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幻影幽霊  作者: 池田 和美
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幻影幽霊・後編

 どこか遠くで、緊急車両が盛んに鳴らす、サイレンの音がしていた。

「ここは?」

 気がつくと叶は、アスファルトの上に引き倒されていた。振り返るとシーツがずれて、半分だけ視界が戻ってきた。

 彼女の腰の辺りに、まるでラグビーのタックルを仕掛けたように、五郎八がしがみついているのが確認できた。

 シーツから頭を出して周囲を確認すると、そこは住宅街の真ん中であった。町並みは清隆学園からそう離れている場所ではない。いつも皆でわいわいと世間話をしながら通る下校路の途中であった。

 車道の真ん中という位置でも、交通の妨害にはならない。なにせ居住者のマイカー以外は、滅多に車通りがない道なのだ。

「イロハ?」

「うむ」

 話しかけると、五郎八は叶の体にまわした腕を弛めた。

「大丈夫?」

「それがしは…」

 腰を浮かす叶とは違って、五郎八の体はそこに力なく伸びたままだった。

「能力の使いすぎだ」

 寝返りも出来ずに、どことなく悔しそうに言った。

「イロハ?」

 叶は這ったまま回れ右をした。うつぶせのままでは息苦しいかと思い、五郎八の体を苦労してひっくり返してやろうと、脇へ手を入れた。

 小柄な彼女が、標準よりも大きめの五郎八の体に難渋したが、余分に時間を消費してそれを成し遂げた。それだけの経験で、彼女を道路の真ん中から脇へ移動させることすら、出来そうもないと悟ることが出来た。

 空を向いた彼女の顔を覗き込んだ。病的にまで青ざめた五郎八は、紫色にまで変色した唇を歪めた。

「跳躍は、日に一度と決めておったのだが」

 こんなに立て続けに瞬間移動(テレポート)を使うことを想定していなかったが、パニック状態になった舞朝を捕まえることも重要だったし、いま叶に使用しなければ命の危険があった。

「いま、助けを」

 叶はスマホを取り出した。

 声を出して話すのが苦手な叶は、現在の状況を手短に作文すると、天文部全員が所属しているSNSへ書き込んだ。

 これで助けが来ると、ホッと胸を撫で下ろした時だった。二人の耳に、最悪の金属音が聞こえてきた。

 車の走行音だったら、申し訳ないが道の真ん中に転がる二人が、通行の邪魔になる。しかしこの場合は、五郎八の体調不良にも、叶の逃走にも、運転手の助けを借りることができるかもしれなかった。だが聞こえてくるのは、カラカラという中身のない金属の筒を、あるかないかの凹凸が存在するアスファルトへ引き摺る音だった。しかも、あの邪悪な呪文までもが風にのってきた。

「She come to kill me

 She come to kill me

 She come to kill me

 It’s true that

 I said three times」

 声のする方向へ顔を上げると、少し離れた街角から、黒いパーカー姿が現れるところだった。五郎八が跳躍までしたのに、どうやって追いついてきたのだろうか。やはりすでに普通の人間ではなくなっているからであろうか。

「逃げるのだ」

 トンと力なく叶の肩を突き放すようにする五郎八。叶は心配そうに彼女を見おろした。

「あやつはまず、そなたを狙うと申しておった。そなたが無事なうちは、それがしは襲われん」

 叶が泣きそうな表情をした。それに対し体の不調を耐えるかのように目を伏せた五郎八は、何度もうなずいた。

「『もののふ』として、戦うのはそれがしの役目なのだが、すまぬ」

 その無念そうな声に、叶は言葉ではこたえを返さずに、そっと彼女の髪を撫でた。

「行くのだ、椎名叶」

 叶はうなずくと、五郎八をそのままにして走り出した。

 その小さな足音が消えていく事に、ホッと一息する五郎八。彼女の視界の横を、金属バットが引き摺られていった。その丸い先が行きすぎてから、ちょっと戻ってきた。

「やあ『超能力者』」

 彼女の顔を、ナギサがフードの中から覗き込んだ。

「もう念力は打ち止めかい?」

 そのフードの中から聞こえてくる声は、とても愉しそうに聞こえた。対して五郎八は切歯扼腕の表情だ。

「キミが一番喜ぶ言い方をしてあげよう」

 喉の奥で嗤うような、とても嫌らしく余裕のある笑い声をもらした。

「まだまだ修業が足りないねえ」

 届かぬと判っていながらも、五郎八は腕を振り回した。それを易々と避けてナギサは宣言した。

「まあ焦らないで。『宇宙人』を『食べた』後に来るからさ。それまでに幾分か回復しておいてくれよ。そうじゃないと美味しく『食べる』ことができないだろ」

 とても作ったような笑い声をあげて、ナギサは悠然と歩いて叶の追跡に戻った。

 叶はシーツの裾を握りしめながら、全速力で走った。ただ運動は得意とする分野ではなかったので、小学生の徒競走ほどの距離で、もう足が鈍ってしまった。

 程なく彼女は交差点に辿り着いた。

 後ろからはナギサ。このまま進めばいずれ駅がある。駅前には毎日そこで解散する交番がある。だが、そこに辿り着く前に追いつかれるだろう。左右に交わっている道は、歩道まで備わったものであった。交通量は今走ってきた道よりも多いはずだが、見わたす限り通りかかる車どころか、歩いている者さえいなかった。

 その角に、焦げ茶色をしたタイルで外壁を飾った、低層ビルが建っていた。かつては地元の信用金庫が支店を出していた三階建てのビルである。今は、入口にも窓にも張られて久しいベニヤ板が示すとおり、無人の廃墟となっていた。

 叶は、その廃墟の正面に貼られたベニヤ板に、管理業者が出入りするために作られたらしい粗末なドアを見つけた。そこに安物の南京錠が開いたままで、ぶら下がっていた。

 このまま駅へ逃げて助けを求めるか、鍵が開いているということは誰かがいるはずの、この廃墟に逃げ込むか。それとも…。

 彼女は、ほとんど考える時間を取らなかった様子で、その仮設されたドアへ手をかけた。

 建物の中はシーンとしていた。期待していた人の気配はまったくしない。使っていないビルの割に、内装などは現役の頃のまま放っておいてあった。おそらく解体する金もケチったのであろう、融資を宣伝するポスターなどが壁に貼ってあるままだ。

 ただ机など簡単に動かせる調度品はまったく残っておらず、床に剥き出しで転がっている電線類が、まるで森の奥に生えている蔦のように、中途半端な形で浮いているだけであった。

 かつて預貯金の預け入れや引き出しを執り行っていたらしいカウンターの前を抜け、奥の階段を登った。

 上は事務室だったらしく、消えた蛍光灯が天井に一列に並んでいるだけであった。部屋の角にある出っ張りは、そこが給湯スペースであった名残で、だいぶボロいガスコンロが放置されていた。

「!」

 人影をそこに発見して叶は息を呑んだ。

 それが、その給湯スペースに置かれた鏡に、自分自身の姿が映った姿だと気がついて、シーツの上から胸を撫で下ろした。この建物が現役だった頃は、この鏡で銀行員たちは身だしなみのチェックをしていたのであろうか。

 ほの昏い室内で、異様に映える白いシーツを被った自分の姿。じっと見つめていた彼女の体が、そこで凍り付いた。

「OK, Let’s eat Fruit.

 Delicious Fruit.

 OK, I smash Fruit,

 and let’s eat.

 Let’s eat deliciously.

