第2章 第4幕 結末
二人は予定を早め、自家用小型ジェット機で羽田空港に戻った。
防弾チョッキは、二人とも旧自宅マンションに置いたまま。
そのままタクシーで各々旧自宅マンションに向かい、サイコロ課で落ち合うことにした。
「じゃあ、あたしはここで。準備忘れないでね」
「わかりました。麻田さんも気を付けて。麻田さんの方が狙われる立場かもしれないんですから」
「あたしなら大丈夫」
麻田はマンション前でタクシーを降りると、部屋に駆け込んだ。大き目のスーツの中に防弾チョッキを着こんで、万が一に備える。そして自宅近くからタクシーを拾いサイコロ課に急行した。
「麻田、到着しました」
バタンと勢いよくドアを開け課内に入る。メンバーの顔触れがだいぶ変わった。違う課に来たような錯覚を覚えた。と同時に、ある種の違和感も覚えた。1年近くサイコロ課にいたからこその違和感。何だろう、この違和感は。
「弥皇は?」
市毛課長に聞かれ、途中で別れ此処で落ち合う予定だと話した。
「遅いな、もう着いても良い頃なのに」
麻田は背筋にゾクリとした視線を感じたような錯覚に捉われた。先程の違和感とは別物。
「弥皇のマンションに急行します!」
「僕もいきます!」
麻田と、漸く退院し業務に戻った和田が、車で旧弥皇のマンションに近づいた時だった。救急車のサイレンの音がパトカーのサイレンとシンクロしつつ、不調和音を奏でる。周囲に野次馬が増える中、和田に車を停車させ、500メートル以上麻田は全力疾走した。
まさか、まさか。
発進しようとする救急車を、一旦身体を張って停めた。当然、相手も怒っている。
「あなた、どなた?時間との闘いなんですよ!」
「警察の者です。後ろの人物って、弥皇さんですか?507号室の」
「そうです。背中周辺をナイフで刺され重傷です。ご家族探しているんですが」
「家族です。和田!弥皇発見、広背筋損傷で救急搬送。搬送先からコールする!」
同様に車からマンションまで走ってきた和田に情報を伝え、サイコロ課に戻る様指示し、麻田は救急車に乗り込んだ。
どうやら弥皇は、マンションの部屋に入ったところを背後から刺されたらしかった。背骨から腹部周辺にまで血が滲み、返り血とみられる血の跡が耳たぶまで飛んでいる。
受け入れるはずだった救急病院には、別の急患が入ってしまった。受け入れ先が見つからず、救急車はなかなか発進できない。5分、10分。腹部に施された応急処置の部分が段々、血で赤く広がってきたように見える。何処か、何処かないのか。警察病院は無理なのか。
「彼も警察官ですが、警察病院で受けて貰えますか」
「もしかしたら。どうして最初に言って貰えなかったかな。何軒も電話して損したよ」
「すみません」
普段なら平手打ちするような相手の言葉遣い。
そうだ、最初に気が付かなかった自分が悪い。麻田は素直に反省した。警察病院は一般にも開放されているが、警察関係者は何時何処で事件に巻き込まれるか分からない。救急ベッドの準備くらい、しているかもしれない。
「空きありました。警察病院に向かいます」
弥皇は、麻酔で眠っているようだ。さぞ、痛い思いをしたことだろう。犯人の目星は付いている。清野。以前、ストーカーまがいに付きまとって弥皇のマンションを知っていた。酔ったふりをして部屋に入ったこともある。脱走し、近くで待ち伏せ、凶行に及んだに違いない。
許さない。あたしを狙うならまだしも、どうして弥皇くんに矛先を向けた。女性なら、好きな男に刃を向けるわけがない。向けるのは同性であるあたしのはず。
何故。
