14話 軍人として(改)
私の都合で永く投稿を休んでおりました。申し訳ありません。
ようやくにして日露戦争から話を始めようと思います。
休んでいたので構想がほぼ出来上がり、後はひたすら書き続けるだけです。
これからしばらく毎日投稿を続ける予定です。
また随分間が空きましたので、構成の考えが変わりました。
重複したり、矛盾する箇所も出るかと思います。気づかれましたらご指摘下されれば幸いです。
陸軍士官学校を首席で卒業すると、すぐに少尉になっていた。
卒業をまず桑原に報告した。
「良い成績で卒業できたのは良かったが、お前はロシアと戦いになれば勝てると思うか?」
「難しいですね」
「だが、ロシアの南下政策は止まらないだろう。朝鮮半島を牛耳られたら、日本の安全は脅かされることになる。その時お前はどう考える」
「戦争するしかないと思います。しかしそれを決めるのは桑原さんなどの要職におられる方々です」
「分かっておる。陛下は常々心を痛めておられる。ロシアとの戦争を回避したいとの思いからだ。我々とても同じだ。戦争を何としても回避したい。それが出来なくなった時、お前の気持ちを確かめたかったのだ」
「私は陛下や政府の命令に従うだけです。戦争したいともしたくないとも答えられません」
「うん、お前が戦に逸らないことは嬉しいぞ」
この時期にロシアとの戦争を主張する者が、政府にも民間にもいた。
日清戦争で勝利し、日本は朝鮮から清国の影響力を排除し、多額の賠償金と遼東半島までも手に入れた。それが、ロシア、ドイツ、フランスの3か国からの干渉により、我が国は遼東半島の放棄を余儀なくされ、更に、ロシアは遼東半島の先端の旅順を軍港に変えていた。これが国民の感情を大いに刺激することになった。
「三国干渉を断じて許すな!」「屈することなかれ!」「ロシアを成敗すべし!」
民間では勇ましい意見が飛び交ってもいた。
この当時1900年に清国で起きた「義和団事件」の混乱に乗じて、ロシアは満州に侵攻しほぼ全土を支配下に置いてしまった。
「義和団騒動で、満州にいるロシア人を保護しなければならない」ロシアの勝手な言い分だった。
事実上これは満州を植民地状態にするもので、これに日本、イギリス、アメリカが強く抗議し、ロシアは撤兵を約束した。
だが、半年経ってもこの約束は果たされない。
日本は脅威を感じだした。
「満州をロシアが奪えば、やがて朝鮮を南下して日本にもやって来る」それが大方の日本人の気持ちだった。
ただ日本には単独でロシアと対抗する力はない。イギリスの協力を得ようと外交的に働きかけた。
そのイギリスは永らく孤高政策を取り、どの国とも同盟を結ぶことはなかった。だが、南アフリカで起こったボーア戦争でなんとか勝利をしたものの、経済は疲弊してしまい、中東から極東まで伸びるロシアの南下政策に対抗できる戦力がなくなっていた。中東はともかく極東までロシアの南下を防ぐのは困難と考え、イギリスは孤高政策を止め、日本との同盟を受け入れる考えに傾いていた。
1902年日本とイギリスはそれぞれの事情からロシアに対抗するために日英同盟を組んだ。この日英同盟によってロシアも満州から兵を引き上げることになるのだが、依然として一部の兵を残したままだった。
ここに至っても日本国内は主戦と慎重論で意見が分かれた。政治家においても意見が分かれており、元勲と呼ばれる伊藤や山県は京都で会談し、この時は伊藤の慎重論で統一された。
これを機に日本の外交政策もロシアとの宥和を図り、満州の利権をロシアに譲る代わりに、朝鮮の支配権を日本が握る提案をした。ただ、この当時、ロシアは朝鮮に多くの利権を得るまでになっており、日本の提案には良い返事をしなかった。替わりにロシアは朝鮮半島の39度線以北を中立地帯にし、互いに軍事基地を設けないようにしようと提案してきた。しかしこの提案はロシアの朝鮮半島を支配しようとする意図が見え見えで日本としてはとても呑めるものではなかった。この提案では日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。
一方ロシアとして、小国の日本と戦争しても負ける要素はなく、満州と更に朝鮮を支配下に置く野望を捨て去ることなど考えられないことだった。
「寒いシベリアの大地から見れば満州や最も南の朝鮮は、青々とした楽園に見えるのだろう。彼らを諦めさせる方法はないのではないか?」ロシアの事情を学んでいた正平もそんな思いだった。
そんな時、ロシアの民間会社が満州と朝鮮の国境を隔てる鴨緑江の山林を開発する計画を立て、続いてロシア軍は鴨緑江に軍事要塞基地を築き始めた。これに民間メディアが憤慨した。
「ロシアは満州ばかりか朝鮮までも奪おうとしている!」
民間の新聞はロシアが約束を守らないことを理由に戦争を煽る論調に一斉に変化するようになる。特に七博士と言われた識者が内閣に開戦を要望する建白書まで出すに至った。
更に、ロシアが進めているシベリア鉄道の開発が事態を悪化させていた。モスクワから極東のウラジオストックまでレールが繋がれば物資や兵隊の輸送は容易になる。
「開通するまでにロシアと開戦するべきだ。」そんな声が日増しに高まっていた。
そんな中でも政権内部は慎重だった。日英同盟の繋がりでどれだけ日本に有利な展開になれるのか。首脳部であれば慎重になるのは当然だった。
だが、世論は高揚し戦時色に覆われる。ロシアは次々と満州に地歩を築いていく。
ロシアがシベリア鉄道を完成させ、輸送力を増強すれば勝ち目はない。
その前に、戦いを起こしロシアの南下を食い止めるしかないのではないか。
ある意味。追い詰められての決断でもあった。
そして1904年2月、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び出し、国交断絶を言い渡した。同時に駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知することになる。
軍事教育を受けてきた正平にとり日本とロシアとの軍事力比較は当然していた。
ロシア対日本 歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃と支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万
「ロシアは余りに強大だ。日本とロシアとの兵力差はいかんとも、しがたいものがある。」正平は深い嘆息をつくしかなかった。
「どのようにすれば、日本は勝てるのか」正平には答えが見つからない。だからと言って正平に軍人としての決意は揺るぐものではなかった。
『命令を受ければ、どのような事態になっても遂行する。』それが軍人と言うものだ。
正平はそう決心していた。
この話を始め以前のものを様々な個所で訂正しました。ご面倒ですが再読していただければ幸いです。




