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第1章  第2幕  H-15ファイル

いつものように、牧田がデータベースに入力を始めていた。近頃何もなかったサイコロ課では、皆、少し気が緩んでいた。今日もあるはずがない、という惰性の心理が働いて。

「おい。今日入れたH-15ファイル見ておくように。午後から打ち合わせを行う」

 市毛課長が、太く低い声で課員たちに促した。


「H-15ファイル 都内北部ホームレス殺傷事件」

 4月25日、都内北部私鉄沿線の公園にて、ホームレスの60代後半とみられる男性が胸を刺された状態で発見された。男性は病院搬送後、死亡を確認。事件前後の目撃者及び目撃証言なし。近隣のゴミ捨てスペースには、段ボール箱に入った猫の死骸が廃棄されていたとのこと。関連があるかについては現在捜査中」

 午後にだらだらと集合したサイコロ課の面々。課長が喝を入れる。

「これはサイコパスの起こした事件で連続性が限りなく高い。事件の起きそうな場所など予測したい」


 神崎が聞く。

「どうしてサイコパス事件と断定するのか、説明お願いします」

「最初に動物を殺傷してから、次に人間を狙う心理が見え隠れしている」

 和田と弥皇も参戦した。

「まず小さなもので試してみる、という心理も考えられます」

「こういった場合、若年層の犯罪という可能性も考慮しないといけない」

「小学校高学年から高校生までを我々は若年層と呼んでいます。それ以上は、青年層」

 清野や神崎は専門が心理ではない。年齢層や連続性など、疑いの眼差しが心理担当たちに向く。

「若年層ですか。子供たちの犯行と言い切る根拠は?」

「ホントに連続殺人なの?引き籠もりの人が動物殺してホームレス傷つけて憂さ晴らししてるだけじゃないの?」

「切り口は両方違うものが使用されている。他の要素が見つかるまで、同一犯と断定するのは時期尚早ではないでしょうか?」

 両名とも懐疑的だ。

 牧田は何も言わなかったが、心理方面の知識もあると聞いた。弥皇は、敢えて牧田に意見を求めて見る。

「牧田さんはどう思います?」

 慎重に言葉を選びながら、答える牧田。

「サイコパス犯罪かどうかと言われれば、否定的です」


 市毛課長がホワイドボードに私鉄沿線の地図を投影させ、今回の現場をレーザーポインターで示す。そのあと、ホームレスのたまり場や宿泊施設などがある場所をポインターで赤く示す。

 和田が気が付いた。

「デビルスター。五芒星を上下さかさまにすると、ちょうどその位置に当たりますね」

 市毛課長は小さく頷いた。

「無駄足になってくれればいいんだが」


 須藤がやや残念そうに呟く。

「所轄に連絡だけはします。ただ、やっこさんらは確たる証拠を求めてきますからね、信じないでしょうよ。構いませんか」

「構わん。此処にいる課員で現場を回れば済む」

「えー、あたしぃ、一人じゃ怖いから弥皇さんと一緒に行くぅ」

 市毛課長が手厳しい一発をかました。

「弥皇。一番確率の高いと思う場所に行け。清野は此処でデータ整理しろ。自分のデータも整理出来ないやつが、現場に行けると思うな」

「弥皇さんと行く。あたしの言うこと聞きなさいよ」


 市毛課長は、たまに、ほんとたまに、物凄く怖いことをいう。

「誰か、清野にスタンガン当てろ」

「ほいきた。まったく。誰に向かって口聞いてんだか」

 須藤が暴力団顔負けの怖い顔をして、いつから用意されていたものか、スタンガンをポケットから取り出した。

 冗談だと思っていた清野は、弥皇に腕組みしようとして跳ね付けられていた。誰も清野を助けようとはせず、また課長の言葉に異議を申し立てる者もいない。清野は余程嫌われているようだ。

