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幻影幽霊  作者: 池田 和美
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幻影幽霊・前編

★多すぎる登場人物紹介


藤原 由美子(ふじわら ゆみこ)

:清隆学園高等部二年生。別名『拳の魔王』。その剛腕を持ってやっぱり図書委員長をつとめているが、今回は出番が少ない。

不破 空楽(ふわ うつら)

:酒と読書と居眠りをこよなく愛する由美子の同級生。忍者のような体術が得意。どうやら彼も無事に進級できたようだ。

権藤 正美(ごんどう まさよし)

:銀縁眼鏡をかけた成績優秀な少年。高等部美術部部長で個性が薄い三人目。今回それが祟って出番が少なすぎる。

佐々木 恵美子(ささき えみこ)

:由美子の同級生。『学園のマドンナ』として選ばれるほどの美貌を誇る。あまりにも美人なので、今回出番なし。

岡 花子(おか はなこ)

:副委員長として由美子の片腕を務める和風美人。また華道部でも活躍している。今回の出番にいいところはあまりない。

弓原 舞朝(ゆみはら まあさ)

:清隆学園高等部一年生。天文部に所属するごく普通の女の子。今さらの新ヒロイン登場という事態で、作者は読者を置いてきぼり。

遊佐 和紀(ゆさ かずき)

:舞朝と同じ天文部の一年生。立ち位置は主人公ポジションなのだが、周りの個性豊かな登場人物のせいで埋もれがちに。

近藤 愛姫(こんどう あき)

:雑誌で読者モデルをやっていそうな程の美少女。実態は舞朝の恋人希望のガチユリ。自称『五分未来からやって来た時間旅行者』という厨二病発症者。

椎名 叶(しいな かな)

:頭からシーツを被っている対人恐怖症の少女。外見はまるで小学生男子のような中性的な少女。自称宇宙人である『ナイハーギー』という厨二病発症者。

前田 直巳(まえだ なおみ)

:紺色のブレザーが制服として制定されている清隆学園高等部において、私服で登校するという強者。自称『異次元人』という厨二病発症者。

久我 五郎八(くが いろは)

:紺色のブレザーが制服として制定されている清隆学園高等部において、道着で登校するという強者。自称『もののふ』という厨二病発症者。

小石 健介(こいし けんすけ)

:天文部顧問の地学教師。いつも白い服を着ているため天文部以外の生徒からは不気味がられている。

ユウキ ナギサ

:今春、清隆学園の周辺で無差別連続殺人事件を起こした殺人鬼。完全な異常者のため要注意。

鞍馬 サクラ(くらま さくら)

:謎の少女



 もう人生の話しはやめてちょうだい

  (とある貴婦人が遺した臨終の言葉)



「…!」

 大きく息を呑む気配に、腰まであるような黒髪を、一本の長い三つ編みにした少女が、振り返った。

 私立清隆学園へ通じる、都道での出来事だった。

 彼女の名前は、弓原(ゆみはら)舞朝(まあさ)といった。小柄で、どこにでもいそうな女子高生であった。

 なんとか平均身長の誤差範囲に収まり、どちらかというと平均体重で、手足の長さだって普通の、一見すると健康的な女の子である。

 いつも遊んでいる友人たちから言わせると「絶世の美少女」ということになっているが、本人にはそんな自覚は、まるでなかった。

 一番そう言ってくる相手が、本当の美少女なのだから、なおさらだ。もう少しで、お世辞から嫌味に聞こえるところだ。ただ、そんな自分の顔でも、大きめの瞳と、睫毛だけには自信があった。

 今日は、二学期の始業式も終わった後、一旦帰宅していた舞朝であった。しかし彼女が所属する天文部の活動日でもあったので、高等部の敷地へ戻る途中だった。

 都道といってもビルに囲まれた道ではない。周囲を見まわして目に入るのは、ほとんどが田んぼという、古き良き武蔵野の風景である。そんな中で、遠くに見える森のような物は、彼女が通う学舎であった。

