192話 スターリンの魂胆
アメリカでは30年のフィッシュ委員会で国内の共産主義者の活動を明らかにされ報告書がまとめられていた。ソ連がアメリカの共産主義者を利用して、混乱させようとしていることが明らかになったのだ。
それにも拘らず、ルーズベルトが大統領になるやソ連を承認してくれた。アメリカ知識人が左傾化していたのも事実だが、何故ルーズベルトがこれほど共産主義にのめり込んでいた理由は分からない。
ともかくスターリンの喜びは相当なもので「ルーズベルト大統領に乾杯!フィッシュなどのうるさい連中を黙らせた大統領に乾杯!」と祝杯を挙げた。
そのスターリンは38年当時まで、外交における活躍はほとんどない。24年にモンゴル人民共和国を世界で2番目の共産主義国家として誕生させたぐらいだ。スターリンの指導体制はほぼ国内だけに注力して、外交においては力を発揮できてなかった。スターリンが外交の表に立ったのは38年以降だ。
それではスターリンについて簡単に触れよう。
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンは1878年12月18日、グルジア(現ジョージア)のゴリ市に生まれた。父親は飲んだくれであったが母親が優しく家族を守りスターリンを育て上げた。頭の良かったスターリンは神学校に入学したが、共産主義に嵌り退学し、逮捕と出獄を繰り返す共産活動家になった。17年にロシア革命でソビエト政府が誕生し、彼も共産党の書記長になった。24年にレーニンが死ぬと、書記長として最高権力を握るようになるのだが、それには数々の陰謀策略を用いてのことだった。
レーニンはソビエト建国の父であり、共産党の最高指導者だった。その彼の死後は集団指導体制になるが、大きな発言権を持っていたのは、トロツキーだった。当然トロツキーが後継者に指名されるはずだったが、スターリンは他の共産党幹部ジノヴィエフ、カーメネフと組んでトロツキーの追い落としを計る。そして権力を握ったスターリンのしたことは国内の粛清で、手を組んだジノヴィエフ、カーメネフなども例外ではなく、ついには独裁体制を築き上げた。
どのようにスターリンが実権を握れたのか簡単に言うと、書記長というポストを最大限に利用したに尽きる。
ソ連の中央委員会には政治局、書記局、組織局があるが、政治局はソ連共産党、国家の内政と外交を決定する最高機関で、書記局はその補佐に過ぎない。レーニン時代は政治局が権力を握っていたが、スターリンは書記局が共産党から特定の人物を排除できる権利を持つことに気付き、書記局に権力が移行するようになっていた。書記局が実質上、人事権を持つことになり、スターリンは自らに忠実な部下を党と政府の要職に配置して、権力を掌握していく。
27年までにトロツキーやジノヴィエフ、カーメネフなどの古参幹部を党から放逐し、権力者の地位を固めたのだ。
28年にスターリンは5か年計画を発表し、重化学工業を推し進めるのだが、犠牲になったのは農業分野だった。
「社会主義の優越性」を具現化するために、過度に工業化を重視し促進したが、農業分野は農産物の価格を低く抑えるなどしたため振るわなかった。価格を低く抑えられた農民たちは農産物を出し惜しんだのだ。そこでスターリンは農民全体を集団農場に集めて労働させ、収穫できた農作物を国に納めさせようとした。しかし、これによって農民の生活水準は急激に低下し、生産意欲も落ちる。
どんなに働いても国に農作物を没収された農民たちは自分たちの食べる最低限の生産しか行わなくなった。個人農家の持っていた家畜が取り上げられようとしたため、「国にとられるくらいなら家畜を殺してしまえ」と考える農家が続出した。更にはコルホーズの役人が殺されるなど、農民は激しく抵抗したのだ。
ここでスターリンはこの失敗を「農業がうまくいかないのは、農村に残った資本家、すなわち(クラーク)富農が原因であり、富農を撲滅すべき」と主張した。「貧農」と見なされたものは集団農場に生かされ、「富農」と見なされたものは銃殺されるか、辺鄙な地域への国外追放となった。この「富農追放運動」によって、30年にはたった一年で2万人が処刑された。
本来、富農と分類された農民は勤勉で家族を上げて農業に勤しんだからこそ、豊かな生活を送れていたのだ。スターリンによるコルホーズ政策は、農業に熱心に取り組む者がいなくなる結果となった。コルホーズで生産された作物は低価格でしか引き取ってもらえず、生産意欲は低下し、農作物の生産高は落ち込んだ。世界有数の穀倉地帯のウクライナを抱えていながらソ連は食料不足にとなり、ウクライナで飢饉が発生して、農民にも餓死者がでるほどの惨事となっていた。
だが、このことに多くの人が気づくことはなかった。当時の世界ではソ連の5か年計画により工業化が達成され、目覚ましいほどの発展ぶりに驚いていた。アメリカ、ヨーロッパ、そして日本でも社会主義に傾倒する知識人が増えていく。このことがソ連、そしてスターリンが世界で暗躍する下地になった。
34年にキーロフが暗殺された。彼は政治局員で党のエリートでもあり、弁舌さわやかで、貧困層に誠実な態度をとり人気があった。スターリンの忠実な部下でもあったが、高まる彼の人気ぶりにスターリンは不安を感じ、暗殺を命じたと言われている。
この後、スターリンの権力への執着は激しくなり、彼に従わない者、服従の態度を取らない者、何よりも権力の座を伺う者達を粛清するようになる。34年の党大会でスターリンは法律を改訂し、党中央員会とその候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺する。大会に出席した党員1965人中、1108人が「人民の敵」と烙印を張られ、処刑された。
更に起訴がなくても10日間の調査で刑を執行できる「テロ組織とテロ行為」法案を可決した。この法案の反革命活動の禁止には、態度や物腰などでも適用され、火事が起きただけでも「破壊活動」と見なされた。
刑の執行は国内だけにとどまらず、メキシコに逃亡していたトロツキーは40年に暗殺されたくらいだ。ポーランド人、ドイツ人、朝鮮人などの様々な民族も標的になった。35万人が逮捕され、25万近くが処刑された。
粛清に次ぐ、粛清によってスターリンに歯向かう政敵は全て処刑され、独裁者として君臨するようになる。
こうして、38年にはスターリン、ヒットラー、ルーズベルトの個性の強い役者が、世界政治の舞台に勢ぞろいした。
ソ連が崩壊するまで実態は永らく隠され、欠点は隠蔽され、長所だけがことさら美化され、流布されていた。筆者なども子供の頃は、学習雑誌には大きなトラクターの写真と共にコルホーズが紹介され、コルホーズを機械化が進んだ素晴らしい農場だと学んだ記憶がある。昭和時代の戦後はそのような風潮が支配的で、左派系の知識人が多かった。あの当時ソ連の実情を報道してくれたなら、日本社会の左派系の思想はもっとましなものになったように思える。