 It’s most delicious

 how to eat.」

 まるで古い詩を暗唱するような陽気さで、階下から声が響いてきた。間違いなくナギサの声であった。

 助けを求めるところか、ここでは逃げ道がない。万事休すというわけだ。

 叶は二階を見まわした。窓は一階と違ってベニヤ板が貼られていなかったが、彼女にとって二階でも一〇階でも、高さに変わりはなかった。これが身体能力の優れた五郎八ならば、飛びおりられる許容範囲というものがあるのだろうが、体が小学生のままで発達を止めてしまったかのような彼女には、ビルから飛びおりるなんてとんでもない事だった。

 しかも全ての窓がはめ殺しになっていた。端の方が少しだけ回転して風を取り入れられるようになっていたが、まず人が抜け出るだけの開度は存在しなかった。叩き割ろうにも、ガラスは編み目のように鉄線が入れられた頑丈な物であった。おそらく信用金庫として使用するにあたり、侵入犯を警戒してそういった造りになっていたのであろう。

 部屋の中には、かつて事務机が整然と並べられていたことを示すカーペットの跡と、天井の一部が何かの原因で崩れたのか、叶の拳ほどのコンクリート片が数個転がっているだけだ。

 叶はそれでも手ぶらよりはマシになると思ったのか、その瓦礫の一つを手に取った。

 大の大人であれば、片手で軽々と持ち上げられる質量しかなかったが、非力な彼女にとっては、両手でやっと肩の高さに持ち上げられる重さであった。

 一階のあちこちを探っていたらしいナギサの声が止んだ。いなくなったのではない。その証拠に足音だけは不気味に聞こえていた。

 その足音は確実に階段を登ってきていた。

 どうやら不意打ちに備えて慎重に登ってくるらしい。叶はその手にした武器を、ナギサが階段を登り切った瞬間に投げつけようと、息を呑んだ。

 足音は確実に登ってくる。

 叶は何度か唾を飲み込む仕草をした。だが緊張のせいか、口の中はカラカラに乾いていた。

 そして、その時はきた。

「She come to…」

 いつもの呪文を唱えつつ顔を出したフードめがけて、叶は全力で手にした武器を投げつけた。

「おっと」

 暴力に慣れている殺人鬼は一言だけそう漏らし、首だけを傾けて易々とそれをかわした。

 コンクリート片は宙を空しく飛行を続け、そして派手な音を立てた。先程彼女を驚かせた鏡が、丁度ナギサの向こう側となっていた。そこに投げたコンクリート片が命中したのだ。

 もちろん鏡であるから粉々に割れた。

「おやおや」

 標的となっていたナギサは、半分だけその破壊音に振り返った。鏡は、壁から三角形の鋭角な破片となって、床に散らばった。それらすべてに、振り返った姿が映っていた。

「だめだなあ『宇宙人』は。物を壊しちゃいけないって、先生に習ったでしょ」

 とても愉しそうに金属バットを肩に乗せた。その攻撃的でないナギサの態度に安心でもしたのか、それとも覚悟ができたのか。叶はシーツを頭から被ったままで、背筋を伸ばして殺人鬼と正対した。

「さてと」

 話しを戻すかのように一回うなずくと、ナギサはとても不思議そうに叶に訊ねた。

「こんなところにボクをおびき出して、どうするつもりだい? まさかキミ一人でボクを倒すつもりなのかい?」

「そのとおり。ここでは邪魔が入らない」

 叶は一足飛びに大人になってしまったかのような、とても落ち着いた声でそう答えた。

「は? ははは?」

 それが可笑しいのか謎なのか、両方を表現するようなわざとらしい笑い声を上げた。

「Contact」

 そのナギサの態度にまったく煩わされることなく、叶はシーツの中で両掌を打ち合わせた。それが合図であったように、まるでプールに飛び込んだかのような水音がした。それと同時にシーツの高さが半分になった。

 本来ならばシーツの高さは叶の身長分だけなければならないのに、どんな手品を使ったのか、腰程までの高さになってしまった。

「?」

 ナギサは訝しんだ。叶のシーツの裾から赤い液体が床に広がっていた。そしてボリボリという固い野菜を咀嚼するような音がした。次の瞬間には木の枝をまとめて折ったような派手な音がして、さらに高さが半分になった。

 床とシーツの境目から彼女の物と思われる右手と、髪の毛が数束覗いたが、それも誰かに引き込まれるようにシーツの向こうに消えた。

 そして、まるでいやしん坊が、床に零したジュースを、諦めきれずに啜っているような不快な音がした。それにつれて床に広がっていた赤い液体すらもシーツの向こうに消えた。

「おいおい大分悪趣味な見せ物だねえ」

 待っている身が飽きたのか、ナギサは悠然とかつて叶が隠れていたシーツに歩み寄ると、その盛り上がっている真ん中を掴んで大きく捲り上げた。

 そこには、何者もいなかった。

 赤い液体も染みすら残さずに消え、不自然にシーツから覗いた右手も髪の毛もなかった。

「トリックショウとしてはイマイチだな」

 高い金を払った客が言うような文句を口に、ナギサはシーツを捨てて振り返った。

 いつの間に回り込んだのだろう。先ほどまでナギサが立っていた階段の脇に、シーツを被っていない夏服だけの状態で、椎名叶が立っていた。トリックを用いたとしても、周囲に物が無さ過ぎた。

 彼女はどこから取り出した物か、右手の指先にゴムボールのような物を乗せていた。なるべく触らないようにしているのか、五本の指先だけで支えるように持っていた。その幾何学模様が表面に浮き出している白黒のボールは、街角で少年たちがキャッチボールに使うビニール製の物によく似ていた。

「なに? それでボクが倒せるの?」

「この『シシオドスの完全球体』には…」

 叶が半眼でボールを見つめて、そっと囁くように言った。

「『Ruruhariruの血族』が封じられている」

 するとどういった原理か、指先に支えられていたその球体は、風船であったかのようにフワリと浮き上がった。飛んでいかないように指へ結わい着けてあるわけでもないのだが、球体の上昇は数センチで止まった。

 見る間に球体表面の白黒柄が入れ替わっていく。ある時は幾筋の線の集合体であり、また次の瞬間には図形の組み合わせになっていた。

 叶の左手が動き、スカートのポケットから一冊の黒革が装丁された手帳を取りだし、片手だけでページを開いた。どうやらそこにある詩文を確認するようだ。とても静かな視線を、黄ばんだ紙の上に落とした。

 そして叶は謳った。

「From Neil to Yacht via Apples‘core.

 From Rocket to Lily via Arctic.

 From Turkey to House via Okapi.

 From Tomato to Elephant via Parrot.

 From Carrot to Octopus via Maremmano.

 From Ice to Nazis via Goose.

 From Strawberry to Orange via Onion.

 And Neputune.」

「なんだ?」

 ナギサは今まで味わったことのない感情に捉えられた。背中の中心に汗が集まっていく感覚に、いつまでもココにいてはいけないという焦燥感。

 正しく言うならば、それは未知の物に対する恐怖感であった。

 恐怖はナギサとは無縁な物ではなかった。だがそれはナギサが他人に対して与える物であり、決して自分で味わう物では無かったはずだ。

 だが現実に、正面に立つまるで小学生のように見える少女に、ナギサはそれを感じ取っていた。

 床に散らばった無数の三角形。

 見ているとその全ての鋭角から、タバコをくゆらせている時の様な、薄い煙が立ちのぼり始めていた。鏡の成分が何かの原因で発火したわけでもなさそうだった。複数立ちのぼった煙は、あるかないかの空気の動きで渦を巻いた。

 いやまるで煙自身に意思があるかのような振る舞いだった。

 割れた鏡の三角形。そのわずか上空に目に見えない入れ物が存在し、そこに紫色をした煙が溜め込まれていくような、そんな感じであった。そしてナギサは気がついた。先程の投石は、ナギサに向けての攻撃ではなくて、この鋭角に鏡を割るためのものだったということが。

 秒単位で時間が経つにつれて、その形がまるで人間のように二本の足で立つ、獣の姿をしていることが理解できるようになった。

 そう認識した途端だった。

「うっ」

 ナギサは口元を手で覆った。いつの間にか周囲に、繊維業者が使う防腐剤のような、強烈な刺激臭が満ちていたのだ。

 そしてその物は実体化した。

「我は黒魔術師のごとく命令する」

 叶は右手に球体、左手に手帳という格好のまま、静かに言葉を紡ぐように言った。

「我はヴェルハディスのごとく命令する」

 ナギサの眼前には、黒い獣のような姿をした何物かが、二本の足で立っていた。それはボタボタと全身から透明な粘着質の液体を垂れ流していた。

「我の敵を倒せ」

「Agyoee」

 叶の命令を了承したとばかりに、その獣は裂け目のような口を開いた。そこからは太く折れ曲がった注射針のような鋭い舌がのぞいた。

 それが飛びかかってくると認識したナギサは、手にした金属バットを振り回した。しかし獣は易々とそれをかいくぐり、ナギサの右肩から胸元へかけての広範囲に、一口でかぶりついた。