 愛用のママチャリを全速力で飛ばし、国道から学園へ延びる都道の、さして広くない坂を下りきったところだ。

 そのただならぬ気配に、彼女が急ブレーキで停車したのは、昨年の拡張工事で歩道が設けられた場所であった。

 眼鏡の必要もなく、もちろんコンタクトも必要ないという、良くもなく悪くもない彼女の人並みの視界に、普段なら見られないような様子が入ってきた。

 真ん中に立った人物を、前後で挟んだ二人組という構図である。

 挟まれている人物は、舞朝とそう歳が違わない少女のようだ。

 彼女が身に着けている黒い制服には見覚えがあった。車ヒダスカートに丸襟ブラウスの上にスクエアカットベスト。冬季にはその上に三つボタンブレザーを着ることすら知っていた。

 それは彼女が通う、今どき幼年部(幼稚園)から大学院までの一貫教育で有名な、清隆学園の中等部(中学校)のものだったからだ。去年まで彼女が袖を通していた物と、まったく同じであった。

 少女は、かろうじて平均的な舞朝よりも、さらに小柄で、そして痩せていた。艶の無い黒い髪を短くしており、細い肩が庇護欲を感じさせる、そんな存在であった。

 そんな彼女が道の外へ逃げようにも、左側は道からだいぶ下がった田んぼであり、右側は車道である。その向こうは同じく田んぼだ。泥だらけになる覚悟で逃げても、足を取られて、いずれ追いつかれてしまうだろう。

 対してその少女に、両腕を広げてどちらにも行かせないようにしている二人は、とても個性的な格好をしていた。

 それでも、こちらに背中を見せている小柄な人物は、ここら辺では見かけた服装をしていた。おそらく、舞朝と同じ清隆学園高等部の女子用制服を、身に着けているように見えたからである。

 高等部女子の夏服と定められているのは、紺色のベストに同色で薄手のプリーツスカート、丸襟ブラウスに緋色のネクタイであるが、大多数の女子がベストを省略していた。このベストは、夏用の薄い生地なのに風通しが悪く、夏季ではとても着心地が悪いからだ。

 薄い夏用のブラウスから透けてしまう下着のラインを隠したい生徒は、今の舞朝のように、薄地のカーディガンを身に着けることが多かった。

 またネクタイまで省略してしまっても、校則違反に問われないことになっているが、舞朝はちゃんと締めることにしていた。

 その銀髪の少女は、きっちりと校則に定められたままに、紺色の制服を身につけているようだ。

 それだけならば個性的とは言えないが、その小柄な背中を隠すように流された長い髪は、日本人では珍しい青味がかった銀色をしていた。

 もちろん髪を脱色や染色していたら校則違反である。よって舞朝の記憶では、そんな派手な髪をした生徒は、高等部にはいないはずであった。

 対して、行く先を塞いでいるもう一人は、もっと普通でない格好をしていた。

 身長は見上げるような大男である。肩幅もその高さに見合って、広い物だった。彼はとても個性的な趣味をしているようで、見ているだけで汗臭い体臭がただよってくるような、筋肉がムキムキの上半身を外気に晒す、サスペンダー姿であった。

 下半身は、黒い革の半ズボンに、白いハイソックスという出で立ちである。

 もちろん素肌を晒している腕も脚も貧弱なものではなかった。まるで綱を編んだような筋肉が、健康そうな艶で太陽光を反射している肌を、内部から押し上げて存在感をアピールしていた。

 しかも、角張った米国警察制帽風の帽子や、素肌に提げたドッグダグ、色の濃いサングラスに、とどめはきれいに刈った口髭という、細かいアイテムも揃っていた。

 偏見かもしれなかったが、いわゆるハードゲイという姿だ。

 日本では、今どきマンガでも稀になったような、押し出しの強いコスチュームであった。

「さて、どうしようかな」

 口の悪い腐れ縁の男子からは「無気力、無感動、そして無いバスト」という『無の三拍子』が揃っていると言われる舞朝であったが、これは見過ごすことのできない事態のようだ。

