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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
1章 プロローグ
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2話 陸軍の派閥争い(改)

この作品は私の妄想から生まれたもので、くれぐれも史実とは違うとご不満されないようにお願いします。正直作品の9割は私の妄想より生まれたものばかりです。それだけをご承知の上でお読みください。

226事件は国家改造を考える青年将校たちが起こしたが、派閥争いの側面も持っていた。

当時の陸軍は皇道派、統制派、宇垣派と呼ばれる3派で占められている。

宇垣派は宇垣一成を中心として長らく陸軍中枢を占めていた。

日本陸軍は大村益次郎が創設した長州軍がもととなり、益次郎は間もなく暗殺されるのだが、跡を継いだ山県有朋が実権を握っていく。

西南戦争、日清戦争、日露戦争と重大な局面で日本陸軍を率いた山県は絶対的な存在でもあった。

優れた統率力で日本陸軍を束ねていた山県は、一方で長州を重用した、偏向的な人事も行っていた。

以後、日本陸軍は長州閥と呼ばれる山口県出身者が実権を握り続けることになる。

宇垣一成は岡山出身で山口県出身者でないが、長州閥と手を組み陸軍を長い間、陸軍を牛耳っていた。加えて彼は退役軍人会を組織し、その人脈を使い選挙で票集めに使うようになる。

「俺には100万の軍人の票があるぞ」そう言われると政党政治家は弱い。

政治家と宇垣は互いに利用し、また利用される関係になっていく。

彼は陸軍大臣を射止め、やがて首相の座を伺うまでに地位にまでなっていた。


宇垣のこのようなやり方は独断的に見え、また腐敗を生むようなことに繋がる。

政治家と軍人と財閥で日本の利権を牛耳る姿に見えたのだ。

日本陸軍内部にこのことに反発して、長州閥(宇垣派)を憎む者達も当然出てくる。

荒木貞夫や真崎甚三郎は山口県出身者でないことから、長く陸軍の要職に就けず、シベリア派兵などをやらされていた。そのことから長州閥に強い不満を持ち、また革命以後のソ連の急速な発展ぶりに脅威を感じるようになった。軍の拡大強化や対ソ戦を唱え、陸軍内部で多くの共感を得るようになっていく。

「明治維新をやり遂げ、大国ロシアを打ち破れたのは、天皇陛下を中心として国が一つになれたからだ。今の日本は政治が腐敗し、軍の長州閥はそれと手を握って私腹を肥やしている」

「日露戦争の頃の日本に立ち返り、天皇親政の政治を行う昭和維新を断行するのだ」

「軍部政権の樹立のためにはテロをしても良いのだ。武力を持って直接行動を行う」

この考えに陸軍青年将校は大いに共感し、荒木たちを崇拝するようになる。

政府の中核にいる「君側の奸」を討ち、天皇親政の「国体を明徴」すべしという考えだった。これは後に皇道派と呼ばれた。


もう一つ長州閥(宇垣派)に反発する勢力があった。

「長州閥をいつまでものさばらせてはいけない。我々陸軍大学出身者が追い落とさなければならない」

永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次を中心とした陸軍大学校出身者からなる一夕会がその中心だった。

