15話 開戦
1904年2月、日本とロシアとが開戦した。
ロシアにとって、日本は小国で有色人種の後進国だ。まさか日本がロシアに戦争を仕掛けるはずがないと見ていた。日本はそのロシア軍の油断を突くように戦争を仕掛けた。
まず日本は開戦当初、朝鮮半島を支配するとともに。大陸への兵站を確保するため対馬海峡の制海権を握ることを優先した。
そのために、朝鮮半島に出兵し韓国政府を圧迫して、ロシアと切り離すとともに、旅順とウラジオストックを基地にするロシアの太平洋艦隊を駆逐しなければならなかった。
2月6日に先遣懲罰隊が佐世保を出港し、仁川に上陸するや、そのまま京城に入り、日本の優位性を誇示した。さらに開戦時に仁川にいたロシア軍艦2隻を攻撃し自沈させた。
その後、日本軍は10日間でほぼ京城以南を支配下におくことができた。これで韓国政府に日本との議定書に調印させた。これは韓国の独立を保障するとともに、第三国の侵害に際しては日本政府が必要な措置をとる。また韓国内における日本軍の自由な行動を認める内容だ。事実上の同盟関係だった。
次に日本近海の制海権確保を目指し、海軍は密かに旅順に近づき、港に停泊していたロシア艦隊に向け砲撃し、主力7隻のうち、2隻を撃破することができた。ただこれに驚いた残りのロシア艦隊は以後、旅順港に引きこもることになってしまった。
緒戦で勝利を収めた日本軍は、第一軍の黒木司令官に半島北部から南満州へ向かわせ、第二軍の奥司令官に遼東半島上陸を命じた。
ロシアの資料によると戦前に置いて「日本の軍事力は西欧の弱小国よりも低く、日本軍は100年経ってもこのレベルに達しない」という低い評価がされていた。特に新設されたロシアの極東太守府の長官に任命されたアレクセーエフ提督はその傾向が強かった。彼は極東の州の行政権や極東艦隊の指揮権、満州などに展開する全軍を指揮するばかりか、日本、朝鮮、清国などとの交渉までも行う権限があったのっだが、日本への警戒感を強く持っていなかった。満州全域に兵力を分散させ、ウラジオストックから旅順まで長い防衛線を張る体勢をとらせた。
広大な満州からウラジオストックの地を満遍なく防衛線を張るのは当時常駐していたロシア軍では困難だった。アレクセーエフが少しでも日本に警戒をしていたなら、これほど防衛線を広げはしなかっただろう。
彼にはロシアがシベリア鉄道など多くの資本を投入しており、これらの資本を守りたい意向があった。その備える対象が日本よりも満州や蒙古に住む現地人に向けられていた。
「日本を南朝鮮に閉じ込めて置き、半島北部を支配下に置く」それがアレクセーエフの考えであった。
まさか日本がロシアと戦争して満州に攻め込むようなことは想定していなかったのだ。
それにより、1904年当時のロシア極東軍は朝鮮と満州の国境近くへの警戒は強めておらず、このことが緒戦での日本勝利につながる。
四月になって、黒木軍は鴨緑江の渡河作戦を敢行する。ここで初めてロシア軍との戦端が開かれた。
前述のようにロシアは日本に対し、さほど警戒をしておらず、鴨緑江には2万の兵力を置くだけで、それも長い河を守るように広く展開していた。
これに対し、黒木軍は倍以上の4万の兵力を持って攻め込み、ロシアの守備陣を突破し、九連城まで進出することに成功した。
更に奥軍が遼東半島の付け根近くに上陸させ、旅順の背後を衝く行動に出た。旅順北方50キロにある南山にはロシア軍が陣を構え、激しい戦闘が繰り広げられた。
ここでも日本軍は勝利し、ロシア軍は南満州に撤退した。
ロシア側の対日戦略は二つに分かれていた。
クロパトキン陸相はロシアの伝統的な戦略を踏襲する人物だった。
彼はナポレオンとの戦争時にロシアが行った戦略を考えた。敵を呼び込んで長い補給線を強いらせ、手薄な部分から攻撃する。敵が食料、兵器、予備兵が尽き欠けた頃合いを見て、反撃に転じる戦略である。