 挟まれている少女は、頭を抱え込んでしゃがみ込んでしまっていた。

 対してこちらを向いているガチムチは、帽子とサングラスで表情を隠しており、どこか無機質な印象を与えた。

 少女の後方であるこちらを塞いでいる高等部女子も、そのガチムチに協力する態勢のようだ。なにせ道を塞ぐポーズが同じだ。

 挟まれている女子生徒の顔には、見覚えが全くなかったが、同じ清隆学園の生徒にはかわりがなかった。どこをどうやって見ても、後輩の危機という事態に『事なかれ主義』の舞朝は、その主義を曲げる必要があるようだ。

(とりあえずママチャリで乱入&威嚇して、その後荷台に乗せて逃走)

 基本的な計画を頭の中で組み立てた。

 どう計測したって人より知力も体力も、劣る項目は揃っていても優るものが無いという自分の実力を、正確に把握しているからこその、冷静な判断であった。

 己を知り、敵を知るものは百戦危うからず。

 逃げるが勝ち。

 どちらも、有名な兵法書に記されている真実であった。

 こっそり溜息をついてから、大きく息を吸った。

「わああああああぁぁぁ…、はあ?」

 覚悟を決めて大声を上げ、ママチャリで突進を始めた舞朝の前で、信じられない出来事が起きた。

 まだ夏の様子の青空から、突如として大きな物体が落下してきたのだ。

 そのまま重々しい音を立てて、地面へと突き立った。衝撃音の大きさに、ママチャリのタイヤが、地面から浮いた錯覚すらあった。

 舞朝は、せっかく全力加速したママチャリに、急ブレーキをかけなければいけなかった。つんのめって、後ろで三つ編みにしている黒髪が、反動で前に回って頬を叩いたが、そんなことには構っていられなかった。

 そうでなければ自分から、表面に「一六トン」と大書された金属の塊に突っ込んでしまい、擦り傷の一つもこさえるところだった。

 視界の外から落ちてきたのは、巨大な分銅であった。

 いちおう上空を確認してみた。そろそろ高さを感じるようになってきている青空には、ジェット機どころか、楕円体に羽を持つ不思議生物も、飛んでいなかった。

 それはトラック程もある巨大な物体であった。小さな物なら学校の授業で取り扱ったことがある。円柱形の本体に、ピンセットでつまみやすいように、上部へ取り付けられた球体。それはスケールが違うが、まごうことなく分銅であった。

 その分銅は、少女の前後に落ちていた。ちょうど少女を、まるで小学生のいじめっ子のような態度で道を塞いでいた二人に、それぞれ一つずつが命中した形だ。

 下敷きになった二人は、姿も形もない。なにせ分銅の大きさが普通ではないのだ。

「なんだ?」

 事態を把握しきれずに、乱れた髪も直さず、キョトンとしている舞朝の横を、挟まれてピンチだったはずのその少女が、軽いステップですれ違っていった。


 カワイイ唇に人差し指をあてながら。


 その茶目っ気すら感じさせる微笑みに、見とれていたわけではないが、しばし茫然としていた舞朝を、現実に引き戻したのは、制服のスカートへ放り込みっぱなしにしていたスマートフォンだった。

 チャートでヒットしただけでなく、そのタイトルが長いことでも記録になっているロックに応えようと、取り出して画面を見ると、そこに表示されていたのは、腐れ縁と言っていい間柄である同級生の名前であった。

 一瞬、どう応対しようとして、あたりを見まわした。

 歩道に、最初から何かのオブジェのように生えている二つの分銅に目が止まった。

 目の錯覚でないことは間違いない。見上げるような大きさの鉛色した表面が、鈍く太陽光を反射していた。

 前後を挟まれていた少女の姿はすでになかった。さらに分銅には下敷きとなった者がいるはずだが、地面との境目から血が流れ出てくるわけでもなく、トラックのような存在感だけが残されていた。

 周囲には、秋とは名ばかりの、残暑の蝉時雨が響くばかりだった。

 通行人は無かった。

 どうやら、誰かに話しても、信じてもらえそうもない出来事に出くわしたようだ。

 舞朝は決断すると、人差し指を立てた。

「ぷち」

 その一言とともに、指をスマホに落とした。



「なにやってんだよ!」

 天文部が、部室として使用している地学講義室に入るなり、建築図面作成用の大きな消しゴムが飛んできた。舞朝はそれを空中キャッチすることで、自分の顔を守ることに成功した。

