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幻影幽霊  作者: 池田 和美
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幻影幽霊・中編

 清隆学園の生徒には、登下校するのに二つの交通手段があった。公共交通機関を利用する方法と、それ以外である。

 公共交通機関としては、最寄りにJRと私鉄の駅が存在した。少し離れた駅から校門近くまでバス路線が通じていたし、一番近い駅からは歩いて来ることもできた。

 それ以外の方法となると、徒歩や自転車ということになる。かつては敷地内を流れる農業用水をカヌーでやってくる猛者がいたという伝説もあるが、まあ眉唾物の話しだろうから、例外とさせていただく。

 学園の近所は、古き武蔵野の面影を残し、自然が豊かな土地であった。が、そこは腐っても東京都。国道の方へ歩いていけば、木陰に隠れて住宅地が広がっており、そこに住む在学生がいたら全行程徒歩も可能である。

 また清隆学園には、他の道府県より進学してきたいわゆる『留学組』のために、学生寮が用意されていた。そこの寮生たちは渡り廊下を歩いて登校することになった。(中には遅刻直前まで自分のベッドに粘り、その渡り廊下を自転車で爆走する上級生もいた)

 残されたグループは、自転車通学である。

 まあありえないことだが、全校生徒が自転車通学を選んでも、スペースが足りなくならないように、屋根が付いた駐輪場は広めにとってあった。

 舞朝は自転車通学であった。愛用しているのは、いわゆるママチャリという奴である。籠もついているし、頑丈で町乗りに必要な物は全部揃っているし、なによりもリーズナブルなお値段で購入することが出来たからだ。

 対して叶は電車バス通学であった。彼女が自転車に乗るためには、まず体を覆っているシーツを諦めなければ無理だ。風にはためいて駆動部に巻き込んだら、転倒する危険もあるし、なによりも視界が効かない。

 普通に考えれば、校門近くで解散するのが、もっとも効率がよい一日の終わりであった。だが舞朝たち天文部一年は、最寄りの私鉄駅まで雑談をしながら歩いて行き、駅前の交番のところで別れるのが、毎日の行事になっていた。そのぐらい仲が良かった。

 自転車組は舞朝と和紀、そして不登校気味の直巳であった。残る女性陣が電車バス組であった。

 駐輪場は、学年ごとに場所が決まっており、校舎からそこまでは、屋根のついた渡り廊下で、行けるようになっていた。

 徒歩組も、駅までは荷物を自転車の籠へお邪魔させてもらった方が楽であるので、いつもそこまで全員で行くことになっていた。

 それなのに今日は、普段は舞朝から離れたがらない愛姫が、何故だか意気投合した五郎八と一緒に、途中で姿を消していた。

「で? どうするんだい?」

 直巳は隣を歩く和紀に訊いた。

「うん。ぜひともナナに、幽霊と話す方法を見つけてもらって、コンタクトを取る」

 拳を握って虚空なんて見上げて、和紀があつく宣言した。

 それを放って置いて、直巳は自分の前を歩く叶の、西洋オバケのような姿をまじまじと見た。

(よっぽどコッチのほうが、幽霊っぽいよな。椎名も、いい度胸している)

 遠慮無くそう思う直巳だが、彼にしたって堂々と校内を私服で歩いているのだから、人のことは言えない身の上であった。

 駐輪場は、学年ごとに区画が決められていた。もちろん便利がいい場所は三年生に優先的に割り振られており、そこから大分劣った場所に二年生の区画が、一番校舎から遠いのが一年生の区画である。

 かつてはクラスごとに、区画の中でも置き場所が決まっていたようだ。が、不便な中でも、少しでも良いところという心理が働くのか、守られることがなかったようだ。屋根を支える柱に取り付けられた、クラスを示す看板は、錆びていてもう読めなかった。

 今では一年生の区画ならば、一年生はドコに置いてもいいことになっていた。

 そんな駐輪場で、舞朝はいつも校舎からも出入口からも離れている、普通に考えて不便な場所に、愛車を駐輪する場所を決めていた。

 理由は単純で、その場所がいつも空いていて、出し入れがやりやすいからだ。

 舞朝の止める位置が決まっていると、他の二人も段々と、その近所に止める場所を決めるようになっていた。

 和紀はドロップハンドルを装備した、ロードレーサータイプをした細身の自転車だった。直巳は逆に、無骨ささえ感じさせるマウンテンバイクであった。

 当初どちらも荷物用のカゴを装備していなかったが、帰り道に学友の荷物を預かるために、今では折りたたみ式のサイドバゲッジを購入して、強引にアングル材などで挟み止めして、取り付けていた。

 今日もそれが当たり前のように、和紀は自分の自転車のカゴを展開し、自分と叶の荷物をそこに入れた。

「イロハさん、そこらへんでお願いします」

「ここらへんか」

「そう、そのあたりです」

 何やら声がしたので、解錠する手を止めて顔を上げた。どうやら駐輪場の突き当たりにある花壇で、愛姫と五郎八が何かやっているようだ。

「なにやってんだよ」

 舞朝が声をかけると、愛姫が笑顔で振り返った。

「ちょっとした罠ですわ」

 見れば五郎八が、どこからか抜いてきた「挨拶は生活の基本です」と書かれた立て看板を、その花壇に突き刺しているようだ。

 その立て看板は、おそらく生徒会か風紀委員会が、どこか別の場所に設置した物のようだ。無断に移設して文句が来るかもしれなかったが、万事に抜け目がない愛姫のことだ、証拠となる物は現場に残さないつもりなのだろう。

 今も作業していた五郎八の指紋を消すためか、ピンク色をしたかわいいハンカチでその看板を拭っていたりした。

 花壇の軟らかい土でしっかりと自立するように、手で突き立てただけでなく、五郎八の竹箒を掛け矢のようにふるって、けっこう深くまで叩きこむことが必要だった。

「バカをやるにも、ほどほどにな」

 どこまでも斜に構えた態度を崩さない直巳が、二人へ声を飛ばした。その彼へ、立て看板の設置を終えた五郎八が、当たり前のように自分の学生鞄をあずけた。

 毎回、愛姫がなかば強引に、舞朝の自転車に自分のバックを押し込むため、自然と荷物を預ける相手まで決まってしまっていた。ちなみに直巳が学校をサボったときに、五郎八の荷物をどうするかといえば、舞朝の自転車の後部荷台へゴム紐で留めることにしていた。

「本当に、君たちは幽霊を呼び出す、つまり降霊会を催すつもりなのかい?」

 直巳は確認するように訊ねた。それに拒否反応のような物を示したのは舞朝だけであった。口では何も言わなかったが、表情がとてもしょっぱいものになっていた。

 降霊会を行うキーパーソンとなりそうな叶は、しかしシーツの中で無言であったし、愛姫はいつもの笑顔のままだ。同じように、いつもの無愛想な顔を崩さないのが五郎八だし、和紀に至っては新しい遊びを見つけた小学生の目になっていた。

「まったく」

 直巳もいつもの「非科学的だ」の言葉を紡ごうとした。

 その時だった。

 カラカラと軽い音が響いてきた。

 コンクリートのうちっぱなしになっている駐輪場の地面と、なにか金属製の物が擦れて響いてくるような音だった。

 確認せずとも、舞朝たちはそれが金属バットを引き摺る音だとわかった。

 そういうキャラクターをした共通の知り合いが、かつていたからだ。

 そして連なる自転車の向こうから、声が聞こえてきた。

「She come to kill me

 She come to kill me

 She come to kill me

 It’s true that

 I said three times」

 引きつった顔で振り向くと、駐輪場の端に一人の人物が立っていた。「いつ」からは、この場合問題はなかった。「なぜ」というのも、特に関係はなかった。一番問題だったのは…。

「ユウキナギサ?」

 黒色をしたフード付きパーカーに、デニム地のスキニーパンツを着た人物は、舞朝たちが想像したとおり、金属バットを地面につけて、そこに立っていた。パーカーのフードで頭を覆い、とても細く見える体は中肉中背をして、印象がとても薄く感じられた。

「やあ」

 自分の名前を呼ばれて、口元だけフードの影から覗かせたその人物は、微笑んだらしかった。ただフードに隠されて下半分だけしか見えない微笑みは、だいぶ嘲笑じみた物を多分に含んでいた。

「ひさしぶりだね」

 噛みしめるように言うその人物に、無意識のうちに六人は身を寄せ合った。

「オマイ…」

 だいぶ震える指を、和紀がその人物に向けた。

「死んだんじゃなかったのか?」

「心外だなあ」

 それが、春の訪れのように清々しささえ感じさせる声で、答えが返ってきた。

「久しぶりに級友に会ったというのに、まずその話題かい?」

 声には、ちょっとした悪戯が成功して、喜んでいるような響きが混じっていた。

 舞朝にナギサと呼ばれた人物は、フードの上から頭に手を当てて、ちょっと考え込むような間を取った。

「しっかりと、閻魔大王だか天使ミカエルだかに会って、地獄に突き落とされましたとも。なにせ、はっきりくっきりと『食べられた』からね。でもこうして帰って来れたんだ、また『食べた』り『食べられた』りしよう」

 かつての級友であり、同じく地学講義室に出入りしていた人物であり、そしてなにより殺人鬼であったナギサは、それが旅行先での出来事であったかのように、飄々としていた。

 もちろんナギサの言う「食べる」という行為は、一般的な物とは大きくかけ離れていた。その「食事」の犠牲になったのは全部で四人。その全員が、腹腔を切り裂かれて、黒く酸化させた血液を地面にぶちまけていた。そして悪趣味なことに、被害者の各種内臓は、まるで肉色のアクセサリーのようにして、死体へ飾られていた。

 それは、ここにいる全員が高等部に進学した、今年の春のことであった。

 殺すだけが目的でない快楽殺人者で、完全な異常者。それがユウキナギサの正体であった。

「きっぱりとお断りする」

 直巳が、口角に泡が飛ぶほど、怒りの感情をこめた声で拒絶した。普通は友人との再会というのは嬉しい物だが、相手が殺人鬼ではそのような感情がわき起こってくるはずもなかった。

「キミとは話していないよ」

 ナギサは、金属バットを持っていない方の、右手の指先についた汚れを確認するような動作をとった。その途端に、軽い金属音のような物がして、何かが駐輪場のコンクリートに落下した。

「あいかわらず反応がいいね『超能力者』」

 何が起きたのかが判らずに、舞朝は首をねじ曲げて後ろに立つ直巳を見た。

 彼は、逃げ腰になったように、半歩だけ後ろに下がっていた。そして彼の顔をナギサから隠すように、一本の竹箒が横から差し出されていた。

 その荒い穂先に、一本の鉛筆が突き刺さっていた。視線を落とせば、周囲に三本ほど、同じ物が散らかっていた。

 飛翔してくる間どころか、投擲した気配までも全くなかった。が、ナギサが直巳に向けて使用したのに間違いなかった。

 もちろん、それぞれが見ているだけで痛そうになるほどの角度で尖らせてあり、竹箒が…、つまり五郎八が防がなければ直巳の顔に(しかも眼球など致命的な部位に)突き刺さっていたところだろう。

「そこの『異世界人』は、無駄口が多いよ。まったく」

 左手で握っていた金属バットを自身の腰へ立てかけて、両掌を眺めながらナギサは言った。

「ボクが話しているのは、彼女なんだけどね」

「生き返ったのか?」

 血の気のない声で舞朝は訊ねた。向けられる負の感情に対してナギサはひょいと肩をすくめた。

「さて? たぶんボクの肉は、焼かれてしまったと思うけど?」

 たしかに、春先に死んだ同級生の葬儀に、参列した記憶があった。

「つまり幽霊だと?」

「そこで立ち聞きしたんだけどさ」

 両手の指を組むと、ストレッチするように前へのばした。こう相手の姿勢の変化を感じている理由は、一挙手一投足注視していないと、相手がいつ攻撃に転じてくるか分からないからだ。

「キミたちは、幽霊と話す方法を探していたんだろ。だったら、ボクが昼間から堂々と出てきても、問題はないでしょ」

 選ぶことが出来るのなら、ナギサ以外の誰でもよかった。

「何しに迷い出てきたんだ」

 和紀が語気強く訊ねた。

「だから『食べる』ためだって」

 なにが可笑しかったのか、低い笑い声を漏らしていた。

「まあ、学校の敷地内で『食べ合う』のは、ボクの決めたルールから外れるから、宣戦布告といったところだ。これで本気を出してくれるでしょ」

 左手で金属バットを握り締めると、その先を舞朝に向けた。

「一番美味しそうな彼女は、最後に取っておくとして」

 その丸い先が、ちょっとずれた。

「『未来人』は、これからボクが取る行動を知っていそうで、なんか嫌だな」

「お褒めの言葉、ありがとうございます」

 笑顔で頭を下げたのは、舞朝の右腕に左手だけで抱きついている愛姫だった。右手はすでに後ろ腰へ回されており、いつでも愛銃(アイリス)を抜き放てるように準備が出来ていた。

「でも最初に狙うのは、キミじゃない」

 さらに狙いが移動した。

「どんなに離れていても、ボクの存在に気がついてしまう『宇宙人』。キミが最初だな」

 シーツに覆われていても分かるほど、叶の体が震えた。

「まあ骨っぽくて不味そうだけど、春にキミのことをあなどってああいった目に遇ったんだから、あたり前だよね」

 ただでさえ、人の視線が嫌いな叶は、シーツの中で固まってしまったようだ。彼女の前に舞朝は歩み出て、殺人鬼の視界から彼女を隠した。その足が震えていたのは仕方がないところだ。

「おとなしく、墓の下に戻るという選択肢は?」

 直巳も前に出てきて、舞朝と肩を並べた。

「ないね」

 あっけらかんとした答えが返ってきた。それだけ聴いていると、こちらの質問した内容が「テスト勉強した?」とか、教室でよく交わされる、内容なんてまったく無い、平和な会話のような感じだった。

「ま、そういうわけだから。首でも洗って待っていてよ」

 ひょいと金属バットを肩に担ぐと、半身だけ後ろを向いて、右手で二本指だけ揃えて敬礼の真似事のような仕草をした。

「じゃあ、今日の処は退散するよ。明日から楽しみにね」

 そのまま振り向きざまに、背後の花壇を飛び越えようとして、ナギサは何かに足を引っかけて盛大に転んだ。

「大成功」「ですわ」

 愛姫と五郎八が、ハイタッチを交わした。一瞬なんのことか分からなかったが、すぐに舞朝は、二人が先程仕掛けていた罠に、ナギサが文字通り引っかかったことに気がついた。

 転んだナギサの横には、深めに突き刺したはずの「挨拶は生活の基本です」の立て看板が、先程より幾分か傾いで立っていた。

「あいて」

 フード越しに顔のあたりを押さえたナギサは、また半分だけ振り返ると、何か言いたそうに視線を送ってきた。

 まだ夜まで時間があるというのに、ナギサを中心に黒い闇が広がっていった。もちろん錯覚なのだが、そんな物を感じさせるマイナスのオーラのような気迫を感じ取ってしまった。

 これがおそらく、ナギサの殺気という奴なのだろう。

 ひしひしとそれが、向けられた全員に染みこんでくる。これは恐怖という感情だ。そのせいで、残暑のために流れる物とは別の汗が、嫌な感じで背中の中心に滲んできた。

 どれぐらいの時間そうしていただろうか。気がつくとナギサの首が巡り、今度は何も言わずに立ち去っていった。

「ふう」

 舞朝は額の汗を拭った。全身が気持ち悪いほど濡れていることを自覚した。全部が冷や汗だった。

「まったく、何がしたかったのでしょうね」

 愛姫は緊張のほぐれた笑顔を取り戻して、後ろ腰に回していた手を戻した。当たり前のように、両手で舞朝に抱き着いてくる。

「本人が言ってたじゃん。宣戦布告だって」

 和紀が、叶の顔をシーツ越しに眺めてこたえた。

「…」

 叶はシーツの中で、生まれたての子鹿のように、細かく震えていた。

「まさか、奴までもが迷い出るとはな」

 竹箒を抱えたままの五郎八は、それでも平然とした声だった。

「いやいや。あれがナギサ本人とは限らない」

 どこまでも科学万能主義の直巳が、体ごと振り返って、手を振り回した。

「だれかが真似していた可能性も、捨てきれないだろ」

「あの投擲術もか?」

 目に止まらない攻撃を、実際に防いだ五郎八が、静かな光をたたえた目で直巳を見た。

 あれが幻でなかった証拠に、いまも一本の鉛筆は竹箒の穂先に絡め取られたままだ。

「練習して出来るようになったのかも」

「いや、あれは本人だっただろ」

 和紀が軽い調子を演出するためか、言葉遣いをいつもの調子にして発言した。ただその声は、だいぶ上ずってしまっていた。

「で?」

 和紀は改めて叶を見た。

「あれはナギサなのか?」

 その質問を聞くと、叶のシーツの一端が持ち上がっていった。わずかに存在する重みでシーツがずれた。中から、左人差し指を頭上に伸ばして、歯痛でもこらえているような表情をした、彼女が現れた。

「どうだ?」

「シッ」

 さらに声をかけようとする和紀に、愛姫が万国共通の合図を飛ばした。

 その場にいる一同が固唾を呑んで、彼女の指先と表情を注視した。

 いつまで続けるのだろうかと不安になった頃、あっさりと元の無表情に戻した叶は、真っ直ぐに和紀を見た。

「アレからは、異質な電波を感じた。永劫回帰惑星の朱色神経草が奏でる、螺旋巻き協奏曲のような…」

 叶の口にする言葉の意味は、まったく判らなかった。(安心しろ、著者もそうだ)

「つまり?」

 叶に、ナギサとは別の意味で、だいぶ嫌な汗をかかされた和紀は、まとめを求めた。

「アレは幽霊ではない」

 全員がホッと息をついたのは、一つの意味ではなさそうだった。

「どちらかというと、亡霊」

「同じようなもんじゃん!」

 和紀のツッコミに、キョトンとした顔を返す叶。

「私の『ナイハーゴの葬送歌星』では、まったく違う物だが?」

「わかったよ『宇宙人』」

「『宇宙人』ではない」

 和紀の言葉に、叶は右の人差し指を立てた。

「『ナイハーギー』だ」

「どう見ても地球人だけどな」

 和紀に指摘されて、やっと自分のシーツがめくれていることに気がついたのか、叶はモソモソと潜り込み直した。

 椎名叶。父親は、小さな清掃会社経営の社長である。酒癖が少々悪いという欠点もあるが、彼の陽気さが会社の牽引力となっていた。母親は、その会社で経理を担当している美人だが、唯一の欠点として笑うときに大口を開けるところであった。

 その二人から、こんな物静かな女の子が生まれるとは、あながちナギサが『宇宙人』と呼ぶのも、不思議ではなかった。

 もちろん『宇宙人』…、いや『ナイハーギー』自体は彼女の自称である。

「それで? その星とやらでは、幽霊と亡霊の違いは?」

 規定事項を確認するような口調で、直巳が訊いた。

「幽霊は、記憶の残滓」

 シーツから片目だけ顔を出して、叶が答えた。

「亡霊は?」

「…」

 ちょっと言葉を探しているような時間押し黙った後、返事があった。

「印象の残滓」

「はい?」

 和紀は、その禅問答のような言葉に目を丸くした。逆に直巳は顎に手を当てると、感心した顔になって何度もうなずいた。

「なるほどねえ。その場合、それらの記憶と印象は、我々の集合意識に帰結するというわけだ」

「集合意識ばかりとは、かぎりませんよ」

 愛姫が口を挟んだ。

「物体にも、周囲の人間の記憶や感情が宿るともいいますから。その残滓は世界のあらゆる場所や空間に、模倣子(ミーム)として存在することになり得ます」

「???」

 まったく話しが判らなくなった舞朝が、不安そうに和紀を見上げた。

 その顔を見て、自分もさっぱり判らないという意味であろう、和紀は両掌を上に向けると、肩をすくめて首を横に振った。

「ふんふん」

 それと対照的に、横の五郎八が細かくうなずいていた。

「わかったのか? イロハ?」

「いや、さっぱり」

 即答だった。

「で? 『未来人』として、君も椎名の意見には、賛成なのか?」

 直巳は、これだけは確認しておかなければと、声色を変えて禅問答の相手に訊いた。彼女は、ナギサがそう呼びかけていた『未来人』であるらしい。

「『未来人』ではありませんわ」

 とても清々しい笑顔で、愛姫は相手の間違いを訂正した。

「『五分未来からやって来た時間旅行者』ですわ」

 本人はそこに拘っていた。

「僕には、五分でも五年でも変わらないんだけどね」

「あら。大きく違いますわ」

 涼しい顔で否定する『未来人』、いや自称『五分未来からやって来た時間旅行者』。

「これから起こることを、あらかじめ知っているというアドバンテージに、差は無いだろ」

「いえ違います。特にそのアドバンテージでのわたくしの行動が、百年後の因果関係に与える影響の差の大きさといったら。そうですね、まさしく月とスッポンの喩えのごとく、大きな差が存在します」

