130話 ナチスの躍進3
32年にはいくつかの重要な選挙がドイツで行われる。
ドイツの大統領選にヒットラーは望むが、現職のヒンデンブルクに破れることになるが、それでも37%を集め善戦する。
7月に行われた国会選挙において、ナチ党は37%を集め、議員数608の中で230を占め第一党になった。
もはや、誰からも泡沫党と呼ばれなくなる。
ヒットラーの存在は日増しに大きくなり、それは大統領ヒンデンブルクも無視できなくなる。
ヒンデンブルク大統領は世界大戦でロシアと戦いドイツを圧倒的な勝利をもたらした国民的英雄だ。ドイツ皇帝さえもしのぐほどの人気ぶりで、戦後戦犯リストに載ったものの、裁判はかけられずにすんだ。共和国制になって、戦争責任を問われた時に「そもそもドイツ軍は戦場で負けてはいなかった。ドイツ国内の反戦平和主義者・労働者運動・ユダヤ人たちの『背後からの一突き』(裏切り)により破れたのだ」と言ってのけた。
その彼は、帝国から共和国に代わっても、議会に不信感を持っていた。かつての立憲君主制を理想の政治制度と考え、ワイマール共和国は早晩、つぶれるだろうと考えていたのだ。
25年から大統領に選出されても軍人大統領として、どこの政党にも属しなかったが、ドイツ人民党には期待を寄せた。人民党は退役軍人や愛国者・ナショナリストの集まりだ。
ただ、人民党は少数党で議席数も8%しかなく、頼りにできなかった。
28年ころから少数議員を率いる党首が首相になり、大統領の権威に頼る運営をするようになる。非力な首相の政策は何度も野党により否決され、そのたびに大統領が緊急令を発することになり、国会はその都度解散した。
32年7月の選挙で第一党になったナチスはヒットラーを首相にすることを望むが、ヒンデンブルクは副首相を提示し、物別れになる。ヒンデンブルクはナチ党が反対勢力に回り、当時首相だったパーペンは行き詰まり議会を解散する。
32年11月にまた選挙が行われ、ナチ党は議席を減らしながらも第一党を維持した。すぐまた議会を解散させるわけにもいかず、ヒンデンブルクはヒットラーを無視できなくなる。
パーペンは大統領に次のように進言する「ヒットラーを首相にしても、ナチ党の独裁を許すものではありません。政権にヒットラーを雇い入れるのです。用が済めば放り出せばいいのです」
財界では、議席を大きく伸ばしていた共産党に神経を尖らせていた。「ヒットラーが露骨な反ユダヤ主義者で、民主主義を軽視する人物であるのは知れ渡っているが、共産とよりはましだ」
また、ヒンデンブルクには「ヒットラーを首相にして欲しい」という請願も多数寄せられていた。
このような思惑からヒットラーは首相に任命された。
ヒットラーは首相の座についたが、直ちに独裁ぶりを発揮したのではない。内閣には彼以外、ナチ党員はゲッペルスしかおらず、副将相はパーペンだったし、ナチ党と連立を組んだ人民党と併せても議会の三分の一を占めるしかなかった。
就任してヒットラーはラジオで就任演説をする。
「この14年間の共和国政治は罪深いもので、国内の対立をあおるばかりだった。私は次のことを約束する。
国内の対立と亀裂を克服して、『国民的和解』を謀ること。
ドイツを破壊してきたマルクス主義者を撲滅すること。
軍縮問題に関連して、国家間の平等を謀ること。」
そこには反ユダヤ主義や領土拡張には一言も触れてなかった。
「ヒンデンブルク大統領は世界大戦でドイツに大勝利をもたらした英雄だ。私はその命を受け、前線で戦い、今またドイツを救済する仕事にとりかかる」
「国民よ、私に4年間の時間を与えてほしい。4年の間に、農民は困窮から解放され、失業問題は克服されるだろう」
実に、平和的な内容だった。