「別に」

 そっけない言葉とともに投げつけてきた相手、遊佐(ゆさ)和紀(かずき)に放り返した。

 彼は、部員それぞれが各自の荷物を広げていた中心で、偉そうに腕を組んでふんぞり返っていた。まるで小学生のように鼻の下へシャーペンを挟んでいた彼は、緩い放物線を描いて帰ってきた消しゴムを、片手だけで受け止めた。

 彼の器量は、どちらかというと良い方であった。文化会系部活には、もやし体型が集まるという定説に反して、まるでスポーツマンのように均整の取れた体格までしている。いまは座っているので分かりにくいが、クラスの中でも身長は高い方だった。もちろん胴長短足なんていう残念なシルエットではない。体つきから想像できるように、体を動かすのが好きなようで、肌はこの夏の日差しですっかりと焼けていた。

 クラスの女子の間で、話題に上ることだってあった。

 消しゴムを受け止めた体勢で、ニカッとイタズラっ子のように、笑顔を見せつつシャーペンを手元へ落した。

 せっかくの少し大人びた眼差しも、その小学生のような行動で台無しになっていた。

 人好きする笑顔に、口元から零れる白い歯を合わせてくるものだから、舞朝は見ていられなくて視線を外した。

「お前だけだぜ。自分の分、持ってきてないの」

 口先だけを尖らせて、ブウブウと舞朝に文句を垂れる。この仕草が小学生のまま体格だけ立派になった「ヤンチャ坊主」が、舞朝の腐れ縁の相手であった。

 公立の小学校時代は家が近所だったから、同じ学校でもおかしくなかった。中学は、舞朝が進学校である清隆学園中等部に進んだ。和紀は、親が仕事の都合で名古屋に転居したため、離ればなれになった。

 普通ならば、それっきりとなる事の多い関係性である。それが、どんな運命のイタズラか、高等部になって同じクラスになろうとは。これを腐れ縁と言わずに何と言おうか。

「どうかされたのですか? マーサさん」

 とても大人びた女性の声がかけられた。

 ギリギリ平均身長に届く舞朝よりも頭一つ分も身長が高く、そして出るところが出て引っ込むところが引っ込んでいるというモデル級のシルエット。これで平均以下の顔立ちであるなら無害であろうが、もちろんそんなことはない。肌の色は透き通っているし、大きく瞳がちな目は、見ているこちらが吸い込まれそうだ。栗色の髪をボブカットにし、分けた前髪から知性的なオデコが覗いていた。実際、彼女の成績は上から数えた方が早かった。桜色をした唇は、リップなんか塗らなくても艶やかに輝いていた。

 普通の女子生徒ならば、隣に立たれるだけで迷惑という存在。粗さがしをするならば、少々目つきがキツすぎるかなというのが減点といえば減点の美少女、近藤(こんどう)愛姫(あき)である。舞朝を「絶世の美少女」と褒めた相手である。

 愛姫は、カチャカチャと常人にはない足音をさせて、舞朝のそばにやって来た。

 そのまま、それが当然とばかりに舞朝の右腕に自分の腕を絡めてくる。

 ちなみに変な音の原因は、後ろ腰に巻いたウエストポーチのようなナイロン製の入れ物から漏れてくる金属音であった。

「暑いから、やめてくんない?」

 ただでさえママチャリで、全速力を出していた事もあった。また九月に入ったばかりで、残暑がカレンダーを見て「お、もう秋か。オレの出番は終わったな」と言って来年まで去ってくれるはずもない。

 それにエコとかの理由で、実は経費削減じゃないかというぐらい遠慮気味に空調を効かしただけの校内では、体にこもった熱が冷めるのに時間がかかるのも当然と言えた。

 こんな汗みずくの時にくっつかれても、うっとうしいだけだ。しかも相手がモデル並み体型をしている愛姫ならば、なおさらであった。

 愛姫のように理想の体型をしているならば、いま実際に彼女がやっている肌色成分が多めの、半袖のブラウスにスカート膝上履きという格好も似合うかもしれないが、何度も言うが人より貧相な物しか持ち合わせていない舞朝には、無理な話であった。