 その背中から腰にかけて、須藤がスタンガンをさっと当てた。

 途端に清野はその場に崩れ落ちた。

「縄巻いてデータの前に転がしておけ。仕事を舐めてる。須藤、起きたら清野に説教してくれ。聞かないようなら、スタンガンちらつかせろ」


 神崎が笑い出した。

「課長、鬼みたく怖いです」

「お前も怖いことされたくなかったら真面目に仕事しろ。今年は進みが悪い」


 和田は吃驚した。去年はこんなこと一度も無かった。みんな口々に叫んで、結局みんなで現場に行ったりした。ふざけたような心理合戦にも辛抱強く付き合ってくれた市毛課長。

 それでも、課長の口から進みが悪いという愚痴、いや、説教めいたフレーズは出てこなかったのである。

 近頃の課長は酷く機嫌が悪い。

 進みが悪い=使えないやつが増えた、なのだろうか。


 弥皇は、五芒星を逆さにした状態で地図に記しを付け、その場所に私鉄沿線の路線図を重ねた。

 車などを使った犯行ではない、と直感していた。車は目撃証言が取れやすいからだ。

「和田くん、見てくれ」

 和田と須藤、神崎、牧田がその地図を見た。

「あ!」

「そう、私鉄大平和線、この駅周辺とホームレスには関わり深い場所が多いようだねえ」

 弥皇の言葉に対し、和田と神崎が反応した。

「最初に猫の目撃情報を集めましょう。それなら所轄にも話しやすいでしょうし」

「鑑識的には猫と人間の関係性は薄いと思うのですが。大袈裟に考え過ぎでは?」

 和田が神崎に説明する。

 若年層の心理的な要素として、大きなものの殺傷前に小さいものの殺傷がある場合が多い。まるで練習するかのように。一旦成功すると犯行は徐々にエスカレートする。

 再発防止にさえなればサイコロ課の務めは果たされたと言っても過言ではない。今回の場合、サイコパスとしてデータが回ってきているが、サイコパスというには何か欠けているような気がする、というのが心理担当者たちの意見のようだ。

 須藤が和田の言葉を引き継ぎ、神崎に向かってスタンガンを振り回す。

「俺も和田と同意見だ。犯人は人前では大人しい。そして不満が常々周囲を取り囲んでいる。その不満から抜け出せなくて犯行に及んでいる、といったところだな。サイコパスは、人前でいい子ぶった態度を見せるが、不満に満ちた窮屈な言動はない」

 なおも神崎は食い下がる。

「須藤さん、やはり若い世代なんですか。てか、スタンガン振り回すの止めてください」

「俺のような中年男がやると思うか?俺なら、別の方法で不満解消するさ。例えそれが痴漢や強姦だとしても、猫やホームレスよりそっちにいくね」

「野蛮ですね。まあ、極端な例えなんでしょうけど」


 弥皇が最初に駅周辺の聞き込みに出た。和田も出かけた。牧田は残りのデータを入力していた。神崎は、出かけもせずに科警研から借りてきたデータ照合機やらパソコンの類いを使って遊んでいる。清野は倒れたまま。

 毎日こうやって倒しておけば五月蝿くなくていいな、と課長に耳打ちした須藤。

 頭を抱える市毛。

「まったく。想定外だ。此処まで酷いとは」


 夕方、弥皇と和田が戻ってきた。

「現場での動物殺傷などについて、目撃証言、ありませんでした」

「こちらもです」

 

 考える市毛。

「私鉄大平和線の沿線にあるホームレス施設に間違いないんだが」

 須藤が地図に鉛筆で書き加える。

「これならどうだ?」

「あ、セレマ」

 和田が声を上げる。弥皇も気付いた。

「そ、クロウリーの六芒星。こっちの方がオカルト的要素は大きい。若い世代なら悪魔の御世に身を投じたいという心理が働く可能性もある」

「じゃ、明日そっちを回りましょうか、弥皇さん」

「うん、此処から此処までを僕が、残りは和田くんにお願いするよ」


 須藤が気付いたオカルト的エレメント。

 魔術の儀式として行われたのだろうか。

 その時、また私鉄大平和線の沿線でホームレスが襲われたという第2のホームレス殺傷事件が牧田によってデータベースに入力されていた。

 和田は六芒星の地図をチェックしていたので、データベースを見ていなかった。無論、第2の殺傷事件に気付くはずもない。

 第2の事件を知った和田の顔色が変わった。牧田に対して信頼できないといった表情があからさまに出ている。

 何のことはない。声に出して「ホームレス事件続報あり」と言って貰えれば、事件概要を見ながら資料を整理できるからだ。時間の無駄を省くため、和田は去年全部読み上げていたくらいだ。

