幼なじみの、好きなひと
まったく、陽太のやつ、しょうがないんだから。
始業前の教室は、がやがやと騒がしい。
陽太に体操着袋を届けるために、わたしは、となりのクラスにやってきた。
家を出たところで陽太のお母さんにつかまって、託されたのだ。陽太のやつ、玄関先に置きっぱなしにしたまま登校しちゃったんだって。
陽太とわたしは、家がとなりどうし。おたがいのお母さんも仲良しで、小さいころからきょうだいみたいに育ってきた。
だからわたしは、こんなふうに、しょっちゅうあいつの面倒を見るはめになる。
陽太は、自分の席でぼんやりしていた。頭のうしろのほうの髪が、ぴょこんとはねている。ほんとに、しょうがない。
わたしは陽太の机の上に、体操着袋をどさっと置いた。
「忘れ物。いい加減ちゃんとしてよね」
陽太は無反応。赤い顔してぼーっとして、心ここにあらず。
「お礼は?」
「ありがと……」
ぜんぜん気持ちが入っていない。
「具合悪いの? 保健室いけば? 連れてってやろうか?」
「いいよ。おれの病は養護の先生にも病院の先生にも治せないから」
「寝ぼけてんの?」
陽太はゆっくりと首を横にふった。
「おれさ。好きな子ができた」
「は……?」
頭をがつんと殴られたみたいな衝撃。
教室にあふれかえっていた音が、一瞬で、消えた。
「おい。おい、花菜、聞いてる?」
「き、聞いてる聞いてる」
ようやっと、われにかえった。
「まじで可愛いんだよ。天使なんだよ。あの子のことを考えて、おれは夜も眠れない」
陽太はため息をついた。
本気か。本気、なのか……。
「で、だれ?」
「花菜もよーく知ってる子」
陽太がひかえめに指さした先にいたのは。わたしの親友、佐倉亜里沙だった。
亜里沙は最近、髪を切った。
背中まであるさらさらの黒髪をばっさり切って、ボブにしたのだ。
前髪も、眉上ぱっつん。本人は切りすぎたって気にしてるけど、陽太的には、好みどんぴしゃだったらしい。
「あんなに可愛い子だったなんて、なんで今まで気づかなかったんだろう」
だってさ。鼻の下伸ばしちゃって。
亜里沙とわたしは、同じ吹奏楽部だ。入部したその日にすぐ意気投合した。以来、ずっと仲がいい。バカなことも真面目なことも話すし、休みの日にはふたりで遊びに行く。
だから、陽太はわたしに、協力してくれって頼みこんできた。
どうしても亜里沙と仲良くなりたい、って。
ほんとに、世話の焼ける幼なじみ。
はあーあ、とため息をつくと、わたしはトランペットと譜面台を片づけはじめた。
「清水、今日はどうしたんだ?」
話しかけられて顔をあげる。菊池先輩だ。
わがトランペットパートの3年生で、吹奏楽部長。やさしいし楽器はうまいし、成績は優秀。端正な顔立ちにすらっとした体躯は、まさに少女まんがの世界から飛び出してきた王子様って感じ。
「ずっとぼんやりしてるし、悩みごとでもあるんじゃないのか」
先輩はかたちのいい眉を寄せた。
「今日はたくさん迷惑をかけてすみません」
わたしはぺこんと頭を下げた。
パート練習にも集中できなかったし、合奏でもミスを連発してしまった。
「別に謝らなくていいんだよ。ただ、珍しいなって思ってさ」
いつも真面目で一生懸命な清水が、と先輩はつづける。
なにも言えないでいると、先輩は苦笑した。
「ま、こんな日もあるよな」
こんな日もある、か……。
しっかりしなきゃ。わたしは自分のほっぺたを両手でぱしっとはさんで気合を入れた。
校舎を出て、オレンジ色に染まる空の下、亜里沙と並んで歩く。
部活のある日は、毎日、亜里沙と一緒に帰っている。
「ねえ、亜里沙」