 そういう理由もあって、いくら暑くても舞朝はブラウスの上に着ているカーディガンは脱ぐことができないのであった。

 悪条件に悪条件が重なって、クールダウンには余計時間がかかりそうだった。

「せめて、お袖を捲りましょうか?」

 優しい笑顔を浮かべたまま、うらやましいことに肌も瞳も何もかも色素が薄い愛姫は、そのせいで染めているのではないかと思われるほどの鮮やかな栗色をしている髪を傾けて、舞朝の顔を覗き込んだ。

 この暑いシチュエーションをさらに暑苦しく見せているのが、舞朝の長袖姿だった。下半身もニーハイソックスで肌色成分はまったく無しであった。

 愛姫が好意として袖に手をかけた途端、舞朝はそれを振り払うように手を引いた。

「あ」

 そのあからさまな拒否反応に、いつも笑顔を絶やさない愛姫が、目を丸くした。

 自分がとった無意識の行動が、相手を傷つけてしまったかもしれないと気づき、舞朝は慌てて口を開いた。

「あ、う。ご、ごめん」

「いえ、こちらこそ謝らさせていただきます。忘れていました」

 彼女が長袖を着ている理由を思い出した愛姫は、舞朝を安心させるように笑顔を取り戻して言った。

「マーサさんの肌はわたくしの物ですもの。汚らわしい男どもの視線に晒すわけにはいきません」

 これが冗談でないのが困った物である。

 その証拠に、暑いからと断ったのにも関わらず舞朝の腕に抱きつくと、愛おしげに服の上から肩口を撫で回してきた。

 愛姫と知り合いになった頃は、撫でられる度にぞっとしていたものだ。しかし慣れというものは恐ろしいもので、今では何にも感じなくなってきていた。

「はやく出してもらおうか」

 和紀の方も、そんないつもの風景は見慣れてしまっているので、別の意味で眉をひそめたまま手を出した。ただ口元には先程とは違って、不敵な笑みが浮かんでいた。

「オマイも、そうじゃないと困るんだぜ」

 まるでマフィアの取引のようである。ただ、ここで行われているのは、そんな大層なブツの交換ではなかった。

「ほらよ。数学のノート」

「そうそう、これこれ」

 差し出された舞朝のノートを瞬時にひったくると、さっそく開いて夏休みの課題が記されているページの見当をつけ、自分の前に広げた筆記用具へと向き直った。

 二学期始業式の今日は、天文部では恒例になっている夏休みの課題消化大会が開かれているのだった。

 もちろん対価無くしてこの大会に参加することはできない。参加する者は、それぞれが得意分野としている教科を、この日までに仕上げてこなければならなかった。

 ただ、数学が得意という部員が毎年いるわけではなかった。舞朝もどちらかというと苦手な分野であったが、一学期最後の部活で行われた担当教科争奪のクジ引き合戦で、見事ババを引いてしまったのだ。

「で? 化学はどーした?」

「それは、あっちゃ。ナナが持ってる」

 和紀は、もうこちらには見向きもしなかった。彼の手にしたシャーペンが、舞朝とは反対側を指した。

 窓際の空調の風が巻いているあたりで、一人の生徒がこちらを見ていた。

 その者は、艶のある黒髪を短くしていて、肉質を感じさせない薄い体をしていた。一見、小学生の男の子のようにも見えるが、着ている物は高等部女子用の紺色ブレザーだ。

 いつもは、白いシーツを頭から被って表情すら窺うことができないが、今日はめずらしくそこから顔を出していた。

 彼女は、椎名(しいな)(かな)。苗字と名前が同じ音節で終わるという理由から「ナナ」と皆から呼ばれていた。これが「な」ではなく「じょ」であったら色々と面倒な事になっていたかもしれない。

 白いシーツの理由は、とても恥ずかしがり屋で人見知りだからである。いつもはそのシーツで全身を覆っているのだが、さすがに厳しい残暑と、ノートを写すという行為に、顔を出さずにはいられなかったのだろう。