「で? 近藤も、さっきのが印象の残滓と考えるのか?」

 細かい称号に拘るのもいいかげん疲れたのか、直巳はいつもの通り苗字で訊ねた。

「そうですねぇ」

 考える間だけ笑顔を弱めた愛姫は、答えを見つけたとばかりに晴れやかな微笑みに切り替えた。

「わたくしは、五分前である現時点を観測するだけですので、アレがなんでもよろしいかと。ただ、わたくしのマーサさんに、オイタをするのでしたら考えがあります。そうであるなら、また地獄なりなんなりに、引っ込んでいただきましょうか」

 それが、足元の石を蹴り飛ばす程度の作業であるかのような口調で、愛姫の笑顔は一層輝いた。

「わたくしは結果だけを観測するとして。『異世界人』である前田さんは、どうお考えです?」

「いや僕は『異次元人』だけど」

 科学的思考の持ち主のくせに、自身が『異次元人』であると公言している直巳が訂正した。

「ふむ。誰かが演じているのではないとしたら、異次元同位体の可能性があるな」

「なんだそりゃ」

 口から出た言葉に石が混じっていたような、そんな難解な単語の登場に、端から聞いていた舞朝は目を丸くした。

「僕のように、ディメンションセーリングテクニックで平行世界からやってきた可能性も捨てきれない。地獄とは、この次元とは別の異次元であり、そこから我々の知るナギサに良く似た存在が、何らかの力により次元の壁を越えてやってきた。と、考えてもいいよ」

 彼曰く、前田直巳という個体は、この世界よりも科学が発達した別の世界より島流しにされてやってきた次元漂流者なのだという。その割に、家は地元に長く続く醤油の蔵元だったりした。

 まあ一年生同士で、お互い細かい設定には突っ込まない暗黙の了解のような物があるため、ここでは深く掘り下げない。

「そう都合良く、別の次元にナギサがいるとは限らないだろ」

 考えることに飽きてきたのか、舞朝がちょっと突き放すように言った。

「いないとも言い切れない」

 舞朝と言葉遊びを楽しむかのように、直巳の表情が変わった。

「そんな悪魔の証明は、無理でしょう」

 愛姫が舞朝へ助け船を出した。

「いないことを示せというのは『地球上を全てマントルまで掘り返して、徳川埋蔵金が無いことを示せ』という前例があるとおり、出来ないことですわ」

 Motherの続きはもう出ないのかな…(著者思う)

「『超能力者』である、イロハはどう思うよ」

 和紀は明るく訊ねた。でも彼は、もう完全に考えることを放棄した顔になっていた。一通り意見を聞いたので、口数の少ない五郎八へまとめを頼んでいるかのようだ。

 普段から自分を『もののふ』と自称している五郎八は、ナギサが使う呼称が使われたことが気に入らなかったようで、いつもよりも表情を引き締めた。

「ふむ。アレは、これ以上死ぬのか?」

 竹箒を抱えたまま、腕組みをする五郎八。

「え?」

 一同の表情が凍り付いた。

「アレの正体がなんであれ、敵であることには変わりがない」

 確認するためか、指を立てて物を数えるようにして、五郎八が問題点を整理した。

「敵ならば、倒すことに異存はござらん。が、そもそも死者であるアレが、傷を負うものか? いくら斬りつけても、傷さら負わせられぬのならば、歯が立たぬぞ」

「それは…」

 舞朝は、答えを知っていそうな者の顔を窺った。

「人外を倒すこと自体に問題はなかろうが、こちらの刃が届かぬのなら必敗であろう」

「ナナ?」

「…」

 舞朝の問いかけに、叶はいつもの沈黙でこたえた。

「アキ?」

「はい、マーサさん」

「あれは倒せるの?」

「ええと」

 笑顔を、ちょっと戸惑ったように曇らせて愛姫。

「わたくしがやって来たのは、五分先の未来ですので、そこまでは…」

「ずいぶん都合の良い未来だなあ、おい」

「大丈夫ですわ、マーサさん」

 ぐっと握り拳を作って、愛姫は言い切った。

「マーサさんとわたくしの、爛れた未来は変わりませんから」

 こういう事を言うから、舞朝は愛姫の首をときどき絞めて、反省を促すのだ。

「だ、だいじょうぶです」

 首元に伸びてきた舞朝の手から逃れつつ、愛姫は断言した。

「ナギサさんは、明日からとおっしゃっていたじゃありませんか。あれだけ自分の作ったルールに拘った方ですもの。今日は襲ってきませんよ」

 異常犯罪者であるがゆえにナギサは、自分の作った一定のルールを遵守するということに、執着していた。一般に例えるなら、ボムは二発までしか使わずにシューティングゲ-ムをクリヤしようとする、縛りプレイヤーと同じといったところだ。

「明日からは?」

「…」

 愛姫の顔から血の気が引いた。口元だけに笑顔が残っているので、まるで泣き笑いをしているようだった。

「朝は通勤通学のラッシュなので、人目が多いので確率は低いかと」

「じゃあ明日の放課後からか…」

「しょうがねえだろ」

 和紀はバリバリと後頭部を掻くと、仏頂面になりながら言った。

「ナナを最初に狙うって、ピンポイントで宣言してきたんだ。全員で迎え撃たないと」

「警察は?」

 舞朝の常識的な問いかけに、五郎八が鼻で嗤ったような声をかえした。

「警察は無理であろう。なんと訴えるのだ?」

 たしかに「殺人鬼が蘇って襲ってくるんです」と交番に駆け込んだら、そのまま都市伝説にある、白くない救急車を呼ばれてしまうだろう。

「究極、学校に泊まりこんじまえば、ヤツのルールでは襲って来れなくなる」

 和紀が、自分の自転車の方へ戻りながら言った。確かにそれならば、ナギサは襲ってくることは、出来なくなるはずであった。相手のルールにすがるようで格好悪いが、現実的な対抗手段であった。

「とりあえず、今日は男が女を家まで送っていくのは、確実だな」

「賛成だな」

 直巳も大きくうなずいた。

「全員で椎名を送り、その後は順番に家を巡ろう」

「みなさん、帰宅してからの外出は無しですよ」

 愛姫は確認するように言った。

「すると一番効率が良いのは?」

 和紀が直巳を見た。直巳は顎に手を当てて首を捻った。その明晰な彼の頭脳から、どの順番が効率的かの答えが出るまえに、ずっと前から準備していたような笑顔で、先に愛姫が口を開いた。

「ナナさんを送り届けた後に、マーサさんのお宅。それから三人は流れ解散で大丈夫ではないでしょうか? もしかしなくともイロハさんの方が、お二人よりも、お強いでしょうし」

「ちょっとまて」

 舞朝が手を挙げた。

「それだと、アキが抜けてるけど」

「わたくしは…」

 目をキラキラとさせ、何かに祈るように両手を組み合わせた愛姫は、夢心地な興奮した声で言った。

「マーサさんのお宅に泊めさせていただきますわ。もちろんお食事も一緒、お風呂も、おトイレも一緒で」

「まてまてー」

「そして二人はベッドで…」

 赤く染まった両頬を押さえると「ヤーン」と身を捩って、その場で悶えだした。

「イロハ」

「なんじゃ」

「それ、貸して」

「いや、武士の魂ゆえ…」

「それで、この色ボケの性根を叩いて直すから、よこせって言ってるんじゃぁー」

 舞朝は五郎八の竹箒を奪おうと、彼女に正面から組み付いた。

「あ、ダメですよマーサさあん。浮気をするぐらいなら(ピー)(ピー)(ピー)にしましょうね。みんなで、幸せになりましょうよー」

「誰かコレを止めてー」

「いやいや、我々は。なあ」

「うん。是非とも『見学』ということで」

「…」

「あーもう、バカばっかし!」

 早く帰るはずだったのに、赤くなってきた空に舞朝の絶叫が轟いたのだった。



 駅へ向かう道は、向かって左側の路側帯が大きく取られているため、歩行者だが道の左側を歩く形になる。

 学園からの帰り道は、二列縦隊になることが多かった。

 何事も一番を好む和紀が先頭に立ち、彼の自転車に荷物をお邪魔させている叶が建物側を歩くことになる。和紀が無駄話を話しかけることによって、かろうじてその場所を維持する。そうでないと叶は列から脱落して、一人ぼっちになる事があるのだ。

 ただ今日はナギサの殺害予告があったため、この二人は列の真ん中を歩いていた。

「ナナさあ」

 珍しく眉をひそめた顔で、自転車を押す和紀は、隣を歩く叶に話しかけた。

「なに?」

 とても静かな答えがあった。

「記憶の残滓と、印象の残滓だっけ?」

 静かにうなずく気配。

「その違いがよく分からないんだけど、まあいいとして」

「いいかげんだな」

 今日は先頭を歩く舞朝が、首だけ振り返った。

「まあ、遊佐さんの頭では。ねえ」

 舞朝と並んで歩く愛姫が、微笑みの質を変化させた。ちなみに、この二人は建物側が舞朝で、愛姫が道路側を歩くことが多かった。ふいに愛姫が抱き着いてこないように、舞朝がママチャリを盾にしている格好だ。

「ちぇ」

 愛姫の態度に和紀が口を尖らせると、それをなだめるように彼女は目を細めた。

「バカにしているのでは、ありませんわ。ほら、世の中には適材適所という言葉もあることですし」

「けっきょくバカにしてないか? それ」

 舞朝がツッコムと、かわいらしく愛姫はチロリと舌を出した。

 ここだけ見ると、彼女が付き合いにくい人物に思えるが、実際はそうでもない。こうした非常事態でもなければ、雑誌の最新号に掲載された最近のお洒落に関する話題から、NASAが発表した天文学上の新発見に至るまで、会話の幅が豊富で人を飽きさせない。見た目もいいから、将来OLになっても注目される女性となれるだろう。

「で?」

 後ろから直巳が声を飛ばした。

「なにか考え付いたのか? 遊佐は?」

「いや、ちょっと気になったことがあって」

 和紀はシーツを被っている同級生の方を向いた。

「ユウキナギサは、ナナのことを『宇宙人』と呼んで、ナナは否定したじゃん」

 また無言のうなずき。

「じゃあナナから見て、そうだな、アキは何に見えるんだ?」

「ヨグ=ソトースに触れた者」

「よぐとそす?」

「ヨグ=ソトースだ」

 直巳が和紀の間違いを後ろから訂正する。

「時空の制限を受けない邪神として有名だな」

「へえー」

 彼の解説に目を丸くした和紀は、さらに折りたたむように訊いた。

「ナオミちゃんは?」

「夢幻界の住人」

「イロハは?」

 ちょっとだけ顔を出した叶は、じっと前を歩く舞朝の背中を見た。

「マーサの眷属」

「じゃあ、そのマーサは?」

「…」

 言わなくてはダメだろうかというように、彼女は和紀を振り返った。

 なかなか口を開かない叶に、ちょっと怯んだ顔をした和紀は、それでも怖い見たさの精神で言葉を続けた。

「ぜひ」

「旧神の一柱」

「おいマーサ。神さまにされちまったぞ」

「好きにすればいいじゃないか」

 投げやりな声で舞朝が言った。それは突き放すような声ではなかった。

「あたしの正体が何だろうと、ナナの好きに思えばいい。でも友だちだろ?」

 その舞朝の告白に、叶は頬をうっすらと染めると、シーツの下に戻ってしまった。

「まあ! マーサさん、わたくしにも愛の告白を!」

 キリキリと眉をひそめて嫉妬の感情を表す愛姫。でも口元には相変わらず微笑みが残されていた。

「うわあ、言うと思った」

 舞朝がうんざりした顔になったのに構わず、和紀は愛姫に声をかけた。

「じゃあ、アキからは、みんながどう見えているんだ?」

「そうですねえ」

 ちょっと思案顔になった愛姫は、すぐにいつもの微笑みを取り戻した。

「わたくしからこの世界を見ますと、第一発見者がマーサさんで、他の方はそれに追随しているだけの様に思えます」

「?」

 いまの日本語だったのか、と尋ねるような顔になる和紀。それに直巳が救いの手をさしのべた。

「近藤。遊佐の頭でも分かるように、噛み砕いて言ってやれ」

「んー」

 困りましたねというように、愛姫の眉が顰められた。

「五分後の世界から来たわたくしから見ますと、宇宙の全てがマーサさんに観測されることによって、その現象が決定されるのです」

「は?」

「これでもダメですか」

「僕はそれでいいが、遊佐はそれでもダメみたいだぞ」

「そうですねえ」

 愛姫は歩きながら腕を組んだ。豊富なバストが上にのせられる。

「遊佐さんが壁に向かって歩いていくとします。いずれかは、その壁に衝突してしまいますわよね」

「まあ、そうだろうな」

「しかし量子力学的に言うと、必ずぶつかるわけではないのです。とても低い確率ですが、遊佐さんの体が、そのまま壁をすり抜けることだってあるかもしれない」

「あー、りょうしりきがくねー」

 全然分かっていない声の和紀。

「でも、そんなのは、そういうこともあるかもっていうだけで、実際には無いだろ」

「それが、そうでもないのです」

 愛姫はだいぶ地平に近づいた太陽を指さした。

「この現象が起きないと、太陽はああやって燃えていることが不可能なことが分かっていまして」

「ええっ」

 そこで声を上げたのは舞朝だった。

「詳しくは説明しませんが、量子トンネルが起きないと、太陽は核融合を続けることはできないのです」

「知らなかった…」

 呆然と呟く舞朝へ愛姫は微笑んだ。

「マーサさんには、あとでベッドの中でたっぷりとお教えてあげ…」「あーそういうの、いいから」

 袖にされた愛姫は説明に戻った。

「地球上で起こりにくい現象が、太陽の中では当たり前のように起きている。まあ、分母が大きすぎるからなのですが。わたくしからしますと、それは観測するものが、そうだと認識したからとなります。量子力学では観測されることによって現象が決定されるのですから」

「誰かが見てるから、太陽が燃えているってことか?」

 納得いっていない声の和紀。

「大げさに言えばそうなります。そして、わたくしから見て、この五分前の世界を最初に観測しているのは、マーサさんということです」

「他は? ナナとか、イロハとか」

「マーサさんが観測しているから『ナイハーギー』や『もののふ』であることができているのです」

「それって、なんかおかしくね?」

 本当に首を傾げて和紀が訊いた。

「じゃあマーサが生まれていなかった頃は、この宇宙はどうだったんだよ」

「無かったんでしょう」

 さらりと愛姫。

「ない?」

「そうです。存在していなかったのでしょう」

 ペタペタと自分の胸のあたりを触っていた和紀は、困ったような微笑みを浮かべた。

「あるんだけど」

「ですから、今はマーサさんが観測なされていますので」

「オヤジやカアちゃんが小さかった時は?」

「そう大人たちが錯覚しているだけで、そういった記憶を持った存在として、マーサさんに観測された結果、存在が確定しただけです」

「じゃあマーサが死んだら?」

 その問いに愛姫は小さく肩をすくめた。

「この世界も無くなるでしょうね」

「…」

 しばしの沈黙。

「じゃあ、その時みんなは?」

「もちろん無へと返るのです」

「オイラも?」

「ええ」

「ナナやアキも?」

「わたくしには五分先の未来世界がありますので」

「あ、ズルいの」

「でもマーサさんがいない世界で生きていくなんて考えられませんので、わたくしも悲しみのあまり死んでしまうかもしれません」

「マーサ」

 声質を真面目なものに切り替えた和紀は、とっておきの声で言った。

「オマイ死ぬなよ」

「死ぬか!」

 髪の毛を逆立てて舞朝は怒鳴り声を上げた。

「そりゃいつかは死ぬだろうけど、勝手にあたしを殺すな」

 なにせ殺人鬼が蘇ったばかりである。縁起でもなかった。

「ナオミちゃん」

「なんだ」

 和紀の問いかけに、面倒くさそうに直巳がこたえた。

「『異次元人』のオマイからは、どう見えるの?」

「簡単だよ」

 和紀は事も無げに言った。

「全員が、この世界のイレギュラーならば。それぞれがそれぞれの異次元同位体と入れ替わっているだけなんだ」

「全然簡単じゃないんだが」

「だから僕がそのように、君たちも他の次元からここへ紛れ込んだ存在なのさ」

「偶然に六人も集まったって?」

「必然だったのかもしれない」

 直巳は自転車を押していない方の手の人差し指を立てた。

「おっと、その必然が必然たる理由を僕に訊かないでくれよ。僕は『分からない』としかこたえることができないんだからな」

「なんでよ」

「僕は次元漂流者でもあるんだぜ。僕自身はこの次元に来たことは、偶然の結果だと思っているが、それが必然であることを証明するなんて、当事者には無理だろ。説明できるとしたら、僕をこの次元に辿り着かせた何者かさ。もしいたらの話しだが」

「むう」

 和紀は再び眉をひそめた。

「やっぱりナオミちゃんの説明はわからん」

「は」

 軽くコケてみせる直巳。それに構わずに、後ろを振り返ったついでとばかり、直巳の建物側を歩いている五郎八に視線を移した。

「イロハ」

「うむ」

「イロハからは?」

「そうだな。それぞれが超能力で説明がつくと思うのだが」

「超能力で?」

 ナギサに『超能力者』と呼ばれた五郎八が言うと、小学生のままのような和紀より現実味があった。

「うむ」

「ナナは?」

「人ならざるものと交信できる透聴能力者(チャネラー)だな」

「アキは?」

「五分先が分かる予知能力者(プレコグニショニスト)か」

「ナオミちゃんは?」

「次元を行き来できる瞬間移動者(テレポーター)だろう」

「マーサは?」

「んー、それが一番難しい。それがしのように全ての能力を平均的に使える者でもなし、かといって普通の者でもなし」

 竹箒ごと腕を組んで考え込んでしまった。

 彼女との会話が途切れたので、和紀は前を向きなおした。

「じゃ、最後。マーサからは…」

「人間だ」

 和紀の声に被せるように舞朝は言い切った。

「みんな人間で、それでいてあたしの友だちだ。それでいいだろ」

「ダメです! マーサさん」

 厳しい声で愛姫が遮った。

「わたくしのことは、こ・い・び・と、と」

「あ、手が滑った」

 そして舞朝のママチャリが、愛姫へガチャンとぶつけられるのであった。



 布団の中で目が覚めた。

 誰かが、どこかで泣いているような気がした。

 舞朝は、掛けてあった毛布を持ち上げ、そのまま上体を起こした。

 隣の布団には、同じ顔をした妹の舞夕が、同じ姿勢で起きていた。

「きこえた?」

 舞朝の問いかけに、舞夕がうなずいた。

 見回せば、そこは自宅ではなかった。

(そうだ。今日は、おばあちゃんちにとまったんだっけ)