「ん?」
亜里沙は歩きながらも、自分の前髪をしきりにさわっている。よっぽど気に入らないんだな。その髪が可愛いって思ってる男子もいるのに。
「亜里沙ってさ。どういう子がタイプ?」
「それって男子のこと? だよね。どうしたの、急に」
「ちょっと気になって」
「あたしは、クラクションズのともやんひとすじだよ。知ってるじゃん」
何を今さら、と言いたげに亜里沙はわたしを軽くにらんだ。
クラクションズは亜里沙がはまっている若手漫才コンビ。ともやんは、ツッコミのイケメンのほう。暇さえあれば亜里沙がネタ動画を見ていることもわたしは知っている。
「いや、そういうんじゃなくって。もっとこう、リアルなやつ。クラスの男子とか」
「ともやんはリアルじゃないの?」
亜里沙はほおをふくらませた。
ダメだ、こりゃ。
家に着いたころには、すっかり日も暮れていた。ドアを開けると、夕ご飯のいいにおいがする。
「ただいま……」
「おかえり花菜」
わたしを出迎えたのは陽太だった。
「なんであんたがいるのよ」
「今日、おれ、部活休みで。倫太郎と遊ぼうと思って来たらさ、おばさんがご飯も食べて行けば、って」
陽太ぁ、と、倫太郎が陽太の足にしがみついている。
年の離れたわたしの弟、倫太郎は今年4歳。陽太にすごくなついている。小さい子どもと遊ぶのが好きな陽太も、倫太郎をすごくかわいがっている。
倫太郎はぴょこぴょこと跳ねた。
「陽太、今日、泊まってって!」
陽太はにっかり笑うと、倫太郎を抱きあげる。
「明日学校だからだーめ。金曜ならいいよ」
「やった!」
「やった、じゃない! ダメに決まってるでしょ!」
ムキになって声をはりあげた。何考えてんの!
「おねーちゃん、こわい」
倫太郎がわたしをにらむ。
「こわーい」と、陽太もわざとらしくおびえてみせた。ほんっと、むかつく。
結局、わたしの家族と陽太は一緒に食卓を囲んだ。
陽太の両親は仕事でいつも遅いから、小さい頃からよくうちでこうしてごはんを食べたり、時には泊まったりもしていた。
わたしも陽太の家でいろいろお世話になったし、それはお互い様。
でも、さ。もう中2だし。
同い年の女子の家に、家族同然って感じで入りびたるの、よくないと思うんだよね。
しかも陽太には、好きな女の子がいるのに。
食事がすむと、お礼にと、陽太は洗い物を完璧に済ませた。ふだんぼーっとしてるくせに家事の手際だけはいい。
わたしが自分の部屋に行こうと階段をのぼっていると、陽太はついてきた。
「あんた、いい加減帰れば」
「佐倉さんのこと聞いたら、帰るよ」
そんな、ごはんを待ってる犬みたいな目をしないでよ。
わたしはため息をつくと陽太を部屋に入れた。
「好みのタイプはクラクションズのともやんだって」
「は? 誰? 芸能人?」
わたしはポケットからスマホを取り出すと、クラクションズのネタ動画をみせた。
「どっちがともやん?」
「ツッコミ。背の高いイケメンのほう」
「ツッコミ……。おれ、どっちかっていうとボケだよな」
「まあね」
「背はわりと高いだろ? 顔は? イケメンじゃないよな? おれ」
「そんなこと、わたしに聞かないでよ」
わたしの感性は、たぶん、一般的なそれと大きくずれている。
「それより早く帰って」
むりやり、陽太を追い出した。
ぱたんと背中でドアをしめて、もたれかかる。
陽太はイケメンだよ。
世界中で、そう思ってるの、わたしだけだろうけどさ。
あーあ。わたしって、バカみたい。
バカなわたしは、律儀に、「陽太と亜里沙を近づけよう作戦」を練り続けた。
やはり、ベタにダブルデートとか……?