 そんなわけであるから、彼女は人の視線に敏感であった。それ故に、舞朝が見つける前からこちらを見ていた…、というわけではないらしい。

 大きめの少年の様な黒い瞳が、キラキラと輝きながら舞朝を見つめていた。

 その視線がわずかに左上方へずれた。

 かといって、暑いからと嫌がる舞朝に、お構いなしにくっついてくる愛姫を見ているわけでもなかった。

 強いて言えば、二人の中間のさらに後方の空間を見ているようだった。

「ナナ、化学のノートを…」

「マーサ」

 話しかけた瞬間に、とても平板な声がかえってきた。

「え?」

 普段は叶の方から話題をふってくることが無いので、舞朝はビックリした顔になってしまった。

 叶はどこまでも深海のような表情のまま、その深海魚がたゆたう雰囲気のままに言葉を紡いだ。

「憑いてる」

「え? え?」

「なにか、あった?」

 これが映画ならば、ターミーネーターのように叶の視界に切り替わっているようなシーンだ。

 彼女は意図せずに行っているのだろうが、大きな瞳ゆえに虹彩が絞られてピントが、常人では何も見えない空間へ、合わせられていくのがわかった。


 モードチェンジ。

 赤外線チェック。

 可視光線チェック。

 紫外線走査チェック。

 霊的走査開始。

 ピ、ピ、ピピピピピ、反応あり。


 そんな感じであった。

 もしかしなくても叶は、先ほど道で舞朝が出くわした事を言っているようだ。舞朝は、なんと説明しようかと表情を曇らせた。

 すると目を閉じた叶は、人差し指を立てた左手をシーツの中から出し、まるでアンテナのように真上に差し上げた。

「感じる…」

 あくまでも静かな声で叶。

「これは…。異次元からではない。霊界からの電波…」

「…」

 不吉な宣言に凍り付く舞朝。横の愛姫は通常運行の笑顔だ。

「君は、またそんなオカルトじみたことを言っているのかい」

 二人の後ろから、助け船とばかりに声がかけられた。

「来てたんだ、ナオミちゃん」

 振り返ると、モデル級のプロポーションをしている愛姫よりも、さらに高い身長をした少年が、無表情を装いながら立っていた。ただ口元が舞朝に話しかけることが嬉しいのか、ちょっと緩んでしまっていた。

「ちゃんと、制服着て来なきゃダメじゃん」

「別に、今日はサボりだからいいんだよ」

 舞朝にナオミちゃんと呼ばれた少年は、白いカッターシャツに黒い夏用のロングパンツという、紺色ブレザーが制服として着用が義務づけられている他の生徒とはまったく違う服装をしていた。

「そんなことしてると、またセンセに集中攻撃くらうよ」

「いいんだよ僕は。なんだったら、また全教科一〇〇点とってやるから」

 長目の前髪に手を当ててポーズなんかつけている彼は前田(まえだ)直巳(なおみ)。舞朝に「ちゃん」づけで呼ばれたが、れっきとした男である。

 全教科一〇〇点というのは、口から出るでまかせではない。実際にやろうと思えば、彼ならばできるのである。

 頭脳優秀だけでなく運動神経抜群なのだが、素行不良のため教師たちからの評判は最低であった。

 彼が授業に出るのも出席日数の消化でしか無く、これで少しでもテストの平均点が低ければ、それを理由に退学処分を受けても不思議ではないほどだ。

 これでルックスもスタイルも最高ときているから、学内での女子人気は高い方だった。ただ近くで見慣れている舞朝に言わせると、少々頭は良いのは認めるが、他の男子とあまり変わらないらしい。

 ヤンチャな和紀が動物的な少年ならば、直巳は植物的な雰囲気を持った少年だった。

「わたくしのマーサさんに、近づかないでもらえます?」

 こちらはこちらで、そのルックスとスタイルで学内男子からの人気がトップクラス入りしている愛姫が、眉を顰めた声を上げた。

「マーサさんは、わたくしのものなんですから。男が話しかけるだけで穢れます」

「まったく非科学的だな、君たちは」

 シッシッとまるで犬でも追い払うような態度の愛姫に、こちらも眉を顰めて直巳は勤めて冷静に言った。

「霊だの、話すだけで穢れるだの。女というものは全て非科学的な物におかされているんだから」

「いや、あたしを入れてくれるな」

 いちおう舞朝は否定しておいた。もちろん朝にテレビで見る星占い程度のことは信じているので、全否定するわけではない。

 愛姫も直巳も頭が良いためか、お互いが水と油のように嫌いあっている節があった。もちろんそれが決定的な物ではないというのは周知の事実なのだが、同じ天文部に所属する一年生として、度々舞朝は不安になった。

