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第1章  第4幕  悪運

未だに続く、仕事中及び仕事終了直後の誘い。

「弥皇さん、今日の夜空いてますか?」

「弥皇さん、来週、ライヴ行きません?」

「弥皇さん、海行きましょうよ。ダイビングとか」

 五月蝿い。

 ハエより五月蝿い。

 ハエの方が余程マシだ。

 ハエは纏わりつくが喋らない。


 まして、こんなガサツな声で知性の欠片もなく男を誘うハエなど、この世に不要だ。

 近頃課内での弥皇は、いつも額に縦皺が寄っている。いつもはボードにNOと書きポインターでバンバン叩くだけだが、流石にこう礼儀も何も知らない女だと、はっきり言いたくもなる。

「清野、全て却下だ。これまでも、そしてこれからも。お前に費やす時間はない」

「あら、随分な言い様ですね。彼女いるんですか?」

「お前に答える必要は無い。僕のことは放っておけ」

「ふうん。いないなら彼女候補に名乗り上げてもいいよね。いたとしても、弥皇さんがあたしを好きになれば、それでハッピーでしょ」

「何があろうと、お前など相手にしない」

 時間になると、弥皇は何処かに消えていく。清野は頬をプックリと膨らませながら自分も帰り支度を始める。そんな毎日が続いている。

 

 和田は、清野がいくら動いても無理だと知っているが、弥皇が口にしない以上、麻田のことは話さない。清野が麻田さんの存在を知った場合の反応を考え、麻田さんを心配しているのだと理解している。

 東北での事件以来、弥皇は、麻田と付き合っているか、そこまでいかなくても麻田に対して同僚以上の感情を持っているのだから。

 この春になるまで皆でデータベース内の過去に起きたサイコパス事件を論じ合ってきたが、サイコロ課が新設された頃と、冬が過ぎ1年が経とうとした頃では、空気が違っていた。

 何より、麻田を見る弥皇の眼差し。

 サイコロ課が新設された頃は、一般の女性として弥皇が麻田を敬うことはあっても、麻田を心配することは、一度もなかった。

 そう、麻田が何を食べようが何時まで夜更かしして目の下にクマを作ろうが、挙句身体が鈍っていると筋をバキバキ言わせようが、興味を示さなかった。

 麻田が怒りそうな毒を吐いては、笑っていたものだ。

 それが、東北の事件以来、麻田を心配するようになった。弥皇本人は心の底から本気で言葉を発しているため、自分が変わったという意識は、あまりないらしい。


 弥皇の変貌ぶりに目が点になり、お腹の筋肉が痙攣するのではないかと思われるくらい笑ったあの日を、昨日のことのように思い出す。

 麻田は、変わったような、変わらないような。男勝りな性格は相変わらずだし、弥皇をからかう癖も最後まで健在だった。もしかしたら、弥皇さんの片思いなのかな。ブラックカードや小切手帳をもってしても、麻田さんを落す材料には成り得なかったというわけだ。

 じゃあ、麻田さんを振り向かせるターニングポイントなんて、この世にあるんだろうか。ホームズの推理をもってしても、こればかりは解けない謎かもしれない。そう思う和田である。

 市毛課長も二人の気持ちは知っているようだが、何も口にしない。だから、和田と佐治は約束していた。

 見ざる・言わざる・聞かざる。

「自分たちの口からは、二人について何も話さない」


 幸い、といっていいのかどうか。和田は見た目、天然坊やに見えるらしい。そう、嘘つきには見えない。世渡りに長けたウサギには見えないのである。

 清野が、帰り際の和田を呼び止める。

「ちょっと、和田くん。弥皇さんって彼女いるの?」


(なんで年上の男性にクン付けするかな。ああ、緑川思い出す。やだ)


