150話 北支軍の撤退
これから新しい章になります。正平が戦争回避のために軍部の体制を変革しようとします。
北支に展開していた部隊を率いていたのは武藤章だった。彼は永田鉄山が遭難した時に真っ先に駆けつけ、鉄山の遺体を抱きしめ、軍服が真っ赤にした逸話が残っている。それだけ永田を信望しており、永田の「華北分離政策」を遺言のように思い、実行しようしていた。
「永田さんの分析力、洞察力は凄い。もう10年も前に、ヨーロッパが再び戦乱の地になるだろうと見ていた。今その予測は現実になろうとしている。ドイツが拡大路線を続けており、いくつかの場所では争いになっている。イギリス、フランスが参戦すれば大戦になるのは間違いない。その戦いは長期の国と国との総力戦になる。国家上げての戦争が始まろうとしているのだ。
そして、日本はこの戦いに座視してはいられない。日本が大国強国になるには大戦で勝ち残らなければならない。
だが、永田さんの言うように日本には地下資源がなく、国内で武器弾薬を製造することができない。だからこそ、満州や北支を手に入れて、鉄や石炭を日本に持ち込まないといけないのだ」
正平の『北支撤退』が通達されても、武藤の信念はゆるぐことはない。
「何を言って来るんだ。ここで北支から撤退などしようものなら、支那の軍隊が押し寄せてくるだけだ。我々が苦労して、北支を制定しようとしている時に、何を言うか!」昨年には石原莞爾が北支から撤退するように警告していたが、聞く耳など持つはずもない。
「中央のやつらはのうのうとタバコを吸いながら、能天気な議論をしているだけではないのか。現地のことは現地が一番知っている」
陸相の大臣通達をその場で破り捨てたいほど、怒りに覚えた。
無視する形で4月になってもまだ北支から動かず駐留し続けていた。
関東軍の司令部にいる東条英機と連絡を取り合い、出来る限り撤退を遅らせ、その間に支那の軍隊と衝突を起し紛争状態に持ち込むつもりだった。
彼は北京北方で3月末に各地から小隊を集結させ、演習行動を行う計画を立てた。
「集結するだけなら、命令違反には問われない。部隊を集結するのは撤退の準備と説明すればよい。
目の前で演習されれば、支那軍は示威行動と受け止めて、何らかの反応をするだろう。
それをきっかけに、応戦し、支那軍に攻撃を加える。」
ところがその手配を進めていく矢先に支那側が北京にいた部隊を南に移動して、日本軍と離れていったのだ。
両軍の距離は60キロ以上広がるまでになっていた。
これでは離れすぎていて衝突を起そうにも、できない。
挑発を日本側から仕掛けるのは、あからさまになり過ぎた。
「更に挑発しようとすると北京市内に入城するしかない。それでは各国外交団の目に留まる」
手出しできない状況に武藤も戸惑っていた。
2月末に正平が大臣通達を出すとともに、佐藤外相が緊張緩和を南京の国民政府に呼びかけていた。
これには南京政府も歓迎の姿勢を示した。更に佐藤外相は秘密裏の折衝で、大臣通達の中身を示し日本の撤退計画が事実だと明かしている。
「四月末までには撤退を完了させる。そのためには北京の部隊を南方に移動して、衝突を未然に防いでほしい」
南京にいた蒋介石はこれを了承する。
北京の部隊の行動は蒋介石の命令だった。
首相の執務室に内務官僚の金子を呼び出していた。
「大臣通達は間違いなく北支駐留軍に届いたな」
「間違いありません。すでに2カ月経ちますが、駐留軍に撤退する動きは見えません」
「通達を無視していると見て良いな」
「命令違反に間違いありません」
「それなら実行しろ!」
4月12日、日本駐屯地に車が5台乗りつけられた。衛兵が誰何して、車を覗き込もうとしてはっとする。車中の兵士は憲兵の赤い腕章を付けていた。
「武藤章はいるな?」
「は!」
「通るぞ」
それだけの問答であったが、衛兵には冷や汗がでるほどの迫力があった。
無言のまま、憲兵隊は駐屯地の執務室まで来ると5名だけが入り、他はドアの前で警戒に当たる。
執務室は憲兵隊が入ってくるまで気づかない。突然闖入してきた者達に執務室にいた側近は何事かと質すのがやっとだ。
「憲兵だ」そう言って、逮捕状を武藤に示した。
憲兵が、「我々と同行願いたい。」その声に側近たちは顔色が変わり、興奮して佩刀に手を伸ばす者もいる。
「私は天皇陛下の御下命により、北支に来ている。私にどのような落ち度があったのか説明してもらいたい」
武藤は殺気走る側近を押さえるように、落ち着いて答える。憲兵と言い争う愚を避けるだけの理性はあった。
「あなたの北支での行動に命令違反の疑いがでた。我々と同行してあなたの行動を弁明してもらいたい」
ここに至っては武藤も同行するしかない。同行を拒むことは、明白な軍紀違反だ。
彼としても軍規に反することは軍人の誇りが許さなかった。
武藤の身柄は錦州を経て大連から本土に移送されることになった。
残った部隊も憲兵隊と側近の部下たちに率いられる形で、満州に移った。ここで武装解除されて、やはり大連より本土に送られた。
また関東軍指令の板垣征四郎と東条英機も命令を受け、日本に移されることとなる。
実際には37年7月に北京郊外の盧溝橋付近で演習をしていた日本の駐屯地に一発の弾丸が撃ち込まれた。対岸には現地政権軍の駐屯地があり、ここから発砲された可能性も高かったが、証拠はなかったし、日本軍に被害はなかった。
しかしこれをきっかけにして、日本軍は現地軍を攻撃して、日中戦争が勃発した。




