表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/14

第1章  第6幕  怪文書

「D-8ファイル 青酸カリ連続殺人事件」

 新規に入ってきた事件だ。現在進行形の事件であるが、被疑者は確保されている。

 青酸カリ。毒劇物として、余りにも有名だ。本名は青酸化合物(シアン化カリウム)、毒物劇物取扱責任者がいないと、現在は取扱うことすらできない。ホームセンターで売っているような類の扱いでもない。

 昭和50年代前半に起こった、『青酸コーラ無差別殺人事件』

 青酸カリをコーラに混ぜ飲料水自販機の出口に置き、無差別に殺人を行ったという世間を震撼させた事件以降、青酸カリは管理が徹底強化されている。

 まだサイコパスという言葉が一般に知れ渡らなかった頃の事件であり、現在も犯人は逮捕されていない。犯人像を総合的にプロファイルすると、完全なサイコパスであったと思われる。


 今回の青酸カリ事件も、まるで緑川事件の再来のようなヘボ展開。結婚した男性を次々と手に掛け、財産を根こそぎ奪い取る手法だった。主たる犯行の全容を担っていたのは料理や家事などのスーパーメイドではなかった。被疑者の写真を見た瞬間、牧田を除き全員が「ありえない!」と叫んだ。

 須藤も、弥皇も和田も、皆「カテゴリ以下だろう」と項垂れる。

「どうしてこんなババアに引っ掛かる?なんでだよ?」

「僕に聞かないでください。いくらナイスミドルになろうが、この顔は御免です」

「世の中って、色んな趣味の人がいてこそ成り立つんですかね」

 流石の課長も、見て見ぬふりをして、トイレといい残し廊下へ出た。敢えてカテゴリ話に口を挟みたくないらしい。記憶力がいいから、緑川の時によだれを垂らした、と言われたのを覚えているのだろう。1年も経たないからだが、忘れない人だなと和田は可笑しくなった。


 その時、神崎が口を挟んだ。

「一般に、今言ってる、カテゴリっていうのは顔立ちを指しているんですよね」

 すかさず弥皇が返事をする。

「ま、そうだね」

「僕、今迄サイコパスの事件見てきて気付いたことがあるんです。被疑者たちは、顔立ちこそ様々ですが、その殆どが話し上手というか、ある意味詐欺師並みの話術を駆使しています。今回の事件も、その当たりから崩していけるかなと」

「おお。なるほど。話術か。神崎くん、心理研究デビューじゃないか」

「弥皇さん、ふざけてる場合じゃないでしょう」

「悪い。この被疑者、最初に薬品の卸会社経営していた男性と結婚したみたいだね」

「其処で経理を任されて、数種類の毒劇物を抜き取ったか」

「ただ抜き取っただけでは、立ち入り検査で指摘されるはずなんだけど」

「売ったことにしたんでしょう」

「そしてマージン差っ引きで手元に戻す」

「共犯者、といっていいのかどうか、口車に乗って手助けした人間がいた」

 可能性としては、十分に考えられる。 


 管理強化された毒劇物の数量や販売については明確なルールが設けられ、失くしちゃった、盗まれちゃった、では済まない。

 とはいえ、使い道は、我々一般人が思うよりも幅が広いらしい。漁業などに使う例もあると聞く。だからこそ、共犯者を募ることも簡単だったのだろう。

「共犯者は、まさかそれで被疑者が夫を殺すとは思わなかった」

「後の祭りですね、口にすれば、『お前も共犯だ』と脅迫されたでしょうから」

「早く言えばいいものを。まーた再婚繰り返して10人か?12人か?被害者」

「13人目です」

「被疑者確保したのか?」

「一応。容疑全面否認してます」

 今更なのだが、結構強烈な臭気もあると言われる青酸カリを、どうやって口にさせたのだろうか。神崎が科警研から情報を持ってきた。

 青酸カリは白色の粉末上結晶で無臭。水溶性になると臭気が出る。

 会社では、薬品卸をする際、カプセルの容器も卸していた。青酸カリそのものは白色の粉末上結晶で無臭でもあることからカプセル容器に入れ、近頃話題の健康食品類のカプセルと偽り飲ませていたらしい。あとは味付けの濃い料理を準備し、水溶性になり臭気が出るときに備えて匂いを誤魔化せば、思い通りに事が進んだのだろう。カプセルが苦いのだと嘘をつき。被疑者が一貫として否認する中、カプセルの秘密を本人に聞くと、顔色が急に変わったという。