 飄々とした表情で切り返す。

「さあ、外のこと話しませんから」

「貴方よね、東北に一緒にいって結婚詐欺の女に会ったって」

「はい、行きました」

「その時ブラックカードとか小切手帳使ったって、本当?噂なんだよね、御曹司って」

「僕は見ていません。特異な事件でしたからね」

「此処では見せたことないの、カードとか小切手とか」

「そういう話が出たこともないです。心理犯罪がメインのサイコロ課ですし」

 和田なりに、相手のプロファイルを簡単にしてみる。プロファイルにもならない。

 ただ単に、金持ちの彼女に収まりたい女性。ははは、弥皇さんが一番軽蔑する女性だよ。まるで緑川みたいだ。清野は9分9厘、自己愛性パーソナリティ障害なのだろう。


 弥皇さん、窮地に立たないと良いけど。何かこう、緑川の時と同じような匂いを感じる。噂を聞いて弥皇さんのお金目当てに近づく女性は多くなるかもしれない。前ならサイコロ課の変人男で済んでいたのに、このままでは面倒なシチュエーションも増えることだろう。

 弥皇さんは色仕掛けにも母性本能にも反応するような人間じゃないし、今どきのスーパーな女性、何でも一生懸命で彼を支え家庭のことはパーフェクトな女性ですら、弥皇さんは興味を示さない。

 でも、女性に優しいのは確かだ。勘違いする女性がいてもおかしくない。さっきの会話を聞いている限りでは、勘違いさせるような言葉で使っていないようだが。

 というか、結構キツい物言いだったような気もする。ま、大丈夫か。麻田さんのように、一生懸命な部分がありながらどこか手を抜き、男性のためには何もしない、甘えない女性が好きなんだよなあ。


 面白い。


 この時点では、弥皇も和田も、清野の際どい計画に全く気がつく様子もなかった。


 その後も清野から弥皇へ誘いは続く。個人的誘いを毅然として断る弥皇。清野は、次第に目つきが変わっていた。弥皇の後をつけ回すような行為が見受けられるようになった。弥皇が気付いていたのか、それとも麻田が忙しかったのか。弥皇のマンションに麻田の姿を見ることはなかったのが不幸中の幸いだったかもしれない。

遅かれ早かれ、トラブルに巻き込まれる可能性は否めないのだが。


 そんなとき、神崎がサイコロ課のメンバーで酒を飲もうと言い出した。普段なら、所轄や県警本部と違い捜査が無い分、時間とともに帰庁できるサイコロ課。新メンバー歓迎会というわけだ。

「サイバー室から来た清野でーす。好みはぁ、弥皇さん」

 クールに切り返す弥皇。

「昨年からいる弥皇です。五月蝿いハエが一番嫌い」

 自己紹介は続く。

「科警研から来た神崎です。何でも得意です」

「総務から来た牧田です。残業しない派ですので、協力お願いします」

「SATから飛ばされた須藤。今はもう大人しいから安心して構わない」

「去年からいる和田です。自他ともに認めるシャーロキアンかな」

「俺は自己紹介しなくていいだろう。市毛だ」

 個室を借り切っての歓迎会。酔って何を話すかわからないからだ。人数は去年より増えたはずなのに去年の歓迎会より静かだな、と和田は感じた。ああ、佐治さんや麻田さんがいないからだ。麻田さんの個性の強さ。男と対等に渡り合い酒を飲み、確かジャージをお店から借りて、麻田さんが弥皇さんに寝技を掛けたんだった。思い出し笑いが出てしまった。

