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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
17章 外国交渉
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162話 中国共産党の内情

前にも少し触れたが、日本は中国と戦争に入る手前だった。この頃の支那の状況は次の通りだ。

23年孫文が国民党を創立し、南京政府を樹立していた時は、中国共産党とも協力関係にあった(第一次国共合作)。陳独秀や毛沢東などの共産党幹部は国民党に個人として入党していた。しかし、孫文が亡くなり蒋介石が実権を握ると北伐を開始、南京政府を樹立するなど活発な行動を起こし、27年4月には上海でクーデターを起こし、共産党員を大量に粛清した。これにより第一次国共合作は瓦解する。(中国語で合作とは日本の連合を意味する)

30年になると蒋介石の共産党への攻勢は更に強まり、中国共産党の言う長征と呼ばれる遠征も、蒋介石に追い詰められ、仕方なくソ連を頼って国境を目指した逃避行だった。34年10月には共産党は壊滅寸前まで追い込まれていた状況で、西安事件が起きた。


張学良は謀殺された張作霖ちょうさくりんの息子で、親の仇として日本に敵意をみなぎらせていたのだが、満州での日本軍の支配の拡大を止まらず、南京の蒋介石を頼って傘下に入っていた。国民党の力で関東軍を打ち破ろうと考えたのだが、蒋介石は共産党とばかり戦い、一向に日本軍と戦ってくれなかった。業を煮やした張学良は、謀って蒋介石を西安におびき寄せ、拘束する事件を起こした。(36年11月西安事件)

この裏では毛沢東の策略があったと言われる。まともに国民党とは戦えないと考えた毛沢東は日本軍と戦わせ、国民党の力を削ぎ、その間に共産党の勢力を拡大しようと考えたのだ。このため、周恩来に張学良を説得させ、蒋介石が共産党との停戦に応じ、日本軍と戦うという条件で釈放させた。

これにより第二次国共合作がなされ、抗日統一戦線が作られることになった。


毛沢東は豪農の息子であるが、陳独秀や周恩来のような海外留学の経験はなく、国内の学校で教養を積んでいる。インテリでなかったためか共産党創立者の一人でありながら、毛沢東はすぐには実権を握れなかった。だが、彼は農民出身だからこそ思いついた方策により、共産党の勢力を地方に伸長していく。地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという『土地革命』はインテリにはできない荒業だった。さらには破落戸ごろつきけしかけて、金持ちの家を略奪させることもした。毛沢東は農民に平等な社会実現を吹聴して、実態は盗賊まがいの行為をして勢力を伸ばしていったのだ。ただ、大抵の国の革命でも同様なことは起こっており、中国共産党が格別悪辣なことではない。革命は美化されることもあるが、流血の悲劇が必ず起きていることを忘れてはならない。


また中国共産党は蒋介石に追い詰められ壊滅寸前だったと書いたが、内部抗争が激しく、共産党員同士の内ゲバもあって混乱もしていた。長征をしている間も内部抗争が激しく、これに打ち勝ったのが毛沢東だった。後世になって、毛沢東は神格化されるが、謀略に長けて内ゲバに勝ったからである。

儒教には徳のある者が政治を行うべきと言う考えがある。ただこの考えは権力を握れた者は徳があったからであり、握れなかった者は徳がなかったことも意味する。儒教の「権力者には徳がある」と言う考えには、権力者を賛美するための方便だと思う。共産党は宗教を排斥するが、中国には儒教の考えが色濃く残っていた。そして毛沢東は「徳のある者が政治を行う」と言う古来の考えを上手く利用し、自分の権威を高めていった。

日本でも「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われる。ただ、この諺には徳を持ち上げることはないと思う。それが日本人と中国人の権力者に対する、おもねる違いではないだろうか。


毛沢東の狙い通り国共合作がなって、中国は統一して日本との戦争に臨むことになる。

正平は首相となったが、国共合作を仕掛けた毛沢東の謀略を読み切ってはいない。

ただ、中国に深入りすることが国益に繋がらないと考えていた。

「日本を富ませるのは経済活動を活発にするしかない。今の国内市場は小さく簡単に大きくできないから、海外に目を向けるしかない。それには隣の支那の市場は膨大であり、支那に進出するのが最も良い。だが、関係が悪化してしまえば、貿易など出来ない」

事実、日本軍の進出に伴って支那では日本製品の不買運動が起こっていたのだ。

「永田鉄山が支那には地下資源があるから確保すべきと言っていた。だが、地下資源を確保しようとして、貿易できなくなれば本末転倒だ。何より日本が一番欲しい地下資源は原油だが、支那でまだ見つかってない。油田があるならともかく、見つからない以上、支那の地下資源を欲しがる意味はない」

正平が強引に北支から撤退させたのはそんな理由からだった。


毛沢東の策略に気付いたことではなかったが、正平が北支から日本軍を撤退させたことにより、蒋介石にとって日本軍と戦う理由がひとつ消えた。

それでも張学良などは「満州の日本軍を討つべし」と強く主張する。

だが、塘沽たんくー協定により蒋介石は満州の日本利権を保証していた。それ以上、北進して満州に入ることに踏み切れないでいた。

そこに、日本の佐藤外相から友好を呼びかける声明があり、戦いより交渉を優先することになった。

37年の支那において日本軍、国民軍、中国共産党軍は睨み合いながら、ひとまず戦闘は止む状態になる。

実際には37年7月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発してしまう。

北支に展開していた日本軍の陣地が、砲撃される事件が起こったのだ。これを日本軍は中国軍の仕掛けたものと受け取り、掃討戦に突入した。

中国政府は国際連盟の場で日本の侵略行為、国際法違反、人権侵害と日本を非難した。

アメリカ大統領も日本の侵略行為と断じて、中国政府に肩入れすることになる。

物語通り、4月までに日本が北支から撤退できていれば、日中戦争にならなかっただろう。

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