 そして、共犯者である人間には、超法規的に「本当のことを言えば罪に問わない」と持ちかけた。囮捜査と並び、日本ではタブーの司法取引。 

 殺すことを幇助したことに変わりはなかったが、進んで幇助に手を貸したわけでもなく、手を貸したのは殺人が起こる前。司法取引せずとも、幇助の罪は免れたかもしれない。

 

 この世で口車ほど恐ろしい物は無い。人を洗脳し、コントロールするのも人が発する言葉である。この青酸カリ事件の犯人は紛れもないサイコパスだったが、サイコパスによりマインドコントロールされた人たちは、どんなふうに変化してしまうのか。日本にも、サイコパスにより洗脳、或いはマインドコントロールされ団体生活していた人々がいた。

 いや、正確には、今もいるであろう、その人たちに聞いてみたい。マインドコントロールの実態を。殺人さえも厭わない、その鬼と化した心の中を。


 青酸カリ事件の捜査が思ったより早く終わったため、サイコロ課の連中は、漏れなく暇を持て余していた。そんな時期。和田の予想通り、展開が急にスライドした。

 警察庁内及び各道府県警に、怪文書が流れたのである。


『警察官諸君へ 

  

警察庁刑事局特殊犯罪対策部サイコロジー捜査研究課に所属する牧田早苗の夫、元警察庁総務課所属の牧田浩二は、25年前、同課所属小野寺香と不倫関係にあった。

小野寺が元警察庁官房室所属の小山内篤志と交際していると考えた牧田浩二は、小山内を都内小山内宅で絞殺し、山梨県内の山麓に死体を遺棄した。

その後、小野寺を車で拉致し再度山梨県内の山麓に向かい、車内で小野寺に睡眠薬を飲ませ眠らせたのち、車内に目貼りをし排気ガスをホースで車内に引き込み、心中に見せかけて自殺した。これは、心中ではなく、牧田浩二による無理心中である。

当時の警察庁は、事件の概要を総て存知していたにも関わらず、警視庁及び地元県警による捜査を拒否し、当時警察庁官房室に所属していた現警察庁刑事局特殊犯罪対策部サイコロジー捜査研究課長 市毛那仁に情報操作させ、関係書類の一切を破棄させるとともに、市毛を左遷し事件の隠蔽を図ったものである。

                  

正義の使者』


 とんでもない内容の怪文書。

 何処からメディアに洩れたのか、警察庁前にメディアが集まっていた。本来、警察庁に捜査権はない。警視庁の所轄警察署で担当するため、警察庁に来られても答える人間がいない。それでも、『警察庁内の不倫三角関係殺人・無理心中事件内部隠蔽疑惑』と何処かの週刊誌が見出しをデカデカと乗せたらしい。スクープ記事を載せた週刊誌には、まだ実名が載っていなかったようだが、怪文書には実名が総て記載されていた。