 すかさず、清野が反応した。

「和田くん、何笑ってるの?思い出し笑いみたい」

「ああ。すみません。県警時代の歓迎会と雰囲気が似てて。その時に喧嘩した男女の同期が柔道で勝負したんですよ。投げ技禁止、寝技中心で。確か女性が勝ったのかな」

 ヒューっと口笛を吹く神崎。

「凄いな。男性顔負けの女性がいるのか、キミの出身県警には」

「どの県警にも結構いるみたいですよ。大会に名前を連ねる女性は多いですからね」

「そういえば、去年いた麻田女史も有名だったじゃないか」

「麻田さんか。話には聞いたことありますけど、実際試合とか投げ技とかは、見たことないですね。そういう事件も無かったし、ね、弥皇さん」

「僕も和田くんに同じ」


 うやむやに話す和田に感謝する弥皇。昨年のカード、僕と麻田さんが寝技の掛け合いで大騒ぎしたのを覚えていたか。あの日は楽しかった。いや、昨年は楽しかった。そう思うと、弥皇も頬に笑みが浮かびそうになったが、ハエが周りを五月蝿く飛び回るので表情に出すのは止めた。


「ね?二次会、二人で行かない?」

 清野が手を握ってくる。青筋が立ちそうになる心を収めながら、ピシャリと手を払う弥皇。

「行かない。一刻も早く諦めろ」

「諦めなかったら?」

「何があろうが諦めろ」

「あたしは諦めない。どういう手を使っても」

「僕にはお前など目に入らない」

 神崎が間に割って入る。

「お二人さん。何話してるのか知らないけど、ほら、飲んで、飲んで」

 特に、弥皇に向けて酒を強要する。

 弥皇自身はワインで慣れている。日本酒程度ならそれ程酔わないのだが、神崎はどこから持ち込んだのか、店では出していないはずのウォッカやラム、リキュールなどのアルコール度数が高い酒を勧めてくる。銘柄を見れば、大体の度数はわかる。60度から80度近い酒ばかりだ。まるで、酔うように仕向けているようだった。和田に目くばせして、水と取り換えて貰ったりするが強要は止まない。

 何か変だ、と思いながらも、弥皇は不覚にも意識が飛んでいた。


 目覚めた弥皇はマンションのベッドで大の字になって寝ていた。頭がズキズキと痛む。二日酔いは数年ぶりだと思った瞬間、尋常でない事態に気が付いた。

 全裸だった。

 弥皇は殆ど二日酔いしないからだが、かつて記憶喪失プラス廃人の二日酔い洗礼を受けても、全裸にだけはなった事がない。

 勿論、そんな趣味もない。

 記憶を辿るが、酒を強要されたところで途切れる。思い出そうとしても、記憶を司る脳部分が全く機能しなかったかのように、ほんの一欠けらの記憶すら思い出せない。もやもや考えていると、隣で何か蠢くものが目に入った。不意に、そちらに顔を向けた。

 清野だった。清野も全裸のまま、うつ伏せになりベッドに横たわっていた。


 やられた。


 神崎に無理矢理強い酒を飲まされた記憶はある、泥酔したのも間違いではあるまい。血中アルコール濃度は瞬く間に上がったことだろう。ブラックアウト状態になり判断力が低下したのも否めない。複雑な判断を必要としない帰宅なんぞは慣れた作業だから、タクシーに乗って部屋まで帰ることくらいはできたはずだ。

 しかし、だ。

 この場合、狙って弥皇の意識が飛ぶように誰かが仕向けたと見るべきか。

 弥皇と清野がお互い全裸なら、普通、何か行為があったと言われても返す言葉がない。

 