 部屋の調度には、懐かしいぐらい見覚えがあった。

 お腹が大きな母に陣痛が来たとかで、二人は近所の祖母へ預けられたのだ。父は母に付き添っているはずである。もしかしたら出産に立ち会うのかもしれない。

 ここは二人が預けられる度に、いつも布団を並べて敷いて寝ていた、祖母の家にある二階の部屋だ。

 再び音がした。積み上げておいた鍋や釜を、思いっきりひっくり返すような音であった。

「なに?」

 無意識に毛布を抱きしめた。だが説明する大人も何も、この部屋にはいなかった。

「な、なんだろう」

 同じように毛布を抱きしめた舞夕が、不安そうな顔になっていた。

「あかるい?」

 舞夕が窓を指差した。

 たしかにガラスの向こうが、何かに照らされて明るかった。枕元に置いた時計に目をやると、深夜一時をまわったところだった。朝日にはまだ当分時間がある。

「なに?」

 舞朝は、毛布を抱きしめたままズルズルと引きずって、窓際まで行った。

「!?」

 外を覗いて驚いた。窓から見える、お向かいの家の外壁が、真っ赤に染められていたからだ。

 白い外壁に反射する赤い光。それが窓から差し込んでいたのだ。

 お向かいの玄関が開け放たれ、住人と思われる男女が、こちらを指差していた。

 手に持った携帯電話を通話に使用するのではなく、なぜか両手で掲げているのが分かった。

 ボンと屋内で、何かが破裂する鈍い音がした。

 ガラスに張り付くように下を見おろすと、絶望が見えた。

 一階の窓が破れ、そこから太い火炎が顔を出していた。

 自分が立っている真下が燃えているのだ。

 それが意味することを理解するのに、時間がかかった。

 祖母の家が燃えているのだ。

 自分がいる、祖母の家が燃えているのだ。

 一旦停止した思考が動き出した。脳内に「かじ」という単語と、「きけん」という単語が浮かび上がってきた。

「た、たいへん」

 毛布をそこらへんに投げ捨てて、舞朝は舞夕を振り返った。

「かじよ!」

 その言葉を待っていたように、遠くから様々な種類のサイレンが聞こえ始めた。

「かじ?」

 その意味するところが分からなかったのか、舞夕がコトンと首を右に傾げた。

「かじ! もえてるの!」

「えっと?」

 舞朝は、窓際から取って返すと、部屋のドアに取りついた。

「あつい!」

 握ったノブは、すでに普通の温度では無かった。それでも、まだ小学生が握ることのできるぐらいの温度ではあった。

 舞朝はドアを開いた。

 途端に、煙が彼女を襲った。質量すら感じさせるソレと、熱気が彼女の上半身を覆った。

「きゃああ」

 燻られた舞朝は悲鳴をあげた。煙を見た舞夕も悲鳴を上げた。

 慌てていったん閉め、舞朝は妹の元に駆け寄った。

「だいじょうぶ?」

 舞夕が抱き着いてきた。半ばパニックを起こしかけていた舞朝は、その柔らかさに、冷静さを取り戻した。

「だいじょうぶ。でも、にげなきゃ」

「どこから?」

 舞夕の泣きそうな顔を見てから、舞朝は窓を見た。

 二階から飛び降りるなんて、今まで考えたこともなかった。

「まだ、いけるかもしれない」

 舞朝は、ドアを見つめなおした。いつの間にかドアの隙間から、この部屋にも煙が侵入し始めていた。

 白い煙が八割で、黒い煙が二割だった。なぜかそれを見て、舞朝は初老の老人を連想した。おそらく、白髪になりかかった頭髪や髭などと、同じ色合いだったからだろう。

「いくよ」

「まって」

 手を取った舞夕が、ブレーキをかけた。

「く、くまちゃん」

 それは妹が大事にしていたヌイグルミだった。

 今日も一緒の布団に寝ていたクマちゃんを、舞夕が抱き上げるのを待った。

(だいじなのはわかるけど、かじなんだからおいていけばいいのに)

 そう舞朝は思ったけれど、口にはしなかった。姉妹なのに、彼女の方が自分よりも女の子らしいと思っていた。そんな妹に嫉妬を覚えるのではなく、むしろ大事にしたいと思う気持ちの方が大きかった。

 右手にクマちゃんを抱きしめた舞夕の、空いている左手を掴んだ。

「いくからね」

 舞夕に言い聞かせるように声をかけた。

 先ほどよりも熱くなった気がするノブへ手をのばした。勢いよく開くと、室内より廊下の方が明るくなっていた。

 廊下の天井が低く感じられた。それはというと、先ほど見たものと同じような白黒の煙が、上半分に溜まっているからだった。

 首を出すと、階段の方に火の手が見えた。巨大な爬虫類がそこにいて、赤い舌で天井を嘗め回しているかのように、炎が階段のところで踊っていた。

「お、おねえちゃん…」

 飛び降りるという選択肢を外している今、あの階段を行かなければ脱出する道はなかった。それを理解した舞夕が、舞朝の手を強く握った。

 不安げな顔を見せる舞夕を振り返り、しかし留まってはダメだという気持ちで、舞朝は彼女の手を引いて前進した。

 天井には火がついていたが、階段自体に異常は見られなかった。途中から壁からも火が噴き出していたが、床だけ見れば就寝前と同じ様子である。

 問題は一階へ降りてからどうなっているか。そう分析した舞朝は、舞夕にうなずきかけた。

「いっきに、はしっちゃうよ」

「うん」

 頭の中で、階段から玄関までの間取りを思い出し、駆け下りた後のシミュレーションをしてみた。

 階段下る。一階の廊下を走る。突き当りを曲がれば玄関。扉を開けば外だ。

「せーの!」

 妹にというより、自分を励ますために声を出し、熱気で喉が痛くなってしまった。

 それに構わずに、いつもなら走らないでねと祖母に怒られる階段を、二人で駆け下りた。一階の廊下に到着。そこに一本だけ梁が焼け崩れており、道を塞いでいた。だが小学生の二人には、まだ充分通ることのできる隙間があった。

 壁も天井も赤い火と、黒くなった建材でできていた。床からは不気味な煙が沸き立ち始めていたが、まだ通ることはできた。

 崩れた梁をかわし、玄関へ。片手で靴を探そうとする舞夕の腕を引っ張った。いまは一秒でも短縮すべきだ。素足で飛び出そうと、左手でノブを握った。

「?!!!」

 家族で焼肉に行った時と同じ音がした。ステンレス製のノブは、危険なほどの熱さになっていた。

 しかし開けなければならない、舞夕のために。

「あ、あかない?」

 ノブをガチャリと回しても、ドアは開かなかった。何回か挑戦したが、ドアは揺れはするが開かなかった。

 左肩で体当たりしながら、さらにノブと格闘した。もう自分の手のひらに感じる熱さは、どうでもよくなっていた。

「おねえちゃん」

 悲しそうな声の舞夕に振り返った。自分もこんな顔になっているだろうな、という表情をしていた。

「カギ…」

「かぎ?」

 一瞬何のことか分からずに、キョトンとしてしまった。

 慌てて手元を確認すると、玄関の鍵は二つともかけられたままであった。考えてみれば、夜に戸締り、当たり前のことである。

 ステンレスに張り付いた手を引きはがし、これまた熱くなっているカギのサムターンを二つとも回した。幸い二人の耳に、確実な作動音が聞こえた。

(これで出られる)

 再びノブを握ろうとし、そこに自分の薄皮が一枚張り付いているのを見つけた。手のひらを見る勇気は無かったが、痕が残ったかなと少し残念な気持ちになった。

 幾分か熱の伝導が低くなった気がしたノブを回すと、扉が浮いた。

 そして世界が白くなった。

 その白くなった世界に、舞朝は浮いていた。隣には、胸に黒猫を抱きしめた舞夕も浮いていた。

 不思議と熱は感じなかった。ただ強い風に、二人は白い世界をどこまでも押しやられていった。

 舞夕の髪が、風を孕んで扇のように広がっていた。

 その黒髪が、端からドンドンと焼け焦げていった。

 どこからか太い木の柱が、二人の方に飛んで来るのが見えた。

 空中に浮いている二人へ、ゆっくりと迫って来る。ささくれて尖った断面を、こちらに向けて飛んで来る四角い木材。普通の時系列では、物理的にありえない現象だ。おそらく白い世界へ飛ばされてから、時間の感じ方が加速された結果なのだろう。

(ああ。あれが刺さって舞夕は…)

 その凶器を、とても冷静に見ている自分がいた。

「忠告はした」

 突然、舞夕の方から聞きなれた声がした。

 体が動かないので、眼球だけを動かして、声のしてきた方向を見た。その先で舞夕に抱かれた黒猫が、明らかに意志をもって、舞朝へ向けて首を巡らせていた。牙のある肉食獣の口が動き、人の言葉を紡ぎ出す。

「昔を思い出すのはいいけれど。ちゃんと帰って来れないなら、自粛するべき」

 その声が椎名叶の物だと気が付いた。

 白い光の中で、高校生に戻った舞朝は、人形のように硬直した舞夕に抱かれた、喋る黒猫と対峙していた。

「もう来ちゃダメよ」

 その声と共に、意識があやふやになっていった。



「おねえちゃん」

 揺さぶられて意識がはっきりしてきた。暖かい物に包まれて、横たわっている自覚が湧いてくる。

 昨夜は、なかなか寝付けなかったのだが、いつの間にかグッスリと寝ていたらしい。

「朝だよ」

 また揺すられた。この声は小学校に通う弟の声だ。

「コロス」

「はい?」

 姉の目覚めの一言に、キョトンとする小学五年生。飛び起きて、その首を絞めながら、舞朝は言った。

「乙女の部屋に入るなって、いつも言ってるでしょお」

「チョーク! チョーク!」

 中性的な魅力で、クラスの女子に大人気らしい弟は、その端正な顔を赤く染めて訴えた。

「おねえちゃんがネボーするからだろ。おかあさんが起こしてこいって、言ったんだよ」

「はあ? 寝坊?」

 何を馬鹿なことをとセリフを続けようとして、枕元のデジタル式の目覚まし時計へ視線を移した。

 舞朝は、弟と正反対に顔色を青くした。

「ゲロゲロ!」

「乙女が、そんな声出すかよ」

 やっと解放された首筋を撫でながら、弟が指摘してきた。もちろん、そんなものに構う時間の余裕は、すでに残されていない。それは無機質な数字の羅列が示していた。

「着替えるから、とっとと出てけ」

 弟を蹴り飛ばしながら、舞朝は女の子が一人で使うには広い部屋で、着替えを始めた。

 姉の着替えなんか見ていても、なんにも楽しくない弟は、自分の支度のためだろうか、階段をおりていった。

 寝る前に翌日の準備を怠らなかったおかげで、身支度さえ済めば飛び出していけるはずだ。

 この計画性が、毎年やってくる夏の課題に活かされないのは、やはり習慣と、長期計画との差であろう。もしくは自律と強制の差かもしれないが。

 そういった無駄な思考に逃げながらも、舞朝の手はちゃんと動き、制服へ着替え終えた。

 部屋の姿見を覗いた。

 足元から頭のてっぺんまでの全身が映る姿見は、昔と変わらず自分を映し出した。違うのは、映っているのが自分一人ということだけだ。

 長袖のブラウスにカーディガン、足元はニーハイのソックスという、あいかわらず空気にさらす肌成分は、ほとんど無い姿である。

 ちょっと近づいて今度は顔や髪のチェックに移った。

 とくに寝癖がついているわけでもなく、入浴時以外は結んだままの、長い一本三つ編みにも変わりはないようだ。

 ふと思って手のひらを見てみる。溜息が出た。

 前髪へ少々乱暴にブラシを入れ、ベッドサイドテーブルに散らかしてある、いくつかのリボンの内一つを掴むと、三つ編みの端を留めている黒ゴムの上から縛って、お洒落とした。

 今日は時間がないので選択の余地がないのは当然だが、舞朝は自分の三つ編み姿は割と似合っていると思っていた。

 たまに部屋で一人にいる時に、別の髪型に挑戦してもみた。幼いころから同じ髪型のせいか、どれもイマイチに見えてしまうのだ。

 鞄を抱えて足音高く階段を下ると、開いていたダイニングのドアから弟の声がした。

「おねえちゃん、朝は?」

「いらない!」

「食パンくわえていかないの?」

 ひょいと顔を出して確認してきた。

「どこのアニメの話しだ。いってきまーす!」

 目の前の弟の耳をその大音量で殺しつつ、おそらく向こうのダイニングで家事を続けているはずの母親に向けて挨拶を飛ばしてから、舞朝は玄関を飛び出した。

「よ」

 そこに見慣れぬ姿を発見して、舞朝は失礼だと思いながらも、指差して顎を落としてしまった。

「な、ナオミちゃん」

「遅刻するぞ」

 弓原家は小さいながらも郊外の一軒家であった。その住宅地で車通りの少ない道を、まるで流れる河のように、近所の小中学生が登校していた。

 そんな見慣れた日常光景の中で、愛車のマウンテンバイクに跨ったままで、待ちくたびれた顔を隠さずに、直巳が道で待っていた。

 ただ彼が待っていても、そう驚くこともなかった。昨夜の段階で薄々だが、男子のどちらかが、迎えに来てくれるような気がしていたからだ。

「七五三?」

「失敬だな」

 舞朝の指摘に、直巳が口元だけ怒ってみせた。

 舞朝を驚かせたのは、なによりも彼が制服姿だったためだ。ただでさえ見慣れない直巳の制服姿。さらに七五三のような印象を与える原因は、制服の色が新品のままだったからである。普段はタンスの肥やしになっている証拠であろう。

 しかも普段は、服飾規定など無視するように私服で登校するくせに、いまはシャツのボタンをキッチリと留め、夏季は省略しても校則違反を問われないことになっている、ネクタイまでちゃんと締めているのだ。

 半数以上の男子がやるように、ズボンも腰履きなどせずに、革ベルトでキッチリとしていた。

「全速力じゃないと、間に合わないぜ」

 仰々しい仕草で腕時計を確認して、直巳は言った。

「ああ、うん」

 マウンテンバイクのスタンドを蹴り飛ばして、走り出そうとする背中に、舞朝は小さい声で付け加えた。

「ありがとう」

 直巳は、いつもよりペダルが軽い気がした。まあ清々しい朝だったから、ということにしておこう。

 途中で、市内を東西に横断している、国道の信号に引っかかってしまった。長距離のトラックが行き交う道なので、やたらと待ち時間が長いのだ。

 そのせいで真面目に遅刻を覚悟する一幕もあったが、なんとか風紀委員会が校門を閉ざす前に、到着することができた。

 バタバタと駐輪場から校舎内を駆け抜け、一年生フロアに転がり込むように到着すると、廊下で他の天文部一年生と出くわした。

「おや」

「…」

「おはよう」

 朝の学活が行われる直前の、雑然とした雰囲気の中、シーツ姿の叶をエスコートするように、並んで歩く同級生の姿に、仲間はずれのようなものを感じて、舞朝の口がへの字になった。

 もちろん、相変わらず朝から笑顔全開の愛姫も、道着に竹箒姿の五郎八もいた。

「おはようございますマーサさん」

 愛姫は、さっそく舞朝の右腕に抱きつくと、つつと横に彼女を引っ張って、並んで立っていた直巳から距離を取り始めた。

「なんだよ。僕はバイ菌か、なにかかよ」

 知能が高いなりに、感情を面に出さないようにしながらも、その愛姫のあからさまな態度に、直巳が不満の言葉を漏らした。朝早くからボディガード役として迎えに行った、自分の努力が踏みにじられたようだ。

 だが、愛姫はそんな直巳の様子をまるっきり無視して、舞朝に訊ねた。

「マーサさん、大丈夫でしたか?」

「昨日の夜は、何もなかったけど」

 眠った気がしないため疲労感は大きかったが、他には何も異常はない。

「そうではなくて」

 ちょっと笑顔のまま眉を顰めた愛姫は、思い切ったように訊いた。

「この男が『送り狼』ならぬ『迎え狼』にでも変身しなかったかと」

「あははは」

 軽い笑いで返した。

「ナオミちゃんより、カズキの方が危険だろ」

「遊佐さんでしたら…」

 ニッコリと晴れやかさを笑顔に取り戻しながら、愛姫は断言した。

「女の子に、そういったイタズラが出来るほど、度胸が据わっていませんので、杞憂かと」

「それがしもおったしな」

 竹箒ごと腕を組んだ五郎八が、伏し目がちの表情で存在を主張した。

「悪かったなあ、ヘタレで」

 顔を赤くした和紀が、愛姫に食ってかかった。

「今日は、四人で来たのかよ」

 舞朝の質問に、愛姫は含み笑いを漏らし、和紀は一層赤くなってそっぽを向いた。

「わたくしと、イロハさんの二人で、ナナさんをお迎えに行くと、遊佐さんが先に来ていまして…」

「いや、だってな」

 ちょっと顔を上気させた和紀は、大げさに手を振り回して、なにか言おうとした。

「朝からご両親へ挨拶なんて、積極的すぎますわー」(以上の愛姫のセリフ棒読み)

「巷では、最近『すとーか』なる行為が問題視されているとか」(以上の五郎八のセリフも棒読み)

