開催を認めてもらうようにする」

そのようにして、閣議は終わった。


実際には、東京オリンピックは38年に日中戦争の激化を理由に開催を返上している。

泥沼に陥っていた支那との問題が深刻であったからだ。

40年の東京と44年のロンドンでのオリンピック開催決定であったが、戦争により中止となり48年にロンドンでようやく再開された。ただ日本は敗戦国となり、24年後の64年まで待たなければならなかった。

今、2度目のオリンピックが東京で行われているが、このような歴史を振り返ると感慨深い。


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