 数年ぶりの二日酔いもすっかり吹き飛び、弥皇は怒鳴った。いや、頭が痛いとか、最早そんなレベルではない。

「おい、起きろ。清野!起きろ!」

「う、ん」

「そうか、起きないか。それなら起きなくていい、鑑識を呼ぶ。そのまま寝てろ」

 本当は目が覚めていたらしい。清野は飛び起きた。

「どうして鑑識?何するの」

「狸寝入りか。僕の体液や精液がお前の身体に残っているかDNA鑑定する」

 弥皇は何処かに電話した。

「はい。女性の体内に僕の精液や体液などが付着しているか、DNA鑑定してください」

「どうして其処までするの?あなたがあたしとイイコトして寝ただけでしょ」

「冗談じゃない。僕は性欲もないし全裸になる癖も無い。ましてや、お前とイイコトなどあり得ない。こうして既成事実を作れば何とかなると思ったか。甘いな」

 そういって清野にガウンを投げつける。

 それから、弥皇も自らガウンだけを羽織り何かを探す素振りを見せた。整然とした部屋の中。すぐにカメラを引き出しの奥から出すと、部屋の中を撮影し始めた。

 脱ぎ散らかされた洋服の位置、テーブルの上、冷蔵庫の中、台所のシンク、トイレの中、天井、壁、棚の中、玄関のシューズクローク。鑑識の撮影張りにどんどんシャッターを切る。

 気が付くと、テーブルの上に見慣れないウイスキーの瓶があった。グラスが二つ。弥皇は基本、ウイスキーを飲まない。余程いい頃合に熟成されたアイリッシュ以外は手にしたことがない。

 今、目の前にあるウイスキーは、コンビニで買ってきたと思われる品。蓋を開けた形跡はなく、水や氷を準備した形跡もない。フェイクで置いたとしか思えない。


 清野の声がする。

「シャワーも浴びるなっていうの」

「当たり前だ。浴びた段階で、課長に詳細を話してお前の身体検査をさせる」

 両人ガウンのみ羽織り、DNA鑑定を行う検査機関の職員を待つ。


 許せない。


 不覚にも倒れた自分が悪いのだが、それにつけこみ既成事実を作り上げようとするこの浅ましさ。目の前にいるこの女は、そのためなら平気で裸になれるらしい。 

 此処まで心がさもしい女は初めて見た。ブラックカードの噂でも聞いたのだろうが、良心すら持ちえない卑しい人間が隣にいると思うと、鳥肌が立つ。


 弥皇の脳裏で、麻田との比較が始まる。麻田さんなら、好きな相手がふらふらに酔っていても、スーツを脱がせる、或いはネクタイを外すなど身支度だけ整えて、そのまま帰って寝るだろう。無理矢理引き止められても、最悪寝技で失神させて帰るような人だ。相手が正気でない時に既成事実を作るような、卑劣極まり無い真似などしない。

 麻田さんなら、と再び考えているとき、検査機関から何名か人が来た。

 清野は暴れようとしたが、簡易キットでの検査は、身体はおろかベッドにも体液は見られなかった。勿論精液などある筈もない。検査キットを持った人たちが帰った。全裸にされた清野を見ても、性欲はおろか、小汚い生物がいるくらいの認識しか持たない弥皇。

「消えろ。二度と来るな。協力者にも失敗したと伝えろ」

 悔しそうな顔をして、清野は下着をつけ、シャツを着てジーパンを穿く。

 テーブル脇にきちんと置かれていたバッグを持ち、コート掛けに掛けたコートを片手にすると玄関に向かった。

 弥皇は動かなかった。

 清野が玄関に揃えられた靴を履き、何も言わず部屋を飛び出したのを確認した。


 ガウン姿のまま、協力者が誰か考えた。

 神崎に違いない。強い酒を飲ませ続けた。

 それで神崎に何のメリットがあるのか。弥皇は今迄意識が無くなるほど飲んで帰ったことが殆どない。一族で飲んだ時、廃人にされたくらいの記憶しかない。それゆえに分からないのだが、起きたとき、部屋が整然としていた。元々弥皇は綺麗好きで部屋の中も片付いている。弥皇のイメージでは、普通、意識の無い酔っ払いの大トラが2匹も部屋に入れば、そこらのものを散らかすはずだ。ま、綺麗好きの酔っ払いなら片付けるのかもしれないが。

 今朝、部屋の中は散らかった様子も無く、ベッドにあの女がいただけ。テーブルのウイスキー、ソファ脇にきちんと置かれた女のバッグ。コート掛けに掛けられた女のコート。玄関を見たときも、靴さえきちんと揃えてあった。不自然極まりない。