「自分が『食べられる』のは、どういう気分だ?」

「く、やはり『宇宙人』お前を…、お前が!」

 確実に牙がくい込んで来ることを自覚しながら、ナギサは金属バットを投げた。獣に食いつかれている体勢では、狙ったところになど届くはずもなく、それは鏡の破片の上へ落下して、チャリンという音を立てた。

 ナギサは背中へ手をまわした。

「GNYOooo」

 口いっぱいにナギサの体を頬張っている獣は、その状態で首を左右に振って食いちぎろうと試みた。その乱暴な振る舞いに、もつれる足で応えながらナギサは自分の着ているパーカーの腰付近を捲り上げた。

 デニム地のスキニーパンツへ、無造作といえるほどの角度で、一本の刃物が差し込まれていた。ナギサの右手が最初は躊躇するようにその柄にかかり、掴んでしまってからは意を決したように引き抜いた。

 スキニーパンツに木製の鞘を残して抜き放たれたソレは、一般家庭では取り扱っていないような肉包丁であった。

 何人もの被害者の腹腔を切り裂いたナギサの牙は、自分の体に押しつけられている獣の喉元に突き立てられた。

 しかし獣は一回だけ震えただけでその斬撃を受け止めた。ただ身じろぎが止まったので、牙がくい込む痛みが和らいだのが救いであった。

「無理であろう」

 叶は静かに言った。

「その『猟犬』は、刃物などでは死なぬ」

 ナギサと獣のもつれ合いなど興味が無い様子の叶は、それを見ることによって悦楽を得られる宝石のような目で、指先に浮かぶ球体を眺めた。

「かつて達人と呼ばれた者だけが倒せたと聞くが」

 ブチブチと獣の牙が肉を引き裂き、筋を切断する音が廃墟に響いた。

 音が一層激しくなり、獣の牙がゴリゴリと獲物の骨を削る音が混じるようになってから、叶は視線を敵に向けた。

「やはり人間ではなくなっていたのだな」

 視線の先はナギサの足元である。そこまでの深い傷を負いながらも、ナギサからは一滴の血も流れ落ちていなかった。

「ぐおお」

 それでも痛みは存在するようで、ナギサの方も獣になったかのような声を上げた。

 獣の牙がナギサの肉体を食いちぎった。



 気がつくと走り出していた。

 かつて彼女が片思いした少年が、一人の少女と親しそうにしていただけだった。

 弓原舞朝にとって関係のない人たち。しかし今は他人事に思うことが出来なかった。

 学校の正門あたりで、愛姫に抱きしめられて、少しだけ我に返ることができた。

 だけどその後に起きた大型トレーラーの爆発炎上で、わずかに取り戻した理性が再びパニック状態に陥っていた。

 たくさんの炎は嫌いだった。それは舞朝自身にとって思い出したくない過去に直結している事象だから。

 その過去で失った自分の半分が、彼女の記憶と共鳴していた。

「半年」

 気がつくと、泣きながら走っていた。

「半年もすれば、忘れちゃうんだ」

 彼女の、冬で途切れた淡い想いの記憶。しかし、その想いは永遠ではなかった。

 舞朝の網膜に焼きついたような風景。

 少年と少女が楽しく微笑みあっているという、何気ない一齣。それだけを取りだしても、普通の人には街で良く見かける物だった。

 だけれども、少年は彼で、彼は少年だった。

 生きていれば新しい出会いもあるだろう。もうここにはいない誰かのために、生きている者が立ち止まってしまうことも、健康的な物の考え方ではないことも、理性ではわかっていた。

 しかし半年程度の時間で、人は想いを忘れてしまうのだろうか。

 舞朝は、自分の中に入ってきた記憶のせいだけで無しに走っていた。

 どのくらい走ったのだろうか?

 気がつくと舞朝は、広い河川敷に出ていた。

 水が多い季節でも、台風や集中豪雨などの極端な降雨さえなければ、野球場が何面も取れるほどの河原である。

 都下地域の住人に、身近な自然域として愛されている多摩川であった。

 学園から多摩川に出るには、産業道路が間に入った。この道路には、多摩川の砂利を資源とした名残で、複数の生コン業者が工場を立てていた。そのためミキサー車だけで、半端でない交通量があった。

 その道路を、舞朝はどうやって渡ったのか、記憶がなかった。

 堤防の上には、自転車を楽しむためのサイクリングロードが造られていた。いまも高速仕様のロードレーサーやシティサイクルが舞朝をかわして走り去り、また近所のジョガーがタオルで汗を拭き拭き走っていた。

 その行き交う全ての人が、皆一様に舞朝の顔を覗いて行く。理由は単純だ。女性が涙をこぼしながら、茫然とした様子で立ちすくんでいたからだ。そんな光景を見かけたら、男女問わず普通の者ならば心配するに決まっている。

 しかもそれが思春期の女の子とすれば、恋に破れて自暴自棄になり、良からぬ事を己の身にするかもしれないという、まるで安物のドラマのような推理に行き着いてもおかしくはなかった。

「あんた、大丈夫かい?」

 今も通りかかった中でも話しかけやすかったのか、彼女の母親よりも少し年上の女性が、心配そうにジョギングの汗を拭きながら声をかけてくれた。

「ああ、はい」

 さすがに恥ずかしさが顔をもたげ、歯切れの悪い受け答えをしてしまった。それ以上の会話を拒否するように、大げさな身振りで顔を袖で拭うと、適当な笑顔を作って見せた。

「なんだか泣いていたみたいだけど」

「ちょっと、気分が晴れなくて」

 その微笑みで追究を立ちきり、舞朝は行く当ても無しに河原へ降りる階段へ足を向けていた。

 視界の右の方に雑木林があった。彼女の身長よりも高く生い茂った葦も手伝って、その辺りには人気がありそうもなかった。

 泣くにしろ怒るにしろ何かに八つ当たりするにしろ、とりあえずそこに行けば一人になれそうだった。

 たまに通る釣り人の足が踏み分けたらしい、獣道のようなわずかな隙間が、一面の葦に出来ていた。こういう時には人より小柄な体が役に立った。

 上流から種や苗が流されて来てここに定着したのだろう。葦の中に孤島のように小さな雑木林ができていた。そこに入ると、少し空気が変わった。

 残暑厳しい中を、薄手とはいえ長袖のブラウスとカーディガンという姿で全速力したので、体の中には熱が溜まっていた。そんな状態だったので、小さな物とはいえ木陰はとても有り難かった。

 川の流れに沿って吹く川風も感じられて、空調完備の室内までとはいかないが、けっこうな涼が取れそうだった。

 長い間に植生が続いたせいか、この辺りの地面はしっかりとした土になっており、誰かが野宿でもしたのか、焚き火の後ができていた。

 その枝の炭化した具合からして、ここ最近の出来事ではなさそうだ。

(これで、ようやく声を上げて泣くことができる)

 そう安心したときだった。

 何日も前に消えた様子の焚き火から、煤煙のような黒い筋が一条立ちのぼり始めた。

「?」

 なにかの自然発火現象かかと思いじっと見ていると、その黒い筋はどんどんと太さを増した。だからといって上へ高く登っていくこともなく、せいぜい二メートルほどで、空気の中へ散っていってしまう。

 舞朝が今まで見たことが無い現象だった。

 と、その煤煙の中から腕が突き出された。何もない空間から煙が通り道だと言うように差し出された手には、金属バットが握られていた。

 どこかで遠雷のようなバリバリと耳障りの悪い音がしていた。

 次の瞬間に、煙が大きくたなびくと、その煙の中から一人の人物が舞朝の前に現れていた。

 火照っていた舞朝の顔から、血の気が引いていった。

 口が勝手に動くと、目の前に立つ人物の名前を、知らず知らずのうちに呟いてしまった。

「ユウキナギサ…」

「やあ」

 フードから覗く下半分の顔に笑顔が形成された。しかし、舞朝の前に立つナギサは、すでに人の姿をしていなかった。

 特に顕著なのは右肩であった。舞朝が知らないことであったが、叶の呼び出した獣に食いつかれたそこの部位は、存在していなかった。

 右腕は上腕の半分ほどから上が無く、肩関節がある辺りには、まったく物質が存在しなかった。そのせいで向こうの景色が見えるほどだ。右胸も丸く抉られており、生きて実在する人間ならば、立って活動することは一目であり得ない状態だった。