陽太と亜里沙でしょ。それから、わたしと……、うーん、だれもいない。
気が滅入る。なんでわたしがあいつの世話を焼かなきゃいけないんだろう。
幼いころからしみついた性のようなものだ、これはきっと。
結局、日曜日に映画に行くことにした。幸い、わたしたちも陽太も部活は休みだ。
亜里沙は、今話題になっている青春アニメが観たいと言っていたし、ちょうどいい。
繁華街にある映画館の前で、待ち合わせ。
陽太も来るんだけどいい? と言ったら。亜里沙は「花菜がいるならべつにいいけど……」と了承してくれた。
まだ5月なのに、今日は日差しが強くて、まるで夏みたいだ。亜里沙は羽織っていたカーディガンを脱いで、半袖Tシャツ一枚になった。
亜里沙、色白で、肌がきれいだな……。わたしは思わず、自分の手の甲を見た。運動部でもないのになぜか日に焼けている。比べるんじゃなかった……。
やがて陽太が現れた。
「ちょっと、遅いんだけど」
「ご、ごめん」
せっかく亜里沙とのデートをセッティングしてあげたのに。
陽太のやつ、髪にワックスつけてる。さてはそれに時間かかったんだな。慣れないことするからだよ。陽太のくせに。
「行こう」
わたしは亜里沙の手をひいた。陽太は赤い顔してがちがちに緊張している。
奥から、陽太、亜里沙、わたしの順番で座席に座る。
やがて予告編が始まった。陽太はスクリーンに見入っている亜里沙の顔を、ちらちら見ている。
さて。おじゃま虫は本編が始まる前に消えますか。
亜里沙のひじをつつく。
亜里沙がわたしを見るやいなや、わたしは苦悶の表情をうかべて、脇腹を押さえた。
「ごめん。おなか痛くなってきた。トイレ行って来るね」
「大丈夫……?」
うなずくと、よろよろと席を立つ。
そして、そのままわたしはふたりのもとへは戻らなかった。
映画館を出て、繁華街をぶらぶら歩く。
あーあ。あの映画、わたしも気になってたやつだったのにな。チケット代、あとで陽太に請求しようかな。こんな役目、割に合わないよ。
今頃、亜里沙と陽太はふたりきり……。
5月のあかるい光にあふれた街並みが、楽しそうに笑いながら行きかう人たちが、だんだんにじんでぼやけていく。
立ち止まって、きゅっと、涙をふく。
ふたたび顔を上げた、その時。
「ねえ。きみ、ひょっとして中学生?」
高校生か、大学生か。わかんないけど、年上の、チャラそうな男ふたり組が、目の前にいた。
「え、えっと……」
足がすくむ。
「かーわいい。ひょっとして、ナンパされるの初めて?」
ナ、ナンパ?
「ひとり? 泣いてたけど、彼氏に振られちゃったとか?」
「おい、そんなずけずけ聞くなよ。ごめんねー、こいつ、デリカシーなくってさ」
へらへらと笑ってる。ど、どうしよう。
「おれたちこれからメシ行くんだけど、いっしょにどう? おごるし」
「あ、あの」
後ずさりすると、いきなり腕をつかまれた。
「気晴らししようよ、パーッと」
どうしよう。怖い。のどが固まったみたいに、声が、出ない……!
助けて。助けて……。
「花菜! 花菜ーっ!」
わたしを呼ぶ叫び声がしたのは、その時だった。
陽太……!
陽太がすごい勢いで駆けてきて、わたしと男の間に割って入った。
「花菜に触ってんじゃねーよ!」
男を鋭くにらみつける。
まるで、唸っている猛犬のようで。いつもの陽太じゃない。
「なーんだ。彼氏いたんじゃん」
男は気の抜けた声を出した。
「まあまあ落ち着いて。おれたち、自分で言うのもなんだけど、そんな悪い奴じゃねーし。彼氏いる子に手ぇ出さないよ」
へらへら笑うと、じゃーね、と立ち去っていった。
とたんに、膝がくずおれて。その場にへたりこみそうになったのを、はしっと、陽太が腕をとってささえた。
さっきの男たちに腕をとられたときは、あんなに怖くて気持ち悪かったのに……。
陽太だと、ちがう。ほっとする。
「おまえ、何やってんだよ」
陽太の声がいつもより低い。怒ってる……?
