月の少年
穏やかな夜だ。
隣の部屋でルーナとツクヨミがなにか楽器の練習を始めたらしい。けして上手いとは言えないが心地よい音色が潤滑油となってあの日の思い出がするすると滑り出てくる。
あの時私が気を失わずに済んだのはひとえに彼を助けようとしたことをまだ忘れていなかったからだ。正義感もあったがどこだか分からない場所において他人の存在というのは精神の安定に重要な役割を果たすのだ。しかし残念ながら気を失わなかっただけなのだ。
「Ona,」
どうやら向こうから来てくれたらしい。背中に声を投げかけられた。
「Akusedu buoji ad?」
暗くてよく見えないが小柄な影が隣に立っている。自分の姿勢の都合上足しか見えないがその足にはおおよそアニメや漫画でしか見ないような鎖とおもりがつけられている。その子供がどうやら心配してくれているのが分かる。しかし何を言っているかさっぱりわからない。もしかしたら上手く聞き取れなかっただけかもしれない。そう思った時。
“怪我はないか、と聞かれております。”
声が聞こえた。
“master殿、多少は落ち着かれましたか。”
剣から声がする。先の戦闘で指示を出してきたものと同じ声だ。もう抜けている腰これ以上抜かすすべもない私は目だけそちらに向けた。
“今はここを離れ手当てをすることが先決です。自分が通訳を致しますのでどこか人の住んでいる場所へ行きましょう。”
そういって何やらよくわからない言葉で子供と会話を始めた。なんとか顔を上げてその子供を見ると夜でもよく映える綺麗な金髪をしている。しかしそれ以上に目を引くのはその頭から生えた大きな兎の耳だ。私がその耳をまじまじと見つめていると剣が私に歩くように促した。
“この子がアナタの助けになりそうな方を知っているらしいです。”
とのことだった。私がその子供の足の鎖に剣を当て強く押し込むとまるでバターでも切るかのように悪趣味なアクセサリーが切れた。多少回復した私は剥き出しの剣をザクザクと地面に突き立てながら杖がわりにして子供のあとについて歩いたのだった。
■■
途中数回の休憩を挟みながら私達はなんとか日が落ちる前に大きな門が見える位置まで来た。小さな案内人が私の方を向いて笑顔で言う。
「A Tiut!」
“ここはチウト、勇史卿の領地、その門です。”
剣による通訳、それに少しの補足が加わる。勇史卿、領地、薄々気づいてはいたがやはりここは私の住んでいた世界とは違うのだ。信じ難い現実と四肢に伝わる実感で脳の後ろ側がちりちりと痛む。しかしこの門を抜ければ取り敢えずは体を休めることができる。そう思い一歩踏み出すと。
「Itto kio!」
門とは別の方向からあの子の声がする。それは少し大きなテントのようなものから聞こえてくるのだった。
「君達が異世界からの旅人かい?」
この世界に来て手元の剣以外からは聞くことのないと思っていた故郷の言葉と共にボロキレのような服を着た男が出てきた。
「この子を助けてくれてありがとう。取り敢えず中ではなしましょう。」
■■
「じゃあ状況の再確認の前に軽く自己紹介でもしようか。ボクはリンドウ、リンドウ ジン[転生者]だ。」
転生者とは1度死んだものが神、またはそれに類する何なの存在により契約を交わしこの世界に来たもののことらしい。後で聞いた話だと私の様に誰かの転生時の世界のほころびからたまたまこの世界に紛れ込んだ者を[放浪者]と言うらしい。
“私は剣、ジンからビクトリアの名を授かった物、今はあなたの剣です。”
ビクトリアはジンが転生時、契約として授かった奇跡のひとつだったが洛外(ここでは何らかの理由で街を追われた浮浪者の集まった場所を指すらしい)に落ちた彼が生活費のために契約を破棄、そして売り払ったものであると語った。
「そして君が助けてくれたこの子は…あー、名前は無いんだ。この洛外に捨てられてた子でねぇ、てっきりもう帰ってこないと思ってたから誰も名前をつけなかったんだ。」
時折現れる奴隷商は貧乏な集落やまさにここのような身寄りのない者の集まる場所から人を買って行くのだそうだ。
「Isana hon nan?」
自分のことを話しているのを悟ったのか疑問符をまとった話の主人公がジンになにかたずねている。
「Etta nakuo boy uodow imik,」
「On! urearo meam ano!?」
何を話しているかはわからないが何故か少年がキラキラとした目でこちらを見てくる。
“どうやら名前をつけて貰いたいらしいですな”
ビクトリアが呑気にそう伝えてくる。
「そう、そしてできればそれは君がいいらしい。」
ジンが私の方を向いてニッコリと笑う。更に輝きをましたように見える少年の目、断るに断れない空気。私が悩み天を仰ぐとテントの隙間から星空が見えた。穏やかな夜空だ。そういえば昨晩も星を眺めていたなと思い出し、そして、ああ、兎のような耳、月の光を含んだようなその鮮やかな金色の髪を見たからかもしれない。ルーナ、とそう私は言っていた。