159話 視察と遭難
相模原台地は東京の西部に広がる多摩川と相模川に挟まれた広大な土地だ。プレートテクニクス理論によれば、日本列島はユーラシアプレートと北米プレートが穏やかに押し合い、東北地方は反時計回りに中部と近畿から西は時計回りに捻じ曲げられた。その結果中央に大きな溝ができ、これがフォッサマグナと呼ばれる大きな地溝帯となった。そこに太平洋プレートとフィリピン海プレートが激しくぶつかってきて、深かった溝は隆起し、また火山活動も起こる。新潟と長野、群馬の県境の北陸山地や埼玉から山梨にまたがる関東山地もこうして生まれ、富士山や八ヶ岳、浅間山などの火山も誕生する。現在の関東平野は3000メートルを超す深い海底であったが、山地からの大量の土砂が流れ込み、大量の火山灰が降り積もった結果、出来たと言われている。
更に、日本列島は太平洋プレートから圧迫を受け続け、南海にあった島々はフィリピンプレートに乗せられ、関東平野の西部にぶつかる。そこで誕生したのが、丹沢山地や足柄山地であり、そして伊豆半島もできた。今伊豆半島沖に浮かぶ伊豆大島もいずれは相模湾のどこかと接岸することになるのだろう。それどこか、伊豆諸島、小笠原諸島もいずれは日本列島と合流すると言われる。今、盛んに火山活動している西ノ島もいずれは日本列島に繋がると思えば嬉しいのであるが、何百万年先のことであり、生きて目にする自信を私にない。
そして相模川は富士山を源泉とする唯一の河川で、富士五湖から発すると直ぐに北に向かうが関東山地の大菩薩に流れを変えられ東に向きを変え、ようやく山々を抜けだし、関東平野に入ると南に進路を変えた。今の神奈川全県と東京西部は相模川から大量の土砂を運びこまれた、氾濫を繰り返す河原地帯だった。それが丹沢山地などが作られた影響を受け、相模川の河原も隆起していった。今の相模川の川岸から東に目を向ければ、3つの緑に覆われた崖が立っているのがよく分かる。崖の高さは5から15メートルにも達し、河岸段丘と呼ばれる独特の地形で河原よりも50メートルも高い地域でもある。そのために、地下水は地上からはるか低く流れ、深い井戸でも掘らなければ水の出ない地帯だ。
縄文時代より日本列島に人は住み始め、関東地方にも多くの住居跡が残っている。ただ当時から人々は水の便の良い、川辺や湧水地の周辺で生活を送っていて、相模台地には目を向けて来なかった。相模台地は昭和の初期まで、入会地としか利用価値のない、人の住みつかない土地だったのだ。入会地と言えば聞こえは良いが、薪木を拾い、獣の狩りをするしかない見捨てられた場所だった。
陸軍はここに目を付け、軍都にする計画を立てた。
現在の相模原市から座間市、大和市、更には東には多摩丘陵が広がり、町田市や多摩市まで実に広大な土地だ。全部が未開拓の地ではないが、首都近くでこれだけ広大で手つかずの場所はなかった。
8月中旬、正平は軍都の建設予定地の視察に来ていた。
まだ多くの木は伐採もされず、道が造成されて、建設工事の小屋が目立つだけで、本格的な建物は出来てない。
「これだけの土地が手付かずだったのは驚きだな」
江戸に徳川家康が入り、幕府が置かれるようになり、江戸周辺は開発が急速に進んだ。今の東京駅から品川駅までの南にはずっと海岸地帯が続いてが、埋め立てられ、上野山は桜が植えられ江戸庶民の憩いの場所になった。江戸時代の中期には10万を超し、当時世界最大の都市にまでなった。それだけの住民に水を供給するために、多摩川上流から水を取り、丘陵を開削し、江戸までの43キロもの水を引いた玉川上水であり、これは江戸初期に開発された。江戸に繋がる街道も発達し、神奈川、千葉、埼玉には宿場町も栄え、その郊外には田畑が広がっていたのだ。
更に明治になって河川が整備され、大きな橋もかけられ、鉄道もひかれ交通の便が良くなり人々の移動も更に楽になる。東京を中心にして経済活動は活発となり、人々は住居を南は横浜、東は千葉、北は大宮、そして西の八王子にも移すようになっていた。それだけに昭和になってもまだこれだけの土地が残っているのは驚きだった。
「ここに鉄道、道路を敷き、交通の便を高め、総合的な軍事施設を作り、陸軍の総合本部にする計画です」
「これだけ広ければ十分だな。だが水や電気の供給は問題ないのか?」
「相模川の上流にダムを作り、そこから水を送り込む予定です。電力もそこで発電します」
担当官は簡潔に説明をする。
(飛行場を作ってもまだ土地はあるし、これだけの広い土地なら都市機能を移しても十分だ。ニューヨークやロンドン、パリなども都市計画に沿った街づくりが行われた。東京を無計画なままで拡大させていっては混乱の地になる)
正平は14年前に起きた大震災を思い起こす。
(あの時は震災復興で急遽、都市計画が持ち上がり、幅広い道路も作られた。ただ、計画が急すぎたことと、地元の協力が得られなかったために中途半端に終わっている。軍都建設に合わせて、東京再開発をしてもよいのではないか)
日本で初めて鉄道が敷かれたのは新橋-横浜間だった。新橋のすぐ隣は東京駅なのだが、ここが起点にならなかったのは当時の東京駅は人家が混み合い、鉄道を敷く計画など立てられなかった。東京駅にまで伸びたのは鉄道敷設開始から42年も経ってからだ。それだけ地主の権利が強く、都市開発が難しいことでもある。
(今後の防災を考えるなら、軍都建設に合わせ、防災施設を作っておくべきだな)
そのような、思いを巡らしていた時だった。
「ズキューン」という発砲音がして、正平は左腕に痛みを感じた。
「こいつだ!取り押さえろ」「馬鹿、何をするんだ」周囲で怒号が重なる。
それと同時に5m先で、一人の兵隊が警護兵に捕まり、床に組み伏せられた。
「総理。お怪我はないですか?」側近が心配そうに言ってくる。
「うむ。大丈夫だ」正平は左腕を押さえながら答えた。
すぐに現場を離れ、車内で衛生兵が治療に当たってくれる。
「弾丸は腕をかすり抜け、残っておりません。念のために病院で見て貰うことをお勧めします」
後から分かったことだが、現場で警戒に当たっていた一人の兵士が正平に銃を向け、発射しようとしたところ、気付いた兵士がとびかかってくれ、弾がそれてくれた。後、10センチ内に入ったら、心臓に当たりかねない危ういことになるところだった。
今回の話は私の地学・歴史好きが出てしまいました。
日本列島がどのようにでき、どのように人々が移り住んできたのか、大変興味を持っております。
また、いつか物語と少し離れたことを語りだすと思いますが、どうかご容赦願います。




