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第1章  第5幕  秘密

「で、清野と神崎なんだけど。何か出て来た?」

 弥皇がドアに背を向けるように座って、せがむ様に二人の過去を尋ねる。同じく座り込んだ和田が各自のプロフィールを掻い摘んで話す。

「清野さんは、思った通り緑川のような育ち方をしています。緑川より顔悪いですけど」

 要は女王様気質に育った清野。何不自由なく育ったように見えるが、少なくとも2回、思い通りにならなかった出来事があった。

 何のことは無い。緑川の場合、可愛すぎて一人っ子だったが、清野は妹が出来た。それまで親の愛を一身に受けた清野が、妹を許せたとは思えない。その妹は今、離婚し子持ち出戻り状態で、清野が金を恵むときもあるという。それが清野の自尊心を満足させていたことは想像に難くない。

 もうひとつ、清野の思い通りにならなかったのは、お定まりの受験。こちらも緑川同様高校は地元の難関校に入学したが、大学は滑り止めの私大に入学している。県外の大学に行っていないことからも、最初から国公立に入れないと解っていて受験したと推察される。

 清野情報は、このくらいだが、緑川に近い人種なのは確実である。サイコパスの危険性もはらんでいる。

 弥皇は目眩がしそうになる。

「やっぱりサイコパス気質か」

「有り得ますね」

「神崎という男は?」

「神崎さんは一見普通ですが、要注意人物です」


 成績優秀、頭も切れるし運動神経は抜群。学生時代から射撃系のクラブ等に所属していた神崎。薬学や医療分野にも精通している。ITの知識も果てしなく広く深い。

 こちらも、ただひとつ、思い通りにならないことがあった。

 神崎と同期の男性警察官は、警察庁の中で神崎と似たような人生を歩んでいた。漏れなくどちらもモテたわけだが、二人は同じ女性警察官に好意を抱いた。

 ここから変化があったと見るべきか。

 女性警察官は、初め神崎と交際していたが二人は破局し、女性は結果的に神崎でない方の男性警察官を選んだ。

 選定基準は、神崎の実家はお金持ち=名家で、一般家庭に育った女性を蔑んだとの専らの噂だった。もう一方の男性警察官の実家は、当時は破産して貧乏だったらしいが、とても優しい親御さんだったという。女性への気遣いもしっかりしていたと。


 佐治が肩を竦める。

「自分自身が悪くないなら、そりゃまあ、神崎としてはどっかに向けて腹立てるだろうな」

「ここからはオフレコです」

 居酒屋でもないのに、和田の声が小さくなる。

 和田曰く。

 交際女性が、破局した後にもう一方の男性警察官と交際をスタートさせたと知るや、神崎はジェラジーからか、精神的なモラハラパワハラひっくるめて、その女性に圧力をかけた。女性は精神を壊す一歩手前で退職し男性警察官と結婚したが、その夫婦への嫌がらせが凄かったらしい。IT系詳しいことも手伝ったのだろう。何処から情報を手に入れたのか、彼女の実家までターゲットにして嫌がらせ繰り返したという話であった。ここでも、男の敵は女だということが分る。

「物騒なヤツだなあ」

 佐治が再び肩を竦める。弥皇もげんなりした顔でブツブツ文句を言っている。

「どうしてそういう男がサイコロ課に来たかな。麻田さんに危害加えられたら困るんだけど」

「課長のことだから、何か請け負ってきたんじゃないですか」

 淡々と話す和田を横目に、幸せオーラ満載の弥皇は、揉め事に巻き込まないでオーラも放っている。

「もしかしてサイコパス退治とか?あり得過ぎて怖い。変わりたい、異動したい。元の県警に戻されてもいい」

「課長の考え、分からないからなあ。でも須藤さん動けるから戦力になりますよ」

 佐治の眼がランランと光る。

「脚、治したのか?ブラッディ・スナイパー。俺達の間じゃジーニアス須藤って有名だったんだ。顔は極悪非道だけどな」

「天才的な何か持ってるってことですか」

「そうだな、野生の勘だったり、力技だったり、駆け引きだったり。何でも熟せる。ああ、麻田同期だったはずだぞ。聞いてみろ。たぶん今も独身だ。麻田と噂あったような気がする」


 弥皇は、引き攣り笑いになっている。今の話を聞いた限りでは、どう見ても自分は勝てない。須藤さんは昔のことだというけれど、麻田さんが離れていくのではないかという心配が、引き攣りを全身に助長させる。

