202話 ノモンハン事件
202話 ノモンハン事件
イギリス国王訪米の前に新たな事態が日ソ間で起こってしまう。
スターリンは国内では独裁体制を強固にしながらも、外交分野では手詰まりに陥っていた。33年にアメリカとの外交関係を結ぶことはできたが、それ以外に大きな外交成果を上げることはできなかった。それどころか、共産主義嫌いのヒットラーが台頭してきて、『ソ連打倒』を言い出している。ドイツの東への侵攻は明らかにソ連を敵とみなしてのもので、そしてイギリスまでもヒットラーの東への侵攻を黙認しようとしている。ソ連にとって、非常に厄介な状態と言えた。
「このまま、まともにドイツと戦いになれば、国上げての総力戦となり、持久戦になるのは目に見えている。国土は蹂躙され、国民は耐乏の生活を余儀なくされる。そのようなことは絶対に避けたい」だが、スターリンにほとんど外交手段はなかった。
国際連盟に加入し、多くの国とは外交関係を結ぶことはできた、だがどこの国とも友好関係を発展させ、同盟まではいたらない。ソ連が窮地になっても助けてくれる国はない。スターリンのできることは各国の共産主義者やその協力者を使って、内部工作・宣伝活動をするくらいだった。だが、これを各国政府は嫌い、却って同盟関係を結ぶような国を現れなくさせた。スターリンの外交政策は完全に手詰まり状態だった。
ところが、この状態を一転させることが起きる。3月のチェンバレンの『ポーランド独立保障宣言』はそれまでのドイツの東侵攻を黙認していた、イギリスの方向転換に他ならない。イギリスはドイツの度重なる東欧諸国への侵攻に我慢ならなくなって、ポーランドへのドイツ侵攻は絶対に許さない態度に変った。
これによって、ヒットラーの東への侵攻は頓挫するだろうし、ソ連だけでドイツと戦う事態は免れて、スターリンは安堵する。「今のソ連がドイツと戦うのは明らかに劣勢だ。ドイツの機械化された軍隊にソ連軍が立ち向かえるか大いに疑問だ。ドイツの矛先がソ連に向かわないことなら何でもすべきだ」
そして折も良く、ドイツから交渉しようと働きかけがきた。スターリンは当然これに応じることになる。
ドイツからの脅威が若干減少するようになって、スターリンは東にも目を向ける余裕ができた。スターリンが気にしたのはモンゴルと満州国だった。
モンゴルはソ連の次に共産主義になった国で、ソ連の指導にもとに国家体制を築いていた。諜報部隊を送り込み、その指揮下で数万に及ぶモンゴル人を「日本のスパイ」として処刑するなどソ連の傀儡となっている。だが、モンゴルの東部において国境を接する満州とは“いざこざ”が絶えない。もう一つ、満州にはロシア帝国時代に築いてきた多くの資産を残している。
東シベリアのチタから、マンチョンリ(満洲里)、チチハル、ハルピンを通って、ウラジオストック迄伸びる中東鉄道はそのひとつだ。満州に残した帝政ロシアの資産を取り戻したいのがスターリンの気持ちだった。
モンゴル人は遊牧民で、羊を飼い馬に乗る生活をして、自由に草原を移動している。おまけにモンゴルと満州国の間には国境を明示するような山や川もなければ、長城や柵などもない。遊牧民にとっては国境など気にすることもなく、国境をまたいで移動しているのだ。また川や湿地は冬になれば凍結し簡単に渡河できてしまう。だからこそ、国境を巡って、満州とモンゴルでは争いが絶えることはなかった。
39年5月13日モンゴル軍700名がノモンハンにて不法に越境し満州軍と交戦中と軍機電報が関東軍司令部に届いた。
関東軍は中央本部や正平の命令通り、戦線を拡大しない方針で臨み、現地に増援せず満州軍だけで対処させる方針だった。ところがソ連軍が戦車や飛行機を伴ってモンゴル軍を支援していることが分かった。現地の部隊だけではとても手に負えない状態だ。