 傷口というか断面というか、切り口からは先程の煤煙のような黒い物が、燻っているかのような弱い勢いで、まとわりついていた。

 しかも食いちぎられたはずの右腕は、いまも透明になった肉体で繋がっているような位置で、不自然なまま宙に浮いているのであった。

「もうルールなんてどうでもいいや」

 ニヤニヤと嗤いながらナギサは舞朝へ告げた。

「ボクはキミを『食べる』。そのために舞い戻ってきたんだからね」

 それは舞朝の死刑宣告であった。舞朝は何か叫び声を上げて走り出そうとした。しかしそれよりも前に、ナギサの右腕が機械的に動いた。『食べる』ことに慣れている証拠に、まったくの予備動作などなく、舞朝の頭を手にした金属バットで殴りつけたのだ。

 一般の暴力に慣れていない者が行うような、躊躇も遠慮もなかった。ガーンと頭部への一発で、舞朝はその場へ昏倒した。悲鳴すら漏れなかった。

 ナギサはしゃがみ込むと、右手は金属バットを構えたまま、左手だけで丁寧にうつぶせに倒れた舞朝の体を返した。

 殴られた箇所が裂傷を負ったのか、髪の間から血が頬の方へ一筋だけ流れていた。顔を覗き込むように意識の有無を確認するナギサ。暴力に慣れている殺人鬼は、生かさず殺さず相手を殴り倒して、その行動の自由を奪うことができた。

「(Laugh)」

 苦しげに瞼を閉じた舞朝を見て、そう表現の方法がないような、有ったか無かったかのようなとても小さな含み嗤い。

 地面に倒れた舞朝が、まるで自分が完成させた美術作品のような面持ちでしばらく鑑賞したナギサは、金属バットから手を離した。

 フードの奥から爛々と光る瞳が、愉悦の輝きに変わる。口元は嫌らしく舌なめずりさえした。そしてナギサの両手が、舞朝の胸元にかけられ、一気にカーディガンとブラウスとをまとめて引きちぎった。その暴力に合成樹脂製のボタンと、ナイロン製の糸はあっけなく屈し、舞朝の白い肌は木陰を抜けてくる九月の光に晒され…、なかった。

「なんだこれは」

 薄緑色をした下着で隠されたやわらかなふくらみ以外、舞朝の上半身をナギサは一目で見ることができた。

 そこには年頃の娘らしい、きめ細やかな肌など存在しなかった。

 彼女の肌は無数の傷跡や、縫合痕で埋め尽くされていた。傷跡も単純な切り傷だけでなく、何かが突き刺さったような星形の凹みや、醜く爛れたケロイドなど多種多彩で、まるで彼女の上半身で、傷跡の見本市を開いているような風情だった。

 さらに傷跡の間を走るミミズ腫れのような肉色の縫合痕は、それらを醜悪に飾り立てていた。

 それらのせいで、まともなままの部位を探すことの方が難しい状態だった。

 不思議と首周りから上にはそういった醜い傷は存在していなかったが、その代わりといっては何だが、あるていど上腕の肌へも食いこむように傷跡は走っていた。

 彼女が夏の暑い盛りでも長袖姿であった理由は、そこ辺りにあるようだ。

「うっくっ」

 仰向けになることで気道がつぶれたのだろう、舞朝が小さな呻き声を漏らした。その顔を、とてもつまらなそうに見たナギサは、興ざめした声のまま話しかけた。

「なんだ、キミはもうダレカの『食べかけ』だったのか」

 昏倒したままの舞朝が、どう反応するかには関心が無い様子で、ナギサはパーカーの背中へ手をまわした。

 そこから、獣を一時的にだが追い払うことに成功した、自分の牙を取りだした。

 あの不可思議な叶が使役する獣を、これで何度も斬りつけることで退かせることに成功していた。しかし追ってこないということはあるまい。あれは今の自分のように、本来ならばこの世界にいないはずの超常的存在のようだ。

 邪魔が入らないように『食べる』なら、早めにするべきだった。

 昏倒している舞朝から答えは無かった。ナギサは順手で抜いた肉包丁を器用に手の中で回して逆手に持つと振りかぶった。

「まあ、ダレカの『食べ残し』でも、美味しくいただこうとするか」

 ナギサはその右手を大きく振り下ろした。だが狙いは舞朝の体ではなかった。ナギサは肉包丁を、背後を確認せずに、後ろへ投げつけていた。

 飛んでいった肉包丁は、間を置かずにギインという金属音を立てて弾かれた。それを予想していたのか、ちっとも慌てた様子を見せずに、落としていた金属バットを拾って構えながらナギサは振り返った。

 いつの間にかナギサの後ろに、三人の人物が立っていた。

 真ん中に立っているのは、この残暑厳しい中なのに黒い長袖のカッターシャツに同色のロングパンツという黒一色のコーディネイトで身を固めている長身の人物だった。その人物は、ナギサと視線が合うと、顔にかけた丸めがねの向こう側で爬虫類系の微笑みを増した。

 そしてその人物にはナギサと共通点があった。どす黒い程に感じられる殺気だ。

 特にそれでナギサが投げつけた肉包丁を弾いたらしい小振りの鉈を手にした姿は、それだけで小心者は卒倒を起こしそうな異様な空気を身に纏っていた。

「『先生』お久しぶりです」

 ナギサの方が先に声をかけた。

 ちょっとだけ顎先で地面に伏せっている舞朝を示してから訊ねた。

 ナギサが『先生』と呼ぶ人物が、ただの先生であるわけがない。ナギサにとって『食事』の仕方を教えてくれた人物だった。もちろん彼自身も、複数の犠牲者を血祭りにあげてきた殺人鬼であった。

「これ『先生』の食べかけですか?」

「ふむ」

 まるで学者が命題を提示されたかのように、一つうなずいてから答えが返ってきた。

「残念ながら違うな。その娘はオレの教え子ではあるが、そういった対称ではない」

 そう答えつつも、その人物の顔からは、爬虫類の微笑みが消えなかった。

「その娘を放しなさい」

 二人目の人物がとても理性的な声をかけた。清隆学園高等部の紺色をした制服を着たその少女は、日本人には珍しい銀色の髪の毛を持っていた。

 その能面のような無表情に、ナギサは質問した。

「ボクを地獄に押し戻そうとするキミは、まるでこの世の秩序を守るために存在するようだ。キミは天使なのかい?」

「わたしは天使ではないわ」

 これといって武器は持っていそうもなく、小柄な体で殺人鬼と正対している割には、恐怖感を露とも感じさせない声で、その銀髪の娘はこたえた。

 ナギサは彼女に、どこか舞朝と同じ気品のような物を感じ取った。

「ユウキナギサ。おとなしくしなさいよ」

 そうオネエ言葉で銀髪の娘の横から話しかけたのは、三人目の人物だった。少々裏声を使って色っぽさを出そうとしているのかもしれないが、外見は紛れもなくオッサンであった。さらに髭面にサングラス、そしてサスペンダーだけ身に着けた上半身は、筋肉がはち切れんばかりに発達しているという、ハードゲイのような格好をしていた。見た目がそうであるから、その人物が発した裏声のような高い声は、今の日本では相手を無理に笑わせようとしている質の悪い冗談のように思えた。

「んもう、手間をかけさせないで」

「キミも不思議な存在だな」

 そのガチムチな肉体を、黒のレザー地のパンツだけで覆ったオッサンに、まったく動揺しないナギサ。どのような人間でも『食べて』しまえば同じになると達観しているのであろうか。

