遊ぼうよ
これは、私がまだ小学生のときの話です。
私にはよく一緒に遊ぶ友達がいました。仮にSちゃんとします。
当時から引っ込み思案の私は、友達をつくるのが上手くありませんでした。
だからSちゃんのことを最初、私は特別に感じていたように思います。
「Aちゃん」
クラスに一人でいるとき、Sちゃんは私に近付いてきて、にっと口の両端にえくぼをつくって呼んでくれます。
次の移動教室に行くとき、体育で二人組になって準備体操するとき、給食のとき、学校でのだいたいの時間を私はSちゃんと過ごしていました。
「今日も遊ぼうね」
それは、放課後になっても続きます。
私とSちゃんは同じ団地に住んでいて、帰り道もずっと一緒でした。私はよくSちゃんの所に遊びに行きました。
平日は短い時間ですが、土曜の午後からなんかはずっと遊んでいる日も多かったです。
私は鍵っ子だったので、親に文句を言われることもありません。Sちゃんの両親も家にいなくて、二人きりで遊ぶのです。
オセロとか、トランプとか、お人形遊び。部屋での遊びに飽きたら外に出て、団地で隠れんぼや鬼ごっこをしたりしていました。
ひとりぼっちの私にとって、Sちゃんと遊ぶ時間は楽しいものでした。どうしてSちゃんは私と友達になってくれたのだろうと不思議でしたが、それを言うと気まずくてなりそうで言えませんでした。
Sちゃんは明るく、声も大きい子です。そしてたまに、強引なところがありました。
私が今日はちょっと遊ぶ気分じゃないなと思う日でも、私の腕をゆすりせがむのです。
「なんで? 遊ぼう。遊ぼうよ」
「痛いよっ。Sちゃん、放して」
腕に食い込むSちゃんの爪が痛くて私は叫び、根負けしてSちゃんの言う通りにします。
すると、たちまちSちゃんはにこにこと上機嫌になるのでした。
「楽しいねえ。遊ぼう、遊ぼう」
Sちゃんと遊ぶのは楽しいです。でも、Sちゃんと長く付き合ううちに、ほんの少し……たまにちょっと息苦しくなるときがあるのでした。
そんな考えが頭を過ぎる度に、私は自己嫌悪に陥っていました。
「Aちゃんって、Sちゃんと仲いいよね」
ある日私は、学校でクラスの女子グループに声を掛けられました。
普段Sちゃん以外に話し掛けられることのない私は、突然のことに驚きました。
「よくあの子と遊べるよね~。大変じゃない?」
なぜか私は同情されていました。まるでババ抜きでババを持たされた子でも見るみたいな、憐れんだ目だったのを覚えています。
彼女達はどういうわけか、Sちゃんを良く思っていないようでした。自分達とは違うと言いたげな空気がひしひしと伝わってきます。
友達を悪く言われていい気はしません。でも私は何も言い返せず、愛想笑いしかできませんでした。
それはどこか、私も感じ始めていたことだったからかもしれません。
明るく、ちょっと強引なところがあるSちゃん。
そして、私としか遊ぼうとしないSちゃん。
実はクラスでひとりぼっちなのは、私だけではなかったのでした。
「Aちゃん、遊ぼう」
その日の放課後も、Sちゃんは私を誘いに来ました。
私はクラスの子たちの視線を感じながら、冷静な振りをしてSちゃんと教室を出ました。
私が何となくSちゃんを避けるようになったのは、それからでした。
休み時間にはSちゃんに話し掛けられる前にお手洗いに行き、給食や体育の時間も、タイミングが合えば他の子と一緒になるようしました。
どういうわけか、Sちゃんを避けようとする私をクラスの子達も受け入れてくれていたように思うのです。
Sちゃんは私を責めたりはしませんでした。
ただ、私は他の子と一緒にいるとき、どこからともなく絡みつくような視線を背中に絶えず感じていました。
そうして、私がSちゃんを避けるようになってからしばらく経った、ある休日のことです。
その日は酷い雨でした。お父さんは休日もお仕事で、お母さんも買い物に出かけてしまっていました。
いつもなら一緒に買い物に連れて行ってくれるのですが、雨だから私はお留守番です。
学校の宿題をしていると、ピンポンと玄関のチャイムが鳴りました。お母さんからは、一人でいるときは出ちゃ駄目と言われていたので、私は気になりながらも居留守をつかいました。
すると、どんどんと大きめの音が聞こえて、私はびっくりして思わず玄関の方を振り向きました。
どんどん、どんどん。何度もドアが叩かれます。
「Aちゃん、遊ぼう」
Sちゃんの声でした。
私はこのとき生まれて初めて、さぁっと顔から血の気が失せる感覚を味わったように思います。
「遊ぼう、遊ぼうよ」
私は恐怖に竦んでいました。罪悪感もあって、きっとSちゃんは私に文句を言いに来たのだと。
まるで私を責め立てるように、ドアはどんどんと叩かれ続けました。
出ちゃ駄目だと心の中で何度も繰り返しながら、私は両耳を塞いでSちゃんが諦めて帰ってくれるのを待ちました。
それは数分の出来事だったかもしれませんが、どんどんと音が聞こえる度に私は気が遠くなりそうでした。