消防無線ではなく、スマホを使って課長にコールしようとした。消防無線を盗聴したと大騒ぎしたドラマがあった。自分は消防署の人間ではないから本当かどうかわからない。でも、本当なら盗聴はされたくない。
「邪魔になるからスマホは使わないで!」
消防署員に大声を出されてスマホを取り上げられた。代わりに消防無線を寄越された。サイコロ課に無線を繋ぐ。
「課長、警察病院に向かっています。向こうで現状及び処置詳細を聞き次第、おって連絡します」
病院に着いた。直ぐに救急病棟に移され、手術室に移動した。傷の縫合と思われた。オペが始まり、廊下で一人、立ち尽くした。自分を責めた。何故一緒に行動しなかったのか、と。
そう。どちらかを狙うにしても、二人一緒なら此処までの怪我にならなかったはず。
ああ、ご両親に電話しなければ。
ところが、弥皇の所持品として渡された、胸に入っていたと思われる弥皇のスマホに一族の電話番号は無い。これでは連絡のしようもない。万が一、と思うと涙が溢れて止まらなかった。
手術室に、課長と和田が姿を見せた。
「一旦、お前は戻れ」
「いえ、オペ終了まで」
その時、バタバタと中でざわつく音がした。
「心肺停止・ショック・輸血」
手術室内や周辺で怒号が飛び交う中、廊下をバタバタと走り回る病院スタッフ。
看護の助手と思われる看護師たちが麻田や課長、和田の前を行き交う。
途端に、麻田がフラフラと立ちあがった。
「戻ります。始末しなくちゃ」
「麻田さん?大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫」
麻田は、廊下の闇に消えた。
そしてそのまま行方が知れなくなった。
SP業務で携行している拳銃を所持していることも判明した。誰が連絡しても、コールもメールも繋がらなかった。
そんな中、課長の下に届いた一行だけのメール。
「あの人がいなくなるなら、誰を犠牲にしてでも、あいつを地獄に落とす」
サイコロ課のメンバーが目にしたのはそれだけだった。発信元はネットカフェ。今頃は場所を変えているだろう。麻田のことだ、監視カメラにも映りこまないよう変装するなり、さもなくば非常階段を使っただろう。
居場所の特定も出来ない。
◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇
麻田が姿を消してから、2ヵ月近くが経とうとしていた。麻田は、弥皇の死亡ニュースだけはチェックしていたのだろう。
そのニュースが流れない限り、清野も捕まっていない、と考えていたようだ。実際、手術の際に状態の悪化した弥皇だったが、奇跡的に命は取りとめていた。ただ、傷が深くSISUを経てISU、一般病棟と移動するまでに2か月近くを要したのだった。
たまたま弥皇が一般病棟に移った直後のこと。神崎が一人で弥皇の病室を訪ねた。
「怪我が良くなってよかったですね。位置からすると、大体身長が同じくらいか少し低いくらいの被疑者と見ているんですが」
「まったく覚えてないんだ」
「しゃがんだりしませんでした?」
「わからない」
「もし、しゃがんでいれば、それより身長が低くても可能性があります。思い出したら教えてください」
「ああ。わかった」
「それより聞きました?麻田さん、でしたか。2か月も行方不明だそうですよ」
神崎の一言は、弥皇の傷口に塩を塗りつけるようなものだった。
普段冷静な弥皇が我を失い相手構わず取り乱す場面が見受けられ、傷の状態は悪化したりと乱高下した。弥皇の依頼で、市毛課長が呼ばれた。
課長は、麻田はどうやら清野を追っているらしいこと、総力を挙げて麻田と清野を探していること、片方でも見つければ、これ以上事態は深刻化しないことなどを弥皇に言い含めた。