「キミたち三人が、肩を並べている意味がわからない」

「まあ」

 厚い唇をすぼめてガチムチが声を荒げた。

「勝手放題する、あなたを捕まえることで、三人の利益が一致したからに決まっているじゃない」

 見ているだけで暴力的なその外見で、自分の太い小指をしゃぶって見せた。その絵面の凶悪さはインパクトだけで、生まれたての赤ん坊が見るだけでショック死しそうな程だった。

「あなたの気配を追っていたら、この人に出くわしたの。で、困っているようだから、お互いの利益を優先するために協力することにしたのよ」

 髭面の中で流し目をしてみせた。

「さすがのこの人も、ひっきりなしに行き交うトラックを無視して道路を横断できないようだったしぃ」

「ああ、それでここまで来れたのか」

 この見た目からして不思議なガチムチオッサンと、不思議な存在感を持つ銀髪の少女の二人は、どこにいても追いついて来るだろう。しかし黒い服装をした『先生』は、まだ普通の人間のはずだった。

「キミは死んだと認識していたが」

 ナギサとガチムチの会話をまったく無視するように、鉈を構えた人物が問うた。

「まあね」

 無い右肩をすくめる仕草でこたえた。

「アナタに地獄っていう物が実在するって教えに戻ってきたんだ。同好の士への忠告ってやつさ」

「しかも人外の者となったようだね」

「ああ、そうさ」

 ジロジロと遠慮無く自分の傷口を見つめる相手に、ナギサは嫌悪感よりも同族に対する親近感のようなものを感じている声で言った。

「で?」

 フードの下から覗く微笑みが増した。

「一緒に『食べる』かい?」

「遠慮しておこう」

 即答で相手がこたえた。あまりの速さに脇の二人のリアクションが無かったほどだ。

「まさか、ボクとやりあおうっていうの?」

 それもまた面白いかもしれないと感じているような声だった。

「キミの出方によるな」

「おやおや」

 フードの中で首を横に振ったナギサは、皮肉たっぷりに言った。

「お互い他人は『食べる』ために存在するんだろ。殺人鬼が人助けとは、いまさら地獄が恐くなったのかな」

「いや」

 丸めがねの向こうに爬虫類的微笑みを維持したまま、黒い服装の人物はとてもつまらなそうに言った。

「その娘には、部屋の片付けを手伝ってもらった恩義があるんだ」

「なんだそりゃ」

「それに、時間も無いようだ」

 相手の視線が動いたのでナギサは獲物に振り返った。地面に横たわっていた彼女は、いつの間にか立ち上がっていた。

 意識は戻っていないか、あっても正気までほど遠い状態であるのか、舞朝の目は閉じられたままだった。

「ちぇ、キミたちが邪魔するからだぞ」

 もう一回殴打しようとして、手にした金属バットを振りかぶったところで、ナギサの体が凍り付いた。

 力強く見開いた彼女の瞳が、常人のソレとは大きく違い、血のような赤色をしていた。

「おねえちゃんに悪さする奴は、ゆるさない」

 誰も触りもしないのに、舞朝の結った髪を綴じるリボンと髪ゴムが切れた。すると髪自体に意識があるような勢いで、三つ編みが解けていった。

「キミは…」

 ナギサが、彼女から感じる圧倒的な精神的重圧に、声を詰まらせた。

「燃えろ」

 彼女の唇が短く動くと、ナギサの全身が炎に包まれた。そのままゴウゴウという勢いで燃え上がり始め、程なく人の形をした松明となった。

 体を焼かれる事によって生じる苦痛は、感じないのか感じているのに無視できるのか、ナギサが七転八倒するようなことは無かった。

 ただ茫然とした様子で、体と同じように燃え上がる金属バットを取り落とすと、自身の右手を目の前に持ってきて、感心したかのような調子で言った。

「この地獄の炎に耐えた体を焼くなんて。やっぱりキミは『女神』なんだね」

 ナギサはその姿勢のまま炎に飲まれていった。体はすべて灰のような細かい物に分解され、炎で生じる上昇気流で散っていった。地面に落ちて燃えていた金属バットも、灰一つ残さずに燃え切った。

 ただその心臓だけは黒く焼け残り、それはまるで何かに支えられているかのように宙に浮いたままだった。

「つかまえた」

 ガチムチのオッサンが艶っぽい色の声を出して、その黒い心臓に飛びついて、両腕でその厚い胸に抱きしめた。

 そのオッサンの見た目のインパクトが酷すぎるからではないだろうが、舞朝はその様子を確認すると、ゆっくりと瞼を閉じた。彼女の全身から力が抜けていき、地面へ再び倒れる寸前に、黒い服装の人物が抱きとめた。

 そのまま舞朝の体を木の根元へゆっくりとおろすと、上半身を幹に立てかけてやる。

 右手に持っていた小振りの鉈を作業の邪魔と思ったのか、左手の袖口から服の中へ差し込んで片付けた。おそらく中に鞘が仕込んであるのだろう。それから両手をつかって、ナギサの暴力で引きちぎられたブラウスの前を合わせてやり、とりあえず乙女の尊厳が守られそうな姿にした。

 その一連の作業の間、まったくの傍観者だった二人へ、彼は鋭い目を向けながら振り返った。

「で?」

「?」

 川風に吹かれるままに立ちすくんでいるように見える銀髪の少女は、不思議そうに小首を傾げた。

「オレもそうするのか?」

 顎先で、鼓動を続ける心臓を抱きしめるオッサンを示した。

 まるで拾った子犬を大事にするように、筋肉で覆われている太い腕へ、ナギサだった黒い物体を抱えたままのオッサンは、視線を向けられて不思議そうな顔をした。

「オレもそいつと同じように、いわゆる殺人鬼という奴なんだが」

「なにも」

 黒い服装をした人物からのとんでもない告白に、それが周知のことだったとばかりに無愛想なまま、少女はこたえた。

「わたしは、生きている人間に手出しはしないわ」

「おや」

 黒い服装をした人物は、丸めがねの向こうの爬虫類的微笑みを少し変化させた。彼にとって意外だったらしい。だが不意打ちを恐れているのか、少し腰を落とした戦闘態勢という姿勢を崩したわけではなかった。

「では、死んだ人間には用事があると?」

「ええ」

「じゃあ、彼女は?」

 足元に座る舞朝へ少しだけ視線を移した。

「彼女は普通の人間と違うようだけど?」

「彼女たちは、二人で一人。一人で二人なの」

 彼の疑問に、銀髪の少女は淡々と事実を告げた。

「もう少し詳しく説明してくれないかな」

 内容が禅問答のような物だったので、苦笑のようなものを自分の微笑みに混ぜて質問者は解説を求めた。

「彼女たちは、小学生の時に母親の実家で火事に遭ったの。そこで二人は爆発に巻き込まれた。弓原舞朝は全身を焼かれた。それは即死するほどでは無かったけど、助けられたときには死へのカウントダウンは始まっていた。そして、同じく焼かれたのが弓原舞夕。彼女の一卵性の双児。舞夕の体は、ヌイグルミを抱いていたという幸運で、火傷をほとんど負わなかった。けれど首から上は無事に済まなかった。爆発の衝撃で飛んできた柱が、彼女の顔面を後頭部から突き刺した。それで舞夕は、ほぼ即死状態となった。二人が運び込まれた病院では、まだ息のある舞朝を助けるために、彼女の焼けた部位を、焼けなかった舞夕の部位から移植した。同じ遺伝子を持つ一卵性だから可能だった手術。そうやって彼女たちの二つの肉体は、一つに縫い合わされた。もともと一つだった魂。それが生まれてくるときに母親の胎内で二つに分れ、一つに戻った。足りなかった物が補いあう形になった彼女たちは、本来人間が持つ神性を取り戻した」

「それでナギサは『女神』と」

 納得いったのか黒い人物はうなずいた。思い返してみればナギサは人とは違う呼称で他人を呼んでいた。判りやすいのは天文部の一年生たちのことだ。自称『もののふ』である五郎八を『超能力者』。直巳の『異次元人』と『異世界人』はあまり差が無いように思えるが、叶の『ナイハーギー』に対し『宇宙人』。愛姫の『五分未来からやって来た時間旅行者』に対し『未来人』というように自身の基準において名付けていた。