「はあ、やっぱり凄腕なんだ。佐治さんの県警まで伝わるんだから、その噂、相当信憑性高いですよね」

「あ、弥皇。お前嫉妬してんだろ。男のジェラシーはみっともないぞ。今ここで話したばかりだろうが。でなきゃ、須藤を超えるんだな。一族のことも含めて」

「勿論、一族に口出しはさせません。僕のパートナーになる人は僕が決める。麻田さんとの縁が無いのだとしたら、もう一生、そういう縁はないです。断言します」

「その意気込みがあるんなら、大丈夫だろ。力は麻田の方が強いし。何も心配いらないさ」

「佐治さん、何気にグサグサ突き刺すような言葉のメドレーラッシュなんですけど」

「悪いな、弥皇。女を守るってのはそのくらいの意地がないと無理なんだよ。意地を持て」

 弥皇の溜息と、片や佐治と和田の笑い声が響く。

 

 佐治も和田も、清野が麻田への攻撃を強めるはずだという。考えられるとして、人事サイドへの誹謗中傷、麻田への精神的及び肉体的直接攻撃。精神的には、先日の弥皇との写真などを送り付ければ、結構なダメージになる。佐治曰く、一番ダメージとして有効なのは視覚だという。

 あとは、肉体的な攻撃。こちらは銃で狙撃でもしない限り麻田の身体に触れることは出来ないだろう。ただ、弥皇も心配した通りマルタイの護衛中に狙撃させるという手がある。かなりリスキーな方法だが、確実に傷を負わせられるのは確かだ。

 サイコロ課内で、弥皇自体への攻撃はないと考えて間違いない。弥皇に対する攻撃はしない、という判断だ。そう、女の敵は女、なのである。


 佐治や和田たちが考えたとおり、日を追って相手からの攻撃は威力を増した。

 まず、麻田のマンションに、清野と弥皇が全裸で抱き合っている写真が、何枚か送られてきた。弥皇が起きたときは抱き合っていなかった。ということは、誰かが写真を撮ったはずだ。あの時部屋中の写真を撮った。隠しカメラは無かった。複数枚送り付けられた写真は、そのどれもが違うアングルから撮られていた。

 その頃には体液のDNA検査結果は出ていて、弥皇が何もしていないという証明は終わっている。それでも佐治の言ったとおり、視覚から入ってくる情報は何よりも心を乱す原因になる様だった。

「ほら、僕は寝ていて、自分から何かしている恰好には見えないでしょう?」

「そうね。でも、こうして肌を重ね合っている写真をみせられると、流石に辛いわ」

「麻田さん。ていうか、自撮りでもないのに、どうしてこんなアングルで撮れると思います?僕の部屋にもう一人誰かがいた証拠ですよ」


 その日は、たまたま、以前から予約していたホテルの部屋で逢っていた。サーブしていた料理に見向きもせず、麻田は窓から目の前に洋々と広がる海岸付近の灯りを辿るように目線を動かす。麻田は料理に手を付けることも無く、ワインだけをグイグイ飲み干していた。弥皇は、正直どうしていいかわからなかった。

「麻田さん。傷つけてしまって、すみません。どうすれば貴女が笑ってくれるのか、僕にはわからない。僕の不覚が起こした事だから許してなんて言えないけど」


 暫しの沈黙が流れた。麻田の口から出された提案。

「弥皇くん、あたしたち、少し逢わないでみようか」


 予想もしていなかった展開に、驚きを隠せない弥皇。普段のポーカーフェイスは何処かに吹き飛び、弥皇の顔が青ざめた。

 どちらからも、言葉も、溜息さえも聞こえては来なかった。まるで深淵の底にいるような静けさ。

 何分くらいそうしていただろうか。


 やがて、くるりと麻田に背を向けた弥皇が、口にした。

「もう、終わり。そういうことですか」

「終わらせるなんて言ってないじゃない。暫く逢わない、よ」

「暫く逢わないなんて相手を振る常套句じゃないですか。僕を許せないなら、はっきりとそういえばいいのに」

「許してないわけじゃないわ。でも、辛いのよ。こんな写真みて笑っていられると思う?」

「なら、こうすればいい」

 弥皇は部屋の内鍵をかけ麻田の手を取ると、麻田を歩かせてベッドルームに連れて行く。壁際に麻田を立たせてドン、と壁を叩くように麻田の肩付近に手を置いた。麻田よりも背の高い弥皇が、麻田の顎をクイッと引き、逃がさないと言わんばかりに顔を近づけてくる。

