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愚兄より、  作者: ひとりっこ
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記憶喪失

妹が記憶喪失になった。

 

 ———元気のある妹だったのだと思う。

 学校でも人気のあるやつだったと、両親から聞いている。

 勉強ができ、運動も人並み以上に出来たそうだ。

 文化祭や体育祭では、リーダーシップを発揮し、クラスを賞へと導く。

 容貌もよく、男女問わず誰とでも仲良くする完璧な少女。


 長谷川千夏は、俺とは似ても似つかない、俺の妹だった。



 ***


 最後に家族一緒に飯を食ったのはいつだったのか、もう思い出せない。

 俺が中二の時に骨折して、その退院祝いにファミレスでみんなで食べたのが最後だったろうか……そんな気もする。

 まあ、俺は記憶力が良いほうではないからな。妹と違って、学校の先生から褒められるような能力は持っていないのだ、俺は。

 思えば、もう三年近く家から出ていない。半年ほどは、部屋からも出ていないよう思う。

 冬の寒空も、夏の強い日差しも、春の陽気も、秋の物寂しい夕暮れも、ガラス越しにしか、見ていないのだ。そして、ここ最近はカーテンを開けようとすらも思わない。何もかもが、億劫になってしまっていた。

 一か月ほど前までは、部屋の薄い壁越しに妹の明るい声も聞こえていたものだ。電話をしているのだろう、と思っていた。時には友人との会話が、時には彼氏と思われる者との会話が、休日の昼間には、親からの電話もあった。もう何年も電話としての役割を放棄してしまっている俺のスマートホンとは違い、妹のスマートホンは働き者なのだ。

 電話をしている声が聞こえると、俺はそっと壁際のベッドに上がって、その会話を聞く。

 運ばれてきたものもあまり食べていない俺の体では、ベッドはギシリともいわないし、壁によりかかるときも何の音もしない。

 相手の声と、妹の声。別世界にいるのではないかと思えるほど理解できないその内容も、俺と部屋の外をつなぐ数少ないツールの一つだったのだろう。

 けれど、その声ももう聞こえない。

 

 一か月前、妹は交通事故に遭った。

 前方不注意の車に撥ねられそうになった友人を庇って、彼女は意識不明の重体となったのだ。


 ***


 その半年後に、妹が目覚める

 妹と会わなかった時間は大体一年ほどだと思ったが、その間に彼女はずいぶんと成長したように思える。

 少なくとも、病室で出会った妹は、家で遭遇したときに露骨に軽蔑の視線を飛ばしてきたその人とは思えなかった。

 伸びっぱなしになった黒い髪に、日の光を浴びていなかったせいで不健康に白い肌。そして、急に病室に、母親と父親とともにソワソワしながら入ってきた俺に向ける、不安げな瞳。そのどれもが、俺の記憶の最後にある妹の印象とうまく合致しない。

 妹と同病室の人たちに軽く挨拶をして、両親が黒いパイプ椅子に座るのに合わせて、妹から一番遠い位置に腰掛ける。相当旧いものなのか、椅子はギシリと悲鳴を上げた。

 妹の胡乱気な瞳に見据えられ、俺は早くも病室を出たい気持ちになった。

「なあ、千夏。これがお前のお兄さんだ」

「は、はい……あの、よろしくお願いします」

 父親がそう俺のことを紹介する。すると、妹も他人行儀に俺に向かって挨拶をする。

 記憶喪失であるとは軽く聞いていたが、そうか、俺のことも忘れているのか。

 考えてみれば当たり前のことである。たとえ両親のことを覚えていようと、俺のことは忘れていたであろう妹のことだ、彼らを覚えていないのに、自分だけ覚えていてもらえるなんて思い上がりである。

「こちらこそ、よろしくお願いします、千夏さん」

 俺の口から出てきたのは、妹のそれよりも他人行儀な挨拶であった。

 母が肘で俺を小突いてくるが、気にしない。もとより、心機一転という心持ではないのだ。俺はこの妹と必要以上に接するつもりはないし、彼女も引き籠りである俺とは自然と疎遠になっていくだろう。