ところが、その二日後に開かれた陸海軍司令官の前で、ヒットラーは臆面もなく次のように言っている。
「国内の諸勢力を転向させる。考えを改めない平和主義者やマルクス主義者を撲滅する。反ヴェルサイユ闘争をして、ジュネーブ軍縮会議において平等権を勝ち取る。国防権の成立が肝要である。徴兵制を再導入する。東方に新たな生活空間を得て、ゲルマン化する」
まさに「羊の皮を脱ぎ捨てた狼」である。ヴェルサイユ条約を無視するような政治家は今までいなかっただけに軍首脳部は驚くとともに、信頼を寄せるようになった。
ここでヒットラーは選挙に打って出る。わずか2カ月半前に選挙したばかりで、連立する人民党は議席が減ると反対するが、聞く耳を持たなかった。
この時のヒットラーの選挙戦術は凄まじいものだった。
ドイツで初めてラジオや飛行機が選挙に使われた。しかも野党側には使わせなかったのだ。
野党攻撃も半端ない。大統領緊急令を使って、政府批判を行う集会やデモ、出版活動は禁止させられた。プロイセン州の警察組織にナチ党の突撃隊、親衛隊を組み込ませ、反対派の取り締まりを行った。
選挙戦が終盤になって、国会議事堂が炎上する事件が発生し、共産党員が現場にいたことで逮捕された。ヒットラーは事件が共産党による破壊活動だと決めつけ、翌日には「国民と国家を防衛するための大統領令」を発して、急進左翼の指導者を一斉に逮捕した。プロイセン州だけで1日で5000人された。突撃隊などは日頃から目を付けていた左翼活動家を酒場などに拉致して、殴るけるの行為に及んだ。
以前に日本の田中儀一内閣が治安維持法を改正して取り締まりを強化したと書いたが、ヒットラーのやり方を見ればかわいく思えるほどだ。
ヒットラーは議事堂炎上した事件を徹底的に利用して「共産主義者の暴力から防衛」を名目にし、合法的に独裁への権力を手中にするようになった。
言論・集会などの自由が規制され、警察は司法手続きなしに被疑者を逮捕できるようになる。州政府にも介入できるようになり、非常事態下では軍の関与を受けない首相と内相の特権を握った。
33年3月の選挙ではナチ党は過半数に到らなかったが、人民党と併せると過半数を超えた。これで国民の支持を得たと言って、ヒットラーは地方政府に介入を始める。
突撃隊を地方庁舎に乗り込ませ、退陣を要求した。地方政府が拒むと、暴れ出し事態が大きくなって、中央政府が介入するのだ。このようにして選挙からわずか1週間で地方での「政権交代」が起きてしまった。
更に選挙で与党が勝利したことでヒンデンブルクはヒットラーを登用したことに自信を深め。二人の絆は強まった。ここに綬権法が浮上する。
ヒンデンブルクは予てから議会に振り回される政権にうんざりしていた。それならば強い指導者に委ねた方が良いと考えるようになっていた。
副首相のパーペンや他の閣僚も必要な政策が打ち出せる綬権法に賛成だった。
綬権法成立には国会の三分の二以上出席と出席者の三分の二以上の賛成が必要だった。
そこでヒットラーは「議長が認めない欠席は正当なものでないから、そのような欠席は出席扱いする」という強引な規則を賛成多数で通過させた。これにより野党側は欠席できなくなった。
その上、共産党と社会党の議員は議事堂炎上事件で警察に拘束され出席できず、反対に回れなかった。
議事堂には突撃隊員が取り囲み、「鍵十字」の旗がはためき、議員たちを恫喝する。綬権法は力によって成立した。
この綬権法によって、ヒットラー政府は法律を憲法による手続きなしで制定でき、外国との条約も立法府の承認を得なくても成立できるようになった。
しかも綬権法は4年間の制約があったにもかかわらず、その後もずっと続いていくのだった。
次回でナチスの話はひとまず終わります。




