女騎士
パカリ、と空が割れる。そんな表現を、まさか自分で使う日が来るとは思わなかった。
激しい轟音と共に、灰色の空に亀裂が走る。亀裂の奥は、暗闇だ。真っ黒な闇が、膨らみ、せり出して。
――そして、滴り落ちる。
背筋が凍り付くような恐怖が、全身を駆け抜けた。一歩、二歩、震える足で後ずさる。
「和真、これなんか、ヤバイ……」
「お前何したんだよ……」
「分かんない……」
私達の目の前で、地面に落ちた黒い塊は、ゆっくりと姿を変えていった。
狼のような姿のもの。鎧のような姿のもの。ドレスを纏ったもの。羽の生えたもの。
それらからみなぎるのは、圧倒的な、悪意。
弾かれるように、私達は店の中に駆け込んだ。
「フィーア!外が……!」
一歩先に駆け込んだ和真が、ヒュッと息を呑む。店の入り口で、フィーアが崩れ落ちていたのだ。
「ちょ、フィーア!?何でいきなり……!」
「くっそ、逃げるしかねぇ!」
さっとフィーアを抱え上げた、和真の顔が歪む。子供とはいえ、人一人を抱えて走るのは決して楽ではない。
「あぁもう、嘘でしょ……!」
和真を先導する形で、店の外に出る。しかし入口のすぐそばまで黒い怪物が迫っており、反射的に足がすくんだ。
駄目だ。自分だけ逃げられたとしても、恐らく和真は抜けられない。ならば戦う?何で?誰が?私が?
ちらり、と店の奥を振り返る。店主が倒れ込む奥、擦りガラスの窓が見えた。
「和真、窓から出よう!」
「正気か!?」
「表よりはマシ!」
近くの商品に被せてあったボロ布を被る。躊躇いに鈍る足を無理やり動かして、勢いを消して殺すことなく。私は、肩から窓ガラスに飛び込んだ。
頬や鼻筋に熱いものが走った。身体が地面を転がる。一回転すると同時に地面を蹴って立ち上がったが、うまく立てずにふらついた。
続いて、同じように布を被った和真が飛び出してきた。それを確認して、私は建物脇の路地を走り出す。
ずるり、ベしゃり、と水気のある音が追いかけてくる。やはり、遠くへは逃げられない。
誰か、誰か誰か誰か誰か。
「振り返らず、駆け抜けて」
すっと、よく通る女性の声が、不意に頭上から降り注いだ。
風を切る音と、鞘走りの金属音。灰色の空を遮って、小柄な影がくるり、と私達の頭上を舞う。
そして、黒い怪物の頭を踏み潰すように、軽やかに着地した。
怪物は体勢を崩し、地面に崩れ落ちる。その時にはもう、彼女は怪物を蹴って飛び出すと、すぐ傍にいた他の怪物を二匹まとめて切り裂いていた。
ヒュッと剣についた黒い液体を払うと、彼女は、こちらを振り返る。冷やかで端正な顔立ちだったが、右半分が前髪で隠れていた。呆然としている私達を見て、少しだけ眉を顰める。
「止まっている暇はない、すぐにまた追って来ます。走って!」
「あ、はい!」
慌てて前を向いて走り出した私達を軽々と追い越し、女性は先導して走り出した。風のように速く、そして恐ろしく強い。彼女の刀身が鞭のように跳ねると、出会い頭の怪物たちが皆地面に崩れ落ちていく。
それでも、村の外に辿り着くまで、恐ろしく長い時間がかかった気がした。
村の外れには、馬が二頭繋いであった。
「乗ってください。男性の方は抱えてる子供と一緒に、もう一人の貴方は私と一緒に」
「あ、なたは、……」
「味方です。それともここで押し問答をして、あの怪物が来るのを待ちますか」
愚問だった。私達がそれぞれ馬の背によじ登ると、女性は繋いでいた縄を解く。
「俺馬の乗り方とか知らないんだが」
「しがみついていてください。良い子ですから、手綱を引かなくてもちゃんと私の後を追いかけてきます」
そう言って、彼女は初めて小さく笑みを浮かべた。
ひらり、と女性は私の前に飛び乗り、手綱を引いて走り出す。馬の背は、思ったよりも激しく揺れる。
「私の腰に捕まって下さい。申し訳ありませんが、飛ばします」
小さく頷いて、私は彼女にしがみついた。引き締まった彼女の背中は、どこか懐かしい香りがする。