 聞く限り、彼女は人物に関係する記憶を失している。社会で生きていくうえで必要な知識や知恵は残っているのだから、俺のことを理解すれば不快になるだろうし、軽蔑し、触れあいたいと思うことすらなくなるだろう。

「冬弥、おまえ……」

 いかにも妹の様子に興味がなさそうな俺の様子を見て、父が苛立ったように席を立ちかけるものの、妹が先んじてそれを制す。

「いえ、大丈夫です……お父さん。あの、お兄さんも、その」

 しどろもどろになりつつも、俺を庇ってくれていることだけは分かる。

 しかし、記憶喪失前の妹は父を『父さん』と呼んでいたと思ったが、今の『お父さん』にはかなりの余所余所しさが感じられた。そして、口調からは家族のけんかを止めようとするものではなく、ちょっとした知人同士の、自分の関与する諍いを止めよう、という雰囲気が感じられた。

 無論、記憶を失ってしまい、唐突に表れた人々が父だとか兄だとか名乗っているだけの状況ではそれが普通なのだろうが、そうと分かっていても父にはつらいところがあったのだろう。一瞬痛ましい顔をしてから、もとの薄気味の悪い笑顔を張り付けて妹に向き合った。

 俺にとっては、妹が記憶を失おうと、そうでなかろうと、別に何を変えるわけではない。

 部屋に引き籠っているだけならば、妹の記憶の有無など些事でしかないのだと、そう考えていた。そして、妹の生来の明るさと快活さでもってすぐに友人を作り、俺のことなどはすぐに忘れてしまうだろうと、そう決めつけていた。


「お兄さん、ちょっと、良いでしょうか……」

 そう話しかけてきたのが妹だと気付くのに、少しの間を要してしまった。

 記憶があるときの妹は、俺を「お兄さん」などとは呼ばなかった。否、俺のことなど呼ばなかった。俺に頼むくらいだったら自分でこなしていたのだろう。何かを頼みかけることもなかったし、俺から話しかけることも殆どなかったために、俺は妹からどう呼ばれていたかということをもうすっかり忘れてしまっていた。

「ああ、何だ?」

「いえ、私、お兄さんのことをなんて呼んでいいのか、わからないんです。むかし、なんて呼んでたんでしょうか……?」

「——なんと呼んでくれても構わないよ。ここ最近、俺は……千夏さんとあまり話していなかったから、なんと呼んでくれても違和感はない、から」

 そう言うと、妹は少し不思議そうな顔をした。兄妹なのだから、そうはいっても何かしら話していたのだろうと解釈しそうだったが、そこまで細かく訂正してやらなくてもいいかと思い、何も言わなかった。

 妹は少し考えた後、

「では、兄さんと呼ぶことにします。……敬語も、やめたほうが良いですか?」

 妹はおそらくこれまでの兄妹の関係というものを取り戻してあげたいと思っているのだろう。そのために、以前の『妹』を演じようと、情報をかき集めているのだ。——記憶喪失の事例や精神状態など知らないが、俺は不思議とそう思えた。

「いや、いいよ。千夏さんが慣れるまでは好きにしてくれ」

 俺にとっては、以前の妹だろうと、記憶を失した妹だろうと大して変わりはない。俺は部屋に籠っているだけなのだ。外になど出ないし、妹と会う機会もこの面会が終わったらほとんどなくなるのだろう。

 だから、どちらでもいい。どうでもいい。

「はい。分かりました」

 察しのいい妹のことだ。このくらいのやり取りで、もう俺が以前の妹と友好的であったわけではないことくらい理解してしまっているのだろう。

 妹は俺に対しての質問を切り上げ、両親と話し始めた。

 久しぶりに吸った病院の中のあの独特の匂いで、俺はもう既に憂鬱な気分になっていた。


 ***


 そのまた半年後、妹が学校へと復帰した。


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