「何するの」

「あいつ以上に肌を重ねればいい」

「ちょっと、やめなさい」

「どうせもう逢えないなら、とことん嫌われるまでやっても、結果は同じでしょう?」

「そんなことやめて」

 弥皇が自分の上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを引きちぎる。そして、その手は麻田に伸びた。自分が無造作に脱ぎ捨てたときと違い、優しく上着を脱がせる。弥皇の指は麻田のシャツのボタンを丁寧に外しにかかった。

 しかし、麻田はその手を拒んだ。

 シャツのボタンに掛かった手を跳ね除けた瞬間。

 パシッと渇いた音だけが部屋に響く。

 動から静に空気感が変わり、響いた音はブラックホールに飲み込まれたかのような、暗く、重い空気が辺りを漂い始める。


 自分の口からは何も言えず、弥皇が言葉を発するのを待っていた麻田。

 麻田の思いが伝わったのかどうかは分らない。


 果たして弥皇は、一言も口を開こうとはしなかった。普段以上に、優しい仕草で麻田の身支度を整えさせると、無言のまま、そっと麻田の背中に手を添え、手荷物一式を麻田に持たせてドアから廊下に押し出した。此処はオートロック式のホテル。

 もう、弥皇が開けない限り会話も出来ない。


 麻田は、泣きたい気持ちで一杯の自分の感情を抑え込んだ。一方、今迄本気で怒ったことのない弥皇が怒った、その事実に驚いていた。弥皇が繊細なのは知っている。麻田から拒まれたという事実を、弥皇の精神状態がどんなふうに受け取るか心配だった。

 自分のマンションに戻る途中、マンションに着いてから、寝る前と、何度も弥皇に電話したが電話は通じなかった。メールの類いも返事はない。

 まさか自暴自棄になって事故でも起こしてはいまいか、と思いホテルに電話した。

 すると、弥皇は麻田が出た直後にチェックアウトしていた。麻田は、誰かに弥皇の行方を一緒に探してほしかった。和田に相談するのが恥ずかしかったから、須藤に電話した。

「あ、遅くにごめん。あたし、麻田。お願いあるの。明日そっちに弥皇くん出勤したかどうかだけ教えて」

「ケンカか?」

「ん、まあ」

「写真、か」

「どうして知ってるの」

「人事に流れた。課長がくい止めてるけど、どう転ぶかわかんねえな」

「あんなことする人じゃないの。証拠だってあるんだもの」

 弥皇を庇う麻田だが、須藤の言い分は厳しいものがある。

「何処まで証拠として通じるかね」

「何か方法ないの?」

「お前が最初に寝ないから悪いんだろうが。あいつを追い込んでる一つの要因だ」

「あたしがそういう柄じゃないの、知ってるでしょ」

「弥皇の気持ちは知ってたよな。本気にさせといて、あたし知ーらない、じゃ最低だろ。いいか、あいつはお前にぞっこんなんだよ、何を捨ててもいいほど。命さえ、な」

「今も何処にいるかわかんないの。お願い、無事に見つけて」

「俺は迷子相談室のお兄さんじゃねえよ。自分でケリつけろ、といいたいが。ちょっと嫌な動きもあるから、何かあったら知らせるわ。これに懲りて、素直になれ。好きなら態度で示せ。相手からだけの好意に満足しないでお前からも示せ。わかったか」

「うん、わかった」


 翌日、翌々日、何日過ぎても麻田の下に須藤からの連絡は無かった。勿論、弥皇からも。

 弥皇くん、何処に行っちゃったの。麻田はあらためて思った。

 彼はとても繊細なところがあった。別れの常套句と言われた。手を払ったことで拒否されたと感じたに違いない。あたしもそれどころでないのは確かだったけど、彼は多分それ以上に困り果てていた。あれが本当に寝ていたのならまだしも、嵌められた挙句、写真まで人事にばら撒かれるなんて。

 あの女。

 一人で計画していないはず。泥酔状態の弥皇くんを一人で担げるわけがない、ましてや抱き合ってる写真を撮るなんて中国雑技団ばりの身体の柔らかさをもってしても、120%無理だ。絶対に誰かと一緒だったはず。それにしても、弥皇くん、一体どこにいるんだろう。