 サイコロ課の電話が鳴る。牧田は休んでいた。仕方なく、和田が電話に出る。

「あのー、週刊ウィークリーの和多、かずたと言います。例の事件で、牧田さんの奥さんと、殺された小山内さんの義理の弟さんが一緒に仕事してますよね」

「さあ、何のことかわかりませんが」

「牧田さんか市毛さん、います?」

「どちらもいません」

「またまた。気付いてました?そのこと」

「僕たちはサイコロジー捜査のために設立された部署で仕事をしていますから。個人的なことは何も知りません」

「じゃ、また電話してみます」

 ガチャリと電話が切れた。今日何回目の電話か。いないはずの市毛課長は、和田の目の前にしっかりと座っている。

「和田、悪いな」

「いえ、これでよければ」

「ああ、そろそろ上から呼び出し来るだろう。今度は南鳥島行きかな」

「コンクリートしかないですよ、単身赴任も出来やしない」

「夫婦で行ければ、何処でも構わないさ」

 と、また電話が鳴る。

「はい、サイコロ課」

「市毛課長はいるか」

「お待ちください」

 和田が、額に立てジワを寄せた変な顔つきで、電話機を差しながら課長に招き猫のポーズを取る。周囲も小声で話し出す。

「な、どっからだよ、和田」

 須藤が強面すぎる顔をする。フルフル、と首を横に振る和田。

「んあんだ、相手、名乗りもしねえってか。お偉いさんか」

 和田は、うんうん、と首を縦に振る。隣で弥皇が溜息をつく。

「微妙な線だな」

「情報の密度が半端ないですよ。緑川事件も凄い情報量でしたけど、あれは捜査用でしょう?今回のは、目的が解んないです」


「誰かの失脚が目的?まあ、市毛課長はもう失脚してるけど」

 神崎が嬉しそうに声を上ずらせる。

「神崎。お前いやに面白そうだなあ。人の失脚がそんなに面白いか?」

 須藤がドスの利いた声でそういうと、神崎の目の前に立った。

「いえ。そういうわけではないです。本当のことなら知られても仕方ないかなって」


 この日は牧田ばかりか清野も休んでいた。弥皇がマンションを変えたことを知ってか知らずしてか、清野は前ほどあからさまに弥皇の周りをうろ付かなくなった。それでも、何かイベントでもあろうものなら弥皇の近くに陣取って狙っていたことに変わりはない。

 須藤が和田と弥皇の方に顔を向ける。清野は最早サイコロ課にとって用無しだった。

「最初の殺人が何故起こったか、市毛課長は喋らないだろうしなあ。怪文書には何も書いていない。怪文書の作者自身、知らなかったと見えるな」

 和田が怪文書を読み返す。

「もっと他に事実あるんですか?何だろう?そういえば、交際していると考えた、って怪文書に載っているけど、交際していたのと、していないのではかなり違いますよね」

「交際していれば、ややこしい三角関係。していなけりゃ、ただのとばっちり。勘違い。遺族だってお前、悔しいだろうが」

 

 神崎が和田の隣に陣取り、肩を小突く。

「和田くん。僕、前に話したと思うよ。勘違いされて、巻き添えくったって」

「あれ?神崎さんから、この話聞いていましたっけ?」

「やだなあ。僕のいうこと信用しなかったから忘れたんだよ。がっかりしちゃう」

「すみません。多分別のことで頭一杯だったんですよ。お兄さんは結婚していたんですか」

「いや、独身。市毛課長の親友だから。2人とも将来のホープって期待されていたんだ」


 この時間になり、休んでいたはずの清野が手書きのハーケンクロイツ、ヒトラーの鉤十字と呼ばれるイラストTシャツを着てマオカラーのジャケットを羽織り、下はジーンズというラフな格好で出勤してきた。大遅刻。

 課員たちが電話応対する中、一件も電話を取るでなく、弥皇の肩や背中にベタベタと触る。ついには手を握ろうと、爪を伸ばし派手なネイルを施した細長い指が弥皇に近づいてくる。勿論、弥皇は素知らぬふりで椅子から立ち上がり、清野に肘鉄砲を食わせた。