「いやいやいや、女だけじゃ心配だろ」

 手も首もブンブンと横に振って、和紀は一所懸命言い訳をした。

「ふーん」

 それに対して、まるで江戸の両替商が、人相の悪い男が持ち込んだ小判の真贋を疑うような顔になって、舞朝は腕を組んだ。

「…」

 とうの叶はシーツの下で首を動かしていた。どうやら和紀の慌てている様子を観察しているようだ。

 その叶へ視線を移動させた舞朝は、努めて明るく話しかけた。

「ナナありがとうな」

 何を言っているんだろうかと周りが訝しんでいる中で、シーツの中から小さく返事があった。

「どういたしまして」

「はっ!!!」

 愛姫が、突然の大声をあげた。

 あまりの唐突さに、ちょうど廊下を通りかかった、関係ない通行人すら振り返った程だった。

「どうした? 忘れ物でもしたか?」

 右腕に抱きつかれているため、至近距離でその声を聞く羽目になった舞朝は、なるたけ冷静に訊ねた。

「だめですよ! マーサさん!」

 とても真剣な物に笑顔を変化させながら、愛姫は言った。

「三日連続で、レーヨンなんて身につけちゃ!」


 …。


「はい?」

「女の子でしたら、シルクの物を着けなければ! なんでしたら、わたくしの物をお貸ししましょうか」

 三秒だけ、舞朝は相手の言っていることが判らなかった。そして制服の上から触っただけで、自分がいま身につけている下着の素材を言い当てた愛姫の感覚に、心底呆れた。

 他の女子がまあ気がついた頃、舞朝は噛んで含めるような、ゆっくりとした調子で口を開いた。

「…アキ…」

「はい、なんでしょうか?」

 制服の上から舞朝の体を撫で回しながら、愛姫は悪びれない態度だった。

「それ、いま指摘しなきゃいけないこと?」

「もちろん! 重大な事ではないですか!」

 笑顔のままで力説されてしまった。

「もしそれがマズいことだとしても、アキからは借りたくない」

 ポイッと愛姫を振り払うと、舞朝は断言した。

「なぜです?」

「おまえから借りたら、どうせ変なところにチャックが着いているとか、紐みたいな布地成分ゼロのヤツとか、いっそ履いてないとか言い出すだろ」

「あら、なぜお分かりなんでしょうか」

「なんの話しだよ」

 和紀と直巳は、不思議そうな顔をしていた。こういうのを鳩が豆鉄砲を食らったと言うのだろうか。いまだ愛姫が言い張っている事が理解できていないようだ。

「こいつが…」

 説明しようとして舞朝は、愛姫を指差してから口を空振りさせた。

 間違っても男子に話せるような物ではなかった。

 そこに始業のチャイムが響いてきた。

「お、ほら始まるぞ」

 舞朝には救いの鐘だった。



 授業中は居眠りをすることで、睡眠不足を解消することにした舞朝は、それがろくな実績を上げないまま、昼のチャイムを聞くことになった。

 うつらうつらとできるのだが、それ以上深い睡眠にならないのである。

「調子はどお?」

 チャイムを受けて、嫌々と上体を起こし、腐れ縁である和紀を振り返る。と、後ろの席の住人も机につっぷしていた。

 縦に並んだ二人共が仲良く居眠りとは、良い度胸であった。よく授業中に注意されなかったものである。

 よく考えなくても二日連続の狼藉に、教師たちは怒りよりも呆れといった感情を抱いているのかもしれなかったが。

 和紀は、舞朝の呼びかけで、面倒くさそうに顔を上げた。

「まずまず」

「まったく、寝不足ぐらいで、だらしがないですわ」

 上から叱咤する声が降ってきたので、二人してノロノロと顔を上げた。そこには、両腰に手を当てて人よりある胸をそらした、愛姫が立っていた。

「お昼の観測に、間に合いませんよ」

 愛姫は、右手にぶる下げたファンシーな巾着袋を振った。天文部は毎日、太陽黒点観測をしているため、昼ご飯は部室である地学講義室で取ることが多かった。

「あたし、今日は昼抜きだ」

 いつもは自作のお弁当を持ってくる舞朝だったが、今朝は寝坊していたので昼ご飯を抜くことになりそうだ。

「なんだよ、カネないのか」

 和紀が哀れむような視線を投げてくるので、舞朝は片方の頬だけ膨らませた。

「余分なお金は無いの。お弁当作り損ねちゃったし、それに今頃、購買部に駆け込んでも、ろくな物残ってないだろーし」

 高校生といえば、男女問わず食欲旺盛な年頃である。よって、連日昼休みに行われる購買部での食品の取り合いは、いつも壮絶な物になった。

 さすがに「氷結の魔女」などと、あだ名がつけられる格闘家が現れたりはしないが、ラッシュ時の山手線のような押し合いへし合いが、毎回カウンター前に出現していた。

 舞朝は、お小遣いの節約というような言い訳をしたが、正直に言うと、あの無秩序な乱闘のような、人ごみが嫌いなだけであった。

「なんでしたら、おわけしましょうか?」

 愛姫は、自分のお弁当箱が包まれている巾着袋を、再び振った。それは二人で食べるには、あまりにも小さな入れ物であった。

「マーサさんならば、いくらでもお分けいたしますとも。もちろん…」

 そこで言葉を一旦句切って、自分の唇へ細い人差し指を当てた。

「く・ち・う・つ・し・で」

 一音節ごとを区切って、とても艶っぽく情熱的な声で告げた。

 愛姫は、そのまま淫らな想像しているのか、いやんいやんと腰を振って一人で立ったまま悶えていた。

「しゃーねーな」

 そんな愛姫を、遠慮の無い冷たい目で舞朝が見ていると、和紀は後頭部をバリバリと掻きながら、勢いよく立ち上がった。

「カレーパンは無理としても、サンドイッチぐらいは掴んでくるか」

「それって?」

 コロっと表情を変えて、舞朝は和紀に期待するような声を向けた。

「でもな」

 ピタリと舞朝を指差して言った。

「オゴリじゃねえからな」

「わかったよ」

 和紀の指先から彼の顔へ目を移しながら、舞朝は了承の笑顔をつくった。

「マーサさん。男になんか借りを作ったら、どんな見返りを求められるか!」

 面白くないのは愛姫である。芝居がかった仕草で声を荒立て、髪を振り乱した。それに対して舞朝は、先程の表情を取り戻して、冷たく宣言した。

「いや、アキの方に借りを作ったら、それこそ面倒くさそうだし」

「そんな!」

「カネ返してくれりゃ文句言わねーよ」

 彼は、D校舎一階にある購買部という名の戦場へと、ズボンのポッケに手を入れて向かった。

「そのかわし、観測やっとけよー」

「おー」

 背中越しの捨て台詞へ適当に声を返し、舞朝は地学講義室へ向かうことにした。

 立ち上がっただけで、愛姫が当たり前のように、右腕に抱きついてきた。

「なにか?」

 とても幸せそうに微笑む愛姫をしばし睨み付けてから、そして溜息。つまり諦めたのだ。

 教室の並ぶB棟から、教科教室が集まるC棟へ足を向けた。一年生フロアはB棟の三階で、地学室はC棟の二階にある。二人はB棟の西階段を下り、D棟の中央廊下をC棟の方へ。

 その行く先に、道着姿の人影を見つけて、安堵のような物を感じた。

 やはり学校では襲ってこないという言葉を聞いていても、相手は異常犯罪者であるから、どこまで信じられるかわからない。

 見知った友人の無事な姿という物は、こんなに人を安心させるものだということが、舞朝の心に染みるように感じられた。

「イロ…」

 舞朝は、声をかけるのをためらった。

 いつもならば、背後からでも人の視線を感じ取り、間合いに入る前に振り返る五郎八である。が、いまは違うようだ。

 青い道着に竹箒という、いつものスタイルなのだが、今はなんだか小さく見えた。

 それが何故だろうと考えると、すぐに思い当たることがあった。いつもはとても背筋をスラリと伸ばしているのだが、今は心なしか猫背になって、体を小さく縮こませるようにしているのだ。

 そんな努力をしていても、彼女の身長では、目立たないようにすることは無理であった。今も通りがかった男子が、不思議そうに振り返っていった。

 だが、そんな他人からの視線も、まったく気にならない様子で、五郎八は階段室に設置されている防火扉の影から、D棟中央廊下を熱心に見つめていた。

「?」

 舞朝は愛姫を見た。

「さあ」

 愛姫は、思わせぶりな含み笑いをしているばかりだ。

 舞朝は、愛姫に右腕を預けたまま、五郎八が見ている物を確認しようと近づいた。

 心当たりがまったく無いわけではなかった。

 もしかしたら、ここ最近勝負を挑んでは敗れている、剣道部のエースを闇討ちしようとしているのかもしれない。そんな事件を起こされては、天文部の活動に触るはずだ。

 思い詰めたあまりに、そんなことを企んでいるのならば、同じ部活の者としてだけではなく、友人として止めなければならない。

 五郎八の背中越しに見てみれば、昼休みに入ったばかりで、交通の要所である中央廊下は、行く人来る人でごった返していた。

 ある者は、愛姫と同じようにお弁当の包みを抱えて移動しているし、またある者は、昼休み中に何らかの部活動があるのか、色々な荷物を抱えて歩いていた。

 もちろん立ち止まって、ただお喋りに興じる集団や、何故だか判らないがジャンケンで勝負している二人組がいたりもした。

 その広い廊下の真ん中をなんだか気怠そうにC棟へ足を向ける、一人の男子を五郎八は見つめているようだ。

 その見つめられている男子は、学年ごとに違う色が指定されている上履きからして、舞朝たちよりも一つ上の二年生ということが、離れたここからでも分かった。

「先輩…」

 五郎八はとても切なそうに呟くと、乙女成分一二〇パーセントを含んだ溜息をついた。

 道着を着て、竹箒を抱えて、化粧っ気どころかガサツささえ感じさせるボサ気味の髪をしている女子に、もっとも似合わないような溜息だった。

「へ?」

 ざわざわと背中に迫る嫌な予感を感じながら、舞朝は右腕に抱きついている愛姫に確認するように視線を移した。

「ええ」

 愛姫が、周知の出来事だと言うようにうなずいた。

「ええ~!!!???」

 素っ頓狂な声が出てしまった。いつもの五郎八ならば「うるさい」の一言でも言ってくるのだが、想い人の背姿に集中しているらしく、今はただ溜息をつくばかりだった。

 それならばそうと、野次馬根性という物が心の中で首をもたげてきた。ドレドレとばかりに前に詰め、相手をよく観察してみることにした。

 彼女の想い人は、中肉中背をした普通の男子に見えた。夏服を規定通りのままに身に着けていて、清潔感は一定以上のレベルで維持していた。髪など身の回りもほったらかしではなく、それなりの手入れはしているようだ。筋肉質の整った体をしているので、なにかのスポーツ選手なのかもしれなかった。

 ただ残念なことに、前日徹夜でもしたのか、とても眠たそうに歩いていた。後ろ髪にも、一房だけ妖怪アンテナのように寝癖がついているし、足取りも重そうだった。

 総評としては、目覚め直後のキビキビとした動作ならば、すれ違う女子の三人に二人は振り返るレベルの少年だ。

 彼は、人の流れの中でふらふらと歩いているように見えたが、それは周囲にぶつからないように、ある程度の間合いを取っているせいだということが察せられた。進行方向はC棟。舞朝たちの用事がある地学講義室と同じ方向であった。

 想い人が歩を進めるにつれて、こちらとの距離は開く一方であったが、意を決したように五郎八が動いた。

 近づいて話しかけるのかと思いきや、前方にあった壁の凹みに移動しただけであった。

 それに釣られたわけではないが、舞朝も(そして右腕に抱きついている愛姫も)そこまでついていってしまった。

「…お慕い申しております…」

 再び切ない溜息。

 D棟中央廊下には、同じ構造が三カ所続いていた。そして五郎八の行動も、三回繰り返された。もちろん舞朝と愛姫も、三回繰り返した。

「これってさ」

 舞朝は不安を感じて愛姫に確認した。

「ストーカーじゃないよな」

「…」

 愛姫は笑顔のまま、しばし黙り込んでから口を開いた。

「ストーカーなどではありません。恋する乙女です」

「そっか、恋する乙女なら、おかしくないよな」

 舞朝も深く考えたら負けのような気がして、脱力した反応を返してしまった。

「で、あれはダレ?」

 答えを知っているはずの二人に尋ねるが、片方は見つめ続けることに夢中で反応がなかった。

「ある意味、有名な先輩ですわ」

「…どんな意味?」

 嫌な予感しか感じなくて、舞朝は振り返ってしまった。

「えーと、お聞きになります?」

 モデル級の笑顔のままで、首を横に傾げて見せた。それだけでも充分に絵になる仕草で、何も知らない男子ならば、いまの五郎八のように恋の虜になってしまうことだろう。

 だが中等部の頃から見慣れていて、しかも同性である舞朝にはまったく効果がなかった。

「簡単に言え」

「要約いたしますと『図書室の常連さん』です」

「ああー」

 舞朝は、腕組みをして、何度もうなずいてしまった。つまり変態の一人であるらしい。

「イロハ。世の中まだ男は余っているだろうから、悪いこと言わないから別の人を探しなよ」

「なにをおっしゃいます」

 真剣な顔になって愛姫が言った。

「男女交際なんて不健全な上に不潔です。やはり、わたくしのように同性同士…、いえマーサさんに!」

「離れろ」

 舞朝は愛姫の腕を振り払った。そんないつもの二人のド突き漫才にも無反応だった五郎八であったが、見つめている(そうでなければ尾行している)相手が廊下を折れたのを見て、小走りに走り出した。

 きっと今度は、その曲がり角で止まるのであろうなと見当をつけて、舞朝もその背中を追った。

「ああん。マーサさあん、置いていかないでください」

 もちろん愛姫も追ってきた。

「いいから、あたしに触んな」

 一瞬だけ振り返って一刀両断に言い捨て、C棟の入り口へ走った。その途端、まるで冬の冷気のような物が、体全体に吹き付けてきたように感じた。身を潜めることも忘れて、舞朝は廊下の真ん中で棒立ちになってしまった。

 この残暑厳しい季節に、そんな馬鹿なことがあるかと思い、周囲を確認した。

 C棟の中央廊下には、まるで溢れんばかりの人ごみが詰まっていた。エコという名の経費節減で、校舎内の空調が効いていない事と、それだけの人間が集まっていることからして、暑くてたまらないはずなのに、その冷え冷えとした感覚は一向に消え去ることは無かった。

 その人の塊は、手前側と少し離れた場所にと、二つ存在していた。その中間には赤い毛氈が敷かれ、立派な和傘が支柱によって立てられていた。

 その真ん中で、一人の女子生徒がこちらを向いて正座をしていた。

 頬の高さで切りそろえられた黒髪を持つその女子は、舞朝と同じ制服を身につけているのにも関わらず、まるで一幅の日本画のような印象を持つ美人であった。

 特にその肌の白さは特筆するほどで、身につけているブラウスの白さよりも色素が無かった。高等部の紺色の制服よりも、和服の方が絶対に似合うタイプである。

 その中央廊下を強制的に通行止めにして占拠している和風美人は、ゆったりとした動作で、手にした木の枝へ手鋏を入れていた。前に置かれた青磁の花器とあわせて、まるで春先に野点を模して野外で華道を嗜んでいる趣味人の様相であった。

 いまもパチンと意外に大きな音をさせて、手にした枝から余分な部位を切り落とした。

 彼女が敷いている毛氈で、昼休みの中央廊下が通行止めになっているため、どんどんと人ごみが膨れあがってきた。気がつけば舞朝自身も一人きりで、その一部に呑み込まれていた。いつも抱きついてくる愛姫は振り払ってしまったし、五郎八はその和風美人を観察している内に、はぐれてしまった。

「は、ハナちゃん? …。??」

 息を呑み込んだ声がした。その昼休みに似合わない光景で気がつかなかったが、先程までその背中を追っていた五郎八の想い人が、人ごみの最前列で半ば茫然として立ちすくんでいた。

「…」

 彼は、この非常識な華道を嗜んでいる相手のことを、多少は知っているようだ。話しかけられた和風美人は、返事の変わりに薄く微笑んだ。

 そこに至り、舞朝はこの全身を包みこむ冷気のような物の正体に気がついた。

 それは、この正座をしている和風美人の体全体から、押さえようとしても吹き出ている、何らかの精神的重圧というやつだ。

「な、なんか怒ってる?」

 五郎八の想い人が、その迫力に気後れしているのか、だいぶ腰が引けた声で訊ねた。

「おこっている?」

 単語を確認するように聞きかえす和風美人。すべての感情を殺そうと努力している様子が、周囲の人込みにも手に取るようにわかる声であった。そしてその努力が無駄になるほど、声の端々は震えていた。

「小耳に、挟んだんですよ」

「な、なにを?」

 冷や汗を五リットルほど流しながら、五郎八の想い人は訊いた。

「なんでも、保健の先生を抱きしめていたとか」

 和風美人の言葉が見物人たちに認識された瞬間、五郎八の想い人は、その場にいた全生徒の敵となった。今年度から新任で入った保健室担当の養護教師は、美人の上にナイスボディで知られているのだ。男子生徒からは嫉妬の目が、女子生徒からは、女の敵への目が向けられた。

「ご、誤解だ」

 喉が干上がってしまったのか、五郎八の想い人の声が裏返っていた。

「あれは先生から、あなたの大胸筋の味を確かめさせてと、俺のシャツをめくって…」

 その言い訳は、火に油を注ぐ行為であることに間違いはなかった。その証拠にプルプルと震え出していた枝が、右手の手鋏ではなく、支える左手で握りつぶされた。

「大胸筋? 味? しゃつぅ~」

「あ」

 慌てて口を押さえても、もう遅かった。

「エッチ! すけべ! セクハラ男!」

 和風美人は、手近にあった物を投げつけ始めた。

「わ、ちょ、ちょっと待て」

 枝の残骸、手鋏、剣山などを華麗に避けながら、それでも彼は新しい言い訳をしようとした。

「ぎゃ」

「ぐわ」

「ひでぶ」

 あまりにも華麗によけるので、彼女が投げた色んな物は、野次馬をしていた一般生徒へ、流れ弾のように次々に命中していた。

「こりゃいかん」

 まだ冷静さが残っている彼のほうが、その被害の甚大さに気がついた。身を翻して、彼は横にある扉の中へと逃げ込んだ。

「待ちなさい」

 和傘の石突きを先にして投げつける和風美人。和傘は、彼が逃げ込んだ直後に、そのスチール製の扉に突き立った。

 和風美人は、彼へトドメをさすまでは、手加減をするつもりは無いようだ。猛然とその背中を追って、その部屋へ飛び込んでいった。

 その修羅場を見ようと、廊下の人ごみがグッと入口に寄った。

「あ、ちょ、ちょっと」

 舞朝は、その流れから逃れようと藻掻いたが、脱出することは叶わなかった。

 その扉の向こうは、外部からの明かりが緑色のカーテンに弱められながら差し込む、とても清潔的な部屋だった。その台風のような暴力が廊下から吹き込んでくるまでは、おそらく静寂が支配する世界であっただろう。整然と並んだ本棚には、世界の英知がぎっしりと詰められていた。

 何のことは無い、そこは地学講義室とは廊下を挟んでお向かいさんである、図書室であった。

「あ、あたしは観測が…」

 そう言って人ごみに逆らって部屋を出ようとしても、野次馬の塊が肉の壁となって存在して、歩くどころか身動きもままならなかった。

「女たらし! へんたい! 痴漢!」

 和風美人は、ライトノベルが整理されて並んでいた出入口間際の本棚から、まるでマシンガンのように、文庫本を相手に投げつけていた。

 ちなみに彼女が投げやすいように、次から次へと本棚から手渡しているのは、よりによって五郎八であった。五郎八にも嫉妬という感情があったらしい。

「や、ちょっと待って」

 狙われている方は、先程までの眠そうな表情を幾ばくか残しながらも、弁解をしようと試みているようだ。

「うわあ」

「はあ。ついこの間、蔵書整理が終わったばかりだってえのに…」

 近くで声がしたので視線を争いごとから移すと、出入口脇に設置された業務カウンターの横で、二人の女子が並んで立ちすくんでいた。その左腕に着けた腕章から、図書委員会の本日の業務当番であることがわかった。

 片方の意外に小柄な人物は、屋上の観測会に現れた藤原図書委員会委員長であった。剛腕で知られる彼女であったが、この騒動をどうやら取り敢えず静観するつもりらしい。

 もう片方の人物は、長い髪が印象的な少女であった。

 女子の夏服では省略して良いブレザーのチョッキを着て、ネクタイまできっちりと締めており、真面目そうな感じがした。

 夏服で規定されている、胸にピンでとめたフェルトに付けたクラス章で、同じ一年生とわかる。その横に留められている開かれた本を模した徽章で、彼女も図書委員会に所属することがわかった。

「しかも、なンであたしと、おまえが当番の時に、こういった事になるのかねえ」

「委員長と私だから、じゃないですかあ」

 会話の間にも騒動の中心は移動しているらしく、宙に舞う本が「哲学入門」とか「唯物論と死」というタイトルの物に変わっていた。どうやら文庫本の棚から日本十進分類法で言うところの、第一区分の棚の近くに移動したらしい。

「ハナちゃん先輩、めずらしくキレちゃってますねえ」

 こんな騒動よりも、天文部伝統の黒点観測の方が大事なのだが、なぜか舞朝は二人の会話が気になった。

「自分が副委員長だってことを、忘れているンじゃなかろうね」

 委員長は威風堂々とした雰囲気で腕を組んで見せた。しかし溜息混じりのそのセリフは、一種の錯乱状態であるらしい和風美人に、だいぶ肩入れする事情があるようだ。

「ばか! スケコマシ! 貞操なし!」

「は、話せばわかる!」

「問答無用!」

 泣き声成分が半分混じった叫び声とともに「歴史5月15日」「公民授業をおさらいする」「初等国際関係学」と三冊が飛行した。戦場は第二区分から第三区分へと、さらに移動したらしい。

「で?」

 舞朝の目の前で、身長差から相手を見上げる委員長だが、その迫力ある印象から、見おろしているように感じられた。彼女の話し相手である一年女子は、平均身長になんとか届いている舞朝よりも、頭一つ分は確実に高かった。

「この騒動でクラマ、おまえがいるンだから。見かけないけど、当然あのバカもいるンだろ」

「さあ」

 クラマと呼ばれた赤いフレームのトンボ眼鏡をかけた一年女子は、可愛らしく首を傾げた。どうやら、とぼけているようだ。

「あの騒動屋が嗅ぎつけないわけ無いわよ、まったく」

 二人の視線は、再び騒動へ向けられた。

 宙を舞っていたのは「自然の百科」だった。それから舞朝も借りたことがある分厚くて重い「皆既月食宝典」だいぶ薄くなって「モノ造りのしくみ」シリーズが連射されたと思ったら、四六センチ級の破壊力がありそうな分厚さの「戦艦大和を建造する」までが飛んだ。

 飛んでいる本の種類から、分類的に図書室の半分は散らかされたことが判った。

「ハナちゃん、全部ひっくり返す気かしら」

「これって、やっぱり図書委員会で片付けるんですかあ」

「あったりまえでしょ」

 委員長は胃が痛くなってきている様子であった。それに対して話し相手の一年女子は脳天気な様子であった。真面目な人物かと思いきや、どこまでも他人事であるかのような態度であった。『剛腕』委員長の前でその態度は、ある意味立派であった。