 となれば、あの女は然程酔うまで飲んでいなかっただろうし、誰か協力者が弥皇を運んだと考えるのが至極妥当な線。そして、それを実行できるのは神崎しかいない。清野に頼まれ協力しただけなのか、麻田のことも含め何か裏で動いているのか、今はまだ判らない。


 弥皇の悪運は続く。


 インターホンが鳴った。1階のオートロック共用玄関ではなく、自室玄関の方からだ。この部屋の鍵を渡しているのは、両親と麻田しかいない。まさか、あの女と遭遇したのでは。麻田のことばかり心配し、自分の格好を忘れ、弥皇は、そのままドアを開けてしまった。いつもなら元気に「がはは」と入ってくる麻田が、小さな声で、伏し目がちに呟く。

「あ、ごめん。お呼びじゃないところにきたみたいね」

「麻田さん。どうしました?」

「ごめん、帰る」

「待ってください。どうしたんです?」

 嫌な予感がして、弥皇は咄嗟に、麻田の手首を掴んでいた。

「電話があったのよ。昨日飲んで具合悪いみたいだから行ってみてくれ、って」

「男でしたか?女でしたか?電話の相手。知らない声だった?」

「男の人。知らない声。昨日歓迎会だったでしょ、今頃なら起きるだろうって」

「で、ロビーでアホ面した女がいて、弥皇と寝たと、鼻で笑っていたんですか」

「どうしてわかったの」

 麻田の顔が憂いを帯び、狼狽している様子が見て取れる。やはり、そこまで計算していた人物が糸を引いているということか。

「昨夜の歓迎会で、ある人物に強い酒を強要されたんです。不覚にも会場内で意識を失いましてね。起きたら、僕とあのバカ女が全裸で寝ていたと。どうやら既成事実として認めさせる筋書きだったようです。バカ女は狸寝入りでしたけど」

「でも、記憶ないんでしょう」

「だからDNA鑑定するために検査機関の人呼びました。いくら意識なくても、あんなのに引っ掛かったとは思っていません。簡易キットでは陰性だったし、そのうち結果が出るでしょう。麻田さんに見せるなら、何でもOKなんだけどな、見ます?全裸」

「ううん、見なくていい」

「残念。僕の総てを見たいって言ってもらえたら、直ぐ脱ぐのに」

「弥皇。その下、全裸でなかったら直ぐにでも投げ飛ばしたい」

 

 流石の麻田も、見知らぬ女性に『弥皇と寝た』と言われて平常心を保つことは難しかったのだろう。麻田の目尻に、うっすら涙が滲んだのがわかった。それでも、弥皇のアホな一言で、少しだけ本来の麻田に戻ってくれただろうか。

「麻田さん。あのバカ女と協力者の目的ですが、ひとつは既成事実。もうひとつあるに違いない。麻田さんの顔を確認することです。わざわざ此処に来るよう誘導したことから考えると、交際レベルも確認したかったのでしょう」

「何か起こる、いえ、起こすとでも?」

「麻田さんを狙う、或いは麻田さんの邪魔をする」

「今の仕事をしている限り、あたしは狙い放題にはなりそうね」

 麻田は大きく溜息を吐きながらも、納得したようだ。いつもの麻田に戻ろうと、髪をかき上げる癖を見せた。

 

「スーちゃんにも伝えておいて。今年転入した須藤くん。あたし大学の同期なのよ。彼、今でも腕には自信あるでしょうから」

「麻田さんが『ちゃん』付けで呼ぶ男性がいたなんて、驚きです」

「ああ、あの顔でしょう。ただでさえ誤解されやすいからね。あれでも良い人なのよ」

 弥皇は、急に二日酔いのズキズキが戻ってきた。

 張りつめていた糸が切れたらしい。

「麻田さん、僕、今、もの凄く嫉妬してるんですけど。二日酔いで頭痛いし」

 ガウン姿のまま、麻田を抱きしめる弥皇。結んだ紐が緩む。ハラリと肌蹴た胸がちょうど麻田の顔に当たる。麻田が弥皇の体温を直接感じたのは初めてだった。二日酔いのせいか、肌が熱く感じられる。