「俺達が絶対に見つけるから、心配だろうが休め。お前の回復が一番のニュースだ」
弥皇たちが心配する中、麻田はネットカフェやラブホテルなどを渡り歩き情報収集しながら自分も身なりを整えていた。
自分が犯人ならどうするだろう。それを考えた。
弥皇の事件はメディアを通じて「警察官傷害事件」と報道されたが、入院場所などは一切明らかにしていない。報道規制をかけているはずだ。インターネットの掲示板を見ても場所や弥皇の名を出している人間はいない。これなら、弥皇が今何処にいるか、誰も検討はつかないだろう。
あの日、車で救急車を追わなかった限りは。
犯人が清野なら車は使っていないはずだ。脱走時に車を準備しているか、他人の車を盗むような真似をしない限り、清野には弥皇の入院先が分らないだろう。
大体、脱走を一人でやってのけたとは思えない。誰か手引きした人間がいるはずだ。
それならば、何度か留置所で面会しているはず。その時にメモか何かでやりとりした可能性が高い。どちらが主導的立場だったか、それは判断できないが。
ネットカフェの監視カメラ、コンビニの監視カメラを解析すれば清野が映りこんでいる可能性は高い。それにしても、範囲が広すぎる。範囲を絞らなければ。清野が所持しているのは多分ナイフ。拳銃までは準備できなかっただろう。どこかで人質を取られた場合、解放させる手立てが必要になる。ジリ貧になる様なら、脚を撃つ。人質に当たろうが本人に当たろうが構わない。怯んだ、その一瞬に清野の脳幹を狙う。いや、動けなくさえすればいい。あとは何発でも撃ち込める。
麻田は考えた。
清野も、弥皇事件は気になっているだろう。
好きだ、あるいはモノにしたいという感情があれば、近くに行きたいと思うのが一般的な気持ち。サイコパスという部分をプラスしても、あいつは絶対にあたしが邪魔なはず。緑川のように金蔓にしようと弥皇を誘い出すならまだしも、清野は自ら身体を提供しようとした。好き嫌いに関わらず、金だけではなく、弥皇との肉体関係を狙っている証拠だろう。
だとすれば、弥皇の病院を探す、でなければ弥皇のマンションに舞い戻る、そうでなければ、あたしの部屋。姉妹と偽れば、管理人さんにマスターキーを借りることが可能だ。
現実的に、弥皇の病院は知らないはずだし警護が付いているから近づけない。弥皇のマンションは血だらけの部屋がそのまま残っているだけだから戻ったところで怪しまれるだけ。やはり、あたしのマンション界隈に潜んでいる。
間違いない。
麻田は、昼間1時頃に、珍しくジャージの上下を着てフードで頭を隠し、自分のマンションに戻った。監視カメラに顔を映さないようにオートロックの鍵を開ける。その後も、監視カメラにでかでかと写り込まないように歩き、自室に辿り着いた。部屋の取っ手を回して、引く。やはり、麻田の部屋は誰かが開けていた。銃を片手に、2LDKの部屋を片っ端から確認する。トイレ、バス、ひとつずつ部屋の中を見回す。
最後に残ったのは、リビング。
麻田は音がしないように摺足でリビングに近づくと、中に向けて銃を構えながら、右手でリビングドアの取っ手を回し、そのまま右足で勢いよくドアを蹴った。
一瞬で中を見回す。
そのとき、思わぬ声が聞こえた。
「おいおい、撃たないでくれよ。妻を残して死ぬのは嫌だからな」
誰の声なのか、初めは判らなかった麻田。そんな麻田の視界に入ってきたのは、市毛課長だった。
「課長」
市毛課長が一人で立っていたのを、漸く麻田は視認した。
「弥皇が心配しているぞ。やっと一般病棟に移ったんだ」
「ああ、良かった」
