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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
3章 日露戦争
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16話 旅順

旅順は満州南部の遼東半島の先端の更に突き出た小さな半島にある。旅順の港は南に口を開け、まるで湖と言った方が良いほど出入り口が狭く、すぼまっている。おまけに出入り口付近まで山が迫り、波風を防いでくれるので天然の良港だ。

市街地はこの港の北に隣接し、山が間近に迫っている格好になっている。これを利用するだけで城塞の役割を果しており、実に攻めるに難く守るに易い地形と言える。

清国がもともとこの地を軍港にしていたのが、三国干渉によりロシアが手中に収め、1901年以降、着々と軍港化しており守備兵も1万3000もいた。

ロシアの太平洋艦隊は旅順とウラジオストックを母港にしていたが、開戦時には旅順に重きを置いていた。主力艦7隻をこの港に浮かべていた。


日本から朝鮮半島、大陸に兵士や軍事物資、兵糧を運ぶには船を使うしかない。この運搬船にとり日本近海のロシア艦隊の存在は、脅威以外の何者でもない。もしロシア艦隊により対馬や壱岐周辺を我が物にされれば、日本から半島への物資、兵の供給は絶たれる。日本としては何としても旅順艦隊を抑え込むのが勝利の絶対条件だった。

開戦と同時に、日本海軍は旅順艦隊に密かに近づき砲撃して、2隻を大破したが、残りの艦船は無傷のまま残り、日本にとって脅威を消し去ることはできなかった。

その後、何度か砲撃を試みたが、ロシアの旅順守備陣も警戒を強めており港の山からの砲撃で、逆に被害を受けてしまい、それ以上効果的な攻撃は行えなくなっていた。

そして、海戦に不利を悟った旅順艦隊司令は港に閉じこもり、挑発しても出てくる気配はなかった。

日本としてはこの軍港に逃げ込まれる前に撃沈しておきたかったのだが、大した損害を与えられるまま旅順艦隊に逃げられる形となった。

難攻不落の旅順港から出て来なくなったロシア艦隊に手出しできない状態に陥った。

開戦と同時にロシア艦隊を襲ったこの奇襲作戦は一部成功であったが、大局的に見れば失敗と言える。


当時ロシアはヨーロッパと極東にそれぞれ艦隊を配置しており、強力なバルチック艦隊が旅順とウラジオストックの艦隊に合流すれば、日本海軍の倍になる。

この圧倒的な兵力差を利用されれば、日本海軍に勝ち味はなくなる。

日本はバルチック海軍が極東に来るまでに、ロシアの太平洋艦隊をせん滅しなければならないと考えていた。

しかし、旅順港の奥深くに潜んだロシア艦隊は堅固な港に引きこもり、二度と出てくる様子はなく、それ以上の打撃を与えることが出来ない。

それなら港にいるロシア艦隊を封じ込んでしまえばよい。当然そんな考えを日本海軍は持った。


旅順の港は出入り口が極端に狭い。ここに障害物を置けばロシア艦隊は出入りできなくなると考えた。

旅順港入り口付近に船を沈め、ロシア艦隊を封じ込める作戦を敢行した。

後に軍神と仰ぎ見られることになる広瀬中佐などが中心となって、決死部隊組織して、この作戦に打って出ることになる。

広瀬中佐の行動は実に英雄的なものだった。自らの危険を顧みず先頭に立って行動をした。

当時日本が保有していた1000トン以上の商船197隻のうちの21隻が投入され、志願兵により操船された船は、闇夜に紛れ港近くに突入し、自ら沈める計画だった。

だが、守るロシア軍も考えは同じだった。ロシア軍は日本軍が港近くに侵入することに極度に警戒していた。

海にせり出した山に砲台を用意して、近寄って来る日本艦船を待ち受けていたのだ。

広瀬中佐は目的の近くまで行く前に砲撃され、撃沈されてしまった。

この作戦は計3度試みられることになるが、多数の兵士が犠牲になったのにも関わらず、旅順の港は封鎖できず失敗に終わる。旅順艦隊は依然として出入の可能な状態のままだった。