「ちょ、ちょっと。前、肌蹴てるって。裸見えちゃわよ」

「麻田さんになら、何見せても構わない」

「あたしは嫌だって。全裸なんでしょ」

「そう言われると、もっと見せたい衝動に駆られる」

「あんたねえ。ちゃんと着なさい」

「やだ」

 子供みたいな弥皇。本当に脱ぎかねない。

「ああ、もう。投げても見えるし。まだ酔ってるの?」

「あはは、困った顔の麻田さん、面白い」


 口元に笑みを浮かべながら、麻田が弥皇の胸を抓る。抓られた痛みが心地よい弥皇。いや、誓って言うが、決して弥皇はMではない。麻田と何処かで繋がっていたいという少し子供じみた弥皇の仕草と思考が、何となく可愛らしさを感じさせる。

 まるで、懐いて離れない子犬や子猫のようだ、と麻田は思う。


「ほら、兎に角着替えて。そしたら、ちゃんと話すから」

 漸く弥皇にTシャツとイージーパンツを穿かせ、玄関先で話す。

「中まで入るのは、何かと、ね。いや、ヘンな想像してるわけじゃないけど」

「僕、性欲無いから無害ですよ」

「そういう話じゃなくて。あの女性が寝た部屋に入りたくないのよ。寝たベッドを見たいとは思わない」

「すみません、麻田さんの気持ちを考えないでしまって」

 180cmほどの弥皇が縮こまっているのに対し、168cmほどで女性としては目立つ体格の麻田。今は何故か麻田の方が大きく見える。

「そういえば、あの女性、何か変だった。そう、緑川に似てたかも。目が」

「緑川?あ、和田くんもそんなこと言ってた気がする。緑川も清野も、どっちの名前も聞くのが嫌で耳に入れなかった」

「あの女性、清野っていうのか。和田くんも言ってたの?サイコパスなのかな」

 どうやらサイコパス的要素に麻田も気付いたようだった。


◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

               

 次の日、弥皇は出勤すると即座に和田に耳打ちして3階の非常階段に降りた。時間差で和田が姿を現すと、清野の情報を集めてくれるよう和田に頼む。

「お願いできるか?麻田さんも、緑川に似ているって言ってた」

「でしょう?僕も感じたし。弥皇さんが厄介ごとに巻き込まれないといいなって。弥皇さんにもアドバイスしたのに、春爛漫で忘れたんでしょう。もう新緑の季節ですよ」

「麻田さんを狙っている節もあってね。けど、その狙いが掴めなくて」

「要は、麻田さんのキャリアに傷をつけたい、と考えるのが妥当な線だと思うんですよ。男を寝取るのに失敗したから、次の手、でしょう?」

「和田くんの口から寝取るなんて言葉が出るとは思いもしなかった」

「いい年した大人ですよ、僕たち。兎に角、手出ししてなくて良かったじゃないですか。万が一麻田さんと間違えて手出ししてたら、今頃地獄行きですよ」

「麻田さんと僕のこと、どこまで知ってるんだい?」

「気持ち的には限りなくクロなんだけど、プラトニックですよね、お二人は。でもって、交際を知られないよう高級な場所で逢瀬を重ねている。こんなイメージです」

「さすがだね。緑川事件以来、開花したって本当だったんだ」

「だから僕もこないだ、やられたのかな。神崎さんにありったけ飲まされてタクシーに乗せられたんです。もう、散々でした」

 ちょっとやそっとのことでは酔わない和田が酔うとは。余程飲まされたらしい。弥皇はますます神崎の粗暴な行いに疑問を覚えた。

「他の人たちは?」

「課長と須藤さんは普通に飲んでましたよ。牧田さんは途中で外したし」

「僕はなんとかなるからいいけど、麻田さんが心配で」

「情報については任せてください。ソンウさんとかフランブルクさんがいたら超特急なんですけどね、あはは」


 5階にあるサイコロ課に、再び時間差で戻った弥皇及び和田の2名。他の課員たちも通常どおり出勤してくる。挨拶を交わす。神崎が出勤してきた。神崎の目を見ながら挨拶する。飲ませすぎてすみません、と謝られた。