 そして舞朝のことは『女神』と呼んでいた。

 さらに、自分のことは『先生』と…。

「本当にこの娘は『女神』なのかい?」

「世界で広く信じられている一神教の神に比べたら、使える神通力は、道ばたに祭られている道祖神程度よ。だけれど周りの物を守ろうとする愛の力は本物。彼女たちの愛の深さを感じ取れるから、彼女たちのまわりには人が集まる」

「愛ねえ」

 ちょぼちょぼと生えた無精髭を撫でながら、彼が感心したような声を漏らした。その声色には、その単語を全く信用していない響きが混じっていた。

「だから彼女も惹かれた」

 銀髪の少女が横へ視線を走らせた。そこには黒い制服を着た、もうここにはいない少女が立っていた。

「やあ」

 気軽に手を挙げて挨拶をすると、戸惑ったような顔をしてみせる。

「でも、彼女が彼女たちに触れたことで、とんでもないことになってしまった」

「ああ、それでユウキナギサが出てきたわけか」

 全員の視線が、黒い心臓だけになってしまった人物へ向けられた。

「彼女が悪いわけではないのよ」

「いや、責める気持ちは毛頭無いんだが」

 彼女を安心させるかのように、変わらない爬虫類的な笑みを若干柔らかいものに変化させた。その彼女が何かの気配を感じ取ったのか、後ろを振り返った。

「ん? ああ、皆が来たのかな?」

 遠くから、舞朝の同級生たちの声が聞こえてきた。

「じゃあ、オレは行くよ」

 戦闘態勢というべき腰を落とした体勢をやめて、まるで散歩の途中で知り合いに出会ったような口調になって、黒い服装の人物は言った。

「いちおう、まだ彼らには正体不明ということになっているから」

 とはいっても『ナイハーギー』『五分未来からやって来た時間旅行者』『異次元人』『もののふ』と普通でないパーソナリティが揃っている連中である。こんなささやかな秘密はもう知っている可能性の方が高かった。

「うお、出た」

 最初に大きな声を上げたのは和紀であった。

 葦を掻き分けてやって来た先に、居場所が無くて困っているような表情の彼女を見つけて、大げさなアクションでのけぞってみせた。

「マーサさん」

 もうすでに必要な物が判っていたのか、学校指定のジャージを鞄から取り出しながら愛姫がその横から飛び出した。木の幹に寄りかかっている舞朝の乱れた服装が他の者の目に入る前に、ジャージの上着を被せて覆い隠した。

「…」

 叶が自分の体からシーツを落とし、精一杯両手で広げてカーテンのようにしてそれを手伝った。

「どったの?」

 道着を着た五郎八をおぶさった直巳は、まだ辿り着いていなかった。つまり和紀の視線から舞朝を守ろうとして、女性陣は四苦八苦しているのだ。しかし彼にとって、それは疎外感を感じさせる態度であった。

「覗かないでくださいね」

 カーテン代わりのシーツの向こうから、いつも微笑んでいる愛姫にしては厳しい調子で声が飛んできた。

「やあ、こんにちは」

 和紀はすることが無いためか、黒い制服を着ている幽霊にのんびりと声をかけ始めた。

「ええと、こちらの声は聞こえるのかな?」

 遠慮がちな肯きが返ってきた。

「そちらは、何か喋れるのかな?」

 その問いに唇を空振りさせる彼女。そうしてから寂しそうに頭を振った。

「筆談はどうよ?」

 地面の小枝を拾って差し出すと、おずおずと手を伸ばしてきた。だがその手は小枝を掴むことは出来なかった。まるで安物の映像合成のように、その手は小枝を突き抜けてしまった。

「まあ、ハイとイイエが判ればなんとかなるか」

 どこまでも天真爛漫な彼は、少しも悲愴感を抱かずに呑気に言った。対して彼女の方は、自分が生者ではないことを改めて思い知ったのか、とても悲しい顔になった。

「もう少し待ってくれてもいいじゃないか」

 五郎八を背負った直巳が、ぶうぶうと文句を垂れながら到着した。幾分か彼が煤けているように見えたのは錯覚ではあるまい。その背中で荷物よりはましな扱いを受けている五郎八は、半ば眠っているような顔になっていた。

「おまたせしました」

 愛姫の声で叶はシーツをおろし、再び自分の体へ纏った。愛姫のジャージを着せられた舞朝は、彼女の介抱の成果であろうか気絶から回復して目を開いていた。ただまだ意識レベルが低いのか茫然とした様子であった。

 愛姫はその横に座り、まるで王女にかしずく女官のような面持ちで、彼女の長い髪を丁寧に三つ編みに編みなおしていた。

「大丈夫か?」

 頭の裂傷へ、愛姫が巻いてくれた包帯が痛々しかった。その頭部への打撃の余波か、まだ夢見心地の表情をしている舞朝を、和紀は上から覗き込んだ。

「かずき?」

「そうだよ」

「なんでココに?」

 まだ現状認識できていないようである。その呆けた顔に和紀は告げた。

「オマイのことを皆、心配してたんだぜ」

 舞朝の視線が和紀から叶、五郎八を背負う直巳へと移り、最後に自分の髪を結ってくれている愛姫で止まった。

「あたし…」

 その瞳孔に光が戻り、そして慌てて左右を確認した。

「そうだ。ナギサが現れて! あれ? なんで、あたし無事?」

「その人だったら」

 和紀とは距離を取って立っていた銀髪の少女が声をかけた。

「あちらで捕まえたわ」

 少女の指が、ガチムチのオッサンに向けられた。

「そうよん」

 そうすることによって虫酸しか走らないような、酷いオネエ言葉でオッサンは言った。

「ユウキナギサは、ココに捕まえたわよん」

 両腕で抱え込んでいる黒い心臓をちょっとだけ持ち上げてオッサンは皆が安心するように宣言した。

貴女(あなた)は何者?」

 舞朝は座ったままで、愛姫に髪を任せて、銀髪の少女に訊いた。

「まさか清隆の生徒なんて、今更ながらの嘘はつかないでくれ」

 舞朝に先回りされて、銀髪の少女は声を発する前に口を閉じた。

「わかった?」

「ああ。貴女、クラス章つけてないじゃない」

 銀髪の少女は規定通りに清隆学園高等部の夏服を身につけていた。暑い時には省略して良いことになっているブレザーのチョッキまで着て、ネクタイもキッチリしていた。ただ胸元に提げるフェルトに、規定どおり校章は着いていたが、その下にクラス章がなかった。

 ここまで真面目に制服を着用していて、そこだけ違反するというのも変な話しである。

「あなたたちの学校で動きやすいかと思って」

 自分の制服を見おろしながら、銀髪の少女は告白した。

「で? 正体はなに?」

「わたしはタナトス。死んだ者を導く者」

「タナトス?」

 直巳が少し裏返った声を出した。

「シシィの恋人か?」

「シシィって誰よ?」

 和紀が反射的に訊ねた。その質問に曖昧な微笑みでタナトスは答えた。

「彼女には気の毒なことになりました」

「僕を魅了しないでくれよ」

 戯けたような声で、背中の五郎八を背負い直しながら直巳は言った。

「ヤスリで刺し殺されたくないからね」

「?」

 話しが分からない和紀は、首を捻るばかりである。

「遊佐さんには、あとで教えて差し上げます」

 助け船だろうか、愛姫がリボンで舞朝の三つ編みを完成させながら言った。

「おうよ」

 その一言で本来の無邪気な笑顔が戻ってくる和紀。

「しんだものをみちびく?」

 舞朝が、彼女が言った事を反芻するように繰り返した。

「ええ。簡単に言うと《こちら》を終えた方を《あちら》へ案内する。そういう仕事をしているわ」

「こちら? あちら?」

 舞朝の視線が少しの間だけ宙を彷徨うと、再び焦点がぼやけた。そして思いついたことがあったのか、次に力強い目を取り戻したときには、知らず知らずのうちに後退ろうと地面を踵でひっかいた。

