13話 ロシアの感想と対抗試合(改)
北の寒い大地に閉じ込められたロシア人の南への憧れは強かった。
シベリアから沿海州に入り込んだロシア人は歓喜して喜んだと言う。
「こんな緑にあふれた土地があるのは何と幸福なことか」雪と氷に閉ざされていたロシア人にとって、清国から奪ったウラジオストックなどの沿海州は楽園に映ったのだろう。
吉岡や正平に剣術を教えた老人も伊豆の温かい地が気に入って移り住んだ。冬の厳しい寒さを感じない伊豆は二人にとっては別世界だった。
「冬にお日様が見えて、青い海が輝いている所なんて天国ですよ」これは雪深い北陸から伊豆に嫁に来た女性の言葉だ。
(それと同じ気持ちか、それ以上強いものがロシア人にあるだろうな)
正平はロシア人が沿海州だけでは飽き足らず、南への侵略は続くだろうと思った。
(ウラジオストックの冬は氷で閉ざされる港だ。それなら南の朝鮮に手を出すのは必然だろう)
目の前に、冬でも青々とした大地があれば何としてでも奪い取ろうとするのが普通だ。
ロシアはやがて朝鮮を奪いに来る。その時日本はどうする。
正平は図書室で静かにロシア文学を紐解いていた。
授業で学ぶことと、図書室で得られることは違う。
ロシアの作品はこの時まで和訳されているものが少ない。それでも手にとれるものはすべて読み通した。
その殆どの小説は上流階級を扱う物ばかりだ。
「ロシアの階級制度は日本よりもはるかに厳しい」地主と農民の差はまるで、ご主人様と農奴と言えるものだ。
「これだけの格差は日本にはまずないだろう」勿論正平は全国の農地を見てきてない。だが生まれ故郷の農家の現状とは余りに違うロシアの農民の姿だった。
そして、ロシア人の文盲率にも興味を引いた。
「意外と日本人は進んでいるのではないか」幕末時に日本に来たロシア人船長の手記に、日本人の識字能力の高さに驚いているものがあった。
ロシアは強国で、広大だ。とても戦争して勝てるとは思えない。それでも正平はロシアを知ることは必ず役に立つはずだと考えていた。
またロシア語にもなるべく触れるようにした。
ロシアの正教会に行き、ロシア語で会話しようとしたのだ。
勿論、覚束ないものだったが、ロシア宣教師はそれを面白いと受け取り、熱心に語りかけてくれた。
「最初は何を言っているかも分からなかった」
不思議なもので耳に慣れてしまえば言っていることが分かるようになる。
正平のロシア研究は順調に進んでいた。
そんな正平に上級生から呼び出しがかかった。
「今度の対抗戦に出てくれ」
対抗戦とは横須賀にある海軍学校と剣術の交流戦だ。
「去年負けたので、今年も負けるわけにはいかない」対抗戦は生徒数の多い陸軍の方が手練れを集めやすく、常に優勢だった。だが、去年、海軍学校側に手強いものが登場し、逆転してしまった。
陸軍側にはこれに対抗できる者がいないと言う。
「絶対出ろよ」ほぼ命令だった。
実は、入学した時、やはり上級生から何で剣術をしないんだと問われたことがある。陸幼の頃の剣術の腕前から正平が課外授業に剣術を選んでくれると思っていたようだった。
正平は陸幼で星野から徹底的に鍛え上げられていた。星野は剣道の上段者で東京でも腕前は知られている人物だ。その星野と卒業時にはほぼ互角以上の勝負が出来るようになっていた。
士官学校では剣術の授業には出たが、課外授業には参加してない。見渡しても星野以上の者は教師にも生徒にもいなかった。
(これ以上剣術を学べないし、必要はない)陸幼時代なら自分の腕前を誇るように参加するだろう。だが、吉岡からも諭され、自分を売り出すことを止めていた。
「私はロシアと戦いになると思っています。それに備えて自分なりにロシアの事を学びたいのです」そう言って断っていた。
だが、今度は断るのは出来そうになかった。
「本校の名誉がかかっているんだ」とまで言われては断る理由がない。
試合は互いに5人を出し合い、勝ち抜き戦で行い、最後に残った者がいるほうが勝者になる。会場は本校の道場である。当然本校学生が見学者として詰めかけていた。
「勝てよ!」声援が飛び、会場は熱気にあふれていた。
陸軍側は始め有利に試合を進めていた。先方と次鋒が活躍し、相手を倒して行き、ついに大将まで引きずり出した。これで誰かが勝つか、引き分けるかすれば陸軍側の勝利である。
だが、ここからの海軍側の大将が強かった。次鋒、中堅、副将までが簡単に打ち取られてしまった。
「おい、大丈夫か?」
有利に試合を進めてきた時は、会場は大いに盛り上がっていたが、敵の大将に次々と打ち取られると心配の声が交わされるようになった。
「去年もあの大将にやられたんだ」「敵の大将があんなに強くて大丈夫か」
観客は最後に残った大将の正平を不安そうに見るほどだった。
「うちの大将は1年で、小柄だぞ」陸軍側の観客が心配するのも無理ない。
海軍側の大将が6尺(180センチ)を越すのに対し、正平は20センチも低い。
「あれで大丈夫か?」誰もが不安に駆られる。
その中を、正平はゆっくりと、前に進み出た。
それを見て相手側は少し怪訝な表情を浮かべた。
(随分若い奴が出てきた)口に出さなくても分かるくらいだ。油断の態度は見せないが、あと一人で勝てるつもりではいるようだ。
正平は相手の呼吸が乱れていると感じた。連続で3人を相手にしてきたのだ、無理もない。
ゆっくり静かに対坐して、立ち上がる。
互いの剣先が触れ合うかどうかの瞬間だった。正平の体が飛んだ。あまりに早さに敵大将は躱すことも出来ない。
正平の突き出した竹刀は敵の両腕を捉えた。
「籠手!」審判の手が正平に上がった。
「おおう」この幕切れに観客はあっけにとられた。あまりの動きの速さにどのように決着がついたのかも分からない。ただ、陸軍側が勝ったのだけは分かった。
「やった。やった」流石に味方の上級生は正平の太刀筋は見えた。
(あの早業に俺達は簡単やられていたんだ)試合に引っ張りこんだ上級生たちも正平の腕前に改めて舌を巻く。
「ともかく俺達の勝ちだ」面目を保つことができてほっとした様子だ。
「しかし、塚田はすげえな。なんで、あんな見事に技が決まるんだ」
陸幼までに正平は相手の呼吸を読み取り、相手の意図を見抜くまでになっていた。相手のちょっとした目の配り、仕草で何を狙い警戒しているか分かる。
敵の大将が3人も相手にしたことで、弱点を見抜いていた。正平から見て攻撃は上手かったが、受けが雑だ。籠手から突きを狙えば相手は躱すことは出来ないと思っていた。
最初の籠手だけで決まったのは、相手に疲れが出ていた影響もあるだろう。
「勝てて良かったです」正平は笑顔で答えるのみだった。




