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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
14章 混乱の1年
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131話 ナチスの躍進4

ナチスは地歩政治の制圧にも乗り出す。

総督を配して、ヒットラー政権に遵守しているか、監督する役目だ。ヒットラーはこれを古参のナチ党員に与えた。

人事法を改正して、「信用置けない者」「非アーリア人」を追放することにしたのだ。これには民主的な考えを持つ官僚が震え上がった。

共和国時代に民主主義を標榜した者は公職を追われ、後にはナチ党員が就いた。


政党の存在理由も問われるようになる。

共産党は国会炎上事件で多数が逮捕された。それでも3月の選挙ではまだ13%の支持をされていたが、非合法化される。

社会民主党も3月選挙で18%の支持を得たが、国会で94名の議員が綬権法に反対したことから、弾圧されるようになる。指導者は国外に逃亡するのだが、国内派と国外派にわかれることになり、分裂を招く。共産党同様に禁止された。

連立与党を組んでいて人民党も幹部が失脚し、あるいはナチ党に加わることになり、解散する。

このようにしてナチスの一党独裁が曲がりなりにも合法的に進められて行った。


ヒットラーの首相への登用には保守派の政治家も一役買っていた。彼らはヒットラーを飼いならせると高をくくっていたのだ。

しかし、ヒットラーに実権を握られ、政党の存在迄おびやかされると思惑が外れていることに気付いてくる。

保守派のとった行動は二つ。

一つはヒットラーに諂い、靡くこと。彼らはナチ党に入党し、要職に就いた。

もう一つは反発。彼らはヒンデンブルクに近寄り、緊急令を出させて、ヒットラーの権限を削ごうとした。

これに軍部の一部も加わる。ナチ党の突撃隊の素行があまりに乱暴で、軍人ともたびたび衝突して、問題となっていた。

軍人たちはこれ以上の突撃隊の横暴には我慢できなくなっていたのだ。

何よりヒンデンブルクは軍人出身で、軍部の考えを尊重する。

ヒンデンブルクからヒットラーの権限を制約する命令が出されれば、命運は尽きる。ヒットラーの危機だった。


ヒットラーもこのような動きを看過しなかった。

「今は大統領のご機嫌を損ねないのが一番だ。大統領は高齢で(85歳)、生い先は長くない。存命のうちに何としてでも後継に任命してもらうのだ」

ヒットラーは軍部と手を握り、突撃隊を排除する方針をとった。突撃隊は党の存立に欠かせないものだったが、今では手に余る状態だ。なにより親衛隊が大きくなり突撃隊がなくても問題はない。それならば切捨てるまでだった。そんな冷酷な判断をためらわずヒットラーは行えた。

これにより、軍との信頼を取り戻せ、大統領令は出されることはなかった。


こうしてヒンデンブルクの信頼をつなぎとめたヒットラーは、欲しかった遺言を受け取る。

大統領は死の前にして、大統領職と首相の役職が統一する法令が出された。

これによりヒットラーは「総統」というドイツ史上最大の権力を持つことになった。

最大権力を得たヒットラーの組閣した陣容にはナチスが多く占め、保守派議員は少数になる。

しかもヒットラーは閣議をあまり開かなかった。

ヒットラーは集団指導体制を好まなかったのだ。

あまり閣議が開かれないと、大臣は互いと意思疎通を欠き、互いに疑心にさいなまれ、ヒットラーだけに忠誠を誓うようになる。

ヒットラーの狙いだった。

また各大臣たちは一人でいくつもの党の要職を兼ねていた。それは地方の首長にも言えた。市長でありながらナチ党の地区団長を兼ねるようになる。党の威信やコネを使って、利権を得る動きに出るのだ。これは一党独裁には良く起こるケースで腐敗の温床にもなる。