 騒音は窓際へ移動し「金魚を飼う」「芸術学に入門した」「文楽を見よ」と本の種類が変化した。

「はああ」

 委員長は重い溜息をついた。だが、それはどうやら図書室の惨状に対する物では無かったらしい。委員長は意を決したように訊いた。

「あのさ、クラマ」

「はい?」

「本当に、あのバカとつきあっているわけ?」

 再び相手を見る委員長。その顔には好奇心よりも、心配といった種類の物が浮かんでいた。

「あのバカって、センパイのことですかあ?」

「他にバカは…、いっぱいいるか」

 指折り数えそうな雰囲気であった。

「どこが良かったのよ?」

「やっぱり気になりますう? 元カノとして」

「ばっ、馬鹿いうんじゃないわよ」

 委員長の耳が、後ろから見ていても判るほど赤くなった。が、それは照れているのか、それとも怒っているのかは、残念ながら判らなかった。

 そんな『剛腕』委員長らしからぬ乙女反応を観察してから、話し相手は口を開いた。

「それはですね」

 口元にどことなく寂しそうな微笑みを浮かべた。

「二人とも独りぼっちだったんです」

「はぁ?」

 委員長はオーバーリアクションで再び相手を振り返った。

「こンなに大騒ぎする連中と、知り合いだってンのに?」

「ええ」

 かけている赤いトンボ眼鏡を、指ではなく手の甲で押し上げながら彼女は答えた。

「お互い、家族がいないに等しいですから」

「そりゃあ、あのバカが家の中で孤立している事ぐらい知ってンけどさ。おまえもそうなわけ?」

「ただ保護者が義務で忙しいだけですよう。でも甘えたいときに誰もいないって、辛いものですよ」

「そっか」

 ポリポリと委員長は頭を掻いた。その視界では雑誌コーナーへ「ポーランド語を話す」と「立原道造全集」そして「エスペラントの詩人たち」が着地していた。

「でも、あたしゃおまえらが、そのう…」

 委員長は再び耳まで真っ赤になった。それだけで相手の言いたいことが判ったのか、安心させるような微笑みを取り戻して、相手の一年女子が言った。

「不純異性交遊なんてしてませんよう。それこそフワ先輩じゃありませんものお」

「でも、つきあってるって言ったら、そういったこともあるンじゃないの」

「まあ、粘膜の触れ合い的なことは、あまりありませんねえ」

「ネンマクって…」

「お肌の触れ合いも、あまりありませんねえ」

「おはだ…」

「まあ、手を繋ぐ程度ですかねえ」

 あっけらかんと言った微笑みに、委員長は目を点にしていた。

「それって、つきあってるって言うの?」

「ええ」

 ほんわかとした微笑みを見せる割に、鋭い視線で委員長を見た。

「そこにいてくれるというだけで、幸せなんですよう」

「かはあ、焼けちゃうわねえ」

 委員長が顔に手を当てた、その時だった。

「ねえさん危ない!」

 どこからか鋭い叫び声が掛けられたので振り返ると、帯出禁止の本が並ぶ辺りから、蔵書の中ではその厚さで並ぶ物がない国語辞典「大辞森」が、まっすぐこちらへ飛んできていた。

「(Death)」

 委員長は、そんな掛け声のような、溜息のような物と一緒に上体を屈めて(ダッキングして)回避。話し相手の一年女子は横に飛び退き、そして大辞書の飛行ルートには、舞朝だけが残された。

「きゃ」

 迫る背表紙、前では委員長が上体を屈め、左右には人ごみ。舞朝には逃げ場は無かった。直撃、そして鼻血ぐらいを舞朝が覚悟して目を閉じた時だった。

《大丈夫》

 誰かに耳元でそう囁かれた気がした。

 舞朝は左側から、その誰かに抱きつかれた。いつも愛姫にされているので反射的にその小柄な相手を抱きかえしつつも、バランスを失って尻餅をつきそうになった。

 幸い舞朝は、無様にひっくり返ることはなく、なにか固い椅子のような物に腰かけるような形になった。

 いつになっても物体は飛来しなかった。

 それよりか耳に違和感があった。

 現況が分からずに、おそるおそる瞼を開いた。

 舞朝の顔を、見慣れた誰かさんが覗き込んでいた。その中等部らしい女子は、雪が溶けるような淡い微笑みを見せると、舞朝の腕の中からすり抜けて視界の外へ走り去った。

「あ、ちょっと!」

 呼び止めようと手を右に伸ばして、舞朝は自分が、ベンチに座ってテニスコートへ振り返っていることに気がついた。

「?」

 舞朝は、いつの間にか地学講義室の下にある、テニスコート脇のベンチに座っていた。今まで立っていたはずの図書室からは、高さも距離もある。それどころか間に、廊下も地学講義室も、なによりもコンクリートでできた壁を挟んでいるはずだ。

「あれ?」

 自分の身に降りかかった、あまりの不可思議な現象に、舞朝は目が点になってしまった。

 耳の違和感の正体もわかった。いままで修羅場と化した図書室で、野次馬の人ごみに飲まれていた舞朝であるが、ここにはそういった喧噪がないため、聴覚に異常が発生したかのような錯覚を感じたのだ。

「やれやれだわ」

 その時を見計らったように、背中の方向で声がした。

 振り返ると、そこに長い銀髪を風に流した小柄な体格の女子が立っていた。セリフ自体は、物事にうんざりしているような物であったが、声の調子には一切の感情による起伏が感じられなかった。

「また行ってしまったわ」

 その人物は、いま初めて舞朝に気がついたかのように、彼女へ振り向いた。

「ああ、あなたたちだったのね」

 高等部の夏服を真面目に着ているその女子は、挨拶のつもりなのだろうか、ちょっとだけ表情を緩ませた。

「ここで出会うなんて。やっぱり彼女の仕業なのね?」

 口元だけで印象的な微笑みを向けるその銀髪の人物は、気軽に右手を差しだした。

「?」

「挨拶ばかりに、握手を」

 舞朝は彼女の手を握りかえして思い出した。

「あなたは潰された…」

「あら」

 それ以外にも、夜の屋上で肩がぶつかったり、三階の窓の外を走り抜けていったシーンが、フラッシュバックのように舞朝の脳裏に浮かんだ。

「恥ずかしい姿を、見られていたようね」

 無表情ながら、照れたように手を引っ込める相手には、悪気が一切感じられなかった。

「幽霊だの亡霊だの、現れる原因は、あなたね」

「違うわ」

 両手を胸の辺りに挙げた彼女は、降参とでも言うように頭を横に振った。

「どちらかというと、あなたたちという特異点のせい」

 困ったように微笑みながら、彼女は舞朝の右側の空間を指差した。

「あたしたち?」

 そういえば右側が人肌に温かい。また愛姫が抱きついているものと思い、彼女にも何か言わせようと振り返った。

 最初はそこに鏡があるのかと思った。舞朝の横には、彼女自身にそっくりな人物が座っていた。同じタイミングで瞬きまでしたが、鏡像と違うことがすぐにわかる。舞朝は長い黒髪を一本の三つ編みにしているが、隣に座る人物はまったく結ばずに背中へ流していた。

「え?」

「おねえちゃん?」

 姿形だけでなく、その声までも舞朝にそっくりであった。

 相手もキョトンとしている表情から、驚いていることが察せられた。

「マーサさああああああん」

 また背後から声がしたので、舞朝は顔をあげて、振り返った。

 校舎の非常階段出口から、今度は本物の愛姫が手を振りながら駆け寄ってくるところだった。

「あたしたちというと、あんな『未来人』のことなのか?」

 訊ねてみても返事はなかった。無愛想だなと顔を上げてみれば、もうすでに銀髪の少女も消えていた。

「大丈夫ですか? マーサさん」

 愛姫は当然のように舞朝の右腕に抱きついてきた。それで彼女はもう一人の人物も消えていることに気がついた。

「ええと?」

 舞朝は混乱し、いつもの笑顔のままの愛姫を見つめた。

「なんでアキはここに?」

 一つずつ疑問を潰していこうと心の中を整理し、答えを知っていそうな人物に尋ねてみることにした。

「わたくしならば、ここにいらっしゃることを、わかっていましたから」

 いたずらっぽくウインクをしながら微笑む『五分未来からやってきた時間旅行者』。

「あれは誰?」

「それはどちらの方のことですか? 妹さんのことですか? それとも銀色の髪をした人のことですか?」

 そのセリフで、どうやら愛姫は舞朝が経験したことを、把握しているらしいということが判った。

「とりあえず、謎の女子から」

「あの方は、もうちょっと秘密です」

 立てた人差し指を形の良い唇に当てながら、愛姫は微笑みを強くした。あの少女がやって可愛い仕草だったが、彼女がやると妖艶な美女といった雰囲気である。

「そのうちに判ることですから」

「本当に、そうならいいけど」

 納得いかないまま口をへの字に曲げてしまう舞朝。それを見かねたのか愛姫は、ちょっとだけ肩をすくめた。

「で、あの…」

 舞朝は隣に座っていた、もう一人の自分を思い出した。

「これだけ幽霊やら亡霊やらが現れているんですから、他に亡くなった人が顔を出しても、不思議ではないでしょ」

「そうだけどさ」

 顔に手を当てて、まだ納得できない舞朝。愛姫の顔を見つめ返すが、目は彼女を見ていなかった。

「あのコ。あたしと同じ顔をしてた」

(夢で逢えた舞夕は、小学生のままだったのに)

「まあ答え合わせは、今回の騒動が終わった頃に」

 愛姫が先に立ち上がり、グイッと舞朝の右腕を引っ張った。

「それよりも、ナナさんだけに観測をまかせてしまうのですか? 遊佐さんに知られたら、きっとうるさいですよ」

「あ」

 舞朝は、一度だけ妹が座っていたベンチへ視線を走らせてから、愛姫に引き摺られるままに地学講義室へ向かった。



 その日の放課後である。

 舞朝が、和紀と右腕に抱きついている愛姫と、いつもの顔並びで地学講義室に着くと、長机を移動して部屋の中心に空間が作られていた。

 その労働に従事したのは、どうやら先に着いていた直巳と五郎八の二人であったらしい。いまはその二人がヤマト先輩とアイコ先輩の前で正座させられていた。

「はい、一年は正座」

 アイコ先輩が厳しい声で、二人の横を指差した。

「え? えーと」

「マーサさん。どうやらお冠のようですから、おとなしく従いましょう」

 話しが分からずにあっけに取られた舞朝の右耳へ、熱い吐息と一緒に愛姫の囁き声がかけられた。

「はあ」

 和紀も毒気を抜かれた感じで、荷物を適当に置くと、直巳の横で膝を揃えた。

「…」

 最後に入ってきた叶も、入り口付近で動きを止めた。

「はい、ナナも連帯責任で正座」

 アイコ先輩の厳しい顔は変わらなかった。

 恐い先輩に逆らう度胸もなく、舞朝たち六人は一列に正座をした。

「はい。なんで怒られているか分かる人」

 腕組みをして一歩前に出るアイコ先輩を、不思議そうに見上げる一同。おずおずとシーツの一端が持ち上がった。

「ナナ」

 アイコ先輩に指差されて、叶はくぐもった声で答えた。

「昼の観測に、遅刻しそうだったから?」

「そう!」

 きりきりとアイコ先輩の両眉が寄せられた。

「創部以来伝統の黒点観測が、もうちょっとで途絶えるところだったのよ。もし観測記録が天気以外の理由で途絶えたら、先輩たちにどう謝るつもりなの!」

「まあまあチナミ」

 ヤマト先輩が、緩い笑顔で後ろから声をかけた。

「人の命がかかっているわけでもないんだから、そう目くじらを立てないで」

「ヤマトは黙ってて」

 部長であるヤマト先輩にすら噛みつきそうな勢いで、鋭い視線を飛ばして黙らせると、一年生に向き直った。

「アイコ先輩」

 舞朝は、無駄だろうなと思いつつ、言い訳をすることにした。

「今日は図書室で大騒ぎがあって、事実上中央廊下が通行止めだったから、時間に間に合わなかったんです」

「同じ条件のはずのナナは、どうして間に合ってるのよ」

 アイコ先輩が顎でシーツ姿を示した。

「ナナが温和しいからって、仕事を全部押しつけてるんじゃないわよ」

「それは誤解です」

 直巳が真っ直ぐ顔を見かえして言い返した。

「今日は、本当に不運が重なっただけです」

「不運で済ますつもり?」

「チナミ」

 ヤマト先輩がアイコ先輩の肩に手をかけた。

「あまり締め付けるのもどうかと思うよ。僕たちだって、だいぶ危なかった時もあったじゃないか」

「でも…」

 柔和な笑みに迫られて、アイコ先輩がしばし逡巡した。その時一年生全員が、それぞれの心の中で、ヤマト先輩へ声援を送っていた。

 じっと見つめ合う二人。そんなに時を経ずにアイコ先輩の視線がそらされた。

 ヤマト先輩は、ポンと幼子をあやすようにアイコ先輩の肩を叩いてから、一年生全員に向いた。

「一年も反省して、これからは六人揃って観測してよ」

 同じ笑顔を向けられて六人とも頭が自然と下がった。

「すいませんでした」

「ごめんなさい」

「しゃーっす」

「…」

「陳謝する」

「もういたしません」

 その殊勝な態度に、口をへの字にしたままであったが、アイコ先輩が口を開くことはなかった。

(どうやら許してもらえそうだ)

 と六人は安堵したが、ちょっと早かったらしい。ヤマト先輩は、その柔和な笑顔のまま言った。

「まあチナミも、振り上げた拳の落としどころがないと困るだろうから、あと一五分ぐらい正座は続けてもらおうか」

 その時、舞朝たちの思いはシンクロした。

(鬼だ…)


「あーしびれちゃった、しーびれちゃったー、しーびれちゃったーよー」

 和紀が、まるで古いアニメのセリフのような事を言いながら、その場に転がった。苦行が終わって解放感がそうさせるのだろう。横に座っていた舞朝もそうしたいところだったが、スカートが汚れるかと自重し、感覚が戻らないまま立ち上がると、なんとか椅子へ収まった。

「これに懲りて気をつけなさい」

 一年生が正座している間、懲罰を命じた側であるアイコ先輩は、ずっと立って見張っていた。彼女が人に罰を与えておいて、自分だけのんびりするなんていう悪趣味な人間でないことは、一年生たちも知っていた。

「今日は、なにかありますか?」

「うんにゃ、なんにも」

 舞朝の確認に、ヤマト先輩が気軽に答えた。当の本人は、カメラの器材をガーゼで拭いて手入れを行っていた。

 何も言わず直巳も、その部品たちに手を伸ばし、手伝いを始めた。

「しっかし」

 ヤマト先輩は、長机を挟んで座った直巳を、まじまじと見た。

「ナオミが制服を着ているなんて、明日は雪か?」

 この残暑の中で降雪があったら、それこそ奇跡というものだろう。

「どんな心境の変化だい?」

「これは…」

 照れて赤面した直巳は、わずかに抵抗するかのように言った。

「今日は、朝から授業に出ようとして」

「いつもなら、それでも私服じゃん」

「私服だと悪目立ちすぎするし」

 直巳は不自然に言葉を切った。ヤマト先輩はしばらく続きを待ったが、何も言わないので「ふーん」とか適当な言葉を返して作業に戻った。

 舞朝は、直巳が続けて言いたかったセリフを、理解していた。おそらく「制服の中に私服でいると、ナギサに発見されやすくなるから」であろう。

 ヤマト先輩も、春の連続殺人事件には少し関係した。夏も終わりせっかく事件の記憶が風化したというのに「ナギサが亡霊として蘇りました」なんて報告して、再び事件に巻き込むことはないだろう。

「で? ナナ。れいの件は?」

 和紀はぎこちなく立ち上がると、こちらは足が痺れた様子を微塵も感じさせずに、いつもの席へ落ち着いた叶の横に座って訊ねた。

「ちなみに今のは、ダブルミーニング」

 親指を立てるバカが一人いた。いや五郎八の感性に触れるものがあったのか、彼の後ろで腕組みをして立った彼女も、また指を立てていた。

「例の霊ね…」

 呆れて舞朝が頬杖をつくと、彼女の横にはいつものとおり愛姫がやってきた。

「いちおう」

 シーツの下から、大分黄ばんだ革表紙のメモ帳のようなものが机上に出され、皆が見えるように指先で滑らせて、それは中央に置かれた。

 見慣れないアイテムに、器材の整備を手伝っている直巳と、持ち主の叶を省く四人が身を乗り出した。

 黒い表紙には、金色をした英語の筆記体でタイトルが書かれていたが、あまりにも達筆な物だったので、舞朝は全く読むことができなかった。だいぶ遣い込まれた年代物らしく、黒革はすりへって変色しており、厚みから覗くページに使われている紙は、手垢で黒く汚れている部分以外は黄ばんでいた。

「なにこれ」

 和紀が素直に質問した。判らないことは知っている人に訊くのにかぎる。

「アンチョコ」

 持ってきた人物は短く解説した。それだけで充分だ。この小さな手帳には、霊と交信する方法が書き込まれているらしいことが察せられた。

「あのう、ナナさん」

 笑顔を強ばらせた愛姫が、だいぶ固い声で確認した。

「わたくしには『カーヌーン、オブ、ジ、イスラム』とタイトルが読めるのですが…」

 わざわざカタカナ発音で愛姫がタイトルを読んだ。まったく読めなかった舞朝と違い、彼女はたしか学年二位の学力なのだ。

「大丈夫」

 無機質にもしっかりと叶は言った。

「使い方を間違えなければ安全だから」

 シーツの下から出された右手がグッと握られたかと思うと、ビシッと親指が立てられた。

 どうやら今さっきの和紀たちの真似がしたかったらしい。

「で?」

 愛姫へ振り返って舞朝は解説を求めた。

「これのドコが面白いんだ?」

「ええと、マーサさんは知りませんか?」

 それが常識と認識していたらしく、舞朝が知らないことの驚きを笑顔に混ぜて愛姫は再確認した。

「なにをだ?」

「この本のタイトルを、耳に挟んだこと、ございません?」

「うーん」

 ちょっと天井を振り仰いで記憶を検索してみるが、特にこれといった心当たりはなかった。

「書いた人物は『狂える詩人』ことアブドール・アルハザードです」

 ヒントとして著者を出されても、国外どころか国内の作家ですら名前を出されても判らないという、ダメな方の自信はあった。

「作家で憶えているのは太宰治とか、ガッコで習う国内の、いわゆる文豪だけだし。英語の作家って、シェークスピアぐらいしか思いつかないし」

「これ、英語ではありませんよ」

 強ばった笑顔のままで、愛姫は手帳を指差した。

「おそらく内容は、ギリシャ語で書かれています」

「じゃあ、そのアブドラさんはギリシャ人なのか」

「いえアラビヤの人です」

「は? それで何でギリシャ語?」

「アラビヤ語の本を、ギリシャ語に翻訳してあるんです」

「ああ」

 舞朝はぽんと手を打った。外国語同士で翻訳が存在することをうっかり失念していたらしい。

「古い本ですから、完全な物はハーバード大学のワイドナー図書館、パリ国立図書館、ミスカトニック大学付属図書館、ブエノスアイレス大学図書館、そして所在不明の一冊の五部しか存在しないそうですよ」

「じゃあ、これは貴重な一冊というわけ?」

「そうでしょうね」

 そこで一同に沈黙が訪れた。もともと無口な叶は除くとして、舞朝以外の者はここまでの愛姫の解説で、だいたいこの手帳の正体に感づいたらしい。一人だけ分からない舞朝は、つまらない顔になった。