「弥皇さーん、牧田さんの家に、あたしたち二人だけで行こうよお」

「五月蝿い。触るな」


 隣では神崎が牧田の心配をしていた。何がどう転んでも、和田が牧田を心配するはずがない。須藤に向かい、神崎が心配そうな声で話しかける。

「牧田さん、くるかな。どうします?」

「様子見るしかないだろう。本人には受け入れられない事実だろうから」


 静まり返るサイコロ課内。其処に、靴音が響く。男性の靴音ではない。女性のハイヒールの類いだ。

 姿を現したのは、牧田だった。

「牧田さん」

「今日のデータ入力分をください」

 神崎が心配して一言声を掛ける。

「大丈夫ですか」

「何?憐れんでるの?それとも面白がってるの?」

 低く言い放つ、冷ややかな目と態度。課内の皆が、それぞれに目を逸らす。弥皇が柔らかく語りかける。

「誰もそんなこと言ってないでしょう。心配するのが当たり前ですよ」

「何を心配するの?あたしの異動先?旦那の罪の重さ?課長の奥さん?」

 キレてはいけないと自分を自制する和田だったが、牧田の言動を見て、再びキレる。

「あんた、性格悪いよね。あんたの旦那が何したかなんて、僕達には関係ない。課長の家の中だって、僕達が口出しする事じゃない。誰だって、人に知られたくないことはあるんだ。秘密にしたいことがあるんだ。サイコパスの他に、僕たちが秘密を暴く必要はない。あんたが話したくなきゃ、黙ってりゃいいんだよ」

「クソ生意気だわ、あんた」

「あんただって後輩の鑑にもならないクソババアじゃないか」

 和田の一撃に、須藤と弥皇、神崎までが微妙に頷く。


 和田と牧田の喧嘩腰の言い合い、そのボルテージが上がっていく。

「僕が一番気にかけてるのは、情報のソースだ。どんな情報にせよ、ソースの出所が重要なんだ。何処を経由して出てきたかを調べれば情報をばら撒いた犯人の特定につながる」

「あたしはソースなんてどうだっていいのよ!昔、警察から心中って聞いてたのに、今更無理心中で2人殺した犯人です、って?これまでだって人目気にして生きて来たのに、ますます生きづらいじゃない!市毛が皆、隠したって?何のためよ?誰のためよ?自分のためじゃないの?」

「あんた、やっぱりバカだな。50近くなっても、脳みそ小学生以下。課長が25年もどれだけ苦労してきたかなんて、あんたに分かるわけないだろう?自分だけが苦労してるなんて、甘えるな」

「あんたみたいなクソガキにわかんないわよ、あたしの気持ちなんて」

「わかんないね。あんたみたいにウジウジしてないもん。ババアは僻みっぽくてかなわないよ、まったく。事実は変わらないんだ。犯人とっ捕まえてシバくしかないだろ」

「犯人分かったところで事実が知れたのはもう戻らないじゃない!って、誰がババアよ」

「あんた。自分が何をすべきかさえ分かんない、馬鹿なババア」

「先輩に向かってババアって、あんた何様よ」

「麻田さんみたいな完璧な人なら先輩って呼ぶけど、あんたはババアで十分でしょ」

「比べないで!」

 バシッっという音。言葉の終わりとともに、和田の頬は見る見るうちに赤みを帯びる。そう、和田に平手打ちする牧田がいたのだった。


 弥皇が返事は要らないというように牧田の前に立ち、手を翳しながら、牧田の本心を指摘した。

「なるほど。夫の浮気相手も、課長の奥さんも、貴女にしてみれば羨望の対象だったんですね。麻田さんも似たようなものか。誰も自分のことなど気にかけてくれない、子供ですら自分から離れていった。もう、何をどうしたらいいのか分からない。そうですね?牧田さん」

 牧田は黙ってデータベースの方に向き直り入力を再開したが、その肩は震え、手もキーボードを押すことができないほどガタガタと震えていた。

 誰も何も話さず、沈黙の時間が流れていく。


 市毛課長が戻ってきた。須藤が離れた場所から皆を代表して課長に話しかけた。

「課長、何かあったんですかい」

「いや。昔のことをあれこれ言われてもな、内部隠蔽などない。ただそれだけだ」


 その時、信じられないことが起きた。

 課長席の方から、また、先程と同じような音がした。牧田がつかつかと課長に近づき、平手打ちしたのだった。今回の方が鈍い音だったかもしれない。平手打ちし損ねたような鈍い音。

