100話 陸軍の派閥闘争
ここで日本陸軍の人事の系譜を見て置こう。
明治維新より長州藩の存在は大きく、特に陸軍においては創始者と言える大村益次郎、それに続く山形有朋などの元勲を輩出し、長州閥と言われる勢力を築いていた。その流れが大正、昭和と続いて、良くも悪くも長州閥で陸軍の首脳人事は決められていた。
陸軍の大臣は初代の山県に始まり、2代が桂太郎、3代が寺内正毅とすべて山口県出身者が続いている。これを見ると確かに山県が長州出身者で陸軍要職を占有していたように見えるが、この3人は軍人として優秀で、大臣になっても落ち度はあまりない。陸軍草創期に山県が信頼のおける部下を集め、それが派閥化したのは当然だった。
この当時、他の分野、政治や官僚にも薩長土肥の出身者が主要な地位を占めており、世間から藩閥政治と非難もされていた。陸軍でも長州出身者が首脳を占めていたので長州閥の横暴と言われていた。ただ、山県自身、岡山出身の宇垣一成や伊豆出身の正平などを登用している。それに比べれば反長州閥を主張する者達の方が、派閥意識を強く持ちすぎていたようにも見える。
そして、陸軍の派閥争いが鮮烈になるのは、陸軍に君臨していた山県が亡くなり、派閥の意識が強くなってからだ。上原勇作と田中儀一や宇垣一成とが人事を巡って強く対立するようになる。
上原は薩摩藩出身であるが、山県に近く第二次西園寺内閣で寺内の後、陸相になった。この時、陸軍から提出された2個師団増設案が、緊縮予算を理由に拒否されると、辞任する。これは長州閥の意見に押されたからだとも言われる。そして陸軍は後任を出さなかったことで、内閣は総辞職に追い込まれた。これが陸軍から大臣を出さないことで、内閣を総辞職させることの始まりだ。その後、山県や桂が亡くなると、陸軍での発言権が増すようになり、上原閥を築き上げる。上原閥には荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、武藤信義、小畑敏四郎などがいる。また彼は陸軍大臣、教育総監、参謀総長を歴任し、元帥にまで序された唯一の人物でもある。
原内閣の陸軍大臣は田中が務めていたが、健康を理由に辞任した。ここでの後任は田中系の山梨半造がなっている。その後、高橋是清内閣、加藤友三郎内閣でも山梨が留任し、山本権兵衛内閣では再び田中が就任した。そこからは山県不在になり、上原と田中・宇垣との抗争が目立ち始める。清浦圭吾内閣では上原が福田雅太郎(長崎出身)を、田中が宇垣を推すことになり、ここで田中が勝利して宇垣が陸相になった。
陸相になった宇垣は、内閣の方針に従って軍縮を断行する。いわゆる宇垣軍縮と言われるもので、陸軍内部から反対意見も出る。ここで宇垣は上原閥で、軍縮に反対した福田雅太郎や尾野実信(一夕会メンバー武藤章の義父)などを予備役にする。明らかな報復人事を行っている。
それからも上原vs田中・宇垣とのバトルは続いていく。第一次若槻内閣でも陸相をしていた宇垣は自派の鈴木壮六を参謀総長に押し込もうとするが、上原は武藤信義(佐賀県出身)を推す。ここでも宇垣が勝利して鈴木が参謀総長に就任し、後になって武藤は教育総監の要職を得るが、実務の中心ポストからは外された。
浜口内閣では鈴木参謀総長の後継を巡り、また上原と宇垣が争う。上原が武藤教育総監を推し、宇垣は自派の金谷範三を推し、ここでも宇垣が勝利して、金谷参謀総長が実現する。この後、金谷は満州事変に遭遇し、正平と共に対応に追われることになる。
以上のように山県の死によって、陸軍は上原派と田中・宇垣派の勢力争いが表面化し、以後33年に上原が病気で亡くなるまで続いた。
山県は陸軍に長州閥と呼ばれる派閥を持ち込み、支配した。その直系の田中や宇垣も派閥を率いて陸軍を牛耳って来たのは事実だ。派閥は人事の偏向を許し、特定の勢力だけに権力も金が集まり決して良いものではない。ただ、田中も宇垣も政党政治には協力的で、時の政権の国際協調政策に従い、撤退や軍縮などを行っている。このことはもっと評価しておいて良いと思う。
それに対して、反長州閥を主張する勢力は政党政治に不満で、国際協調よりも国益を重視し、満州や支那での権益確保を主張している。彼らの主張も理解できないことはないが、彼らにより諸外国から批判を受けてしまった。結果として国際関係が悪化し、これを理由に更なる軍事増強を目指したのは本末転倒と言って良いのではないか。国益を重視すると言いながら、彼らがどれだけ国益を向上させたのか疑問が残る。
ここで注目するのは上原派の主要人物に荒木貞夫や真崎甚三郎、小畑敏四郎などがいたことだ。彼らは田中・宇垣派に属さなかったので、昇進は遅れ陸軍の中央から外されていた。ただ、荒木たちも自ら派閥作りをしており、性格にも親しくない者を排除する傾向が見られ、これが田中・宇垣から嫌われた側面もある。
「荒木の考えはあまりに偏り過ぎだ。天皇を絶対視する発言をしているが、天皇を祭り上げて、自分たちで勝手なことをやりたいだけではないのか」宇垣派の会合でそんなことが飛び出している。
「何よりも派閥作りが露骨すぎる。若手将校を集めて、自分たちに都合の良い話ばかりを吹聴している」
「若手将校は現状の政治に不満を抱いている。荒木たちはその不満をうまく吸い上げ、皇軍思想を植えつけている」
「偏狭な国家思想は道を誤らせるもとだ。それを注意すれば彼らは眼を剥いて怒り出す。まるで教祖を見る信徒のようだよ」
「全く、あそこまで凝り固まるとは、使い物にならない」
それが宇垣派の荒木評だった。
ただ、時代の流れは予期せぬ方向に流れてしまうこともある。
犬養内閣発足で荒木陸軍大臣が就任し、宇垣派は陸軍中央から外されてしまう。犬養首相がどの程度、荒木や一夕派について知っていたかは分からない。ただ、政友会の一部に荒木たちと気脈を通じていた者がいたのも事実だ。犬養が荒木を陸軍大臣にしたことで、抑える者がいなくなり陸軍の次なる暴走を引き起こしていく。歴史の流れは得てして小さな偶然や、人の結びつきで大きく変わる例だと思う。
この話でようやく100話になりました。当初のつもりでは100話の前には1章のプロ―ログの時期に戻る予定でした。ところが意外にも話が長くなり、いまだに30年代初期の状態です。
皆さんもお気づきのかたもいらっしゃると思いますが、昭和になると話の展開が遅くなっています。前は10年間で10話を語るぐらいのペースでしたが、今は3年で10話以上のペースに落ちています。それでも駆け足に話をしています。満州事変など、1話では到底語れないほどの重要なものです。もう少し細かく語りたいと思ったのですが、それだと主人公から話が離れるようなので、省略しました。
今後はもっとペースが落ちるとは思いますが、どうか飽きずにお読みくだされば嬉しいです。