 和田が、怒りを押し殺したように言い放つ。

「牧田さん。僕たちが動いている事件と関連あるんですから、少しくらい声に出してくれたっていいんじゃないですか?」

「貴方がデータベースを見れば済むことです」

「僕の言っているのはそういうことじゃない。みんなが意識共有して事件解決や再発防止のために動いているんです。あなたには情報共有という考え方、無いですよね」

「打ち込みもろくにできない若造が、私に意見すると?」

「意見とかじゃなくて、仕事が円滑に進むようにして欲しいんです。僕が若造で意見言っちゃいけないなら、課長なり相応の人に言われれば言うこと聞くんですか?歳で差をつけるのか?後輩に仕事の進め方も教えられないオバサンに言われたくないよ!」

 

 和田が、ブチ切れた。サイコロ課に来て、初めて切れた。

 おお。オバサンと知っていたか。

 弥皇は、和田が成長したな、と感じて嬉しかった。いや、そこは決して、感心したり、嬉しがるべき部分ではないのだが。

 和田は今迄、感情を抑え込んで我慢して、一人で苦しみもがいていた時期もある。もう大丈夫だ。これで仕事面での感情移入の感覚がつかめていくだろう。


 しかし、今は喜んでいる場合ではない。

 ここぞとばかりに弥皇が間に入る。和田と牧田の間では埒があくまい。

「牧田さん。貴女の言い分は後程聞きます」

 弥皇と和田くんは二人で何十カ所もホームレス関係の場所を回っている。早くしないと、第3、第4の事件が立て続けに起こる。2回、人間に殺意を向けたということは、もう後戻りできないサイコパスになりかけている可能性があるのだ。

「言っときますが、この犯人、貴女の子供よりずっと小さいはずですよ」

 牧田も心理担当経験者ならわかって当然だ。だから、いつどこで事件が起きたのか、読み上げて欲しいと願い出る。それが嫌なら、神崎に声をかけてくれ、と。須藤は我々と場所を特定しているのだから。


 牧田は声を出さなかった。代わりに、駅の名前と大凡の犯行時間をメモして、弥皇に渡した。間もなく定時。牧田は帰り支度を済ませるとさっさとサイコロ課を後にした。

 弥皇が駅の名前と大凡の犯行時間大きな声で読み上げ、地図から犯行仮定地域を割り出す。

「和田くん、明日回ると言ったけど今日回ろう。もう時間がない。タイムアップしたら、犯行は見境が無くなる」

「わかりました。ただ、夜ですし、一人で回るのは正直辛いですね」

 須藤が言う。

「さっき言ってた和田の分、知り合いに頼むから弥皇と和田はシナリオ通り、弥皇分を回ってくれ。何処かに動物の殺傷跡があるはずだ」


 二人一組とはいえ、夜は回りにくかった。犯行をくい止めたいというその一心で、和田は動いていたようだ。弥皇も、タイムアップまで時間がないのを感じていた。

 勝負は、今晩中。


 現場で茂みの中やゴミスペースを漁りながらホームレスの人たちに話を聞いたりするうち、猫がケガを負う事件が勃発した地域が浮上した。猫が足を切り付けられたり、胸を刺されそうになったり、耳を切り付けられたり。何れも未遂。近くには、大平和線の駅があり、ホームレス施設も多かった。