 麻田自身、仕事が身に入らなかった。



 時を同じくして、こちら、行方知れずの弥皇、本人。


 あの晩。

 麻田をホテルの部屋から追い出した弥皇は、物凄い形相で何処かに電話を掛けていた。

 そして、直後に着替えを済ませるとホテルをチェックアウトして夜の闇に消えた。夜にも関わらず市毛課長に電話し長期休暇の旨と、休暇に対する懲罰は甘んじて受けること、ただし複数人の弁護士を通じて、麻田宛に送りつけられた写真や封筒から指紋検出した鑑定書と、自分の体液が清野の何処からも検出されなかったという鑑定書を同封することを話した。

 市毛課長は溜息をついていたが、そんなの知ったことではない。そのあと海外に飛んで、色々な場所に足を運んでいた。こちらは捜査や鑑定のようなレベルではなく、ただ単に買い物をしているようだった。日本に戻ると、東京のマンションではなく大阪に足を運んだ。電話で色々やりとりしていた。


 ホテルから姿を消し、皆の前から消えて、早1ヵ月が経とうとしていた。

 弥皇が、漸く羽田空港に姿を見せた。タクシーに乗り込んで何処かを目指す。サイコロ課でもなければ、自分のマンションでもなく、麻田のマンションでもなかった。

 弥皇がタクシーを止めたのは、麻田のマンション近くにある50階建てほどのマンション。何も持たず鍵だけ持って降りる弥皇。黙ってそのマンションに入ると、ロックを解除し中に消えた。


 麻田が、1カ月近くも姿を見せない弥皇を心配したのは言うまでもない。かといって仕事に差し障るような真似も出来ず、精神的に、かなり参っていた。自分が如何に弥皇に甘えて来たかも、わかるような気がした。言われてみれば、須藤の言葉は正しいことばかりだ。

 気が付くと、麻田はこの頃、下ばかり見て歩いていた。今日も駅から疲れた足を引きずるように歩いている。また、下を見て。

 と、自分の前に誰か立っている。避けようと思ったが疲れて上手く体が動かない。麻田の身体が左によろけそうになり、相手の両腕に掴まれ、漸く立つことができた。


「お疲れのようですね。よろしければマッサージしましょうか?それとも食事がいいかな」

 聞き覚えのある透き通った声、気障なセリフ。麻田は顔を上げた。

「弥皇、くん?」

「麻田さん。お久しぶりです」

 麻田は、胸の内を隠しておくことなど、もうできなかった。

「ばかっ!ひと月も音沙汰無くて心配したんだから。何処にもいないしサイコロ課休むし!いなくなって、こんなに辛いなんて思わなかったんだから!」

 弥皇の腕が優しく麻田を包みこむ。

「嬉しいな。麻田さん、初めて気持ちを外向けに言ってくれた。逢わなくて辛かった?」

 麻田が珍しく顔を赤くしながらいう。

「うん、辛かった。寂しかったし、申し訳なくて」

「申し訳ない?何かありましたっけ」

「ボタン外そうとする手を跳ね除けたでしょう。逢わないっていう言葉も、常套句って思ったでしょう」

「常套句は本気で思いましたけど。ボタンは、どうでしょう。怒っていたら麻田さんのシャツのボタンさえ引きちぎったでしょうから」

「今迄何処にいたの?」

「その前に行く所があるんです。お疲れのようだけど、すぐだから我慢してください」

 弥皇が、肩を抱く。麻田は弥皇にもたれながらも真っ直ぐに歩いた。下ではなく、前を見て。

 そこは麻田の通勤路だった、うちに来るのかしら、と思う麻田。立ち止まる弥皇。目の前の建物に麻田を迎え入れる格好をする。そして入って行く。


 弥皇が入ったのは、麻田のマンションより駅側にある高級マンション。麻田は毎日見る度、宝くじが当たったら買えるかしらと思ったものだ。エレベータに乗り、ボタンを押す弥皇。ところが、その数字は部屋番号表に掲載されていない。頭の中が「?」の麻田を乗せて、エレベータはどんどん上に昇って行く。エレベータが止まると、弥皇が部屋の鍵を開ける。

 麻田は驚いていた。

 延びている廊下の突き当たりには、海岸線を走る道路や車が発する光や、遠くには光の橋が見える。相当、高層階にいるのだと気付いた。セレブな生活とはこういうものか、と疲れも忘れてドキドキする麻田。弥皇がドアを開けて、麻田を招き入れる。