「え、映画は……?」
「途中で抜けてきた。花菜がいつまでも戻ってこねーから。佐倉さんも心配してたけど、おれが探すからって言って、先に帰ってもらった」
「な、なんで……? せっかく、ふたりきりにしてあげたのに」
「ハラ痛いとか言ったら心配するに決まってんだろ! すげー具合悪そうだったって、佐倉さんが」
しまった。わたし、迫真の演技すぎたんだ。
「スマホの電源も切りっぱなしなんだろ? ぜんぜんつながらねーし」
「ごめん。でも、なんでこんなとこまで探して……」
「なんか、イヤな予感したんだよ。つきあい長いからかな? 当たったし」
「ほんとに、ごめん」
来てくれて、よかった。うれしかった。
「佐倉さんにあとで電話しとけよ?」
「うん」
「おれも、……ごめんな」
陽太はふっと表情をゆるめた。
「花菜にばっかり頼って。これから、自分で何とかするから」
こくりと、うなずいた。
自分で何とかするって、亜里沙のことだよね。
さっきわたしを助けてくれた陽太の背中。いつの間にか、大きくなってた。
わたしのことを守れるぐらい、大きくなってた。
「がんばって。陽太ならきっと、亜里沙のこと、振り向かせられるよ」
きっと亜里沙も陽太のことを好きになる。
それぐらい、陽太は。
かっこいい男の子だ。
スマホの電源を入れると、陽太と亜里沙からの着信がいっぱいで、胸が痛くなった。
家に帰ると、すぐに亜里沙に電話をかけた。ごめんね、亜里沙。
「じゃあ、おなかは大丈夫なわけ?」
「うん。ぜんぜん平気」
電話の向こうで、ふーっと、息をつく音がする。
「なんでうそついたの?」
「…………」
「まさか、わたしと今井くんをふたりにするため、……とか?」
ば、ばれてる。
ふたりして、長い間、黙り込んでしまった。
その沈黙をやぶったのは、亜里沙だった。
「私ね。実は、菊池先輩に告白されてるんだ」
「えっ」
いきなりの重大発言に、わたしはことばを失った。
完璧王子の菊池先輩……。憧れてる女子は、もちろんいっぱいいる。
彼女いないのが不思議だったけど、本命は亜里沙だったんだ。
「で。亜里沙はどうするの?」
「今、返事を待ってもらってるとこ。迷ってたけど、OKしようと思ってる」
「じゃあ……」
「だからね。こういうこと、もう、しないでほしいっていうか。その……。今井くんにも、それとなく伝えておいてくれる?」
「う、うん」
通話を終えたあとも、わたしはスマホを握りしめて、ぼんやりしていた。
菊池先輩じゃ、どうがんばっても勝ち目はない。
陽太……。悲しむよね。
その日の夜は、眠れなかった。亜里沙をちらちら見ていた陽太の赤い顔とか、「花菜に触ってんじゃねーよ」と言ったときの、陽太の背中とか。声とか。
ぐるぐる回って……。
胸が痛い。
陽太がほかの女の子とつき合うことよりも。陽太が悲しんだり、傷ついたりする顔を見る方が、ずっとずっといやだ。
いつも笑っていてほしい。たとえ、わたしのとなりにいなくても。
つぎの日。亜里沙は、先輩と正式につき合うことになった、と真っ先に報告してきた。
「どうしよう。つき合うって、どんな感じなのかなあ」
亜里沙はそわそわと落ち着きがない。
「先輩のファンの女子に、イヤなこと言われたりしないかな?」
「そしたらわたしに言ってよ。亜里沙のこと守るから」
となりのクラスの、亜里沙の席で、そんなことをふたりでこそこそ話していたら。
視線を感じた。
陽太だ。陽太が、こっちを見ている。
わたしと目が合うと、陽太は、さっと目をそらした。
亜里沙のことを見ていたんだ。
報われないのに。亜里沙はべつの男の子の彼女になったのに。