事前に日本に視察していた彼は、日本の戦力を正当に評価していた。
「日本は近代化に努め、戦力を充実している。この日本と戦ったなら、簡単には勝てない」
しかもロシアは長いシベリア鉄道を使って、極東に戦力を送り込むしかないが、バイカル湖付近の鉄道施設は脆弱で、戦力の輸送に支障をきたしている。大量の兵力を満州に送り込むには時間を要すると苦慮していた。
ロシアは1890年になってシベリア鉄道に敷設に着手した。フランスなどからの借款により始めたものだが、莫大な工事費は国家財政を揺るがすほどの負担にもなっていた。
なんとか戦争開始時には大部分の鉄道が出来ていたのだが、バイカル湖周辺地帯は湖と山岳に挟まれる難所で、まだ開通してなかった。やむなく湖に船を浮かべ、連絡船として湖の東西を輸送させていたのだが、輸送能力は極端に低くなる。おまけに冬になれば厚い氷に湖が覆われ、砕氷船を使って運行することになった。
それゆえ厚い氷の上にレールを敷き、その上で列車を走らせるという無茶な計画までもした。それだけ、ロシアにとって、ウラルの西から満州までの兵力輸送には難儀をしていた。
「そんな状態で日本軍と日本の近くで戦うのは不利だ」クロパトキンがそう考えるのも無理なかった。
如何に強大な兵力を持っていても、極東に送り込めなければ意味はない。戦争開始時点において、ロシア側は兵力輸送に最大の弱点を抱えていた。
「満州北部に兵力を集め、日本が長い兵站線を伸ばしてきたら、これを叩く」彼はロシアの伝統的な軍略を考えていた。
開戦時遼東半島と沿海州を除けば、その兵力は5万5千以下だと考えられる。それだけの兵力で満州全土を守るのは不可能に近い。
クロパトキンは日本軍と朝鮮半島近くで戦うのは不利と考え、ロシア伝統の戦略を思いついたのだ。
ロシア軍の兵力をきた北満州に集中させ、北上してくる日本軍を誘い込んでから叩く考えだった。
「例え、一部の戦闘で敗退して、朝鮮や南満州を奪われても、満州の北まで日本軍を呼び込めば、日本軍は兵站を維持しづらくなる。ここを叩けば確実に日本に勝てる」
だから朝鮮や満州南部に拘らず、早めに兵力を満州北部に集める考えだった。
「鴨緑江周辺の軍隊は見せかけでいい、満州北部の鉄道施設の確保を万全にして、北部決戦に備えるべき」
彼は満州のロシア軍を鴨緑江に展開する考えはなかった。
今見ても、彼の戦略は合理的であり、もし彼の考えがロシア政府で支持されたなら日本はまず勝ち目はなかったと言える。
ただ、日本にとって幸いなことに、アレクセーエフはこの考えと違った。
ロシア皇帝のお気に入りのアレクセーエフ長官にとって、満州はロシア皇帝に捧げる地であり、ここを守るのが使命と感じていた。
「取るに足らぬ黄色人種を服従させ、満州を皇帝陛下に捧げるのだ」遼東半島は言うに及ばず、朝鮮全域を支配下にしたい考えであり、クロパトキンの戦略と相いれなかった。
「日本軍に鴨緑江を渡らせてはならない」そう考えた長官は満州の貴重な戦力を割いて南満州を守るつもりでいた。
クロパトキンに鴨緑江に守備網を張るよう強く迫った。これにはクロパトキンも無視できず、渋々派遣をする。
だが、この時のロシア軍は鴨緑江に2万を置くことしかできなかった。さらにロシア軍は鴨緑江の地形を利用しよして、広く展開した防衛線を張ってしまった。
これだけの守備では4万の黒木軍に対抗できるはずもなく、あっさりと鴨緑江の防衛線を突破されてしまった。
戦力を北に集中したいクロパトキンと前線で日本軍を足止めしたいアレクセーエフの考えの違いが出た結果だった。
とにかく二人の考えの違いもあって、日本軍は勝利を重ねることが出来た。