 市毛課長に電話連絡した。ちょっと外にいるから、戻っていてくれという課長。課長が出かけるのは珍しい。何処に行ったのか。

「弥皇さん。此処、ちょうど次の目的場所として、やり易い場所ですね。暗がりもあるし」

 一旦、二人はサイコロ課に戻ることにした。捕まえるのはサイコロ課の領分ではない。サイコロ課人が出張ったら越権行為になってしまう。


 サイコロ課内に入ると、倒れていた清野も帰ったらしい。弥皇は久しぶりに晴々した顔つきに変わる。

 一人で居た神崎に声を掛けた。

「課長も須藤さんも、何処いったんです?」

「お酒でも飲みに行ったかな、二人とも居なくなりました。僕もお先します」

 こんな時に課長たちがそんな真似するわけないだろう、と拳を握る弥皇、和田両名。

 昨年なら、間違いなく拳骨合戦開始だ。沸騰しそうな心を押さえつつ、和田は事件を整理することにして地図をもう一度見た。第1の場所。第2の場所。そして、これから事件を起こすであろう、第3の場所。

 一度でも犯行現場を押さえられれば、暫く犯行には至らない。捕まえられればそれに越したことはないが、こればかりは運、なのかもしれないと思う。

 何しろ、捕まえるのは警視庁所轄の仕事だ。


 捕まえたところで、犯人が20歳未満なら少年法の適用となるが、14歳以上16歳未満なら警察の取り調べののち家庭裁判所に送致、処分するのが通常案件。

 16歳以上での重大事件、そう、殺人や殺人未遂といった凶悪なケースなら家庭裁判所から検察への逆送致、刑事裁判も可能である。

 ここで重要なのは、14歳から15歳の少年たちに対する処分のあり方で、日本の場合は刑事裁判を受けない。悪質なケースであっても現在の法律では少年院に送致されることになる。

 しかし今、14歳前の年齢から、凶悪な殺人を犯すケースが増えている。これらの少年全てに刑事罰を与えるのが道理かと言われれば、それは違うだろう。精神面で何らかの病態を伴う場合は医療少年院へ送致しなければいけないが、快復までには時間を要するかもしれない。

 または、根っからのサイコパスが顔を覗かせるケース。サイコパスには罰則をもってしても自戒の余地はない。

 昭和の良き時代を少年として過ごした面々にはわからない少年サイコパスの事件。

 今回の犯人はどちらなのか。


 二時間後、もう時計が翌日を知らせる頃だった。課長と須藤が帰ってきた。課長に何処に行ったか探りを入れた和田と弥皇だが、確信を突いた返事はない。

「課長、須藤さんと一緒にお出かけでしたか」

「ああ、和田。お疲れだったな、よく回ってくれた」

「須藤さん、脚悪いから大変ですよね」

「俺?ほら、このとおり」


 和田の目の前を、足を引き摺らずにスタスタと歩く須藤。なんと、数年前の事件の余波で右下肢を引き摺っていたはずの須藤が、キリリとした姿勢で歩いている。サイコロ課人は、すっかり騙されていたのである。それにしても、何故芝居までする必要があるのか。

 課長は須藤が歩き出したのを見ながら何処かに消えた。


「俺、外国でFBIの研修もさることながら、手術受けてリハビリしたのよ。やっぱ腕、鈍るからさ。でもって、心理学かじって此処に配属してもらったわけ」

 弥皇の不思議満面の口元から須藤に質問が飛ぶ。

「どうして隠しているんです?」

「そりゃお前。捕まえたい奴がいるからよ」

「サイコロ課に?」

「それがなあ、わからん。見極め状態。絶対に秘密な。お前ら2人と課長と、麻田だけ」


 どうして麻田さんの名前が出る。

 弥皇に口を挟む余裕を与えず、事件の内情に切り込む須藤。流石に現場で動いてきただけのことはある。何より知識、経験や勘所が素晴らしい。

「これ、見ろ。六芒星の印内中央にある豪邸なんだけどな。此処からたまに、抜け出していく中学生がいるらしい」

「もしかして」

「高級住宅街で夜は目撃者もそうそういない地域だけど、行きと帰りの服が違うらしいんだ。で、その日付聞いたら、事件の日にどんぴしゃり。時間的には定かじゃないけど、たぶん、此処を張っていれば事件は起こらないだろう。所轄にも話してきた」