麻田は狼狽しながら、力が尽きたように床に座り込んだ。
「お前、誰を犠牲にしても犯人に復讐するみたいなことメールで送って寄越したな。本気か?」
課長の言葉に対し、課長の目ではなく、項垂れ、床を見ながら歯を食いしばる麻田。
「本気です。大事な人を不条理に奪われたら、黙っていられません」
「お前がサイコパスになってどうする。今回は身内でもあるし、捜査から外れろ」
「この界隈に潜んでいると思って一人捜査を進めていたのですが」
「所轄でも清野の逃走予想経路に基づき捜査を進めているようだ。それより病院へ行くぞ。逢いたいだろ、弥皇に。その前に連れて行きたいところもあるし」
市毛課長に連れられ、麻田は警察病院へと向かった。
すぐに弥皇のところに行くのかと思ったら、行き先はNICU・新生児集中治療室。低体重児、未熟児、先天性の病気を持った乳児などが集まっている。皆片手に乗るのでは、というくらい小さい。それでも懸命に息をしようと必死に見えた。
「見ろ。皆、生きたくて手足をバタバタさせている。命っていうのは、それだけ重いんだ。俺達が簡単に奪っていいようなものじゃないんだ。解ったか」
15年前の思いがフラッシュバックした。この小さな命を、自分は奪った。堂々巡りの感情が渦巻く中、また一人の小さな患者が運ばれてきた。虫の息だった。
麻田の眼に涙が溜まり、目の前が見えなくなった。溢れていく涙は一気に眼から頬を伝わり雫となりながら床に落ちた。と、麻田が姿勢を崩し床に倒れ込んだ。肩は震え、脂汗が滲む額。
「あ・・・い、痛い・・・痛い・・・」
「どうした?おい。麻田。何処が痛い?」
目覚めた麻田は、個室のベッドで眠っていた。市毛課長の奥方がベッド脇に座って心配そうに麻田を見ていた。
「動き過ぎて、危なかったみたい。今日から絶対安静。2か月から3ケ月くらい。もっとかな?あとね、物騒なものは取り上げた、ですって」
「課長の奥様、ですよね。どうして私が絶対安静なんですか?もうお腹痛くないです」
「やだ。余程集中して動き回っていたのね。気付かなかった?切迫流産の危機だったのよ」
「流産?」
麻田は妊娠の兆候に全く覚えがなかったうえに、一種異様なまでに神経を集中していたため、自分の身体の異変に気付かなかったと見える。生理がないことさえ忘れていた。
課長の奥方曰く、自分は子宮を摘出したために子供が出来ない。麻田にとって出産は高齢出産というリスクを伴うものの、子供が産める機会があるのなら、是非産んでもらいたい、というのが市毛夫妻の考えだった。
そのためには、今回の絶対安静を守ることから、子供を守る一歩が始まるという。歩かない、車椅子も最小限。弥皇に逢いたいだろうが、医師の許可を貰い、ある程度身体が落ち着くまでは毎日出歩くことは避ける。
「いい?折角授かった命なんだから、大事にして。ああ、このことは市毛と私しか知らないから。他には洩らさないでちょうだいね、ご実家もダメよ。ご実家と県警への連絡は、市毛の方で動くから」
「はい、了解しました。色々ありがとうございます。課長にもよろしくお伝えください」
その時、麻田は気付かなかった。
何故課長は、サイコロ課のメンバーに自分の入院を知らせなかったのか。切迫流産で入院したと言えば、捜す手間は省けるはずだ。例え後日何らかの沙汰があったとしても、メンバーたちが連帯責任を負うわけではない。
麻田は、医師の了解を取り、弥皇の病棟と部屋番号を聞いた。
お腹に力を入れないように気遣いながら車椅子を動かし、弥皇の部屋を目指す。今迄乗ったことも無いからわからなかったが、車椅子を動かそうと思うと、結構お腹に力が入る。なるべく力を分散させ車椅子を動かそうと工夫する麻田。