「ああ、結構酔ったな。僕、どうやって帰った?」

「僕がタクシーに乗せて一緒に帰りました。弥皇さんが途中下車して。住所は自分で話してましたよ」

「歩いて帰れたのか。部屋の状態が無残でねえ、誰かに付いて来てもらったのかな」

「そこまで意識が飛んでるようには見えませんでした、すみません」

「いや、次から僕も注意するよ。酒で身を滅ぼしたくはないからね」

 当たり前だ、阿呆。お前のお蔭で麻田さんに泣かれそうになった。次はもう、ないと思え。喉元まで声が出掛る弥皇。必死に我慢する。いつも遅刻ギリギリの清野が、いつもどおりに出勤してきた。弥皇は、無視してしまった。

 麻田さんに「弥皇と寝た」と嘘をついた罪。麻田さんを傷つけたお前は許さない。相手の思うツボに嵌る危険性を知りつつ、自分の正直な心と、大人の振る舞い&リスクの見極めの狭間で、頭を抱える弥皇だった。

 ま、今日は聞こえなかったことにすればいい。その日、データベースへの入力と様々な事件の羅列で時間が過ぎていくものの、弥皇は集中できずにいた。述べる意見も少ない。どうしても、目は神崎に向いた。

 昼休み、和田とすれ違い二言三言交わした。

「あ、弥皇さん。ついでに、今年の転入組すべて調べます?」

「そうだな、お願いしていいか?須藤さんだけは除外していいようだ」

「どうして?」

「麻田さんの友人らしい。スーちゃんだとさ。ちゃん付けだぞ。僕なんてくん付けなのに」

「まあ、そんなにヤキモチ焼かないで。弥皇さんは麻田さんのことになると解り易いから」

「そうか?気をつけてるつもりなんだけど」

「僕とか佐治さんなら直ぐに分かりますよ。情報、少し時間下さい。ちょっとキナ臭い気がするんです」


 1週間後、和田が弥皇を飲みに誘った。佐治も入れて心理談義をするという。あの全裸の件以降、清野から五月蝿く付きまとわれることは、ほぼ無くなっていた。今年の転入組に関する情報共有だから、居酒屋を使わず弥皇の部屋に行く。

「うわ。綺麗。弥皇さんの繊細さがわかりますね」

「洋服は畳んでたのか?二人とも。どっち側にあったかも重要だぞ」

「そういえば写真撮ったな。どれ、畳んではいないですね。お互いの外側に脱ぎ散らかしています」

 パソコンに取り込んだ写真を見て、佐治と和田が笑い出した。和田の強烈なアッパーカットが弥皇を見舞う。

「弥皇さん。嵌められたにしても、お粗末ですねえ」

 去年サイコロ課で打ち込みに必死だったため皆に交じることの出来なかった悔しさを晴らすような、和田の一発。


 泥酔状態の男女が、どちらかの部屋に二人で行く。ブラックアウト状態になり記憶が飛んでいたとしても、酒を飲む、あるいは何かを食べるという行為は、行われても通常、当人は覚えていない場合が多い。食欲は極々通常の欲だからという説が一般的だ。同じように家に帰る動作も慣れた作業と言える。よく、こんなことがないだろうか。店を出たところまでは記憶があるが、どうやって帰ったかは覚えていない。また、気が付いたら服を脱ぎ散らかし部屋で寝ていた、という風に。