 課員全員が音のした方を振り向く。

「どうしていい子ぶってるのよ?親友殺されて笑っていられるのよ?奥さんの兄貴殺されて笑っていられるのよ?」


 其処にいた皆が驚いた、市毛課長への平手打ち。

 上司を平手打ちとは。

 須藤はじめ、和田や弥皇が牧田を諌めようとしたが、課長はそれを敢えて制した。その表情は、まるで鬼の如く目に火花が散るように感じられた。

 そう、課長の親友であり奥さんのお兄さんが、巻き込まれて嫉妬の犠牲になり、罪もないのに殺された。課長の目を見て、須藤、弥皇、和田の3人は直ぐに過去の真実を知った。

 神崎は、自信満々の顔をしている、自分の情報に間違いはないと。


「牧田。お前に話すことは何もない。内部隠蔽などないし、俺は妻と仲良くいられればそれでいい。大事な者を失った悲しみや戻ってこない命は、皆同じだ。今じゃ時効だ」

 言葉は柔らかいが、その表情は依然として厳しかった、怒りたかったのかもしれない。それとも、牧田のように頑固を通り越して優しい声さえ届かぬ、頑なな人間になりたくない。

 ただ、それだけだったのかもしれない。


 その日は、仕事にもならないまま、時間が過ぎていった。

 怪文書は、翌週発売の週刊誌に原文が掲載され国民の知る所となった。辛うじて実名は避けられたようだった。先日、課長が呼ばれたのは、ここまで情報を出す、という内部調整だったと見える。関係者全員が殆ど亡くなっていること、左遷された人物はラインから外され昇格の道を断たれたことなどが週刊誌に書き加えられた。警察庁としては事件の幕引きに躍起となっていたのだろう。


 連日、電話は鳴りつづけ、牧田は休暇を取る時も多かった。

 ある日、25歳前後ほどの男性と女性が市毛課長を訪ねてきた。応接室に通す。

「牧田早苗の子供です。お時間いただければと思い、伺いました」

「課長の市毛です。どうぞ、おかけください」

 子供たちは、牧田が心中事件後から現在に至るまで、コンプレックスに悩み、ある種、精神的な不安定さを抱えていたと市毛課長に謝った。

 牧田が課長を平手打ちしたあの日あの晩、牧田と子供の間で派手に騒ぎ立てたのかが想像できる。


 結局、25年前の事件のあと、牧田一人では子供の面倒を見られず牧田の実家から母が来ていた。牧田は毎日のように亡くなった夫を蔑み嘲りながらいたらしい。精神不安が増した牧田は子供の面倒を見られなくなり、子供たちは牧田の実家に引き取られ育てられた。中学、高校と大きくなるにつれ、母が精神を病んでいると子供ながらに気付き、母を刺激しないように生きてきたという。

 今回、父親が不倫心中ではなく、殺人と無理心中という2つの罪を犯していたという事実は、25歳ほどの子供たちにとって心を痛める結果ではあったが、事件当時まだ生後間もない赤ん坊だった2人の子供には、成長してから真実を目の当たりにしたことだけが何よりだったのかもしれない。

 蔑みは、子供たちの心の歪みを引き起こすのだから。

 何より、牧田の夫は自分勝手なサイコパスだったのだろうか。

 今となっては、それは誰にもわからない。想像すら徒労に終わる結末だったのだ。



 弥皇と麻田が同じマンションの隣同士で暮らすようになって、荷物の片付け等、やっと落ち着いた頃だった。当然のように毎日尾行を撒いてきた二人だったが、今度は麻田個人を誹謗中傷する文書が出回った。