それをヒットラーは問題にしなかった。

「私に忠誠なら、彼らの行動は許容する」それが方針だった。


プロパガンダが積極的に行われる。

約1週間の党大会には100万人が動員され、ナチ党、その分岐組織、軍も加わる。野外で寝食を共にして、各組織の親睦は深まる。

青年団や労働者、軍隊が繰り広げる隊列行進、マスゲームは大会の呼びものだった。

そしてヒットラーの演説が始まる。

多くの演説は暗い背景の中、壇上に立つヒットラーにはスポットライトが照らされ、偉大な指導者として際立たせた。

一目見ようと集まった大衆はそれだけで興奮する。

力強くドイツ国民の優秀さを述べ、聴衆の自尊心をくすぐり、強いドイツの復興を強調した。

「ヤー!」大衆は異口同音に叫び、歓呼し、興奮状態に陥った。


ヒットラーの政策は「アウトバーン」に象徴される公共事業により、労働者を直接雇用することだった。

幅5mの中央分離帯を挟んで、両側に7.5mの本道と1mの側道を持つアウトバーンは本格的な高速道路と言われる。

ただ、実際はドイツの車の普及率は低く、アウトバーンはそれほど利用されなかった。

でも「ヒットラーがアウトバーンを造り、失業者を雇用した」という宣伝が行き渡り、功績として残った。

次の政策は「ユダヤ人対策」だった。

強いドイツを取り戻すために、ヒットラーは国外にいるドイツ人を呼び戻すことにする。

それには彼らに仕事と家を提供しないといけない。そこで目を付けたのが、ユダヤ人の家を資産だった。

憎いユダヤ人を追い出せば、国民に家と金を分け与えられる。一石二鳥の政策だ。

追放されたユダヤ人は家財を没収され、身の回りの物を手にしただけで国外退去された。

ドイツ国民もこれを歓迎した。「ユダヤ人の住んでいる家が手に入る」そう思って、下見に来るドイツ人もいたくらいだった。

ここから次第にユダヤ人迫害から虐殺へ、エスカレートしていく。


対外政策は「強いドイツの復興」だ。

35年1月、国際連盟の管理下に置かれていたザール地方が住民投票でドイツへの復帰が決まる。これは事前にヒットラーが住民に「本国に帰ろう」というキャンペーンが実ったものだ。

更にヒットラーは徴兵制の復活、空軍の創設、平時兵力36個師団(58万)の設置を公表する。これは明らかにヴェルサイユ条約に違反するものだったが各国は制裁措置に動かなかった。

続いてポーランドとの不可侵条約を締結する。隣国のポーランドはドイツが国際連盟を脱退する動きに不安を募らせた。フランスに頼ろうとするも煮え切らない態度に見限り、ドイツとの友好に舵を切ったのだ。

これをイギリスはドイツを対共産主義への防波堤として期待する。35年6月にはイギリスとドイツの間で海軍協定が締結される。

そして、ヒットラーはラインラントへの進駐を決断した。


ラインラントはロカルノ条約でドイツの主権が置かれない非武装地帯で、ここを再武装化するのはドイツ軍首脳部の悲願だった。しかしそれが可能かどうか誰も自信なかった。

軍事的リスクが非常に高く、これを口実にフランス軍と対峙することになれば代償は高くつく。

当時のドイツ軍に比べ、フランス軍は優位な兵力を抱えていて、ドイツ軍首脳も劣勢を認識していた。

それでもヒットラーは進駐を決断した。フランスやイギリスがどう出るかやってみないと分からない。

そしてフランスはドイツ軍の進駐に行動を起こさなかった。イギリスは傍観した。

後世になって、そこから数年のフランスやイギリスの政策はドイツの戦争拡大に手を貸したと言われることになる。

後に英首相になったチャーチルが指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた。ヒトラーは英仏が実力行使に出るかもしれないと怯えていた。それにも関わらずヒットラーに賭けに勝ったという自信を与えしまった。イギリスとフランスは侵攻を容認したという誤ったメッセージを送ったのだ」


ヒットラーは賭けに勝った。

ドイツの軍隊が、無数の花束を手にした国民から熱烈な歓迎を受けてラインラントに進駐する姿は、繰り返し報道された。

「ヒットラー総統の手によって、ラインラントは解放された。これまでのどの政権が成し遂げられなかったことを総統はやってのけた。総統は約束を守った」

ドイツ国民は熱狂し、ヒットラーを熱烈に支持していく。


36年の11月、このドイツと日本は同盟関係を結んだ。


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