いつも走ってばかりいる自分が車椅子など、もどかしい気持ちで一杯だったが、お腹の命、と言う言葉を思い返し、ゆっくりと進める。やがて、弥皇の部屋の前に着いた。警護の警官がいたので、弥皇の部屋は遠くからでも直ぐに分かった。
それでも、ゆっくりと進む。警官たちの前に着いて、警察手帳を見せ了解を得る。ガラガラ、という音とともに、引き戸が揺れた。
そこも個室だった。
被害者だから当たり前といえば当たり前なのだが、個室は、寂しがり屋の弥皇にとってこの上なくつまらないことだろう。余程怪我も酷かったに違いない。最近やっと此処に移ったと聞いた。カーテンを引こうとしたが、お腹に力が入ってしまう。カーテンをそのままに、弥皇が背中を見せてベッドに横たわる姿を見た。
「弥皇。弥皇くん」
眠っていたのか、返事がない。まさか。一瞬、最悪の事態が脳裏を過る。
そんなことを考えていると、向こうを向いていた弥皇の声がした。
「麻田さん。どうして危ない真似したんです」
「ああ、良かった。生きてた」
麻田は安堵の溜息を洩らす。
「死んでません。でも、怒ってます。単独で動くなんて危なすぎる」
「だから罰が当たったみたい」
そっぽを向いていた弥皇が振り返った。
「あ、いてて。傷、痛ってえ。罰って何?どうしたんです?どうして車椅子?怪我したんですか?」
「あのね、赤ちゃんが出来たって。でも切迫流産の危険があるから絶対安静って」
弥皇が声に出さず、涙だけ零れさせて泣きだした。起き上がれないが、お腹に触りたがる。麻田は、もう少ししてお互い車椅子で歩けるようになったら行き来しよう、と約束した。
もう、絶対に自分を粗末にしないことも約束した。
生まれくる命のために。
サイコロ課では、清野の逃走経路及び潜伏範囲を狭めて行動に移りつつあった。麻田の予想した通り、最終的に麻田を狙ったものと思われる。麻田宅近辺を、変装しながら歩く姿が防犯カメラに写り込んでいた。市毛課長が言う。
「清野が弥皇の入院先を知れば、病院に向かう可能性も否めない。病室には動けない状態の弥皇がいる。情報は、断じて漏れてはいけない。一方の麻田は、依然として行方が知れない状況だ。麻田は弥皇の入院先を知っているが、そこには近づかないだろう。いずれ、誰かが弥皇の病院に近づけば、その人物が重要参考人になるからな」
神崎が何処から持ち込んだのか、警棒をぶんぶんと振り回している。
「どうして麻田さんは近づかないとわかるんです?」
「一度行ってから姿を消したんだ。一番解り易い参考人聴取ができるだろ。ましてや、弥皇が転院したかもしれないじゃないか」
「転院したんですか?弥皇さん」
神崎の問いに、課長は素っ気ない。
「俺も顔を出してないからわからん。ご家族に、くるな!って、物凄い剣幕で怒鳴られた」
二日後。
ミーティングルームに集められたメンバーたち。課長からの指示が飛んだ。
「麻田と連絡が取れた。今日の夕方、近くの公園でなら会う、ということだ。俺が行く」
「清野の逮捕は警視庁所轄に任せてある。我々は後方支援だ」
「今回特別に拳銃携行の許可を取った。万が一武器を使う際も、過剰防衛にならないよう充分に気を付けてくれ」
課長の号令の下、夕方を待つサイコロ課メンバー。
和田の中では違和感がもやもやと湧き上がる。
麻田さんがそんな陰でこそこそするか?と。あの人は堂々と人前に出るタイプだ。何か違う空気が辺りを包んでいる。違和感バリバリの和田。
夕方、麻田らしき私服の女性が現れた。でも、何か違う。髪の毛がサラサラしていない。ということは、やはり麻田ではない。もしかしたら、清野?