「ねぇ、私、貴方に会ったこと、ある?」
彼女が振り返る。風に吹かれて、彼女の長い前髪が舞い上がった。
自然、私の目は彼女の、今まで隠れていた白い顔に引き寄せられた。少しだけ驚き、見開かれたアイスブルーの瞳。そして彼女の右頬から額にかけて広がる、特徴的な、入れ墨。
『こいつ小学生の頃から書いてたし。アニメの影響を受けた顔に入れ墨のある騎士が活躍してた時代から知ってますよ』
つい先日、からかい交じりに話題を振ってきた和真の言葉が頭をよぎる。
どうして。いくつかの疑問と、積み重なっていた違和感が、一本の線でつなぎ合わされる感覚。
「ここは、あ、なたは……」
「あの少年は、貴方に何も伝えなかったらしい」
淡々とした彼女の声を聞く。イメージと違わぬ声。揺れに合わせて、彼女は華麗に手綱を取る。
「リストールの騎士の名に懸けて、貴方を安全な場所までお連れします。……私の名前は、覚えていますか」
たった三文字の単語を紡ぐのに、しばしの時間が必要だった。
彼女は、私が初めて『作った』子。たしか、名前は……。
「ナルダ……」
不意に、鼻の奥がツンとした。体の奥から、せりあがってくる熱いもの。
その感情が何なのかは分からない。朝、微睡から目覚めてぐずる、赤子の涙のような。恥ずかしいような、懐かしいような、悲しいような、苦しいような。
「私、なんで、ごめん、……私、ずっと忘れて……ッ」
「大丈夫ですから」
幼子を宥める母のような、優しい声を出させてしまう自分が、非常に情けない。
けれど、感情が噴出して、止まらなくて。
「日が暮れる前に、近くの街まで移動します。宿をとって、そこで話しましょう」
彼女の背中に頭を押し付けて、小さく頷く。
何故こんなに苦しいのか。何故こんなに悲しいのか。感情に押し流されるように、私は意識を、手放した。
◇◆◇◆◇
とろとろと甘く、魅惑的な夢を見る。
ぬるま湯のように心地良く、ガラス玉をちりばめたようにキラキラと輝いて、私の心を躍らせる。
ずっと求めていたのだ。掻き毟るように手を伸ばして、それを掴もうとするのに、決して届かない。
どこへ行ってしまったのだろう。私の宝物。あの頃見ていた世界は、あの頃叫んでいた言葉は。
いつ、失ってしまったのだろう。
◇◆◇◆◇
前の馬がスピードを緩めるのに合わせて、自分が跨っていた馬も、スピードを緩める。
抱え込んでいたフィーアを落とさないようにしつつ、俺は、転がり落ちるようにして馬から落ちた。
まったく無茶振りさせやがって。乗馬だって立派なスポーツだ、半日山道を歩いて、更に子供抱えて全力疾走して、挙句の果てに荷物抱えて一人で馬に乗らされるとは、もしかしたら今日が俺にとって最大の厄日だったのかもしれない。
地面に崩れ落ちていると、先程の女が飛鳥井を背負ったままこちらへやってきた。
「何かあったのか?」
「彼女なりに、今整理をつけているところなのだと思う。今は意識がないが、すぐに目を覚ます」
女の言葉に、俺は顔をしかめる。
「あんた達の話し方は部外者の俺には良く分からない。ちゃんと説明してくれ」
俺の言葉に、女は柳眉を軽く持ち上げる。
「失礼した。自己紹介から始めるべきだろうか」
「そこまで悠長な状況でもないだろ。それに一応、その顔でなんとなく察しが付く」
「なるほど。部外者が紛れ込んだと聞いたが、あながち関係がないわけでもないらしい。……詳しい話は落ち着いた場所でしよう。彼女も、そこの少年も、ちゃんとした場所で休ませなければ」
彼女の提案に、俺は素直に頷いた。この世界のことは、この世界の人間に任せた方が良い。実際騎士である彼女は、俺が下手な見栄を張るよりも遥かに頼り甲斐がある。
情けないことに膝が笑っていたため、宿の手配は全て彼女に任せる形になった。馬を預け、部屋を取りに行く間宿の前で座り込んで、部屋の手配が終わるとまた二人を抱えて部屋に運ぶ。この時は流石の女も肩で息をしていた。