「じゃあ、事件は解決ですね」

「和田くん。もうひとつ、高いハードルが待ってるよ」

「流石、麻田のお気に入り、弥皇くん」

「なんだか、僕より須藤さんの方が麻田さんのことよく知ってるような口ぶりですね」

「悔しがるな。大学の同期。サークルも同じだったから仕方ねえんだよ。麻田のこと、よろしくな」

 和田がにっこりと笑いながら、さらりと須藤に聞く。

「須藤さんは恋愛感情とか無いんですか、麻田さんに」

「俺?ふられたもん。友達以上恋人未満ってやつ?もう20年前の話よ。もう今じゃそんな気も起きやしねえ。お互い、まだ独身だけどな」


 今度は弥皇が項垂れる。

 和田も、何となく弥皇の心理が読める。

「須藤さん、僕、今凄く泣きそう。須藤さんの方がかっこいいし。男前じゃないですか」

「麻田は男前な奴じゃなくて、自分を安心させてくれる奴がお似合いなんだよ。あの通り男勝りで絶対譲らないだろ。スマートな男の方が調子狂って、ちょうどよくなる。今のままじゃ鬼ババだろ」

「麻田さんは鬼ババじゃないですよ!まあ、頑固だけど。強いけど」

「ほら、弥皇。それはおいといて、だ。このお宅に行って、お子様に話聞かなくちゃいけねえ。行政の児童相談所から職員が来るが、お母様が間違いなく口出ししてくる。だから行政なんざ使い物にならん。こっちは殺傷容疑だから、押さえて家裁に送致しなくちゃいけない。お子様の事件は、この微妙な綱渡りが、な」


 そこに市毛課長が帰ってきた。

「すまんな。犯人の家を特定できそうだったんで、須藤と動いたんだ。どうしたものかな。うちが動く筋合いじゃないから声はかからないと思うが」

「原因は、ネグレクトですか?共依存?女子?男子?」

「まったく別の、かごの鳥だな。中学2年の女子生徒だ」

 市毛課長曰く。

 家の躾が余りに厳しいと、子供の精神に歪みが出ることが往々にしてある。この生徒の場合も同じだった。父も母も名家出身であるがゆえに、躾、特に成績に厳しかった。

 エスカレーター式の学校に入るため幼稚園から受験に巻き込まれ、幼稚園は落選。小学校を受験するも再び不合格。中高一貫校を目指し中学には合格した。

 母親は、喜ぶどころか「やっと決まった」と恥さらしのように周囲に漏らしていた。母は成績以外にも、「いい子」であることを物心つく前から求め続けていたという。その結果、女生徒の精神のバランスはいつしか著しく崩れはじめ、命の大切さを考えられなくなった可能性は大きい。

 母親との共依存とも考えられたが、共依存の段階に至る前に女生徒の精神バランスは釣り合わなくなった天秤の如くアンバランスな状態となり、砂時計がサラサラと落ちていくように時が流れる。砂が全て落ち切った暁には、人格の崩壊の波が彼女の全身を喰らい尽くしてしまう。

 人格が壊れて俗に言う多重人格を引き起こす場合も多いが、攻撃的な面が心の中を占有した場合、最悪、動物や弱者、ひいては尊属殺人などに発展しかねない。事実、学校内で飼育している動物を傷つけたり、魚に毒を盛って死なせたりと、人目に付かない場所で小さな犯行を重ねていたらしい。


 親と子供、両方が現状をはっきりと認識し、病院でしっかり治療したうえで、カウンセリングなどを通じて自分を外に出し、親とのコミュニケーションが図れるようになれば十分に更生は可能だ、ということだった。若しくは、親から引き離し、子供だけを更生させる手立てしかないという。

 大人は、見栄や地位、名誉に振り回されるため、もう更生の余地はないのかもしれない。


 所轄でどう処理したのか分からないが、その後、ホームレスや動物虐待事件はデータベースに入ってこなかった。どちらに転んだかわからない。それでも、若い世代には更生して欲しいと願うサイコロ課人だった。