「オレ帰っていいか?」

 和紀が、なぜか言い出した。

「うむ、それがしも」

 竹箒ごと腕組みをしている五郎八もうなずいた。

「わ、わたくしはマーサさんのために、残りますわ」

 愛姫の笑顔は、顔色が真っ白に変わっていた。

「大丈夫」

 再び叶が言った。

「これは英訳版のさらに写本」

「写本でも、危険な物は危険ですわ」

「え? これってナニ?」

 まるで爆弾を前に話し合っているような、薄ら寒い物を背中に感じて、椅子の上で舞朝は距離を取ろうとのけぞった。

「マーサさんは、幻想書物をお知りですか?」

「げんそうしょもつ?」

 知るもなにも、その単語自体が初耳だった。

「現実にはありそうもない奇書の類ですわ。その中でも、この本は極めて特殊な本なんです」

「へー」

 やっぱりただの本なんだと安心の顔を見せる舞朝へ、冷や水をかけるつもりで愛姫は言った。

「この『イスラムの琴』という風に訳される表題は、本物のタイトルではありません。本当はこう呼ばれています」

 一度言葉を切り、相手の反応を観察しながら告げた。

「『ネクロノミコン』と」

「ああ」

 舞朝は、やっと理解できる単語が出てきて笑顔になった。

「あのゲームでよく出てくる魔法の本でしょ…」

 なにも考えずに口にして、舞朝は自分の言葉に驚いた。

「魔法の本?」

 これが愛姫あたりの取りだした物なら、そのタイトルを冠した好事家のレプリカと笑い飛ばすところだ。しかし神秘的な雰囲気をまとった自称『ナイハーギー』である叶の所有物だと、洒落にならなかった。

「ちょっ、ちょっと。これ本物?」

 舞朝の確認に、それが生徒手帳であるかのような気安さで手に取った叶は、表紙を彼女に見せるように掲げながら言った。

「これは、私のアンチョコだから」

 その言葉に、再び一同は凍り付いた。

(なんのアンチョコだよ)



 叶が言うには、広い場所で、しかも『縁』がある場所の方がいいということで、一年生全員でC棟の屋上に上がった。

 もちろん観測会の時に借りていた体操マットなんかはとっくに返却してあり、器材は天文部の倉庫や、地学準備室へしまい込んであった。

 よって防水工事の上に石膏パネルを敷いただけの屋上は、あまりにも無機質に感じられた。これが昼休みならばバトミントンやバレーボールなどに興じる生徒がいたりして賑やかなものだが、放課後で利用する者がいないため、閑散としていた。

「で? ここでどうすんの?」

 和紀が好奇心に負けた声で叶を振り返った。とうの本人は、部室から提げてきた自分のバックを適当な場所に置くと、左手を真上に差し上げた。

 まるで自分の頭上にUFOがいるのを知らせているように、人差し指をピンとのばした。被っているシーツは自重と、あるかないかの微風で、はためいて飛びそうになった。

「あずかりましょう」

 愛姫が静かに言うと、そのシーツの端を掴んだ。はためいていたままに風を受け止め、大きく広げながらそれを回収した。

 白いシーツの下から、難しい顔をして目を閉じた叶の本体が現れた。シーツを手早く丸めると、愛姫は邪魔をしないように下がった。

「ちがう」

 短くつぶやくと、その手を下ろして目を開いた。周囲を眩しそうに見まわすと、もうちょっと屋上の中心に近い位置に移動し、再び上空を指差した。

「もうちょっと」

 なにやらフィーリングにあわないようで、腕を上げたポーズのまま無表情ないつもの顔に戻ると、細かく左右に移動した。しばらくして納得する位置に着いたらしく、再び難しい顔を見せながら精神集中にうつった。

「荷物を」

 その格好のまま、叶の左手が彼女のバックに向けて差し出された。和紀が拾い上げると、まるで従卒のように底を持って、それを彼女の元へ運んだ。

「これでいいのか?」

 和紀の声で目を開いた叶は、左手は差し上げたまま、右手だけでバックのチャックを開き、中からビニールテープを取りだした。

 それを手で短く二本切り出すと、いま立っていた真下に×印をつけた。

 次にバッグから出てきたのは方位磁石だ。

 下に置き磁針が安定するのを待つ。針先が止まったところで、南に向けて腕をあげた。そちらの方向に、目印となる物に見当をつけると、正確に三歩移動した。その小さな背中を、荷物を持ったままの和紀が続いた。

 短く移動したそこに、和紀へ指だけで命令して自分のバックを置かせると、中から色んな物を取り出し始めた。

「で、これが降霊会の準備なのか?」

 直巳は、大声で叶の邪魔になってはいけないと配慮したのか、囁くように愛姫に訊ねた。

「おそらくそうなのでしょう」

 丸めたシーツを抱えたまま、舞朝の右腕という定位置に戻ってきた愛姫は、意外にも自信が無さそうに言い返した。

「おや珍しい。近藤が、これから起きることを知らないなんてこともあるんだな」

「ええ、まあ」

 ちょっと寂しそうに微笑みを変化させた愛姫は、素直に認めた。

「この降霊会での因果律の変化は、五分ぐらいでは計りきれないほどの分岐を生み出しています。これではわたくしの手には負えません」

「それはやはり、あのアンチョコがいけないのか?」

 舞朝の左側に立った五郎八が、半分だけ振り返って訊ねた。

「おそらくそうなのでしょう。もし異形な物がやって来てしまったら、イロハさん頼みましたよ」

「承知」

 二人でなにやら悲壮な覚悟を決めているのが鬱陶しく感じたので、舞朝は直巳の方を向いた。

「ナオミちゃんは特に反対しないのな」

「なにをだい?」

 不思議そうに聞きかえされた。

「いや、いつもなら『非科学的な事は止めたまえ』って言い出すキャラじゃないか」

「あのな」

 とても反省しているような深い溜息をついた直巳は、気を取りなおす間だけ沈黙してから喋りだした。

「もちろんオカルトは軽蔑するよ。でも昨日現れたアレを異次元同位体の可能性と考えた場合、一概に否定ばかりはしていられないよ」

「あら」

 愛姫が意地悪な笑顔になった。

「科学万能主義の看板を下ろすときが来ましたか?」

「いや、そんなつもりは毛頭無いよ。観測された結果が科学的に説明できないからといって、奇跡や魔術のせいと判断するのがオカルトであり、ちゃんと『わからない』と答えるのが科学さ」

「詭弁のように聞こえますが?」

「その原理が判らなくても、人類はいろんな物を利用してきたんだ。たとえばこの校舎はコンクリートで出来ているけど、この世界ではいまだにコンクリートがどうして固まるか判っていないんだよ。それなのにこうも大規模に利用して都市を作り上げている。これを神の奇跡と言う人間がオカルト信仰者。いまは分からないけど、いずれ解明されることを信じて『分からない』と答えることが出来る者が科学者さ」

 直巳は意識して胸を張った。

「だから、この降霊会が成功してもいいんだ。原理が分からないが、異次元同位体とのコンタクトに成功したと、判断したっていい」

「気にはならないのか?」

 愛姫と喋らせておくと、いずれ口げんかになってしまうことを見越して、舞朝は口を挟んだ。

「その異次元なんちゃらに、自分が知っている方法でアプローチしないことは、気分が悪くならないのか?」

「弓原は身近な電気って、なにか知ってる?」

「は?」

 唐突に話しが変わった気がして、舞朝は直巳の顔を見なおした。

「ええと、懐中電灯とか?」

「つまり電池だよね」

 にっこりと笑った直巳は人差し指を立てた。

「でも世の中には、静電気という物もある」

「ああ、そういえばそうだね」

「身近な電気というだけで二種類の物があった。でも電池は直流で、静電気はスカラー波で、電気としてはまったく違う性質を持っているんだ」

 直流は回路が閉じていないと流れないが、スカラー波は少々理屈に合わない流れ方をする。冬にドアノブに触って不快な思いをすることがあるが、あの時に電気回路は閉じていないのに、パチリと手に衝撃を感じる。電気として性質が違う証左である。

「でも、電気という大きな括りでは、同じ物だよね」

「ナオミちゃんは、何が言いたいのよ?」

「つまり、僕が知っているディメンションセーリングテクニックとは違う方法で、次元を渡る方法があるかもしれないということさ。その方法が自分では理解不能だからといって、一概にオカルトと括るのは、いささか科学者としては不公平な態度だろ」

 直巳はそう告げ、屋上で作業を続ける二人を見やった。

「僕のそれとは全く違う方法が存在していても、いまは否定できない気分なんだ」

 叶は自分が×印をつけた地点から正確に南に動いたところに、祭壇と言うべき物を完成させつつあった。

 どうやってバックの中に入っていたのか謎な折りたたみの小さな台に、二本の燭台と香炉が置かれた。

 燭台には緋色をした蝋燭が取り付けられていた。それは何度も使われた物らしく、不気味によじれた軸からは蝋の雫が四方八方に流れて固まっていた。叶はライターでそれらに火を灯すと、香炉の蓋を開いた。次にまるで人形と一緒に飾るためにあるような、とても小さな小ビンを取り出した。蓋を開け中身をそこに落とす。どうやらそれは何かの香料だったらしく、右の蝋燭を傾けると、煙が細く立ち上るまで辛抱強く炙った。

 香料に火が点いた時点で、それらの位置を微調整し、最後に締めとしてか香炉の蓋を閉じた。

 その祭壇の準備が終わると、叶は離れた位置から見ていた三人に手招きをした。

「どうやら来いと言っているようだぞ」

 舞朝を先頭に、その祭壇に近づいた。

「これを」

 叶は一本のロープを取りだした。舞朝が受け取るが、それはただの荷造り用のビニール紐だった。

「正確に、二メートルに計って」

 これもバックの中から出された、メジャーと工作用の鋏を手渡された。

「下に置いて計った方が、やりやすいんじゃないのか」

 直巳が横から手を出して、紐とメジャーの端を取ってくれた。適当に離れて屋上に押しつけて、叶の望む長さに切断した。

「はい」

 次に叶は舞朝の肩を軽く押すと、彼女に抱きついている愛姫に離れるように指示した。そのまま舞朝を押して、自分が×印をつけた位置まで移動させると、自分は直巳から紐の先端を受け取った。

「?」

 なにをするつもりなのかまったく判らないため棒立ちに立っていると、叶から足元を指差される。指示されるままに手にしていた紐の先を、足元の×印に押しつける。と、叶は反対側の先を屋上に押しつけ、チビたチョークで線を引き始めた。どうやらこの紐をコンパスにして、舞朝が立たされた地点を中心に、正確な円を描くつもりらしいことが判った。

 ほどなく白い線は、丸く舞朝を中心にして閉じた。

 今度は再び方位磁石の出番であった。正確に東西南北を確認すると、白い円へ八カ所の印をつけた。

 それから取りだしたのは、いま舞朝が立つ位置を印したビニールテープだった。

 一度だけ香炉から立ち上る煙の中をくぐらせると、一端を和紀に持たせ、自分は対角線に当たる点へと行き、歩きながら伸ばしたビニールテープを屋上に貼り付けた。

 ここに至って全員が、彼女がこれらの道具を使って、どうやら魔法陣を屋上に描くつもりであることが分かった。

 だがそれは単純な星形をしてはいなかった。

 円上の八カ所から向かい合う点へ辺を伸ばせば、正方形を二つ組み合わせた八芒星といった形になるはずだ。しかし、そのうちの二つの点を叶は使用しなかった。ちょうど北西と北東にあたる点を除いたため、三角形を二つ組み合わせた六芒星が完成していた。

 その形は北側の点が外れた位置に来たために、ゆがんだ不思議な形をしていた。

 単純な星形などよりも、よっぽど呪術めいて怪しげだったが、あのアンチョコをチラチラと盗み見ながらの作図では、どちらかというと「危しげ」と表現した方が、正確に物事を示しているかもしれなかった。

 叶は、愛姫から自分のシーツを受け取ると、それが正装とばかりに頭から再び被った。だが、いつもと違って顔は出したままである。その顔は何事か決意した引き締まった様子をしていた。

「そこに」

 叶は、作図の間立ちすくんでいた他の四人と円上の点とを、交互に一つずつ指差した。どうやら全員が参加しなければならないらしい。叶自身は祭壇の北側、そして円上では最南端になる六芒星の点上に立った。

 他の四人は「どうするよ」と言いたげな表情になったが、再び叶に指差されたので、東から順に直巳、和紀、愛姫、五郎八の順に立った。

 これで中央にいる舞朝を含めて全員が魔法陣に参加している形になった。

 残された最北端の点には、何も置かれなかった。

「あちらを向いて、目をとじて」

 叶が静かに告げた。言われるままに全員が、最後に指さされたその北の頂点を向いて目を閉じた。

 全員が目を閉じた頃あいを見計らって、叶の唇が開かれた。

 まるで低く歌うように、そして高く謳うように言葉が紡がれた。

「ふんぐるい・ふぐるなふ・くぅT…」

「こらあ」

 スパーンと小気味よく、和紀と愛姫が、同時に叶の後頭部へツッコミを入れた。

「あいて」

 まったく痛覚を感じていないような、そう言うことが義務のように叶が声を漏らした。

「いま、別の何かを呼ぼうとしたろ」

 和紀が血を吐くような声で言えば、反対側から愛姫も言った。

「真面目にやらないと。それは、とても危険な物なのですから」

「ごめん」

 ポリポリと叩かれたあたりを掻いていた叶は、小さく頭を下げた。

「では、今度こそ」

 全員が北に向かって目を閉じた。

 風に乗って、叶が紡ぐ呪文が全員の耳へ、くすぐるように、そして囁くように届いた。


「Favorite Swimwear.

 A Plastic model owned by Childhood friends.

 Dice 6.

 Video game‘s Controller.

 Red color of The Sunset.


 Incense Smoke.

 A Black car.

 Vase of The Classroom.

 Rusty bicycle.


 Cross one‘s heart.

 Malking Chocolate.

 The Train passes through a Railroad crossing.

 Sweetness of Roasted sweet potato.


 Unicorn in The fog.」


 その歌のような呪文詠唱は、気が抜けるほど短かった。

 誰もなにも言わずに黙ったままなので、いつまで目を閉じていればいいのか分からない。不安を感じた舞朝は、思い切って瞼を開くことにした。

 全員が向いているはずの最北端の点上に、いつの間にやって来たのだろうか、こちらに向いて立つ人影があった。

 その人物は、カクレンボをしていて不意にオニに出くわしてしまったような、そんな複雑な表情をしていた。

 黒いスクエアカットベストに丸襟ブラウス。下は車ヒダスカートに短い白のソックス。間違いなく清隆学園中等部の制服であった。

 とても小柄なその人影は、何度も見かけたことがある少女で間違いなかった。

「あの…」

 舞朝が話しかけようと口を開いた瞬間、視界は真っ白な光に包まれた。

「え?」



 最初に目へ入ってきたのは、清潔そうな天井であった。

 次に認識したのは、自分が横になって寝ていること、そして寝ているベッドの周りを、淡い緑色をしたカーテンが覆っていることだった。

 ベッド脇に大きな点滴を吊したスタンドが立っていた。その透明な袋には黒いマジックで池上透と大書されていた。

 そこから延びた透明なチューブを目で追うと、横になっている自分の腕へと繋がっていた。

 針が刺し込められている右腕には、患者特定用の黄色いブレスレッドが巻かれていて、そこにも同じ名前が印刷されていた。

「目が覚めた?」

 そっと優しく問いかけられて頭を動かすと、ちょっと疲れた表情をした中年女性が、ベッド横に座っていた。

 ああ、これは自分の母親なんだなと、当たり前のような事を考えた。

「進級、残念だったわね」

 そうだ。本当ならば自分は、この春に中学三年生になっていたはずだ。だが昨年に発症したこの病のせいで出席日数が足りず、留年ということになってしまったのだ。

 本来ならば、私立学園に通う身なので退学処分の可能性もあったが、学園側は病気療養のためと寛大な処置を選択してくれて、休学という立場にあった。

「さっきまで、同じクラスだった藤原さんが来てくれていたのよ」

 入学した頃に友だちになった少女が、わざわざ届けてくれたらしいプリントを、差し上げて視界に入れてくれた。

 彼女には頭が下がる。もうクラスどころか学年すら変わってしまうのに、こうして彼女のために、学校で配布されるプリントを届けてくれた。とても真面目な性格だから、途中で放り出すなんて考えもしないのだろうが、本来ならば新しいクラスの誰かがやるべき仕事だった。

 まあ彼女自身も、見慣れない新しいクラスメートに押しかけられるよりは、顔なじみの友人の方が有り難いのであるのだが。

 四人部屋の一番窓際という良い場所をもらえた彼女であるが、カーテンで遮られて外の様子はまったく分からなかった。

 その時だった。

「あら?」

 母親が窓の方に振り返った。とても涼やかな音が聞こえてきた。

 風が薫るような音楽。

 とても良い音色に瞼を閉じると、病に冒された胸も軽くなっていくような気分に変わった。

「フルートね。誰が吹いているのかしら」

 母親は窓側のカーテンだけ開くと、はめ殺しになっている六階の窓から外を見た。そこからは眼下に病院の中庭が眺められるはずだ。

「どこかしら」

 母親は窓ガラスに、頬を押しつけるような勢いで下を眺めた。彼女も好奇心が押さえきれずに、上体を起こした。

 点滴を下げているスタンドには車輪が着いており、中程についた取手を押しながらアチコチへ歩き回れるようになっていた。

 窓の外は一面のピンクで染まっていた。季節は、日本人に郷愁を抱かせる花の咲く頃だった。

 その大木の根元に、ベンチがしつらえてあった。そこに何人かの入院患者が集まっているようだ。その中の誰かが、その演奏者であるらしかった。

「これ、なんていうタイトルだったかしら」

 母親が首を捻る。主婦として家庭に入る前に音楽家だった彼女は、そう時を経ずに答えを導き出した。

「エルガーよ、たしか。エルガーの『愛の挨拶』」

 彼女はやっと演奏者を発見することができた。ベンチに腰かけて銀色の横笛を口に当てている人物がそのようだ。その人物は茶色がちな長目の髪をして、ダブダブの黒いパジャマを身につけていた。上からなのでそれ以上詳しいことは判らなかったが、その周りにいる入院患者の一人に見覚えがあった。

 車椅子に乗り、肩から草色のカーディガンをかけたその女性は、奇しくも彼女の隣のベッドが生活空間であった。

 多臓器不全で長期療養中のその女性は、無愛想でつっけんどんな雰囲気の持ち主だった。彼女は、それが病による体の内部の痛みに起因する物だということをすでに知っていた。

 そういえばベッドの上で組み立てたフルートを口に当て、吹かずに運指だけ何度も練習していた。

 いま黒いパジャマの人物が吹いているフルートが、その彼女の物かは分からなかった。しかしフルートを愛好する入院患者同士という繋がりで、いま聴衆に加わっていることが簡単に想像がついた。

「あ、あれは、お隣の縞子さんじゃない?」

 母親も気がついたらしい。だが彼女は聞いていなかった。

 今はこの耳に心地良い音色を、音符一つも逃さずに聞いていたかった。

 気がつくと最後の音の余韻が虚空に溶け、観衆からの拍手が響いてきた。

 それから間もなく縞子さんが帰床した。手には組み立てたままのフルートが握られていた。

 縞子さんもまた、自分の母親に身の回りのことを世話してもらっていた。車椅子からベッドに戻る際にも、手を借りなければならないほどだ。

「フルート、お上手なんですね」

 彼女の母親が、縞子さんの母親に話しかけた。

「ええ。縞子は長く習ってましたから」

 白髪が目立つ相手は、自分の事のように目を細めた。

「君も私の仲間にならないか」

 縞子さん自身が彼女に話しかけてきた。ベッドの上で黒いケースを受け取ると、フルートをガーゼで拭きながら分解を開始した。

「あまり難しい物ではないぞ」

 口調だけならば、まるで中年のサラリーマンのような物の言い方だった。聞く者によっては横柄な態度と取られかねないが、彼女は慣れているので気にはならなかった。

「今日教えた少年なんか、初見で『愛の挨拶』を吹きこなしたからな」

「ああ、あれは縞子さんの教え子なんですか?」

「うむ」

 その彼が先程まで使っていたらしいフルートを、分解して収めたケースの蓋を、パチンと閉めながら縞子さんは言った。

「本人は否定しているが、なかなかのイケメンだぞ」

「あら、じゃあ見に行かなくっちゃ」

 母親がおどけてこたえた。

「うむ。私も、もう少し若ければ別の意味で、声をかけていたのだが」

 まるで年寄りが自分の若い時代を振り返るような口調で、とても残念そうに言った。縞子さんは、今年の誕生日で二十歳になるはずだ。その割には病気療養で学校には通えていなかった。