二部屋手配したらしく、片方の部屋に二人を寝かしつけると、俺達二人はもう一部屋に移動する。宿の人間に茶をもらい、お互い軽く喉を潤したところで、ようやくまともに喋る気力が戻ってきた。
「さっきはありがとな。正直、流石に助からないと思った」
「礼はいい。巻き込んでしまった人間を守るのも、私達の義務のようなものだ」
サバサバとした性格は、なるほど、昔読んだ小説の印象と変わらない。
「俺は佐伯和真。あんたは、ナルダって名前だったか」
「よくご存じで。……私が出てくる作品を、未だ知る者がいるとは思わなかったな」
そう言って、彼女は寂しそうに笑う。
ナルダ――彼女は、飛鳥井有紀がまだ小学生の頃、好んで物語に登場させていた女騎士だった。黒髪を後ろで一つに束ね、冷やかなアイスブルーの瞳に、特徴的な三角の痣が右目の上下にある。性格は冷静沈着で、剣を持たせれば彼女にかなう敵はいない、王国一の若手騎士。
けれど、中学に上がって少し経った頃からか、彼女はあまり自分の創作世界の話をしなくなった。それまで何人も出てきた名前を聞かなくなり、俺は少々拍子抜けしたものだった。何俺は彼女の世界観を気に入っていたからだ。
あれから、そろそろ十年。
「察しがついているかもしれないが、ここは彼女の世界……彼女の内側だ。そして、彼女がそれを自覚した以上、私達は更に深い場所へ、彼女を誘わなければならない」
まだるっこしい表現の裏に、これ以上のことは語れないのだというナルダの意思が透けてきた。やはり、俺は邪魔者らしい。
「申し訳ないが……」
「あぁ、いい。同行できないなら俺は待ってるよ。ちゃんと帰してくれるんだろ? あんた達に悪意は感じねぇし。ここまででも、十分面白いものを見せてもらった」
それは、俺の正直な本音だった。どれだけ科学が進もうと、ここまで美しい世界を五感で味わう体験は、そう簡単に得られるものではない。それだけで既に、俺は十分満足しているのだ。
「その代わりと言っちゃなんだが、いくつか気になることがあるんだ。答えてくれるか?」
疲労のたまった体をバキバキと解しながら問いかける。ナルダはこくりと無言で頷いた。
「あんた達にはどうやら『キャラクターとしての自覚』があるらしいが、何処まで原作設定に忠実に動いているんだ?お前とあのフィーアは協力体制にあるのか?」
「最初から、答えにくい質問だな」
顎に手を当て、彼女は考え込む。そんな小さな癖が、どことなく作者本人と似通っている。
「私は、騎士だ。騎士としてこれまで生きてきたし、私の人生は私の意思によるものと思っている。けれど、自分の中に自分とは違う存在がいる感覚もある。その存在こそがこの世界の作者なのだと理解したのはここ最近のことだ。理屈とは別に、本能でやるべきことを感じている、そう言った感じだろうか」
ふぅん、と俺は相槌を打った。彼女の中には、『ナルダという騎士』の意識と『ナルダというキャラクター』の意識が混同している、といったところなのだろうか。それはそれで、興味深い現象だな、と思う。
「恐らく、あの少年も同じだと思う。あの少年が誰で、どのようにして彼女を連れて行こうとしたのかは、私は知らない。私はただ、彼女のところに駆けつけただけだから」
「そうか。ありがとう、俺からはそれだけだ」
こくり、と彼女は頷いたのち、少し迷うように視線を彷徨わせた。口元が小さく動き、ほんの少しだけ眉が寄る。
「……何か?」
「あぁ、いや、その。……貴方も、物語を作る者なのか」
こそばゆい気分ながらも、俺は頷いた。すると彼女は、曇った表情のまま、口を開く。
「ならば明日、最後に彼女と、少しだけ話をしてあげてほしい。……私は」
その悲しそうな顔を、俺は不思議な気分で眺める。
「このままではきっと、この世界の崩壊は免れないと、思っている」
「そうかな」
自然、少しだけ口の端が吊り上がる。まったく、これだからこいつは良くないんだ。
「俺はもう少し、あいつを信頼していいと思ってるぞ。有紀は、ちゃんと過去と向き合える女だ」