 その事件以降は暫く大きな動きも無く、はっきり言って「飼い殺し」状態のサイコロ課人。

 牧田は、和田から指摘を受けても、なお自分を変えようとはせず、和田は怒り心頭に発していた。チームワークなんて今更かっこつける気も無いけれど、ひと言発するだけなのに、どうしてそれが出来ないのか理解に苦しむ和田。

 15歳で中学校卒業したばかりの女子なら、恥ずかしいのも解る。もうすぐ50歳に届こうというアラフィフババアが話せない訳がなかろう。思うたびに腹が立つ。

「では、お先します」

 牧田は今日も定時でさっさと帰る。ババアがさっさと帰るのはいいが、データベース以外の掃除とかしていけ。あんたがしないで誰がやる。あーあ。前はみんなで「やるぞー!」って声掛けながらやってたっけ。昨年が懐かしすぎる。


 そこに、神崎がやってきた。

「和田くん。随分機嫌悪そうじゃない」

「判ります?神崎さんに判るんじゃ、僕もサイコロ課落第ですね」

「僕が成長したの。この分だと心理を収めるのも遠くないから事件解決に役立つと思うな」

「で、何か?」

「飲みに付き合って欲しくて。一人飲み、実は苦手でさ」

「お付き合い程度なら」

「よし、居酒屋じゃなんだから」

 神崎には行きつけの店があるらしい。六本木の路地裏をくねくねっと曲がった場所に、凡そ飲み屋とは思えないボロい建物が見えた。

 中に入ると、色々な種類の酒が置いてある。

「神崎さんって、すごい所知ってますね」

「なに、知り合いの店だから。結構融通利くよ、秘密の会合とか、ね」


 酒類を見ながら驚いた顔。次第にワクワクした表情の和田。

 ゆっくりと神崎に顔を向けた。


「で、何を知りたいんです?」


 神崎は、ニヤリと笑った。

「知りたいのは僕じゃなくて、キミの方じゃないのかな」

「僕?シャーロキアンの会合さえあれば別に何も」

「サイコロ課の秘密だとしても?」

 神崎は、和田の肩に手を置いてピアノの旋律を奏でるような仕草をしながら口笛を吹く。フレデリック・ショパンの練習曲ハ短調作品10-12、別名『革命のエチュード』

 和田は、警戒する。

「へえ。相当色んな情報集めているんですね。自信たっぷりだ」

「そりゃもう。まずは、牧田さんかな」

「あの人は、勘弁してくださいよ。胃が痛くなる」

「腹ん中では、そう思ってないだろう?」

 和田の頭の中は厳戒態勢に入った。情報を集めるということは、何処から集めているのか、そのソースが気になるからだ。自分が集める側にいるから、ソースのことはとても気になる。なるべく酒を飲まず、知らん顔しないと。

「こないだはですね。事件絡むと、昔からサイコロ課のメンバーって血気盛んでしたから」

「牧田さん、旦那さん警察官だったみたいだよ。でもね。死んだらしい」

「殉職ですか。お気の毒ですね」

「和田くん。それが違うんだよ。殺人のうえに、無理心中の犯人」

「お酒のせいかな、耳が遠くて聞こえなかったようです」

「牧田さんの夫は、市毛課長の奥さんのお兄さんを殺して、自分は不倫相手と無理心中」

 普段、比較的冷静な和田も言葉が見つからない。


 神崎によると、牧田の夫は警察庁内で不倫の末、不倫相手の女性警察官が別の男性警察官と付き合い始めたと勘違いした。牧田夫は男性警察官に嫉妬し、自分の立場も考えず、あろうことか男性警察官を殺し、自分は不倫相手の女性警察官を殺めた上で自死していた。所謂無理心中である。無理心中の巻き添えをくった男性警察官は、市毛課長の親友であり、市毛課長の妻の兄だった、というのである。


 市毛課長の妻の父=義父は、当時警察庁の上層部にいたという。罪のない息子が殺害された場合、通常、親はどんな反応をするのだろうか。いくら同じ所属の上層部にいたとはいえ、市毛の義父のやり方は、余りに残酷だった。『火の無い所に煙は立たず』などと言われかねない、自分の立場も危うくなると考えた市毛の義父は、市毛に密かに命令した。一旦左遷するが直ぐに呼び戻し昇格させるから、総てを隠蔽し書類を紛失させろ、と。