 牧田の事件に続き、またもや怪文書が流れたのである。

 麻田や弥皇の別マンションから転送される郵便物にも、怪文書は交じっていた。二人は同時に、それを目にすることとなった。誰も知らないはずだった内容。


 当事者を除いては。


『警察官の諸君に告ぐ


警察庁警護課SP所属の麻田茉莉は、15年前に所属県警本部において、同僚である藤木正志と不倫し、妊娠の末捨てられ人工中絶を行った。正義感面しておきながら、陰で不倫行為を行う淫奔な女だから、今も性的享楽に溺れていることだろう 


正義の使者』


「あ、あ」

「麻田さん、どうしました?」

「いやだ、見ないで。やめて!やめて!痛い、痛いよ、見ないで!」

「麻田さん、麻田さん、落ち着いて、ね?落ち着こう」

「ダメ-----------------っ!嫌だ--------------っ!」

 弥皇の声さえも耳に入らない様子で、麻田は混乱状態になった。

 耳を押さえて蹲る麻田。


 1時間はそうしていただろうか。

 頃合いを見て、弥皇は静かに語りかけた。

「麻田さん、大丈夫?」

 弥皇に向け顔をあげた麻田は、虚ろな目をしていた。

「あ、藤木さん?今日も楽しかった。帰るの?寂しいな」


(藤木?)


 すぐに弥皇は、麻田が記憶混濁し、自分と不倫相手を間違えていることに気が付いた。通常なら、頬を叩いてでも現実に引き戻したいところだ。

 が、麻田の混乱状態が余りに激しく、余計なことを言えばショック状態になってしまう可能性がある。最悪、対人恐怖症や人格崩壊に繋がりかねない。

「今日はずっと一緒ですよ。麻田さん」

「ほんと?今迄忙しかったのに、今日は休めるのね」

「ええ、暫く休みましょう。疲れたでしょう」

「うん、ありがとう。いつも優しいのね、藤木さん」

 麻田をベッドに寝せ、リビングに戻る。


 弥皇は、直ぐ市毛課長に電話した。

「課長、弥皇です。怪文書。ご覧になりましたか」

「ああ、人事と警護の方に届いたそうだ」

「本人と僕にも届いたんですが、本人がショック状態で記憶混濁を起こしています」

 市毛課長が驚いた声を出す。

「混濁?」

「当時の状況まで戻っているようですね」

「そうか。当時から現在に戻すことが可能か?時間はかかるだろうが」

「やってみます。ただ、麻田さんの性格からして、SP業務は無理だと思います」

「15年も前の話を蒸し返す馬鹿もいないだろうから業務でのお咎めはないだろうが、少し休暇が必要だな。それにしても、やり方があからさまになってきたな」

「はい。このままでは麻田さんの神経が参ってしまいます。課長、力を貸してください」

「調べさせる。少し時間をくれ」


 電話を切ったあと、弥皇は考えていた。どうやって15年も前の不倫行為を調べ上げたのか。そもそも、相手は県警勤務の現職警察官。そちらから漏れるだろうか。ま、有り得ないでもないか。不倫相手が有名になればなるほど、実は昔、という話が出ないとは限らない。先日の牧田事件も内部の奥深くに隠蔽された資料が突然流れた。

 どうも腑に落ちない。


 今回の怪文書も、同じ犯人の仕業と考えるのが妥当か。

 まだ情報が足りない。


 麻田さんの、ある種異常なまでのあの潔癖性は、そこから始まっていたということか。そして、潔癖性の理由こそが、知られたくない過去。まるでメビウスの輪、負の連鎖だ。過去から逃れたくて仕事に打ち込み武術に打ち込み、有名になって過去が明らかになり、また自分を鉄壁のガードで抑え込む。


(もう、麻田さんに悲しい過去なんて要らない。僕が消し去ってあげたい)


