145話 西園寺の感想
西園寺公望は正平のラジオ声明を静かに聞いていた。
「首相就任から僅かひと月余りでよくまあ、政策を打ち出して来るものだ」
西園寺は正平に首相就任を要請した時のことを思い出す。
彼は最初に宇垣一成を首相にしようとして、天皇からの内諾までも得ていた。
それが、陸軍の強引な妨害により頓挫することになってしまう。石原莞爾などは力で持って都心に入る道を封鎖してでも宇垣の首相就任を阻めと主張したのだ。
これには西園寺も困惑し、宇垣自身から首相就任を断念すると申し入れがあり、宮中にも撤回した。
替わりの候補として近衛文麿を推そうとしたのだが、彼は226事件を引き起こした皇軍派に近いと言う理由で事前に固辞を明らかにした。
近衛の意思が固いと見た西園寺はさらに強く要請しても無理だと諦め、次の人物を探すしかなかった。
陸軍上層部を支配していた統制派は首相を林銑十郎にしようと密かに画策していた。
林は軍人としての経験と経歴は申し分なく、陸相を務めていた時『永田のロボット』と言われるくらい、永田鉄山と歩調を合わせ、統制派にとり都合がよかった。
更に「銑十郎なら何もせんだろう」などと言われるほど、我を押し通すタイプではない。
統制派にとり願ってもない人物と見られていたのだ。
だが西園寺は林を首相にするのには乗り気ではなかった。彼は有能な官吏であるのは間違いないのだが、時局が切迫している状態では大任を任せられないと元老はみていた。
「林では統制派を抑えきれまい。軍部の言うままになり、北支に部隊を送り事態を急変させかねない。宇垣を首相に出来なかった以上、統制派を抑えきるのはやはり宇垣に近いものしかいない」
そして浮かんだのが正平だった。
「陸相をしていたのは短期間だったが、満州事変の拡大防止を懸命になってやっていた。塚田なら統制派の言うままにならないだろう」
人を使って、塚田に接触させた所悪い返事はなかった。
それならと直接会って首相就任を要請すると、「広田内閣では軍部からの軍事費拡大要求を拒み切れませんでした。陸相には強固の意思を持つ者でないと、統制派を抑えきれないと思います。私が首相と陸相を兼務することに反対されませんか?」と思ってもないことを反問してきた。
西園寺はこれまで多くの者を首相に任命してきたが、大任を引き受けた直後に組閣人事まで口にした者はなかった。
それだけ意外であり、正平の意気込みも感じた。
(確かに広田内閣では軍部の要求を受けて、軍事費を3割も増大させた。その費用を捻出するために蔵相は煙草の増税と、公債の乱発を行った。それが景気悪化につながり、広田内閣瓦解にもなった。塚田の言うように軍部を抑え込むのには強力な意思を持つ者でないと務まらない。誰を陸相にするのか重要となるが、自ら兼務するとは驚いたな。だが、それだけの非常時と言うことだ。認めるしかあるまい)
そう思って、「分かった、首相と陸相の兼務を認めよう」
塚田首相から組閣人事が決まると相談が入った。
「更に、お願いなのですが、直ちに御前会議を得たいと思います。重臣の方に会議開催を働きかけてください」
これも思いがけないことであった
「御前会議?その理由は何だ」
「今、北支に展開する部隊は正式に認められて派遣されているものではありません。このまま部隊を派遣させていけば、いつまた支那の国民軍と衝突して戦争に繋がるかもしれないのです。そうなれば御前会議で決定のないまま、戦争になります。
私は如何様な事態になろうとも、事前に御前会議で協議して戦争か和平かを決めておかないといけないと思います」
塚田の眼光は鋭く光っていた。
(これは撤退させる意思で御前会議を開く気だな)
もとより西園寺もそして宮中も戦争には反対だった。
「分かった。宮中には伝えよう」これも了承した。
本来首相と陸相の兼務など前例はなく、新内閣発足早々の御前会議は行われたことはない。
だが、西園寺は目の前の独眼の男の強い意思を感じ、宮中には事前に働きかけていた。それもあって、組閣や御前会議についても何も注文がなかったし、軍部も宮中の意向があったのか、取り立てて反対はおきなかったようだ。
「それにしてもわずか1カ月あまりで、次々と政策をやって来るものだ」
内閣が発足してすぐに、御前会議が開かれ北支からの撤退を趣旨とする大臣通達が決まった。
「あの時の熱弁はほぼ、塚田の独り舞台だった。一つずつ実例や論証をあげて北支に展開することの危険性を説明し反対意見を悉くねじ伏せた。
陛下はもとより戦争がお嫌いだ。塚田に同意するのは当然だった。それを見込んでの会議開催を考えていたら、あいつなら相当なことをしてくれるかもしれない」
陸軍の三長官会議でも新体制の人事が決定した。首相と陸相を兼務したうえで、御前会議では天皇の同意を取り付けたのだから、他の長官に反論できるはずもない。人事はほぼ塚田の意思の表明でもある。
そして今のラジオ声明だ。
普段の断固として塚田の物言いと違って、意外と柔らかな口調も気に入った。
「国民受けするために、易しい口調になっているな。まあそれも良かろう」
西園寺の塚田の評価はこれまでのところ及第点だった。