 彼女の初対面での挨拶は「姓は百道で、名は縞子だ。中学三年生、ピチピチ取り立ての『マゴギャル』と言うらしい。よろしく」という、いまの彼女には笑うに笑えない内容だった。

 縞子さんの少しふざけた自己紹介と同じように、自分も中学校で留年することになろうとは、その時は露とも思っていなかった。

 母親同士の会話によると、縞子さんはその少年にフルートを教えることに、やりがいを見いだしているようだった。

 治療療養以外はやることがなく、好きなフルートも室内では吹くことは出来ない環境なのだ。たまに天気の良い日に、中庭でにわか音楽教室を開くというのも、気分転換になっていいかもしれない。

 右脚がまったく動かないと聞いた縞子さんも車椅子を使用して行けたくらいだから、点滴のチューブが刺さってはいるが歩くことができる自分が、中庭へ行けない事はないはずだ。

 縞子さんも無愛想なりに熱心に勧めてくることもあって、翌日に天候が許せば中庭に降りてみることになった。

 翌日も、せっかく満開の桜に雨雲が遠慮したかのように、とても素晴らしい日和だった。

 彼女自身に検査があって、縞子さんより遅れて下りて行くことになってしまった。検査自体は胸部エックス線撮影と、血液採取の二種類だったので、あまり時間がかからずに終わったが、自分が行くまでに中庭の集会が解散してしまうかと心配になった。

 ガラス張りの連絡通路。普通ならば救急病棟への近道として利用される経路である。その通路が柔らかい曲線を描きながら横断しているのが中庭であった。

 壁どころか屋根までもガラス張りのため、連絡通路からも中庭の様子を窺うことが出来た。さすがにゴザを広げて飲み食いしている者はいなかったが、見事な桜の大木があるのは病院に通う者なら知っていることであり、しかも今はそちらの方向から、昨日と同じような透明感のある風のような音楽が流れてくるのである。通路で立ち止まっている人もたくさん居た。

「これは、辿り着けそうもないわね」

 早くも諦め顔になった母親を隣に、彼女は見た。

 木の根元に置かれたベンチで、長い脚を組んでいる少年がいた。茶色がちで長目の髪は手入れをろくにしていない様子だったが、まるで微風を受けているかのように流れていた。楽器に集中するためか閉じられた瞼の睫毛はまるで少女のように長く、そして適度な脂肪で覆われた頬は、そこを柔らかくつっつくことが義務であるかのような魅力に満ちていた。

 年の頃は彼女と同じぐらいで、昨日と同じダブダブすぎる黒いパジャマを身につけていた。

 先程の頬も健康そうな桃の実のような色合いをしており、腕にも足にも異常は見られなかった。いったいどこを病んで入院しているのか、まったく判らない少年であった。

 でも、そのような疑問は後から湧いたのであって、いまの彼女には些細な問題でしかなかった。

 気がつくと彼女の心は、少年に占領されていた。わかりやすく言えば一目惚れであった。

「大丈夫?」

 おそらく彼女の人生で初体験の出来事に、自分でも衝撃のような物を感じていた。足下が覚束なくなり、よろめいたほどだ。それまでは一目惚れという単語を知ってはいたけど、まさか自分がそんなものに陥るなんて。

 痩せた身体の中で自己主張を始めた心臓を、宥めるように胸へ手を当てた。

 まるで成長が止まってしまったかのような自分の身体。彼女の主治医によると、大人になるためのエネルギーを、彼女の病が横取りしてしまうからなのとか。対していま演奏を終えて縞子さんにフルートを返却している少年は、病院に似合わないほど健康そうな顔をしていた。

 彼の表情は、あの素晴らしい演奏に反して、あまり明るい物では無かった。フルートを介して縞子さんの無愛想が伝染してしまったかのようだ。が、逆に憂いをスパイスにして纏っているようで、少年の魅力をいささかも損ねてはいなかった。そうだと思ったのは、一目惚れをしてしまった贔屓目だろうか?

 さんさんと降り注ぐ陽の光に輝くような少年。それに対して同じ太陽光を受けているのにも関わらず、病魔に蝕まれている自分。

 その衝撃に彼女自身の顔色すら変わっていたようだ。病気が急変したのではないかと心配する母親の薦めもあって、今日は少年に会わずに病室へ戻ることにした。

 彼女より遅れて帰ってきた縞子さんは、あくまでも無愛想なまま、だけど心配そうに彼女に尋ねた。

「今日は中庭に来るのではなかったのかい?」

 その心配そうな顔になんと説明すればよいか。言葉を選んでいる間に、彼女の母親が口を開いた。

「近くまで行ったんですけど、あの人ごみではねえ」

「そうだな」

 やはりフルートの手入れをしながら縞子さんは無愛想に言った。

「とても美人さんだったけれど、あの子はドコが悪いんですか?」

「彼は定期的に検査入院で舞い戻ってくる身なのだ」

「検査入院?」

 自分の娘が長患いだというのに、とても気の毒そうな声を出す母親。

「二年ほどまえに酷い事故に遭ったらしい。今でもガタが来ると本人は言っていたな」

「その割には、この病院で見かけたことないけれど?」

 通院から数えればそれぐらい昔から、この病院には世話になっていた。

「そうかな? 私なんぞは何度も売店で出くわして、交流を持っていたが?」

「そんなに何度も病院に来ていては、学校の方も大変でしょうに」

「さあ、どうだか。話していると、とても利発なようだが、だいぶ壊れてしまっているからなあ」

 人間を表現するには聞き慣れない言葉に、つい反応してしまった。

「壊れて?」

「うむ。その事故とやら自体が何人も死んだ大きな物だったらしい。そのせいで精神的にだいぶ影響があったらしくてな」

「そう、気の毒に…」

「桜も、もう少しで散ってしまうだろう。ここのところ天気が良いからね。それに合わせたわけではなかろうが、明日には彼も退院だ」

「あら。それは残念ですけど、よかったですね」

 母親に自分の心が乗り移ったようだ。一目しか近くで見ることが出来なかったが、あの少年の身体が健康に近づくことは喜ばしいことだ。

 そうして彼女は諦める。このまま死に至る可能性が高い病と闘いながら、自分はこの病院で暮らしていく身。少年は健康を取り戻して広い世界で生きていく身。もう接点は生まれることはないだろう。

 その予感の通りに、彼女の病は徐々に悪化の傾向にあった。

 月に一度は一時帰宅が許されていたのに、それが二ヶ月に一度になり、一年後には、ほぼ不可能になった。

 その間にも時は流れていた。隣のベッドにいた縞子さんは、一般社会で生活できるだけの健康を取り戻した。

 もう年齢もだいぶ過ぎてしまっていたが、長い間休学していた中学校に復学し、遠くにある有名な高等学校を受験すると言っていた。

 最低でも毎月二回は、病室にお見舞いに来てくれる清隆学園中等部の友人も、来期には同じ清隆学園の高等部へ進学が決まった。

 そのころ印象的な出来事があった。母親が泣きはらしたような瞼で病室に遅れて現れた日だ。そんな顔でも無理に笑顔を作ってくれた母親。でもそれで彼女は、友人のような普通の生活に戻れないことを察した。

「どんなに痛みがあろうとも」

 経過観察で月に一度の検診でやってくる縞子さんが、あいかわらず動かない右脚を撫でながらも、お見舞いに来てくれて教えてくれた。

「麻薬の脊髄注射だけは拒否したまえ」

 理由がわからずにきょとんとした顔をしてしまうと、目を合わさずに口だけを動かした。

「痛みはなくなるが、人事不省になってしまうからね」

 せめて最期まで人間のままでいたいと、以前に自分が言っていたことを憶えていてくれたらしかった。

 ベッドから起き上がることも難しくなっていた彼女を支えているのは、その見舞い人と同じくらいの頻度で中庭から聞こえるフルートの音色だった。

 もしかしたら演奏者は、あの少年では無く、縞子さんに代わっていたのかもしれない。でも、もう彼女は事実がどうでもよかった。彼女にとって、想いを抱いた少年が、近くに来てくれていると思いこむことが、希望になっていた。

 そんな身体になっても、中等部からの友人は相変わらずプリントを彼女の元まで届けてくれていた。

 友人が身につけてくる物が、彼女自身が着ていた黒色の制服から、憧れていた紺色の制服に変わった。うらやましいと思わないこともなかったが、妬ましいと思ったことは一度もなかった。

 それよりも同じ学園だとはいえ、高等部の生徒が中等部のプリントを受け取りに行く苦労の方が気になった。

 迷惑をかけ続けて申し訳ない気持ちが大きかったが、でも一度だけのわがままと思い、友人に高等部での生活を写真で撮ってきてもらった。

 中等部とは違った各教室。健康そうな若者が行き交う廊下。広い体育館に講堂。そして友人自身が図書委員会に所属したために、誇りを持って働いているらしい蔵書が充実した図書室。

 彼女の手が、その写真で止まった。

 図書室の雑誌コーナーを写したらしいその一葉には、複数の人物が入っていた。雑誌自体は学舎の図書室ということで、科学誌だったり辛口の書評誌だったり、真面目な蔵書が揃っているようだった。

 窓際に並んだマガジンラックと、座り心地がよさそうなソファに座る利用者たち。

 その列の端で科学誌を、ちょっと伏目がちな表情で読んでいる男子生徒が、半分だけ写っていた。何か知的好奇心を満たす記事でも書いてあるのか、口元には極めて薄い笑みがあった。

 何度見ても間違いがなかった。それは昨年、桜の下でフルートを演奏していた少年だった。

 その微笑みは、彼女にとって安らぎだった。

 どことなく憂いを感じさせる表情は、彼女にとって魅力だった。

 友人に少年のことを尋ねると、どこの神の引き合わせであろうか、友人と少年とは知り合いのようだった。

「ああ、こいつは見た目がいいもンね」

 と、友人はとても微妙な顔をしたのが意味深だったが、そんなことは気にはならなかった。

 写真を目にした夜は、なかなか眠ることができなかった。

 今までよりも、もっと近くに少年を感じ取ることが出来たためだ。その横顔が少しだけ写った写真をもらって宝物にした。隠し場所はもちろん枕の下。

 もう自分の病状が回復不能なほど進行しているのは、日に日に哀しげになっていく母親の顔色で判っていた。

 もう何も怖いものはなかった。

 恥ずかしいという自分の感情すら愛おしかった。

 自分の片思いを伝えることにしたのは、次に友人が来てくれた時だった。

 そのせいで彼女の友人は悩んでしまったらしい。プリントを届けてくれるのは相変わらずだったが、あまり明るい表情ではなくなった。

 けれど、どうやら母親から色々なことを聞いたらしく、しばらくして無理をした笑顔を見せるようになっていた。

 だから友人に、釘を根元まで刺すことも忘れなかった。

「同情で優しくされたくないから、私の病気のことは彼にナイショにしていて」

 演技でお見舞いに来てもらっても、少年には荷が重すぎるかも知れない。付け焼き刃のそれがもしも失敗したときに、自分はいいが相手が傷つくのが嫌だった。

 夏が始まった頃、友人が集めたグループと海へ行こうと誘いがあった。それに対して長く彼女をベッドに縛り付けていた主治医も、身の回りの世話をしてくれる母親も、そして仕事に打ち込んでいる父親も、誰もが反対しなかった。

 治療費を稼ぐためだと表向きはそう言っていたが、日に日に弱っていく娘を見ていられないせいで、病院に顔をめったに顔を出さなくなった父親。

 口では厳格な父親だと言いながらも、まだ彼女が病気になる前は、色々甘やかしてくれた父親。どうやら外出許可は、その父親が協力に働きかけをしてくれたおかげらしい。

 友人は彼女とお揃いのバッグを買ってきてくれた。友人のグループというのは、同じ清隆学園高等部で図書室の常連となっている顔なじみの同級生らしい。

 もちろん少年もそのグループに入っていた。

 不安がないといえば嘘になった。

 少人数で行く小旅行。同い歳の人たちには、月並みの当たり前のようなもの。それが彼女の最後の旅行になった。

 思い出は深く刻まれた。

 それらが今は断片的に浮かび上がって消えて行った。

 駅で待ち合わせ。

 バスでの大騒ぎ。

 小川を渡してくれたお姫さまダッコ。

 焼けるような砂浜。

 打ち寄せる波。

 パラソルのそばに転がってくるビーチボール。

 夕陽が黒く影を引く海岸。

 帰ってきた彼女の病態は、もう重篤になっていた。身体に差し込まれるチューブの数も増え、酸素マスクも外せなくなった。身体の中を炙るような苦痛も増したが、後悔はまったくしなかった。

 四人部屋から個室へ引っ越し。

 それは贅沢ではなく、これからの準備のためだということが、教えられなくても判った。

 そして秋に届けられた、たくさんの花。まるで花屋が引っ越してきたかのような差出人不明のそれらに混じって、海までの切符。

 そんなことが出来ることがいるとすれば一人しかいなかったが、あえて差出人の詮索はしなかった。

 アロマジェイルの花の香り。

 視界が暗くなっていく。

 夜が長くなったせいだろうか?

 時がどれくらいたったのだろうか?

 秋が冬になっていた。

 不器用なサンタの訪問。

 どれだけ痛くても、縞子さんが教えてくれたことは守った。

 そうして耐えた。

 そうして生きた。

 そうして…



 気がつくと、彼女の頬は涙で濡れていた。

「今のは?」

 五郎八が、顔に手を当てて、呻き声のような物を唇から漏らした。どうやら平常心を心がけている彼女にも、動揺が生まれているらしい。

「おそらく、どうやってかは分からないが、彼女の記憶に触れたんだ」

 直巳も頭を押さえていた。さすがに男の子なので、涙を見せたりはしていなかったが、その代わりに他人の記憶に触れたことで、脱力感のようなものを感じているようだ。

「…」

 自分も泣いてしまった叶は、シーツの中に逃げ込んでしまった。

「ユーレー、いなくなっちまったぞ」

 キョロキョロと、魔法陣以外には無人の屋上を振り返る和紀。メンタリティが「片思いをする少女」とは一番異質なポジションである彼には、何の影響も出なかったらしい。

「マーサさん?」

 突然、後ろも見ずに走り出した舞朝の背中に、愛姫は声をかけた。いつもならば何かしらの返事をする舞朝は、一目散にペントハウスから校舎内へと駆け下りていった。

「いけません」

 いつもの笑顔を真面目な成分で引き締めて、愛姫は他の皆を振り返った。

「彼女の記憶に、捕らわれてしまったようです」

「それって…」

 マヌケな声を漏らす和紀を、いくぶんか厳しい目で見つめ返すと、愛姫は早口になって言った。

「どうやら憑依された状態になっているようです」

「だめ…」

 シーツの向こうから、まだ幾分か鼻声の叶が、心配げな声を出した。

「生者が死者に支配されては、なにが起こるか判らない」

「これが予測不能な因果律の結果なのか?」

 舞朝を追おうと駆け出しながら、直巳は愛姫に訊ねた。

「これも一つの結果です」

 豊かな胸が邪魔をするせいで、ちっとも早くない速度で走り出した愛姫が、大声で答えた。

 その声は直巳と、後から慌ててダッシュして、愛姫を追い抜いた和紀の背中に、なんとか届いた。それと同時に二人の姿は、階段へと消えていた。

「イロハさん! お願いします!」

 愛姫は、竹箒を抱えたままの五郎八に、声の向きを変えた。

「本気で、マーサさんを捕まえてください」

「承知!」

 五郎八は力強くうなずくと、その場で踊るように一回転した。すると、まるで小さな竜巻のように風が巻いて、彼女の道着が激しくはためいた。

 次の瞬間、見ていた者にはまるで映画の特殊効果を使ったとしか思えないタイミングで、五郎八の姿が消えた。周囲には、姿を隠す物が何もない屋上の真ん中で、であった。

 そのツムジ風の余韻が残る中で愛姫が叶を振り返ると、彼女はのんびりと魔法陣の片付けを開始していた。もちろんそれを放置しておいては、いささか醜聞が良くない事はわかる。それに別の何かを呼び出してしまう危険性もあるだろう。しかし、いまは舞朝の方が大事だろうと怒鳴りたくなった。

 階段を駆け下りて校舎内に戻ったところで、どこへ舞朝が走っていってしまったか皆目見当がつかなかった。

 いったん立ち止まって、真剣な顔で目をつぶった。次に瞼を開いた時には、迷いが消えていた。

 和紀と直巳は、C棟の二階で顔を見合わせ無言でうなずき合うと、和紀はそのまま階段を下って一階へ、直巳は地学講義室へ戻るコースを取った。

 直巳はC棟の廊下をバタバタと走り抜け、ドカンという勢いで地学講義室の扉を開いた。

 室内にはヤマト先輩とアイコ先輩の二人しかいなかった。なぜだか目を閉じて向き合っていた二人が、赤面しつつパッと離れたが、いまはそんな些細な事は気にならなかった。

「ヤマト先輩、いま弓原が戻って来ませんでした?」

「い、いや」

 黒板の右上のあたりを見つめたヤマト先輩は早口で答えた。アイコ先輩に至っては、窓の方を向いてしゃがみ込んでしまっていた。

「なにかあったのか?」

 ほんの数秒でいつもの調子を取り戻したヤマト先輩は、真面目な声を取り戻して訊いた。

「ちょっとあって、弓原がパニック状態になってしまって」

「そりゃあ心配だな」

 横から声をかけられて直巳は首を巡らせた。いつの間にか地学講義室との境目の扉を開いて、天文部顧問である小石が顔を出していた。まあ、あれだけ足音を立てて扉を壊す勢いで飛び込んでくれば、何か事件だろうと見に来るのは当前のことだった。

「もしかして…」

 ヤマト先輩が、不安そうに小石に訊いた。

「のぞいてました?」

「不純異性交遊なら学外でやってくれ」

 しれっと答えた小石へ地学講義室の備品である椅子が飛んできた。それを際どいタイミングでかわすと、それを投げ飛ばしてきたアイコ先輩を指差した。

「学校の備品を大事にしなきゃダメじゃないか」

 トマトのように真っ赤になっているアイコ先輩は、返事の変わりにもう一脚を両手で持ち上げた。

「こりゃいかん」

 小石は扉の影に隠れながらも、直巳に尋ねた。

「パニック状態って、どのくらいだ」

「いまの副部長ほどです」

「わかった。私も探そう」

 そのまま地学室に出てくることに危険を感じたのか、準備室へ入ってしまった。おそらくそちらの方の出入口から、廊下へ出るのだろうと見当をつけて、直巳はまだ椅子を構えているアイコ先輩を宥めに入ったヤマト先輩に、早口で告げた。

「弓原が戻ってきたら、捕まえておいて下さい」

 そのまま廊下へ飛び出そうとしたところで、直巳は愛姫とぶつかってしまった。お互い転びはしなかったが、大きくよろけることになった。

「ここにはいないぞ」

 捨て台詞を残して、一般教室の並ぶB棟へ向けて走り出した。

 一方その頃、地上階に降りた和紀は、放課後の誰もいなくなった廊下で、流れるような音色を耳にしていた。

「吹奏楽部?」

 この時間に音楽という条件で常識的に考えるが、吹奏楽部が活動する音楽室は地学講義室の並びにあるC棟二階のはずだ。その音色は、どうやら外から響いてくるようだ。

 先程の夢のような経験ではないが、音に惹かれるままに足を運んだ。

 高等部の校舎は、簡単に言うと中の抜けた四角形をしていて、その中は野球ができるほどの広さをした校庭となっていた。音楽はそちらの方向ではなく、外周外側に存在するテニスコートや競泳プールがある側から聞こえてくるようだ。

 和紀は、昇降口に回って靴を履き替える手間を惜しんで、生徒からは裏口とアダナされている、テニスコートへ一番早く行ける非常口から、上履きのまま外へ出た。

 強烈な既視感が彼を襲った。

 テニスコートとC棟校舎の間には細長い緑地帯が設けられ、試合に出場する選手が準備するとか、応援する者が集まるとか、ちょっとした散策などが出来るようなスペースになっていた。