和田が遠目に確認しようとした瞬間、信じられない光景がメンバーの目の前に広がった。
一発の銃弾が女性の額に命中したのである。
驚いた皆が近づき、生死を確かめようと顔を確認する。和田の想像どおり、撃たれたのは清野だった。驚くサイコロ課のメンバー、そして、所轄の人間たち。ナイフしか武器を持たない脱走犯人を狙撃する事が、果たして許されるのか。
そして、誰の銃から発射された銃弾なのかも不明だった。麻田が真っ先に疑われた。線条痕が麻田の拳銃とよく似ていたのである。
麻田犯人説が取り沙汰される中、市毛課長の証言により、清野殺害時刻、麻田は某病院に入院し絶対安静の診断を受け、見張りの警官も付いていたことが報告され、麻田のアリバイが成立した。
麻田さんが入院し絶対安静、あの人にそんな傷を負わせられる人がいるのか、と和田は驚きを禁じ得ない。須藤も同様の考えだったようで、その話を真に受けているのは神崎だけだった。牧田は無関心といった風情で話に交じってこない。
では、誰が犯人なのだろう。
和田は密かに、自分が襲われた案件と、今回の弥皇案件には関わりがあるような気がしていた。清野射殺事件は、物証はあれど犯人像すら不透明なまま、表立っては捜査をしていたが、裏では幕を引く形となったのだった。
麻田の妊娠は、市毛課長と奥方殿しか知らない。切迫流産も予断を許さないことから、一般病棟ではなくNICU近くの個室に移らせ、看護師たちの目があり、尚且つ女性警官が張りつける場所を選んだ。動けるようになってきた弥皇は麻田に会いたがったが、課長から一時的に止められていた。麻田が起きかねないという単純な理由を付けたが、別の理由があった。
警察病院に弥皇が入院していることは周知の事実であるが、麻田の入院は伏せられていた。犯人に身重の麻田を襲わせないためにも、市毛課長は弥皇の動きも封じる必要に迫られていた。
◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇
結末は、意外な場面であっさりと終わってしまうこと方が多い。
劇的結末など、ドラマや小説の中だからこそ、面白く感じるのかもしれない。
清野事件以降、事件らしい事件もなく、データ入力のみで毎日過ごしていたサイコロ課。ある日、市毛課長が朝早くから出勤していた。次々と出勤してくるメンバーたち。
課長は、ある資料をひらひらとさせ、データ保存用のUSBメモリを取り出した。そして、声も出さずに課内を暗くして、データ内のファイルが壁に移る様にした。それは、紛れもない重要書類を某国あてに送ろうとした、スパイ容疑データの全容。そして次に出たのが、サイコロ課人に黙って取り付けた隠しカメラの様子。
そこに写っていたのは、なんと牧田だった。
牧田は瞬時に市毛課長に向けナイフを構えた。
しかし、同時に素早く動いた須藤の拳銃が、牧田のこめかみを狙っていた。須藤は上層部からの意向を受け、市毛課長と共にスパイ容疑者確保の任に就くため、警視庁との兼務扱いで捜査権を持ち、銃の携行を許されていたのである。
「さて、あんたは何をするつもりなのかな」
「別に、何も」
牧田は暴れることもなく、ナイフを取り上げられ、須藤によってその手に手錠を嵌められた。
市毛課長は椅子に深く腰掛け、皆の方に背中を向けたまま話し出した。
「上層部から請け負った仕事があってな」
それは、スパイ容疑とサイバーテロ容疑の被疑者特定。
容疑が掛けられたのは、総務課牧田、サイバー室清野、科警研神崎。サイバーテロはサイバー室から清野が異動した途端終わったため、清野を被疑者と断定していた。清野は素行も悪く仕事をしないため、サイバー室でも扱いに苦労していたという。
一方、スパイ容疑は時間が掛かった。牧田傷害事件、和田傷害事件、麻田狙撃公言、弥皇傷害事件。次々と傷害事件が起こる中、一番に苦労したのが動機づけとストーリー展開。