やがて音が聞こえなくなって、恐る恐る耳から手を離した私は立ち上がりました。宿題に使っていたシャーペンを無意識に手にしたまま、口に片手を当てて慎重に玄関へと向かいます。
ドアには外を覗くための穴があるのは知っていました。ですが、当時の私の背では届きません。
だから私は、Sちゃんが帰ったのだと安心したくて、こっそりと外を確認するためドアの鍵を開けたのです。
ガン! と何かが爆発したみたいなもの凄い音が轟きました。
それはドアが強引に開けられて、U字ロックに阻まれた音でした。ですが、事態を把握する暇もなく、驚きに固まる私の右腕に激痛が走ります。
「やっぱり、いた」
口の両端にえくぼをつくったSちゃんが、私の目の前にいました。
U字ロックに阻まれてドアは完全に開いてはいませんが、隙間から伸ばされたSちゃんの腕は、私の二の腕をがっしりと掴んでいたのです。
「Aちゃん、遊ぼう。遊ぼうよ」
「痛い! 放して!」
恐ろしい勢いで腕を引っ張られた私は、ドアの隙間に身体をねじ込まれそうになって泣き叫びました。それでもSちゃんはやめようとしません。むしろ嫌がる私を不思議がるように、ますます引っ張る力を強めます。
「なんで? 遊ぼうよ。楽しいよ。いつもみたいに、遊ぼうよ」
雨に打たれたせいなのか、Sちゃんの手はじっとりと濡れていて気持ちが悪かったです。私は必死で抵抗しながら、取り落としたシャーペンを拾い上げました。
「放してええ!!」
私の右腕を掴むSちゃんの手の甲に、私はシャーペンを思い切り振り下ろしました。
ぐすりとシャーペンが沈む嫌な感触。Sちゃんの悲鳴が私の耳を貫きました。
突き飛ばされて転がった私は死に物狂いで起き上がり、無我夢中でドアを閉めて鍵を掛けました。前屈みになってドアノブにしがみつく私を再度突き飛ばすかのように、ドアを叩く衝撃が襲いました。
「遊ぼう! 遊ぼうよお!!」
「帰って! もうSちゃんとは遊ばない! 帰って!! お願いだから帰ってええ!!」
半狂乱になって、ぼろぼろと涙をこぼしながら私は叫びました。頭を下げた先には、先端が赤く染まったシャーペンが転がっていて、何が何だかもうわからず、喉が裂けるくらいに叫んでいたように思います。
気がつけば、ドアを叩く音も、Sちゃんの声も聞こえなくなっていました。
じんじんと掴まれた二の腕が痛み、私はお母さんが帰ってくるまでその場で泣き崩れていたそうです。
Sちゃんが亡くなったと聞いたのは、翌朝のことでした。
なんでも雨で濡れた団地の階段で足を滑らせて、頭を打ってしまったのだとか。
大人達は口々に可哀想に、不幸な事故だと言いました。お母さんは何か私に問いたそうでしたが、結局何も言われませんでした。
Sちゃんの訃報は瞬く間にクラスにも伝わり、彼女と仲良くしていた私は注目の的でした。
色々と言われましたが、中でも最悪だったのは、面白半分で団地の事故現場を見に行こうと言われたことです。
絶対に嫌だと言い張るも、私は無理矢理案内役を押しつけられました。家にはどうしても帰らなくてはならないため、付いてこられてはどうしようもなかったのです。
Sちゃんが倒れていたという踊り場は、お母さんからは通っては駄目ときつく言われていましたが、とうとう私は来てしまいました。
見た目は何の変哲もない踊り場です。クラスの子たちは意外性のない風景にがっかりしていたようですが、私は生きた心地がしません。
早く家に帰りたかった私は、もういいでしょうと皆を振り切るように、その踊り場を駆け抜けて階段に足を掛けました。
――遊ぼうよ。
その瞬間、鋭い痛みが私の二の腕を襲い、ぐいと後ろに引っ張られて宙に浮くような感覚がしました。
雨で濡れてもいないのに、私は階段から足を踏み外してしまったのです。
背中を強く打った私は滑るように階段を転がり落ち、踊り場に頭を打ち付けました。
頭の中がちかちかと赤く染まり、クラスの子達の声を遠くに聞きながら、私は意識を失ったのです。
幸いにも大事には至らず、打ち身程度で済みましたが、大人達からは大目玉をくらいました。
私が足を踏み外したのは、クラスの子の誰かが私を引き止めるために腕を引っ張ったからだろうというのが大人達の見解です。しかし、その場にいた誰もそんなことはしていないの一点張りでした。
でも、やっぱり私はSちゃんに呼ばれたのだと思います。
誰にも言えません。
階段から転げ落ちてぼやける視界の中、私はすぐ横で口の両端にえくぼをつくるSちゃんの顔を見ていたなんて。
たとえそれが、私の罪悪感が生み出した幻なのだとしても。
それからは、Sちゃんのことを誰も話題にしないようになりました。
ですが私は忘れません。
雨がきつい日は決まって疼く、成長して大人になった今も消えないSちゃんに掴まれた二の腕の痣が、忘れさせてくれないのです。
「遊ぼうよ」と無邪気に誘う、あの笑顔を。