 市毛は、命令通り書類を紛失させ罪を被った。非難を浴び、遥か遠い島まで異動した。事件のショックと、たまたま同時期に子宮外妊娠、流産した上に子宮筋腫が見つかり、結局子宮まで摘出したという市毛の妻の傷心はいかばかりだったことか。

 親子の軋轢や子供への思いを癒すのに何年という時間が掛かった。その後、本庁への異動話など来なかった。何年か経ち、少しずつ中心部に異動内示が発令された。当然、昇格の話も出たことだろう。市毛は何に興味を示すわけでもなく、昇格は全て断った。市毛の妻も、夫の異動先や昇格に興味を示さず、ただ、夫婦仲睦まじい家庭を守ることに専念したという。年数が立ち義父も退職、昇格の話もストップ。今のサイコロ課にいるという、専らの噂。


 入庁当初はトップの座を走っていたと言われた市毛が、突然失速しコースから外れた。

 当時からつい最近まで、警察庁の中では噂が飛び交っていたのだという。何故、戦力外通告を受けたのか。奥方が昇格に興味を示さないのは、実父への憎悪ではないのか、等々。


「ね?凄いだろ」

「人間関係が複雑すぎて、わけわからんですねえ」

「じゃ、おさらいする?」

「いやいや、少し頭の体操すれば、頭の整理も付くでしょう」

「市毛課長は出来る人間だって、評判だったし。実際に出来る人だと思うからさ」

「そうすかあ?美人みると華の下伸ばしてますよ」

「そうなの?」

「なんだったかな。なんかの時、みんなで美人カテゴリの写真みたら、鼻の下伸ばすどころか言葉失くしてました」

「そういう一面もあるのか。サイコロ課異動ですごく凹んだけど、人間観察も面白そうだ」

 項垂れることで凹みを表現した神崎に向かい、心の中でどす黒い霧を発生させる和田。


(なんだって?サイコロ課異動で凹んだだと?おいおい、聞き捨てならないな)


 その心に反し、顔は、にっこりと素朴な笑いを浮かべる。

「人って色々ありますからねえ。さて、僕は失礼します。シャーロキアンクラブの会報、今月僕の担当なんですよ。こないだの事件で遅れてて。すみません。あ、いくらですか」

「今日は奢るよ。シャーロキアンか。変わってるな、キミは」

「ホームズのライバルこそ、究極のサイコパスですから」

「今日の話、内緒で頼むよ」


 会報作成は和田の仕事ではない。

 今日のように飲みたくない日に究極の逃げ道として使う手のひとつだ。それにしても、どこから噂を仕入れたのやら。和田に話したということは、次々と噂を広めているに違いない。そして、牧田さんと課長を対峙させるのが目的だろうか。

 神崎は、心の底が読めない人間だ。俗に言う「腹の読めない人間」というやつだ。


 普通、何らかの行動を起こす場合にはそれ相応の目的がある。今日の出来事で言うなら、情報を仕入れて拡散させるのが手段で、誰か特定の人に聞いてもらうのが目的。

 数種のカテゴリに分類された動機がある。

 サイコロ課では「動機づけ」と呼んでいるが。

 一番解り易いカテゴリが「金銭」のプラスマイナス。

 それから「損得」これは白黒はっきりしている。

 あとは、「感情」プラスからマイナスにかけて様々な感情がある。好感や罪悪感、劣等感、嫌悪感、等々。

 神崎の動機づけがどのカテゴリに分類されるか、和田には神崎の真意が図りかねた。


 牧田さんと課長を対峙させ、本当のことを牧田さんが知ったところで、誰の得にもならない。不幸を呼び、人間関係を悪化させるだけだ。噂話で済むような軽いトラブルではないのだから。

 もしかしたら、神崎自身がフィクサーでありトリガーの役目も果たしているのか。そう、和田たちが定義するところの、サイコパスなのかもしれない。


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