神崎には、過去に個人的な嫌がらせ行為があったものの、今回のスパイ対価としてメリットが然程感じられなかった。それでも、弥皇傷害事件については男性の犯行という見方も強く、科警研での機器類操作や、多方面に亘る知識の豊富さも相俟って、一種の快楽犯という見方があった。
牧田の場合、市毛に対する恨み、市毛の妻に対する嫉み、麻田に対する嫉み、和田に対する憎しみ、麻田を愛する弥皇への複雑な感情。加えて25年前の事件を公にした目的は、一義的には市毛の現状を不利にすることだった。
加えて、牧田の夫の事件の場合、小山内殺人に係る殺人罪の懲役刑は15年前後。そう、もし殺人と断定されていれば、或いは牧田の夫が生きていれば、2010年に刑事訴訟法が改正される前に服役を終え、戻っていたはずだった。
実際には無理心中にて故人となり、小山内の遺族も訴追を望む気配も無く今迄生きてきた。
これが、不倫していた小野寺まで手にかけたとなれば、故人であっても民事訴訟法の訴追範囲となり、小野寺の遺族は損害賠償を求めたかもしれない。また、刑事訴訟法でも訴追は免れない事実になったであろう。2人殺して無期懲役、3人殺せば死刑という枠は取り払われつつあったのが実情だ。
刑事訴訟法による訴追は覚悟しただろうが、牧田にとっての問題は民事訴訟法にあったと推察される。そして、次の麻田の事件を噂で終わらせない布石とするために、25年という節目をもって、自分を裏切った夫を晒し物にした。
それが牧田の本心だった。
麻田を愛する弥皇が金持ちだという噂も牧田にとって面白くない材料だったが、弥皇は応対において隙を見せない。子供と同年代の和田に不満を言われると、子供に責められているように感じ、余計喧嘩腰になった。以前からスパイの仕事に誘われており、自由になる金も欲しかった。
サイコロ課以上の様々な内容が総務部のデータベースには保管されている。暗証番号や指紋認証、ログイン画面などは、どこの部署に移っても使えるよう、上層部の管理者のものを使っていた。翻訳は本職であるから、難しいことはない。暗号文を使用し内容を伏せ、相手にメールを送る。
最初は報酬が金銭だった。が、途中で気が変わった。殺人を依頼してみた。相手はすんなりと受けてくれた、それなりに重要なデータさえ送れば。
「以上が今回の人事の内情であり、請け負った仕事だ。決着は着いた」
牧田が叫ぶ。
「何よ、善人面して。あたしは貴方さえ葬れたらそれでよかったの。次々と課員を襲う計画は目くらましだもの」
市毛課長は黙っていたが、手錠を握っていた須藤が凄む。
「お前さん、何処まで腐ってんだか」
「須藤、貴方に関係ないでしょう。それとも愛する麻田の危機に直面して焦ったの?」
「麻田を愛してんのは弥皇だろ。俺はもう、恋愛感情ねえぞ」
「ふん、舐めんじゃないわよ。判るんだから」
その時、警視庁公安部外事二課から2名の警察官が牧田の身柄拘束のためサイコロ課に到着した。牧田は、もう叫ぶことなく、そのまま警視庁行きの車に乗った。
サイコロ課内に、男性が4人。
ポカーンとする和田。
「僕が子供と同じ年だから喧嘩してたってことですか?信じられない、クソババア」
「俺は犯人が神崎だと思ったんだが」
課長の言葉を聞いた神崎が、肩を竦めて過去の行いを心から悔いていることを皆に明かした。元カノ夫妻が、現在元気に暮らしていれば自分としては満足だと言う。
課長が神崎を上から下までチェックする。
学生時代から大会で鳴らした射撃の腕前。ただの青年ではない筋肉の付き方。相当鍛えていると思ったという。ITにも詳しい知識を持ち、英語も達者、医学、薬学にも通じている。科警研にてその総てを持て余し、サイバーテロ犯と間違えられサイコロ課に来た。牧田のミスリードだったのかもしれないが、余計に被疑者として見てしまった読み違いはある、と。
「麻田が居なくなる分、体力派の須藤を呼んだんだが、お前もどうして。その分マル被としてみた部分もあった。申し訳ない」
和田もちくりと針を刺す。