授業中。わたしは、ぼんやりと、窓の外で揺れている葉桜をみていた。
時折吹きこむ風には青い匂いが混じっていて、胸が苦しくなる。
どうやって伝えよう。亜里沙と先輩のことを……。
お昼休みになっても、いつものように友達とおしゃべりする気にはなれなくて。ひとり、ぼんやりと、英単語帳を眺めて勉強しているふりをしていた。
「花菜」
呼ばれて、顔をあげる。陽太だ。
「……なに?」
「今日さ。吹奏楽部、何時ごろに終わるの?」
「たぶん、6時すぎぐらい」
「おれのテニス部もそれぐらいだから、待っててもいいかな」
「……どうして?」
陽太はなにも答えない。きまり悪そうに、わたしから顔をそらすだけ。
「亜里沙といっしょに帰りたい、とか?」
「佐倉さんは、その」
「亜里沙は、だめ」
陽太が何か言いかけたのを、わたしは強いことばでさえぎった。
「亜里沙はだめだよ。もっといい女の子、いっぱいいるから。なんなら紹介するから」
「花菜……?」
「だから、亜里沙を追いかけるのはやめて」
「どうしたんだよ、急に。おまえ、佐倉さんのこと嫌いなわけ?」
「そんなんじゃ……」
「あんなに仲良さそうなのに。何があった?」
まっすぐに、見つめられる。
言えない。やっぱり、言えないよ。
わたしは、がたんと音をたてて立ち上がった。
「とにかく。うちの部が終わるの、待ってちゃだめだから。わかった?」
言い捨てて、教室を走り去る。
たぶん今日、亜里沙は先輩といっしょに帰る。陽太に、そんなふたりのすがたを見せたくない。
勢いにまかせて階段を一気に駆けおりると、わたしは、ぐっと、涙を飲みこんだ。
「花菜っ!」
陽太。追いかけて来ていたんだ。
「なんで泣いてるんだよ」
「泣いてなんか……」
飲みこんだはずなのに、勝手にこみあげてくる涙。くやしくて、わたしは乱暴にぬぐった。もう嫌だ。こんなに痛いのは、もう、嫌。
「ねえ、陽太」
陽太のカッターシャツの、腕のところを。そっと、つかむ。
「わたしにしなよ」
「え?」
「わたしにしなよ。前髪短いのが好きなら、切るから。ね?」
ずっとずっと、胸に秘めていた気持ちを。
こんなふうに伝える日が来るなんて、思わなかった。
「花菜……」
陽太、戸惑っている。そうだよね、わたしにいきなりこんなこと言われても、困るよね。
「なーんてね。本気にした?」
わたしはにかっと笑った。ちゃんと、笑えた。
ごめんね、陽太。もう言わないよ。
放課後。
音楽室での亜里沙は、淡いさくら色のベールを身にまとっているみたいだった。恋するオーラが全身からにじみ出ている感じ。
迷っている、と言っていたけど、ほんとうは、亜里沙も先輩のことをずっと想っていたのかもしれなかった。
亜里沙のフルートが奏でる音色も、なんだか、昨日までより艶めいている。
先生がタクトを降ろして、合奏が中断した。そっと、となりに座っている菊池先輩を盗み見る。
合奏のとき、トランペットパートは音楽室の一番後ろにいるから、前方にいるフルートパートがよく見える。
先輩は、やっぱり、亜里沙のことを見ていた。
好きなひとが自分のことを好き、って。奇跡だ。
ふたりには、幸せでいてほしい。
だけど……。亜里沙のことを思って悲しむ陽太なんて、見たくない。
陽太が傷つくのを見たくないなんて、きれいごとだった。ほかの女の子のことを思って泣くすがたを、見たくないだけだ。
先生がタクトをあげる。
わたしは、さっと、ベルをあげた。
練習はいつもより長引き、校舎を出たのは6時半だった。
少し、ほっとする。陽太が亜里沙を待っていることはないだろう。
そう思っていたのに、陽太はいた。
「なんでいるのっ?」
わたしはあわてて駆け寄る。