 麻田を介護するために休暇を取った弥皇は、精神科医と連絡を取り合いながら甲斐甲斐しく麻田の面倒を見続けた。

 初めの1週間は、疲労が激しく寝たきりになった麻田。2週間ほどが経っても、麻田の記憶は戻らなかった。麻田にとって、過去の楽しかった日々が続いていたのだろう。

 弥皇の知る限りでは、現在の麻田は殆ど料理をしない。

 それなのに、記憶が遡った過去においては、全然別の様相を呈していた。

 麻田が自分で料理をしたがり、弥皇をキッチンから追い出そうとする場面も何度となく見受けられた。

 しかし、ナイフを握らせている最中に記憶が戻ればそのまま自分を刺しかねない。そんな心配もあって、理由をつけては麻田をキッチンから遠ざけ、ハウスキーパーを頼んだ。

 弥皇はいつでも麻田と一緒にいた。麻田は、自分が仕事を辞め藤木と暮らしていると思い込んでいたようだった。


 藤木さん、好きよ。

 藤木さん、愛してる。

 藤木さん、キスして。

 藤木さん、抱いて。


 弥皇は、哀しかった。辛かった。もどかしかった。こんなに素直に、想いを言葉に出来る人だったのに、裏切りによって変わってしまった。若い頃に戻ったまま、可愛らしく笑う麻田を見て、抱きしめずにはいられなかった。


 そんなある晩、弥皇は、麻田が寝入ったのを確かめると須藤に電話した。

「弥皇です、お願いがあるんですが」

「怪文書だろ。むかつく。俺でさえ知らなかった。どっから情報出てきたんだか」

「となると、情報の出所は本人、或いは奥さんでしょうか」

「今頃奥方がその話を出してもメリットねえだろ」

 須藤も怒った声だが、弥皇の冷たい声とはまた違う。

 弥皇は、敵討ち狙いで情報を集めていた。

「ご本人ですか。また、どうして15年も経ってから」

「麻田がSP業務でメディアに出るようになったからな」

 藤木本人にしてみれば、自分はトントン拍子の出世も叶わず目立たない存在。自信が無くなったのかもしれない。過去の栄光にすがって自分を大きく見せたい。だから飲みの席で昔の自慢として話したのではないか、と須藤は言う。

 市毛課長経由の情報だろうか。


「くそ。懇意の県警課長に頼んで、どっかに飛ばしてやる」

 熱く語る須藤が頼もしく思える一方で、どこかひんやりとした口調の弥皇がいた。

「ありがとうございます。飛んでくれればスカッとするフィナーレですね。ときに、ご本人と麻田さんを会わせたいんですが」

「おいおい、意識混濁してお前を藤木って呼んでいるんだろう?」

「はい。たぶん、このまましばらく戻らない可能性が高いです。楽しかった時代に帰りましたから」

「でも、現代に戻さなきゃならない」

「はい。ですからご本人に会わせて、悲しかった過去を封印するのさえ馬鹿馬鹿しい過去に変えないと」

「万が一しくじったら、人格崩壊起こす可能性もあるぞ」

「それでも、僕は麻田さんと一緒に生きていきますから。麻田さんが生きてさえいれば、それでいいんです」

「うわ、気障っ」

「真面目に言ってるのに。どうしてみんな気障呼ばわりするかな」

「そこで、お願いなんですが」

「なんだ、サイコロ課のプリンス」

 弥皇が動かなければ、須藤が動いていたかもしれない。何だかんだと言いつつ、須藤自身、愛とは違う感情ながらも麻田のことを第一に考えているのだ。

 弥皇は須藤に感謝しつつ、話の本筋に入っていく。

「藤木さんとお会いしたくて」

 笑いながら、須藤がOKしてくれた。

「いいよ、藤木を呼び出してやる。何処に呼び出せばいい?」

 弥皇はコンクリートむき出しの部屋にでもいるような、冷たいトーンで返事をする。

「住所教えてください。こっちから行きます。須藤さんも、ご一緒に如何です?」

 それだけで須藤には弥皇の本気度が伝わったようだ。

「いや、藤木家の将来を考えて俺は遠慮する。じゃ、午後2時でアポ入れとくぞ」

「ありがとうございます。必ず、麻田さんを元に戻してきます」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