 全く記憶が無いのは、普通に帰って普通に寝る。いわば平常と変わった点が無いからである。

 一方、伴侶や彼女以外の第3者との性交に関しては、全く記憶がないのは不自然である。通常、何がしかの断片的な記憶を伴うことが多い。性欲も生物学的な欲だが、性行為自体、毎日行われるものではなく、まして、初めての相手と性行為に及ぶ場合、何らかの緊張が記憶を残存させると思われる。性交時の状況だけでなく、ドアを開ける金属的な音であったり、エレベータの中や乗る時など、断片的な記憶としてうっすらと残る。

 なおかつ、性交まで発展するには、通常、両者の合意形成が必要になる。泥酔状態での合意は心理学や生物学的な知見から、容易に想像できる。


 ここで重要なのが、どの段階で合意形成に至ったか、である。そこには、異性を口説き性欲を満たそうとする男女間の駆け引きがあって然るべきである。口説きタイムが終了しお互いが合意形成に至ってこそ、円満な性交渉が営まれるのであって、男性側からの一方的な行為は、性交とは言わず強姦となる。その場合、推して知るべし、犯罪である。


 合意形成に戻ろう。部屋に入る前から合意形成に至っていれば、部屋に入った途端に性交の準備を始める。洋服を脱ぐのである。その場合、性交が目的であるから、コートやバッグといった上着や小物を然るべき場所に置くことは不自然だ、というより自然の流れから逸脱する。

 片方が泥酔していない場合に限ってのみ、コートやバッグを然るべき場所に置くと考えるのが自然だろう。スーツなどの洋服に関しても同様だ。弥皇ほど泥酔していて、洋服を畳むどうかは怪しい。何があっても洋服を畳む癖があれば別だが、弥皇は全裸で寝る癖はない。この場合、性交後であっても何らかの洋服、例えばガウンなりを羽織ると思われる。


 第2に、部屋に入ってから時間が立ち、会話の後に合意形成された場合。家の中にワインセラーがあるのに、テーブルにコンビニ買いの開けていない酒類があるのは、これまた不自然である。つまみすら買っていないのも不自然極まりない。

 アルコール類とつまみなどが一緒にあり、酒を開けて飲みながら異性を口説き、合意形成に至る事例は往々にして存在する。聞けば弥皇はつまみ程度の料理ならすぐに作れるし、その材料も常備してあるとのこと。となれば、当時、弥皇は女性を口説ける状態になかったことを指し示す有利な事例となる。


 第3に、合意形成がどちらから齎されたか。男性が女性を口説き合意形成に至った場合男性が女性の洋服を脱がせる方法が一般的である。その場合、男性側に洋服は重なっておかれることが多い。または、女性の服だけを雑に畳む行為は考えられる。

 女性の洋服を女性側に放り投げることは女性を愚弄した動作であり、性交を目当てに家に連れ込んだ場合にはそういった所作にもなろうが、弥皇ほど女性を口説くことや性交に興味の無い人間では、通常そのようなシチュエーションは考えにくい。

 女性側に洋服が放り投げてあるということは、女性側から合意形成が齎されたという事実を一般的に示している。ただし、交際中、或いは配偶者など常に合意形成がなされている場合はこの限りではない。


「あるとすれば、弥皇が口説き落とされた場合か。でも、無理だろ。いくら口説かれても性欲無けりゃ始まらない。ホントに無いのか?」

「無いですねえ。麻田さんに対しても無いくらいですから。他の女じゃ、どう頑張っても」

「ていうか、この酒。弥皇さん飲まないでしょ。ワインセラーも目立たない場所にあるし、弥皇さんのワイン好き知らなかったんでしょうね。ワインを見てもどんなふうにセッティングするかもわからなかった。だから一番手っ取り早いウイスキーにしたんでしょう。やっぱり、やらせですね。証拠ないけど」

「和田くん。佐治さんは家庭持ちだから理解できる。僕は性欲無いからだけど、キミ、よく解るねえ」

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