 その毎度の会話の間、ずっと左手を差し上げて祈るように目を閉じていた叶は、つとそのポーズをやめると、その黒い瞳で舞朝を見た。

「冗談?」

 音量はけっして大きくはなかった。だがその一言で地学講義室の中を静寂が包んだ。

「え? ああ」

 舞朝が叶との会話を再開しようとした。

「冗談なんかじゃない、本当のこと」

 平板な調子で叶が言った。ここで鐘の音(チーンと)なんか鳴ったらとても似合いそうな雰囲気だった。

「は、は、は」

 血の気が引いた顔で舞朝は、とても乾いた笑い声のようなものを発した。

「うふふ」

 抱きつく力を強めた愛姫が、隣で同じ顔色になっていた。

「非科学的な」

 とても怒った声になる直巳。

「それって、ホントか?」

 どこまでもヤンチャ坊主の和紀は、もう数学のノートを放りだしていた。それを散らかしたまま四人の会話に、ずかずかと入ってきた。

「霊魂? 幽霊? ばかばかしい」

 首を振って大げさな態度で否定した直巳は、蔑むような目線で和紀を見おろした。彼の方がほんの少しだけ身長が高いのだ。

「そんなことを言っているから、君は成績が振るわないんじゃないのかい? もっと科学的な思考を身につけたまえ」

「でもさ、科学的に完全に否定されたってわけでもないんだろ」

 興味津々な和紀は、言い出しっぺの叶の顔を覗き込んで、視線はそのまま言葉だけで直巳に訊いた。

 人に見られるのが苦手な叶は、まるでケープのように肩に掛けていたシーツを引き上げると、その中に引っ込んでしまった。

「あたりまえじゃないか」

 半分以上怒った声になった直巳は腕を組むと、出来の悪い児童に算数を教える小学校教師のような口調で言った。

「死後の世界があったとしても、それを確認したときにはもう手遅れだろう。その本人は死んでいるんだから。死んでしまっていたら、論文もなにも発表できないだろ」

「あら。臨死体験を集めた本があったと思いますけど」

 反論なのか、愛姫が口を挟んだ。

「ああ、あれか」

 なぜか苦笑いになった直巳は、前髪をいじりながら愛姫にむきなおした。

「そういったキワ物の本が出ているのは知っているよ。でも科学的に検証すると、我々の脳内にそういった情景が最初からインプットされており、極めて死に近づいたときに、そういった物をあたかも体験したかのように感じることができるんだ。これは…」

「…」

 なにか叶が呟いたので、直巳は高説を垂れるのを止めた。

 その静かな声は、もう一度繰り返された。

「うそじゃない」

 シーツの向こうから漏れてきた声は、とても哀しげな響きを持っていた。

 会話に参加していた皆が向ける抗議の視線に、直巳は大きく溜息をついた。

 まるでアメリカのホームドラマのように、両手を胸の前に挙げて降参の意思表示をすると、なるべく感情を入れない声で言った。

「椎名がそれを信じているなら、それでいいよ」

「おやあ、めずらしい」

 重苦しくなってしまった雰囲気をぶち壊すように、明るい声が割って入ってきた。

「仲のいい一年生グループが喧嘩かい? いけないなあ、そんなことじゃあ」

「ヤマト先輩にアイコ先輩」

 救われた顔で舞朝は、乱入してきた一年先輩の天文部部長と、彼の後ろに立つ副部長の女先輩を振り返った。

 天文部部長のヤマト先輩は、どこまでも表情が柔らかい優しそうな少年であった。和紀や直巳と違って平均以下の身長であるが、精悍な顔つきには知性があり、微笑むと細めた目が閉じられたように見えるのが特徴だ。