「おまえ、死神か!」

 その隠そうともしない恐怖の表情に、タナトスは無表情に溜息だけをついた。

「そんな大袈裟な者ではないわ」

「だって…」

 舞朝が語気を荒くしようとすると、手を挙げて制してタナトスは言った。

「わたしが死なすのではないの。あなたたちが死ぬのよ」

「?」

 ゆっくりと言葉を噛み砕くように言うタナトスに、意味が判らないとばかりにキョトンとした顔をしてみせる舞朝。その表情で、まだ説明が足りないと悟ったのか、もう一度言った。

「人が死ぬ…。いいえ生命が終わるというのは、わたしが決めることではないの」

「だって、あっちに案内するって」

 語気荒く訊く舞朝に、落ち着くように今度は両手を胸の前に挙げたタナトスは、無表情のまま告げた。

「言い換えれば、生命が終わって人は死ぬのよ。そこにわたしに意思は入っていないわ。そうして役目を終えた魂を、精神世界である向こう側へ案内するのが、わたしの役目」

「はあ?」

 理解したような、してないような声を漏らしてしまった。

「例えば彼女のような存在を」

 タナトスの視線が黒い制服を着た彼女へ移った。タナトスの視線を向けられて彼女は身じろぎをした。

「彼女は、いったい何者なんだ?」

「彼女は…」

 一回寂しそうに目を伏せると、決心がついたように唇を開いた。

「彼女は、彼女がココで生きていたという皆の思い出から生まれたモノ。言わばこちらの世界に焼き付いた残像のような存在」

「? じゃあ彼女自身は?」

「彼女の魂自体はもう無いわ。あなたが輪廻転生を信じるならば、新しい生命としてこちらの世界に生まれたのかもしれない。千年帝国を信じるならば、天空に存在するイェールで楽しく暮らしているでしょう」

「正解を教えてくれないのか」

「だって究極の答えを知ってしまったら、あなた自身が変わってしまうでしょ」

 確かにそうだ。特に科学万能主義の直巳なんかが死後の世界があるなんて証拠を突きつけられたら、これまでの自分を否定しなければなくなるかもしれない。

「だから…」

 それを判っているのか、優しい目で五郎八を背負っている直巳を見つめてから、タナトスは言った。

「わたしが本当にタナトスなのかも分からないと言っておくわ」

「じゃあ、彼女は幽霊でもないのか?」

 話しを戻そうとして舞朝は声を上げた。

「幽霊よ」

 意外そうな顔でタナトスが言い返した。

「あ~」

 なにか齟齬があるような気がして舞朝は言い淀んだ。

「魂じゃないとして、ああそうか。思い出か…」

 舞朝が自問自答をしていると、その心の整理を手伝うように、そして独り言をつぶやくようにタナトスは言った。

「彼女がココで生きていたということを思い出にしている人は、いったいどれだけの数になるでしょうね。彼女の両親。親戚。友だち。知り合い。彼女のように長く病気を患って、外にあまり出ていなかった人でも、それは相当な数になるものよ。その人たちの想いは、彼女自身が亡くなったからといって、無くなるわけではないでしょ。そういったモノが、いまの彼女を存在させているの」

「でも、それって」

 和紀が悲しそうな声を出した。

「この先、ずーっとコイツは存在し続けなきゃなんねえのか? 自分が生きていた頃を懐かしみながらよ」

「想い出は薄れる物よ」

 とても冷たい声でタナトス。

「憶えている人が減ることがあっても、増えることはないもの。でも彼女自身が消えていくことに悲しみはないわ。だって彼女自身の魂はココにもう無いもの」

「じゃあ、なんで現れた」

 語気荒く和紀は訊いた。

「消えることに悲しみが無いんだったら、なんで彼女は、またこっちにやってきたんだ」

「それは」

 申し訳なさそうに頭を下げながらタナトスは言った。

「わたしのミスね」

「みす?」

 素直に謝れられて和紀が戸惑った。

「この国には盆という習慣があって、亡くなった者が夏に帰ってくると信じられている。それで気をつけなければいけないのは、亡くなって最初に迎える年。本人の記憶も、皆の記憶もまだ薄れていないから、こうしてはっきりと映し出されてしまう。わたしのミスはそこで彼女が逃げ出してしまったこと。このぐらいの女の子の想いが強力なことを分かっていたのに、油断したこと」

「その想いというのは、やはり?」

 直巳がおずおずと訊ねた。タナトスははっきりと、彼女自身も恥ずかしそうに、首を縦に振った。

「盆から半月も経ってるぜ」

 納得いっていない様子の和紀が腕を組んだ。

「それだけ彼女の想いが強かったということ。さらに今月に入ってから、彼女たちにすがっていたし」

 タナトスの視線が舞朝に戻ってきた。

「けれど彼女が触れたことで、彼女たちから、とんでもない者が逃げ出すことになった。彼女は悪くはないけど、きっかけにはなってしまったようね」

「そのとんでもない者って、やっぱり…」

「ええ、ユウキナギサよん」

 舞朝の探るような声に、いままで黙っていた髭面のオッサンが口を開いた。

 オッサンは、自分がオネエ言葉を使っていることに、まったく問題がないような口ぶりだった。だが、その言葉を耳にするだけで、すでに何かしらの暴力を受けている気分になってくる。なにせ筋肉ムキムキの全身に、革製の短パンという姿なのだ。しかも声質自体も間違いなく、髭面のオッサンのものなのだ。

 一年生全員から軽蔑するような視線を受けて、ガチムチのオッサンは慌てたように一同の顔を見まわした。

「なによ? なにか変なところが、アタシにある?」

「で?」

 オッサンの発言を丸無視して、ぞんざいに肩越しに親指で差しながら、和紀はタナトスに訊いた。

「このオッサンだれ?」

「ま」

 不満そうに口を丸く開く。これもカワイイ女の子がやれば似合うのであろうが、その分厚い唇に口元の濃い髭という状態では、別の意味で目に毒だ。

「この方が天使よ」

 そんなオッサンの外見も気にならないのか、タナトスは平板な声を微塵も揺るがせなかった。

「こちらで、単一のモノとして信仰されている何かから、魂の管理を任されているらしい、自称天使のラモニエルさん」

「んどぉもー」

 タナトスに掌を向けられて紹介されたオッサンは、まるでゲイバーで出番を待っていたダンサーのような挨拶をかました。それを見て一同は無言であった。

「あらん?」

「たしか、あの宗教は同性愛を禁じていたはず」

 直巳が冷静に言った。

「人を外見で判断してはいけませんよ」

 ほほほと乾いた笑い声を付け足す愛姫。答えは知っていたが、実物と接触することは願い下げだと言っているようだ。

「まあまて」

 舞朝は、見ているだけでえづきたくなるような外見を、なるべく視界に入れないようにしながら言った。

「見るからにその筋だ…、その筋なんだが…。オッサンがそうとは限らない」

 確かにそうである。舞朝の皿ごと毒を飲むような言葉に、話しがわからないとばかりにオッサンは言った。

「オッサンって呼ばないで。ラモニエルだって言ってるでしょ。せめてオジサンと呼んで」

「いや、オッサンはオッサンだろ」

 和紀がトドメをさした。その一刀両断の物言いに、分厚い唇をすぼめて顎を落としたラモニエルは硬直した。

「んで? 天使だかのオッサンは、なんでココに来たわけ?」

 和紀は本人でなしにタナトスに訊いた。

「生きている者の世界秩序を守るため、生きていない者の保護をしに。つまりわたしがミスをして彼女を逃がしたから、そのフォローに」

「そしたら、そちらの方々に、縁があるこのコも逃げ出しちゃったじゃない。もう、どうなることかと思ったわ」

「そうなのか?」

 途中から口を挟んできたラモニエルの言葉をタナトスに確認すると、彼女はコクリとうなずいた。

「ちょっとちょっと、アタシが話しているんでしょ」

 怒っても無視して、和紀はタナトスに再度確認した。

「ユウキナギサは、彼女たちが抱いていたユウキナギサへの恐怖の残滓。だからアレもユウキナギサ自身ではない」

「それで、もう捕まえてあるんだな」

「そうだって言ってるじゃない」

 ラモニエルの言葉よりも、タナトスのうなずきに安心する一同。

「もう失礼ねぇん」

「天使どの」

 見かねたのか、直巳の背中から五郎八が、いつもの冷静な声で話しかけた。

「なぁに」

「この世には『美しさ優先の法則』という物があるそうだ」

「?」

「それによると、どんなに非科学的なことでも美しければ許されるそうだ。『脛』とかいう団体の主幹が申しておった」

「アタシが…」

 拍動する黒い心臓を抱えたまま、両膝を地面についてラモニエルが、力なく言った。

「アタシが、美しくないっていうの…」

 どうやら自分の美に絶対の自信があったらしい。まあ美しさの基準というのは人それぞれであるから、そこに相違が生じてしまうのは、石が水に沈むがごとく当たり前の話しではある。