「最初に清野さんの片棒担いだでしょう?あれで一気にヒール扱いになったんですよ」
神崎は一生懸命、己を擁護する。
「だって、麻田さんは各種大会の優勝者で猛者だしSPのチーフですよ?怖いイメージしかなかった。それに比べて清野さんは弥皇さんのこと好きそうだったじゃないですか」
そして和田にカウンターパンチを喰らっている。
「真逆ですよ。清野さん、お金の亡者だったし。麻田さんのほうが全然真面。また来ないかな、麻田さん。無理か。弥皇さんいるし」
最後に市毛課長がアドバイスする。
「お前のキャラは何となくわかってきた。神崎、お節介はやめておけ。トラブルになる」
「トラブルメーカー?そういえば科警研時代もよくトラブル起きてたなあ、周りで」
市毛は、皆に知らせないまでも、事件の特殊性を考察していた。
事件のあらまし、特に麻田の動きは誰も予想できなかった。
牧田はおろか須藤でさえも。市毛が麻田の部屋にいたのは、麻田の読みどおり、清野が潜伏した場所の1軒だったからだ。
そこには、清野の記したメモが残されていた。弥皇と麻田が写ったスナップの額縁の中に。牧田に逃がしてもらったこと、牧田がスパイ=イコール真犯人であること。
それでも、清野が残した証拠をどこまで信じるだろうか。1度失われた信用を取り戻すのは容易ではない。牧田は、そこまで考えて清野を泳がせていたに違いない。
和田を非常階段から突き落とし、声を変成させて消防に連絡したのも牧田。清野の病院から和田が急ぎ帰るのを目にして自分も戻り、方位に神経を配らなかった和田を見つけた。非常階段の手すりを使い、テコの原理で下半身を浮かせれば下に落ちる。
何故助けるような真似をしたかと言えば、牧田傷害事件と和田傷害事件でどちらも現場に居合わせ、尚且つ自分は犯人と違う位置に立てば、己のアリバイは完璧になる。誰も牧田を疑うことなく、総ての罪を清野に被せることが出来る。
3階の非常電源が復活しなかったのも、殺人依頼の前振りとしてマフィアに資料を流したのだろう。
清野が射殺された暁には暫くマフィアとの癒着を押し留め、時が満ちたら、また情報の横流しを始めるつもりだった。大体そんなところか。
あとは、弥皇の事件。牧田は、パーティーの時間と弥皇が最速で戻れる時間を総合して、時間を割出し、マフィアを通じ闇ルートで入手した車の鍵を清野に差し入れ、メモに『取り調べ中に具合が悪いフリをして、警官が1人になった隙に逃げろ』と「清野脱走事件」を起こした。その後、事件性を装って弥皇のマンション管理人室に行き、家族のふりをして鍵を借り、弥皇の帰りを待ったのだろう。
弥皇の傷が少し深すぎるという医師の話から、サイコロ課では和田や須藤と協議した結果、女性の犯行ではないという結論に至った。
では、犯人は誰か。それこそが牧田狙いどころだった。神崎の過去を洗い出したところ、射撃や医学、薬学など次々と出てくる知識。
これらは、科警研メンバーとしても有能ではあるが、闇のフィクサーとしても有能な証。神崎を犯人に仕立て上げれば、か弱い自分は除外される。清野の暗殺は、麻田が行おうがマフィアが行おうが問題はない。
線条痕など、過去のデータを弄ればどうにでもなると過信していたようだ。だからこそ市毛が麻田の確保に全力を挙げたことまでは、牧田自身、知らなかったらしい。
麻田のいうとおり、心理的に、女性の憎しみターゲットは、ほぼ100%女性である。麻田に対しては、武術的では全く敵わないという嫉みがあったのか、それはわからない。だから逆に弥皇を狙い、麻田から大切なものを奪おうとしたのかもしれない。
女性は一般に非力と思われがちであるが、体重40kgほどの女性でも洗濯機を持ち上げたりするという。要は、どれだけターゲットに集中するかなのだろう。弥皇がしゃがんだときに行われた犯行だったが、その結果として、『犯人は男性』と思わせることに成功したのだから。
そう、ネコ科の動物は、メスがハンターだ。