「来ないでって言ったのに」
「でもおれ、おまえに」
「いいから早く帰ってよ」
亜里沙と先輩が来てしまう。陽太の腕を引っ張り、正門までむりやり連れて行く。
「なんだよ、乱暴だな」
「だって」
清水、と、背後から、やわらかい声がわたしを呼んだ。
おそるおそる振り返ると、やっぱり、菊池先輩だ。
先輩のすぐとなりには、亜里沙がいる。はにかんだようにうつむいていて、すごく、可愛い。もともと可愛い子だけど、今が一番、可愛い。
恋するオーラのような、さくら色のベールは、ふたりをまるごと包みこんでいる。
「じゃあな、気をつけて」
先輩がにこやかに笑う。わたしはぺこんと頭を下げた。ふたたび上げると、亜里沙が、ひらひらと手を振っていた。
「…………あれって」
陽太が、つぶやいた。
ずきんと、胸がうずく。
「佐倉さん……。彼氏、いたんだ」
「きのうから、つきあいはじめたんだって……」
わたしは力なく答えた。
ゆっくりと、歩き出す。
「それで花菜は、佐倉さんはだめだって、急に」
「……うん」
日が沈んだばかりの空の端には、まだ明るいオレンジ色が残っている。
どこかの家の、夕ご飯のにおいが、やわらかい風にのって届く。
「だから、待ってちゃだめだって言ったのに。陽太のバカ」
「バカってなんだよ。佐倉さんを待つとか、ひとことも言ってないだろ?」
「亜里沙以外に、だれを待つわけ?」
わけわかんないこと、言わないで。
となりを歩く陽太を軽くにらむ。
陽太は、ふいに、立ち止まった。
「花菜、だけど」
「…………え?」
わたしも。歩を止めた。
「花菜といっしょに帰りたいと思った。だから、おれ」
「ちょっと待って。わかんない。なんでわたし?」
「小学生のころは、毎日いっしょに学校行って、いっしょに帰ってたろ? だからいいじゃん、たまには」
「で。でも」
「ついこの間まで、佐倉さんのことを好きだって散々騒いでたくせに。虫が良すぎるかもだけど」
陽太、何を言ってるの?
じっと、続きの言葉を待つ。
「日曜。おまえ、へんなナンパ男にからまれてたろ。あれ、見たとき」
「う、うん」
助けてって強く願ったら、ほんとうに現れて、助けてくれた。陽太はイヤな予感がしたって言ってた。
まるで、テレパシーが通じたみたいだった……。
「おれ、あの時。花菜を守りたいって思った。すげー強く思った。今までおれは、いつも花菜に頼ってばっかりだった。でも、それじゃダメだって思った」
「何言ってんの!」
わたしは、とんっ、と、陽太のみぞおちのあたりを、押した。
「あんたの面倒見るのは、わたしが好きでやってることなんだから」
幼なじみのわたしに与えられた、特権だもん。
「……好き、だから」
そっと、つぶやいた。
「覚えてて。わたしはずっと陽太の味方だから」
わたしにしてよ、なんて、もう言わないから。
ただ、好きでいさせて。
「花菜」
「……ん?」
そんなにまっすぐ見ないでよ。
顔が熱くなる。鼓動が、はやくなる。
「佐倉さんのことは、見た目が好みって理由だけで、舞い上がってた。でも、おれが全力で守りたいって思うのは、その……」
陽太はわたしから目をそらさない。
そのまなざしに、今までにはなかった、新しい熱が生まれている。
「花菜なんだ。気づくのが遅くて、ごめん」
「陽太……」
ふわりと、風が吹く。
夕暮れの淡い色をまとった風は、そのまま、わたしと陽太を包み込む。
「おれ。これからも、花菜のとなりにいていい?」
となりにいていい? だなんて。
いいに決まってるよ。
恥ずかしくて。陽太のバカ、って言おうとしたけど。胸がいっぱいで、何も言えなくて。
わたしは、ゆっくりと、うなずいた。