 その緑地帯に設置されたベンチの一つで、一人の生徒がフルートを吹いていた。

 足を緩く組んで、睫毛の長い瞼を閉じて、薄桜色の唇を銀色の横笛に当てて、ひょうひょうと音を風に乗せていた。

 茶色がちな長めの髪に、つつきたくなる柔らかそうな頬。だが身に着けているのは男子用の制服であった。

 まるで少女のような容姿であるが、長い肢体が持つ特徴が、その人物が正しく男であると告げていた。

 和紀は自分の掌を見た。試しに拳を作ったり開いたりしてみるが、何度やっても自分の体であった。彼女の記憶の追経験ではない。あの時にはもっと現実感が無かった。

 しかし向こうで演奏されている曲は、幻のような『愛の挨拶』であった。

 間違いなく彼は、彼女の記憶で見た少年だ。

 和紀が茫然として立ちすくんでいると、横を一人の少女が追い抜いていった。

 身長は高めで赤いトンボ眼鏡をかけた髪の長い女子生徒であった。その少女は自分の荷物を後ろ手に持ち、スキップを踏むように演奏者へ近づいていった。

「セーンパイ」

「サクラか」

 声をかけられたことで演奏を中断し、眩しそうに少年は少女を見上げた。

「帰りましょ」

 どうやらその少女は、少年とは友人以上のつき合いをしているような雰囲気であった。少年は自分の横に置いておいた黒革のケースを取り上げると、手早くフルートを分解して仕舞いはじめた。

「センパイ、フルートなんてやってましたっけ?」

「うん。吹けるのは、これぐらいだけど」

 器用そうな細長い指が作業を終えるのはあっという間で、ケースは演奏者のディパックへ無造作とも思われる調子で放り込まれた。そのディパックを慣れた様子で右肩にかけながら立ち上がる。男子用の制服を着ていなければ性別が判らなくなるほどの細身で長身であった。その今の彼に、黒いパジャマ姿の幻が重なった。

「うっふっふうー」

 変な調子をつけて含み笑いのような物をした赤い眼鏡の少女は、その開いている左腕に抱きついた。そして安心するかのように少し頬を寄せてから、慣れない様子で腕を組んだ。

「な、なによ」

「えへへぇー」

 どうやら彼女の方もだいぶ照れているようであった。眼鏡のズレを指ではなく手の甲で直すと、少年の顔を見ることが出来ずに、近くにいた和紀の方を向いた。

 その顔は、自分の恋人を自慢しているように輝いていた。

 少しだけ赤い眼鏡の少女と目があった和紀だったが、あまりジロジロとカップルへ視線を送っても失礼かと、目を泳がせた。その視線が、ベンチのさらに向こうで立ちすくんでいる人影で止まった。

「マーサ!」

 声を掛けると、舞朝は振り返って向こうへ走り出した。

「?」

 その小さくなる背中に追いつこうと、走り出す和紀とすれ違いながら、そのカップルは不思議そうな顔をしていた。

「なんでしょうぉ?」

「まあ、あれだ。深く追求してあげないのが、粋というものじゃないか?」

 そんな呑気な会話が聞こえてきたが、まさかお前のせいだと言うこともできずに、和紀は舞朝の背中を追った。

 体力的にもごく普通の舞朝である。直線での短距離走で和紀に追いつけないわけがなかった。舞朝が校舎の角に差し掛かった時に、反対側から五郎八が飛び出してきて、両腕を横に広げて通せん坊までしてくれた。

 だが舞朝は進行方向を九〇度変えると、女子テニス部が練習しているテニスコートへ進路を取った。

「きゃあ」

「なによ」

「うひゃあ」

 突然の闖入者に、部員たちがそれぞれ奇妙な悲鳴のような物をあげた。

「ちょ、ちょっと、すんません」

 口だけは謝っておいて、和紀は舞朝の後を追って、スコート姿の健康的な肢体が群れている中を突っ切ろうとした。

 しかしテニスコートは現在進行形で使用中だった。行く先には健康的なお色気を発散している部員が道を塞いでおり、そして足元には数個のテニスボールが転がっていた。

 和紀がボールを踏みかけてバランスを崩したのは必然というものだった。だがその後に、失ったバランスを取り戻そうとして体勢を崩し、テニス部員の一人に後ろから抱きついてしまったのは偶然だった。

 しかも前に回ってしまった両手が、その女子部員の豊かな胸を鷲掴みしてしまったのは、もう事故としか言いようがなかった。

 もちろん、そんな言い訳をする時間は、和紀に与えられるはずはなかった。

「ぎゃあああ」

「へんたいよ!」

「ちかん!」

「やっつけちゃえ!」

 部員たちが口々に和紀を非難。そして彼に向けて、ボールを握っていた者がサーブした。次々と硬球が体中に命中した。一発なんぞは横面に命中したが、そんなことに構っていられなかった。

 舞朝は、テニスコートから直接外へ通じる小さな通用門を抜けて、学校をグルリと囲む高い壁の向こうへと姿を消そうとしていた。

「失礼」

 攻撃目標にされなかった五郎八が、飛んでくるボールを必要最小限の動きでかわしながら和紀を抜いていった。

 二人は、ほぼ同時に通用門から外に飛び出した。

 高等部の外側は、大学へ続く正面以外は砂利道が取り巻いていた。そこは運動会系の部員がロードワークなどで使用する以外は、誰にも聞かれたくない話しを友人同士でできる程に、交通量が極端に少なかった。

 どちらに走ったかと左右を確認すると、舞朝の背中は正門の方向へ向かっているのが見えた。

「イロハ」

 一時的に見失っている様子の五郎八へ、和紀は指を差して教えた。

 二人が肩を並べて走り出すと、舞朝の足が遙か前方で止まった。

 やっと追いつくと、舞朝の足が止まった原因がわかった。正門から愛姫と直巳が肩を並べて飛び出したところだったのだ。

 どうでもいいことだが、正門のところでこの二人が並んでいると、その読者モデルのようなルックスとスタイルで、まるで学校紹介の写真撮影のような華やかさであった。ちょうど下校するために通りかかっていた者が振り返った程である。

 その華やかさのおかげで、後ろからシーツを頭から被った人物がやってきても、さほど目立たずに済んでいた。

 前に愛姫、直巳、そして叶。後ろには和紀に五郎八。これで再び挟み撃ちの形になった。

「捕まえたのかぁ?」

 昇降口から飛び出してきたのは小石だった。どうやら彼自身も相当校舎内を捜してくれたようだ。

「マーサさん」

 愛姫が舞朝に押し倒さんばかりの勢いで突進した。茫然と立ちつくしている様子の舞朝は、乱れた前髪を直しもせずに肩で息をしていた。

「大丈夫ですか」

「…」

 愛姫に抱きつかれても舞朝に反応は無かった。その顔は心ここにあらずというような、どことなく寝ぼけたような表情をしていた。

「離しませんよ、マーサさん」

 愛姫は心配そうに、その目を覗き込んだ。

「どこか痛いところはありませんか? なんでしたら撫でて差し上げますよ」

 と言いつつ愛姫は舞朝の了解も指示も受けぬままに、彼女の体を撫で回し始めた。蛇のように滑らかに動く愛姫の手が、背中から腹に場所が移り、そして人より貧相な自覚がある部位に伸びても、これといった反応はなかった。

「どこ触ってんだよ」

 正気の時ならば絶対許されない程に、舞朝の胸を揉みしだいている愛姫へ、直巳がつっこみを入れた。

「むう」

 ちょっと唇を尖らせて愛姫は言った。

「無抵抗すぎるのも面白くないものですね」

「なにをやってんだか」

 直巳が呆れると、和紀が息を整えながらも言った。

「痴漢行為だろ。いや痴女か」

「とりあえず、部室にもどりませんか?」

 その不届きな手癖を止めながら、愛姫は皆を見まわしながら言った。叶の方へ視線をやった時、叶は判っていると言わんばかりに、シーツから右半分だけ顔を出してうなずいて見せた。

「とりあえず、つかまえることが出来て安心だな」

 愛姫の横で、改めて直巳も胸を撫で下ろした。

「オレが走ったのって、無駄?」

 和紀は一緒にテニスコートを走り抜けた五郎八と顔を見合わせた。いつもは無愛想な五郎八も、舞朝の身柄が確保されて安心したらしく、滅多に見せない笑顔を零した。

「あぶない!」

 正門の中から小石の声がかけられた。

「!」

 六人中五人が顔を上げると、大型トレーラーの鼻面が目の前にあった。まるで二階に存在するような高さの運転席に、誰が乗っているかも近すぎて判らないほどの距離であった。

 いつの間に近づいていたのだろうか。先ほどまで気配すら感じていなかった巨体から、今は地響きさえ感じさせる程の轟音が放たれ、全員の耳を圧倒した。

 大型の上に超が幾つかつきそうな巨大な影との距離は、もうさほど残されていなかった。

 公道がある側から猛然と突っ込んでくる大型トレーラー。反対側は高いコンクリート塀。逃げるとしたら進むか退くか…。

「ちぃ」

 最初に反応したのは、運動神経が発達している五郎八だった。彼女は竹箒から手を離すと、トラックに一番近かった叶へ向かって地面を踏み切った。

 次に和紀が、目の前にあった舞朝の首根っこを掴んで、後ろへ飛び退いた。

 直巳は横にいた愛姫ごと舞朝を掴んだつもりだった。先に和紀が動いたせいで、結果的に愛姫だけを引っ張る形になり、壁と車体から遠ざかる斜め方向にジャンプしていた。

 やや左前方から大型トレーラーの襲撃を受ける形になった叶は、シーツで視界が効かないこともあって、回避行動が遅れた。だがそこに五郎八が後ろから飛びかかった。

 近くの国道をたくさん行き交っている姿をよく見る、都市間貨物輸送を担っているクラスの大型トレーラーは、正門の右側へ舞朝たちの影を押しつぶす勢いで突っ込んだ。

 そして崖崩れのような騒音!

 目撃者の悲鳴に怒号!

 たちまち上がった土煙で視界が遮られた。

 周囲の者が立っていられないほどの大轟音に大震動。それらがまるで無かったかのように、大型トレーラーのドアが開かれた。

 そして、おぞましい呪文が聞こえてきた。

「She come to kill me

 She come to kill me

 She come to kill me

 It’s true that

 I said three times」

 巨大さ故、これぐらいの衝撃は平気なのか。はたまた超常現象の為せる技なのか。運転席から黒いパーカーのフードを被ったままの人物が、なんのダメージを受けていない様子で降りてきた。

「ユウキナギサ」

 舞朝を後ろから抱きしめる格好になった和紀が、事故の衝撃だけでなくて、半ば茫然とつぶやいた。

「いけない、ここは敷地の外ですわ」

 表情を真剣な物に変化させた愛姫が、助けてくれた直巳の腕の中から声を上げた。

「ち」

 男としての義務感から、直巳は愛姫を自分の背中の方へ押しやった。大型トレーラーが左前方から突っ込んできて、それを左後方へ飛び退って回避したため、二人の現在位置は車体の右側になっていた。つまり運転席から降りてきた殺人鬼に、一番近いのだった。

 直巳は尻の辺りから、なにやら拳銃のような物を取り出して構えた。

 ズボンのポケットから取り出したにしてはサイズが大きすぎた。かといって愛姫と違って、直巳はホルスターを常時装備しているわけでもない。何もない空間から便利メカを取り出すとは、さすが自称『異次元人』であった。

 その拳銃みたいな物体は、一見オモチャのピストルに見えた。無駄に流線型をしており、ナギサに向けられた先は銃口が開いておらず、ランプが収められているだろうという透明な風防になっていた。そのランプとは反対側に、ハンドルがついていた。一見すると電池で動く小型の扇風機か、ピストル型の懐中電灯に見えた。

「はい?」

 ナギサが拍子抜けをした声を漏らした。

「この僕特製のクローズスカラーウェーブコントローラーの威力を喰らえ」

 直巳は決めゼリフらしいことを言い捨てると、その手にしたオモチャに見える機械の、お尻に着いていたハンドルに力を込めて回し始めた。

「そこで観念して待っていろ。このコントローラーから放射される(ふうふう)じゅういちおくななせんまんエルグのエネルギーにより(はあはあ)きさまを(ひいひい)ちじょうから(ぜはぜは)じょうはつさせてやる」

「大変そうなところ、質問させてもらうが」

 ナギサはフードの上から頭を掻く仕草をした。

「そのハンドルは、なんなんだい」

「こ(ぜひーぜひー)この、はんどるを(ぜーぜー)ろくまんかい(ふぃーふぃ-)まわしたら(はっはっはっ)ちゃーじが(ひーふー)かんりょうするからな」

 ナギサはゆっくりと、開けたままのドアから金属バットを取りだした。一秒間に一〇〇回転として一〇分後の脅威の前では、その余裕は正しい物だった。

 一歩踏み込んで、踏み切りながらフルスイング。それはまるで八六八本目のホームランをスタンドに打ち込んだ、現役時代の王貞治のような華麗な一本足打法であった。

 その金属の筒は、見事に直巳の腹へ食いこんだ。

「げええ」

 情けない声と共に、ヨダレのような胃液のような物を口から零しながら、直巳は地面に倒れた。それだけでは終わらない。痛みのあまりに、地面をゴロゴロと左右に転がり回っていた。

「わたくし、戦えますのに」

 直巳が時間を稼いでくれたおかげで体勢を取れた愛姫は、慌てることなく後ろ腰の蓋付きホルスターから、愛銃アイリスを抜いて構えることが出来ていた。射線の邪魔になっていた直巳の体を、ナギサ自身が排除してくれたので、遠慮なくトリガーを絞った。

 初弾は外れ、二発目は振り回された金属バットに弾かれた。

「そんなオモチャで、ボクが傷つくと思っているのかい?」

 クスクスと含み笑い気味で、ナギサが愛姫に訊ねた。

「ええ、充分かと。ガス圧力は最大にしてありますし、弾も特製ですので」

 地面に転がった弾は金属製の鈍い光を放っていた。プラスチック製のBB弾のかわりに、同じ径の金属でできたボールベアリングが装填してあったのだ。弾が当たった金属バットも、そこの部位だけがまるで厚紙で出来ていたかのように、弾の直径の痕跡のような凹みが出来ていた。

「ふうん」

 フードから覗く口元が、少しつまらなそうに歪んだ。

 ナギサの右手が耳の辺りを掻くような動作をした。愛姫はその動きと同時に、手にしたアイリスを眼前に立てるように構えなおした。

 ざあっと夕立が降り始めるような音がしたと感じた途端、その銃把の底に三本も鉛筆が突き立った。

「うまいうまい」

 愉しそうに手を打ってナギサは笑った。

「キミにしては、いい反応速度だったね。『未来人』」

「お褒めの言葉ありがとうございます」

 さらに追撃をしようと銃口をナギサに向けると、今までいた場所に敵の姿はなかった。

「?」

「でも、時間切れだね」

 声は頭上から降ってきた。見上げるといつの間にかにジャンプしたのか、それともドア側面の作り付けにあった梯子を登ったのか、ナギサの姿は大型トレーラーの上にあった。

「なにがです?」

 問いただしてから、愛姫自身が気がついた。その大型トレーラーの床下から、薄紫色をした煙が立ち上り始めた。そしてわざわざ嗅覚に集中しなくても、周囲には石油の臭いがあたりに漂い始めていた。燃料が漏れているのだ。

「いけません! みなさん避難を!」

 愛姫から見てナギサの体が、大型トレーラーの向こう側に消えた。それと愛姫の声が野次馬として集まりだした他の生徒たちに届くのと、ほぼ同時に大型トレーラーが爆発を起こした。

 爆風を近距離で受けて、愛姫は足が地面から離れるほどの勢いで吹き飛ばされた。まるでアメフト選手に体当たりを受けたような勢いで、脇腹から地面に落下する。あまりの衝撃に息が止まり、ナギサの足元に叩きのめされた直巳の安否を確認することもできなかった。

「マーサさん」

 ここで意識を失ったら、誰が愛しい少女を守るのだろうか。だが愛姫はそこで力尽きた。


「あいつ、ナナを狙う気か」

 後ろに飛んだため間合いが広がってしまい、ナギサとの闘いに加勢することができなくなって、見学者という不本意な立場にいた和紀は、爆発の瞬間に舞朝を抱きしめると地面にしゃがみ込んでいた。

 破壊された大型トレーラーの残骸は、もうもうとした黒い煙を上げて、視界の自由がどんどん失われていく。

「ナナ!」

 声をかけるが、返事はなかった。

「イロハ!」

 無口な少女よりも、まだ(こちらも口数は少ないのだが)返事をよこしそうな者の名前も呼んでみた。

 周囲には突然の事故に狼狽する悲鳴や怒号だらけで、和紀の呼びかけへの返事は聞こえなかった。

 取り敢えず二人の姿と、ナギサが消えた車体の向こう側を確認しようと、立ち上がる。だが舞朝はそこに座り込んでしまって、まったく動こうとはしなかった。

「マーサ」

 腰が抜けたのだろうか? それとも憑依されたままで、普段とは違うのだろうか?

 オカルト的なことにはまったく無知な和紀には判断が出来なかった。

「いいか、マーサ」

 指を突きつけて命令した。

「オレが見てくるから、ここで待っていろよ」

 離れる瞬間に少しの不安を感じたが、和紀は舞朝をそこに置いてトレーラーの車体を回り込むことにした。

 学校の誰かが通報したのだろうか、どこからかパトカーか消防車のサイレンが近づいてくるような気がした。面倒な事態に陥る前にトンズラするに限るが、それにはまず安否の確認が必要だった。

 だが燃える車体の反対側には誰もいなかった。車体と壁と挟まれている可能性も残っていたが、火勢が強くて、そのあたりに近づくことは出来なかった。

 気が付くと野次馬がたくさん集まりだしていた。

 そのほとんどは高等部の生徒が多かったが、中には中等部の生徒や大学の学生もいた。生徒の中には消火器や屋外消火栓の準備をはじめている者もいた。

 盛大に大型トレーラーが燃えているが、コンクリート製の高い壁のおかげで、高等部の校舎などに延焼はしそうもなかった。まるで刑務所の壁だと高等部に通う者には不評な壁であったが、こういった時には役に立った。

 一節によると、清隆学園のある辺りは戦争中に軍隊の基地で、この壁は敵の爆撃を受けても被害を局限するためのものだったとか。当時作った人たちも、まさか世紀を跨いだ遙か未来の学舎を守ることに、役立つとは思わなかったに違いない。

 そうこうしているうちに物凄く白い煙があがった。高等部の勇敢な者が消火器による消火作業を開始したのだ。

 火勢が見る間に弱まって来たので、壁に近づいてみた。強烈に鼻を刺激する、物の燃える臭いと、油の臭いしかしなかった。動物性タンパク質が燃えるあの嫌な臭いはまったく混じっていなかった。ということは被害者はいないのではないだろうか。

 見まわしても野次馬だらけで視界には捕らえられないが、どうやら叶は五郎八と共に逃げ出すことに成功しているらしい。

 次に和紀は、火元の近くで倒れた直巳や愛姫の方が心配になった。今度はそちらの二人を確認するために、車体を回り込みなおして元の場所へとって返した。

「しっかりしなはれや」

 怪しげな方言で声をかけながら、長身の男子が愛姫を火元から救い出しているところだった。

 彼女は爆発の熱波で炙られたせいか、素肌を晒しているところが赤くなっていた。だが異常はそれだけで気絶しているだけのようである。どうでもいいことだが、後ろから両脇に腕を入れられて引き摺られていると、人より豊かな胸が強調されるし、火災の赤い光に照らされてもいるし、いつもより扇情的に見えた。

 直巳の姿はどこにも発見できなかったが、見あたらないということは逆に独力で避難したということであろう。

 取り敢えず舞朝と一緒に部室へ戻ろうと、地面に座り込んでいる姿を捜した。

「まーさ?」

 きょろきょろと辺りを見まわしても、和紀は彼女を見つけることができなかった。


 後編に続く。

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