開戦当初旅順の攻略は海軍だけで行うはずだった。だが、封鎖作戦失敗によって、日本海軍は単独での旅順艦隊封鎖を諦めるしかなくなる。

しかもロシア側はウラジオストックにいた艦隊を活動させ始めており、日本の商船の脅威を与え、日本海軍はいつまでも旅順艦隊だけに対応することもできなくなっていた。

やむなく海軍は旅順攻略を陸軍に依頼すし、これを受けて日本陸軍は乃木大将を司令官とする第3軍を編成し、旅順攻略戦を開始することになる。

仕官学校を卒業し、軍事訓練に明け暮れていた正平もこの中に入った。


これより前に、日本陸軍の黒木大将率いる第1軍は朝鮮に上陸し、鴨緑江でロシア軍と戦い撃破していた。

更に奥大将率いる第2軍が遼東半島に上陸し、重要拠点の南山のロシア基地に攻撃を加えた。この攻撃で日本軍は4000人の犠牲者を出しながらも、ロシア軍を追い払い勝利している。第2軍はそのまま南進して大連までも攻略し、旅順港の手前まで来たものの、再び北上して遼陽を目指すことになるのだ。

もしこの時陸軍と海軍とが連絡を取り合い、旅順の背後を襲えば、ロシアは北より迫る日本陸軍を大いに警戒したはずだ。当然、港出入り口の警戒も緩み、もしかしたら、海軍の封鎖作戦はうまく言ったかもしれない。しかし陸軍の参謀本部と海軍が綿密に連絡を取り合っていた証左は全くない。海軍が旅順封鎖に手間取っているのを、陸軍は陸軍で海軍の様子を眺め、見守るだけだったのだ。

日本軍部において、陸軍と海軍とはこの当時から意思の疎通がうまくいってなかった。

しかももっと残念なことに、封鎖作戦が失敗しても、しばらく海軍は陸軍の援助はいらない姿勢を取り続けており、陸軍への旅順攻略要請をためらっていた。それによって第3軍の編成作業は大幅に遅れてしまったのだ。

海軍の封鎖作戦は3月に失敗し、第3軍が編成されたのは5月末のことだった。もっと早く海軍が陸軍に要請をしていたのなら、この時の戦闘はまた大きく違っていただろう。


ロシア側は清国から旅順を取り上げた時、要塞防衛線が港湾部の近くにありすぎて、敵軍からの砲撃により港湾施設を守れないと判断した。旅順郊外の大孤山や203高地、南山坡山などから港湾部を一望でき、その地点から砲撃を受ければ、港湾の艦船はひとたまりもないと考えたのだ。そこでこの弱点を克服すべく、防衛ラインを拡大させ、強化工事に着手していく。

この工事は、203高地や大孤山も含めた十分に広い範囲に要塞防御線を設置し守備兵2万5000を常駐させる計画だった。しかし予算不足で防御線の規模は縮小され、また完成が1909年の予定だったので、1904年においてはまだ40パーセントの完成率だった。

そのため旅順司令官コンドラチェンコ少将により、開戦すると急遽、防衛線やその外も前進陣地の強化に努めはじめたのだ。

奥大将率いる第二軍が大連を攻略した時点でも工事は未完成であり、旅順港の攻略は容易ではないものの、困難極めるほどのものにはならなかったはずだ。

後々、重要な拠点となる203高地でも陣地強化の工事も未着工でもあった。


日本海軍の封鎖作戦失敗からひと月以上たってからの陸軍のへの要請は、あまりに時間をかけ過ぎた。これがロシア側に旅順要塞化の時間を与えた結果になり、後に第3軍は困難を強いられることになる。

それだけに、陸軍と海軍における悶着は何だったのかと言う思いに駆られる。


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