「…」

 落胆した様子のラモニエルに、シーツ姿の叶が近づくと、慰めるつもりなのかその肩をポンと一つ叩いた。

「ありがとう、やさしいのねん」

 たったそれだけのことで自信を復活させたのか、ラモニエルは力強く立ち上がると、タナトスを振り返った。

「じゃあ、アタシは先に行くわね。このコを地獄送りにしなきゃならないから」

「サーベラスによろしく」

 タナトスは胸の前で手を振った。その短い挨拶が終わった途端、全世界の光が集まった。そのように表現するのが適切でないのなら、地上に太陽が出現したとでも言うべきなのだろうか。

 黒い心臓を抱えたラモニエルが立っていた場所に、眩いばかりの光を放つ球が出現していた。熱はまったく感じられなかった。その光球はラモニエルが発生した物らしく、彼の体を飲み込んでいた。不思議で強烈な光に、網膜が痛みを感じていた。

 それに負けずに光球を見ていると、なんとか見えていたラモニエルの姿が変わった。光の中には、確かに白い二対の翼を背に持った女性のような存在が、黒い心臓を両腕で抱え込んでいた。

「え?」

 その先程までとは違う外見をした残像を、見ていた者の網膜に残して光球は消えた。上昇するでもなし、爆発するでもなしに、まさに唐突と言う表現のままに消え失せたのだ。後には金属を炙ったような、鼻につく微かな香りだけが残っていたが、それも川風に流された。

「まあ、貴重な体験だったわな」

 普通の視界に戻って、妙にしぱしぱとする目を何度も瞬かせ、和紀が笑っていた。

「そうだな。面白いかったと言えば、そうかもな」

 命の危険すらあったような気もするが、ちょっと戯けてみせて舞朝は微笑んだ。それに安心したのか、それとも迷惑をかけていたと自覚があったのか、今度は彼女が頭を下げた。

「でも、もういいでしょ?」

 強制するのでなしにタナトスは彼女に訊いた。彼女は真っ直ぐにタナトスを見て微笑んだ。

「また来年にでも来なよ」

 いつもの脳天気さが戻ってきた和紀が気楽に言った。

「ダメですよ。マーサさんはわたくしのものなんですから」

 愛姫が舞朝の右腕に抱きついて言った。

「…」

 川風にシーツをなびかせている叶は、やっぱり無言だった。

「ノーコメントだ」

 なんらかの科学的考察を求める愛姫の視線に、怒ったように答える直巳。その背中の五郎八も回復してきたのか、薄い微笑みを浮かべていた。

 その不器用な別れの挨拶に、彼女は再び頭を下げてこたえた。タナトスは話しがまとまったようなので安心したのか、一回だけ指を鳴らした。

「それでは最後にサービスよ。あなたたちにも覗く権利ぐらいはあるわね」

 そうしてタナトスは、はっきりと微笑んだ。いままで無表情だったことが信じられないほどの、とても美しい笑みだった。



 都下多摩地区にある広い霊園に、紺色をした制服を身に纏った姿が、二人歩いていた。

 ズボンを履いている方は、まるで女の子のような線の細さであった。首から上は、長目で茶色がかった髪に卵形の頬といった感じで、その性別を間違えそうな程であったが、確かに男という体格をしていた。

 後ろを着いていくスカート姿の娘は、前を行く少年ほど個性的ではなかった。長い黒髪に赤いトンボ眼鏡という華のない格好をしていたが、身長は平均よりは高くて、その点において少年とは釣り合っていた。

 学校帰りなのか、二人とも手にバッグを握っていた。制服の共通点から、二人とも同じ学校のカップルのようだ。

 しかしデートコースには些か不似合いな場所であると言えよう。なにせ墓地である。まあ目撃(じゃま)者が少ないので、不謹慎なことをしようと思えばできる環境ではあるが。

 それでもよく見回せば、残暑で足元から沸き立つ陽炎を通して、蝉時雨の中にポツリポツリと人の気配を見ることができた。

 もう少し陽が傾けば涼を求めることができようが、この場所では夕暮れを迎えたいと積極的に求める者は、あまりそういないだろう。

 もうしばらくすれば彼岸で墓参りに来る者が多くなるが、残暑厳しい昼日中に、この程度でも墓参の者がいたことは、驚きであろう。

 霊園自体は、都心へ一直線にのびている私鉄の駅から近い立地であった。が、二人が歩いているのは、正門からだいぶ奥に入ったところであった。

 背の高い少年の方は、首の短い花束を肩に抱えるように持って、少女の前を歩いていく。どうやら彼の方に用事があり、彼女は付き合ってここまで来たようだ。

「センパアーイ」

 どこかのんびりと他人事のような口調で、先導する少年へ赤いトンボ眼鏡をかけた少女は訊いた。

「どこまで行くんですかぁ」

「うん、もうちょっとだから。我慢してね、サクラ」

 声だけ聞いていると女の子同士の会話に聞こえそうなほど、少年の声は高くそして澄んでいた。

 定期的に舗装の修理をする公道とは違って、あちこちヒビ割れて捲れ上がってしまっている霊園内では、穴に足を突っ込まないように気をつけて歩かなければいけなかった。

「あ、ここか」

 少年の足が一つの墓石で止まった。

 まるで大量生産品のように、近所の物となんら変わったところが見いだせない墓である。ただ墓碑の方に真新しい文字が刻まれているだけだ。

「ふんふん」

 訳知り顔でその碑文を読む少年。

「どなたか知り合いですかぁ」

 その横に肩を並べた少女は、手の甲でずり落ちてきた眼鏡を元の位置に戻すと、少年に尋ねた。

「うん、まあね」

 肩の小さな花束を、墓石の前に寝かせるように置くと、パンと一回手を鳴らして合わせる少年。その適当とも言える祈りにつきあうように、少女も静かに手を合わせた。

「このお花。なんていう名前なんですか?」

「アロマジェイル。美味しそうな香りがするでしょ」

 短い祈りを終えた少年が、明るい顔を少女に向けた。

「良い香りですけど、美味しいですかぁ?」

 煙に巻かれたように目を丸くする少女。かわいらしくクンクンと鼻を鳴らしてみせる。その表情を見て、楽しそうな笑顔になる少年。

 ちょっと表情を変化させて、バッグからサイフを取りだして、そこに挟んでおいた、紙の切れ端のような物を花束の上に置いた。

「そんな遠くまでのキップ、なんに使うのかと思ってましたよ」

「ん、まあ。お供え」

「お花にキップのお供えですかぁ」

 感心したと言うより呆れたような声になる少女。

「で? 誰なんですぅ?」

「昔の彼女」

「ま」

 さらに目を丸くした少女は、少年の脇の辺りをぎゅうっとつねった。どうやら他人事のような態度にも限度があったようだ。

「浮気は許しませんよぉ」

「あいてて、昔だって言ったじゃん」

 じゃれ合うのがとても楽しそうな笑い声。と、真面目な顔を瞬時に取り戻した少年は、体ごと振り返った。

「よう、ひさしぶり」

 水兵さんがキザっぽくやるような、軽い敬礼を後ろに送る少年の顔を不思議そうに見てから、少女は確認するようにそちらを見た。

「?」

 荒れた道を挟んで、別の墓石が並んでいるばかりだ。

 日本人に珍しい銀色の髪をした少女も、清隆学園中等部の黒い制服を着た小柄な少女が立っているわけがない。


 風に落ち葉が舞っているだけだった。



 幻影幽霊・おしまい

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