この事態に関東軍は直ちに現地へ増援を送るとともに、中央本部に緊迫状況を打電した。
日本国内で対策会議が急遽開かれる。
「外交交渉を第一とするが、それでもソ連軍が退かない場合は全面的な戦争も辞さない」正平は冒頭で決意を述べた。
「外務省を通じて在日ソ連大使館に抗議するとともに、ソ連軍が退かない場合に備え、至急日本から増援を送る。
これは日本の国防力を示せる良い機会だ。陸海空3軍が協力して、ソ連軍を向かい討たなければならない。直ちに戦争に備えろ!」
戦争や紛争を避けようとしてきた正平にとっては、試練の時となった。
正平は首相就任以来、戦線不拡大を貫き、日本軍の北支からの撤退、蒋介石爆殺の責任者の処分、関東軍の不満分子の粛清もその流れだ。ただ、日本軍内部には正平のこの方針を“弱腰”と映り、軟弱な外交として不満が高まっているのも事実だった。国防省や空軍の創設によって大きく、軍部の体制は再編された。このまま、ソ連軍の侵攻を見逃したら、何のための再編だと問われかねない。
正平として、一歩も退けない立場だった。
会議の後、天皇に「ソ連との交戦する事態になってはいないが、ソ連軍が越境した場合は大きな事態に発展しかねない」と奏上する。
「戦争になるのか?」平和を願う天皇は戦争を心配された。
「日本から戦闘を仕掛けるつもりはありませんが、万一にもソ連軍が越境して満州に攻め込んできたなら、大きな戦闘になりえます。今は極力、外交交渉に力を注ぎ戦争回避に努めますが、満州に兵力を送り、関東軍への増援を進めます」
外交交渉で解決を基本としつつ、万一に備えて兵力を満州に送り込む方針に内意を得た。
松岡外相がソ連大使に強く抗議すると、大使は戦争を望まないとしつつもモンゴル側の国境線を主張する。満州とモンゴル双方の主張する国境線は20キロほど離れている。現在の国境線はその中間を暫定的に国境線としたもので、双方とも納得してない。ソ連大使は従来のモンゴルの国境線を固執していた。
ソ連とは38年にも朝鮮との国境を流れる豆満江で衝突を起していた。この時は朝鮮軍だけで対処したので、日本軍との本格的な交戦に至らなかった。
「今回の状況は明らかに、ソ連は国境線の変更を意図するもので昨年の状況と異なっている。このまま、ソ連軍が越境をしてくれば、日本との戦いは避けられなくなる。そんなことは、ソ連軍司令官も分かっているはずだ。それなのにこうまでしてモンゴル軍の後押しをして国境を変更しようとするソ連の意図がまだよくわからない。現地司令官の単独の判断か本国からの指示なのか判断がつかない。もし本国からの指示ならば、全面的な戦いは避けられない」
ソ連の出方が掴めないだけに、正平は対応が間違えれば国家上げての持久戦になりかねないことを危惧した。
「持久戦になれば、国土が狭く地下資源の乏しい我が国は不利だ。何としてでも短期決戦で終わらせ勝利しないと我が国の経済が持たない」
正平はどのように対応するか迷っていた。
ノモンハン事件はソ連が近代兵器を動員して国境紛争を仕掛けてきた戦いだ。結果的にはソ連側の死傷者数2万5千を越したのに対し、日本側は1万8千で済んだ。数字で言えば日本側の勝利と言えるが、満州側の領地を多く占有され日本側の敗北とされている。日本陸軍はこれを恥じたのか殊更、この戦いを事件と言い張り、顛末を過少に報告して日本国内では多く流布されてこなかった。はっきり言って、関東軍は敵の情報を見誤り過少に評価して戦いを初めた結果だった。ソ連の飛行機、戦車を押し立ててくる戦いに日本は山砲や速射砲で対処しなければならず、圧倒的に不利だった。それでも日本側に死傷者が少なかったのは、兵士の練度と指揮官の巧劣差がでたと言える。
私は石原莞爾のように早くから飛行機を全面的に戦線に送り込むことを考えていたなら日本軍はソ連軍を撃退できたと思っている。