永田は陸軍において「永田より前に人なし、永田の後にも人なし」と言われた秀才であり、小畑、岡村とともに3羽烏と言われていた。

この3人は同期でかつ多くの点で考えが一致し、長州閥の支配する陸軍を打破しようと考えた。

陸軍大学校は1893年に陸軍幹部を養成するために創設されたが、この頃になるとその卒業生が陸軍の中枢を多く占めるまでになっていた。

陸大には全国から集まり、山口出身者は少数派となり「やがて我々が大勢となれば、長州閥の弊害をなくせる」

彼ら一夕会の声は大きくなった。


第一次世界大戦が終わり、世界は軍縮が論議され、日本も軍縮に同調し、当時陸軍大臣であった宇垣は軍事予算縮小を受け入れた。

「軍縮は世界的な潮流だ。日本は受け入れざるを得ない」宇垣はこう主張した。

「それでは、我々は職を失うではないか。昇級できなくなるのは不満だ」これに現場は反発した。

宇垣の主張は国際的に見て妥当な考えであったが、現場の理解を得られることは出来なかったのだ。

軍備縮小すると、軍事予算も減少し、当然将校の数は減らされる。そうなれば昇級は遅れることになり、何よりも多くの同僚が退役させられた。

軍部内部において、陸軍大臣宇垣への不満の声が上がり、宇垣派は急速に勢力を失っていく。

ここで一夕会が発言権を伸ばす。陸大卒で固まった陸軍上層部に一夕会の主張が通った。

ただ彼ら自身はまだ将校クラスになっていなかったので、陸軍大臣などの要職を手に出来ない。

そこで荒木や真垣と手を組み、荒木を陸軍大臣、真崎を教育総監に推して実権を握ることに成功する。


ところがここで一夕会が二つに割れてしまう。

もともと永田と小畑は世界戦略、対ソ戦略に意見が違い、政治案件での意見でも分かれていき、それが感情的な対立までにしていった。

二人の確執が陸軍の主導権争いまでに発展していく。

永田は第1次世界大戦のヨーロッパの事情から次の戦争は、国家総力戦となり長期間の消耗戦となると考えていた。

「次の戦争に勝つためには軍が統制して、政局に関与しなければならない」

「国を総動員して、統制していかなければ戦争に勝てない」

彼の考えは統制派と呼ばれ、一夕会の主流を占めるようになる。また皇道派を非現実的と否定していた。

一方、小畑はソ連との戦争は短期決戦になると考え、国民を統制しようとする永田の考えと相いれなかった。

「国民を統制するなんて共産主義の考え方ではないか。天皇陛下を中心にしてきた我が国の歴史に反する。」

彼は荒木や真崎の考えに同調し、皇道派に近づき、統制派と決別した。


永田にとり荒木や真崎に実権を握られているとはいえ、統制派が陸軍の中枢を占めるまでになっていた。

「やがて自分達だけで実権を握れるようになる。荒木たちを追い落とすのはそれからで良い」小畑が離反ししても彼の自信には揺るぎがなかった。

その彼に面倒な存在に映っていたのが国家改造を主張する青年将校達だった。彼らは荒木たちを信望するだけでなく、何かと上司に反目し、海軍や民間人とも連携して軍の規律を乱しがちだった。

軍の統制を第一とする永田にとって、認めがたい集団になっていた。

やがて荒木が病気を理由に陸軍大臣を辞め、林銑十郎が大臣になると永田はこれと手を組んだ。

そして陸軍大臣、参謀総長を取り込むと、唯一皇道派が握っていた教育総監の地位を真崎から奪いとり、小畑までも中央から外した。

これにより統制派がほぼ陸軍の実権を握ることになった。


だがこれに、皇道派の若手将校が憤った。

荒木と共に真崎は皇道派将校から信望されていた。真崎を教育総監から外したのは皇道派追い落としに映った。

「林は永田のロボットだ。永田を殺してしまえ」

永田の事務室に皇道派将校が白昼に堂々と乗り込み、永田を斬殺してしまった。これが、226事件の1年前までの出来事だった。

このことから陸軍は統制派と皇道派が激しく反目し合う状態になっていく。


皇道派青年将校がクーデター計画やテロに走ったのは、陸軍中央から外され具体的な情勢判断と方針を持てなかったこともある。

また天皇への忠誠を誓う意識が強く、結果を顧みない考えに陥っており、自己犠牲に酔いしれる精神的な幼さもあった。

そして何より陸軍の統制派に対し、反発する皇道派の派閥争いに利用されてしまった。


一方正平は一応、宇垣派と目されてもいたが、殆ど政治的な動きには関心を持たず、派閥争いに加わることはしてこなかった。

ただ陸軍の機動能力を高めることに専念し、主張していた。

「飛行機馬鹿」「戦車馬鹿」と言われるほど陸軍の機械化向上を発言し、226事件が起こる前まで、政治的な動きはほとんどなかったと言える。


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