「さ、どうぞ。僕等の空間へようこそ」

「僕等?どういうこと?説明、お願い」

「一族のマンション借りました。ここ最上階は誰も入れないんですよ。階下の一覧表に部屋番号も載っていないし。これなら不審な輩に入られることも考えにくいでしょう?」

「よく借りることできたわね。こんな一等地。ましてや高層過ぎる。海見えるのよ!」

「一族に、僕がストーカーに狙われてると公言したら、何十軒も物件斡旋されましたよ。ここなら一番二人にとって暮らしやすいかな、って思ったんです」

「あたしの荷物はどうすれば。あの、洋服とか色々」

「向こう解約するなら引越し必要ですけど、暫く借りた方がいいかもしれません。目くらましにもなるし。此処は二人の隠れ家ということで。すみません、洋服はサイズ分かっていたので僕が準備しました。失礼かとは思ったんですが、下着類も揃っています」

「え?弥皇くんの前で脱いだことないよね?」

「酔っぱらうと必ずサイズ自慢してたでしょうが。忘れたんですか」

「あ、あら、そうだったっけ」

「最低限の家具は揃えてあります。最初からこうすれば良かったんだ、ってあの時気が付いたんですよ。だから長期休暇取ってインターバル置きながら、少しずつ準備したんです」

 

 普通、窓の数を数えればある程度ビルの階層はわかることだが、此処は面白いことに、室内エレベータを利用したメゾネット仕様の部屋がある分譲マンション。まさか一番上の部屋が階下の一覧表に掲載されていないとは、一見しただけではわかりにくい。万が一の保険に、管理組合名簿にはビルオーナーとして別人の名前が掲載されている。通勤には営業車を手配するという。駐車場は地下なので、二人の車を置いたとしても部屋番号はわからない、というトリッキーな仕掛けだった。


 余りのサプライズに驚く麻田だったが、変わらない笑顔を見せてくれる弥皇が、本当に本物なのか、実は夢で仮面の下に悪魔の顔が潜んでいるのではないかという、白昼夢のような、妙な意識に捉われた。

 弥皇の好意に甘え続ける自分。それでいて、プラトニックでいたいと思う自分。それなのに、女性と全裸でいる写真を見せられ動揺している自分。こんな自分を、果たして弥皇は許してくれたのだろうか。

 どうしようか。迷った挙句、麻田は弥皇の肩に手を伸ばした。180cm近くある弥皇は少し屈んでくれた。麻田は、躊躇いながら自分の唇を弥皇の唇に触れさせた。

 軽く、自然に。

 弥皇は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって麻田を抱きしめた。麻田も抱きしめ返す。この想いが本物だと、やっと気づいた自分がいる。弥皇が待っていてくれていたことが嬉しくて、自分自身の感情が嬉しくて。その夜は、疲れているだろうと、弥皇が麻田にマッサージをしてくれた。余りに疲れていて、途中で寝てしまったらしい。気が付くと、先程とは別の部屋でベッドに横たわっていた。枕元には、隣室に繋がる電話がある。


 ちょっと自分には似つかわしくない生活。噂どおり、弥皇は金持ちの家柄なのだろう。自分は一般家庭に育った。付き合いだけならとても楽しい。でも、金持ちや旧家の嫁は、とてもじゃないが務まらない。家柄を見て嫁を決めるのだとも聞く。最後まで好きになったら必ず不幸になる。

 須藤には素直にと言われたが、やはり怖かった。


 昔、一度だけした恋がそうだった。好きで、好きでたまらなかった。相手も、とても大事にしてくれた。この人と結婚して幸せな家庭をつくる、そればかり考えていた。その結果が、まさかの不倫&W妊娠。

 そう、相手は結婚していた。知らなかった。そして自分と正妻がほぼ同時に妊娠した。不倫が分った時点で別れる決意を固めたが、自分は闇の中、人工中絶を余儀なくされた。正妻は嬉しそうにお腹をさすって歩いていた。中絶料金だけは払うと言われ、一人で病院に行き麻酔をかけた。痛い、痛い、そう叫んだのを覚えている。

 あれは、自分が痛みを覚えたのではない。消えゆくお腹の子供が自分を恨んでいるのだと思った。自分は殺人者だと思った。相手を恨んだ。性行為そのものに嫌悪感を覚えるようになった。

 今は地元の県警である程度の地位に就いているのだろう。知りたくもない。あいつのような汚らわしい男が人の上に立てるのかと思う。全て忘れられたらどんなにいいか。

 今でも夢に見ることがある。赤ちゃんが、痛い、痛いと叫ぶ声で。

 麻田にしてみれば、これだけは人には言えない、特に弥皇には言えない秘密だった。


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