 彼と同じ二年生の副部長アイコ先輩は、ヤマト先輩と対照的にふくよかな体格をしていた。どこを押しても弾力しか感じられなそうな体であるが、けっして不健康なほどでは無かった。ただ舞朝や叶が痩せすぎという説もあるほどだ。ちなみに胸の大きさでは愛姫とどっこいである。

「いや、ケンカしてたわけじゃなくて」

 舞朝は困った顔をしてみせた。その意を汲んだのか、隣の愛姫がちょっとおどけた声を上げた。

「こんなにも愛し合っていますわたくしたちを、嫉妬した男が邪魔にきただけです。いつものことですわ、ヤマト先輩」

「誰が、誰と誰の仲を、だよ」

 さすがに脱力した声を直巳が漏らす。抱きつかれている舞朝もうんざりした顔になった。

 いちおう確認するが、舞朝の嗜好はまったくノーマルであった。思春期の娘らしく、慕っている男子ももちろんいた。そして、その想いを向けている相手は、慎ましくも非公開ということになっていた。

「ちなみに、課題は進んだの?」

 いつものことなので慣れているのか、愛姫の妄言を水のようにさらりと流して、アイコ先輩が一年生の顔を一人ずつ見ながら確認した。

「オイラは、もうちょっと」

 これは、あと舞朝の数学を写すだけの和紀である。

「わたくしは、すでに終わらせてあります」

 余裕のコメントは愛姫である。

「…」

 シーツの内から片目だけでこちらを覗いている叶は、無言のままだった。

「提出期限に、間に合えばいいんでしょ」

 まるでそれが近所のコンビニまでちょっと買い物に行く程度の作業のような口調で、直巳がこたえた。

「ノ、ノーコメントということで」

 これは最後に残された舞朝だ。だいぶ冷や汗をかいている声だった。

「じゃあ、一年は全員大丈夫か?」

「ちなみにヤマト、もう一人忘れてますよ」

 アイコ先輩の訂正に、ヤマト先輩は今気がついたとばかりに部室を見まわした。

「そういえば、イロハはどうした?」

 代表して訊いているとばかりにヤマト先輩に見つめられても、忘れたノートを家に取りに行って、戻ってきたばかりの舞朝に答えられるわけもなく、同じ質問の意味で、腐れ縁の和紀を見つめてみた。

 和紀は、苦笑のような物を浮かべて答えた。

「イロハなら、また果たし合いに」

「果たし合い?」

 アイコ先輩の不安そうな声とは対照的に、安心したかのようにうなずいてみせるヤマト先輩。

「いつもの道場破りか」

「道場破り?」

 アイコ先輩の表情が、一層不安気なものに変わった。

 その時、まるで出待ちをしていたかのようなタイミングで、勢いよく地学講義室の扉が開かれた。

「おーい、天文部」

 大きな声で廊下から声をかけられたので、室内にいた全員がそちらを振り返った。

 そこには、銀縁眼鏡をかけた真面目そうな男子生徒が立っていた。

 彼は、制服の上から大きめのエプロンをかけていた。もとは白かったはずのエプロンが、色とりどりの油絵の具で汚れていることからも判るが、地学講義室の隣にある美術室で、何らかの作業をしていた者らしい。

「なんかあったかい?」

 首を突っ込んできた彼は、美術部部長である二年生だった。同じ文化会系の部活として、近所づきあいを忘れていない部長が応対に出た。

「コレ、君らのとこの一年生だろ」

 今年は夏休み中の活動期間を、学園祭のメインゲート製作に費やしたとの噂の美術部部長は、まっすぐ足元の床を指差した。どことなくせかせかとしているのは、そのメインゲートが未だ完成しておらず、精神的に追い詰められていることが関係するのだろう。

 学園祭のメインゲート製作は、いつもは日の当たらない身の美術部が、唯一全学園に自分たちの実力を、直接アピールできる場なのだ。もちろん未完成では醜聞がよくない。

「こんなところで寝ていられると、こっちも迷惑なんだけど」

 見ると、廊下の床に黒い物体が転がっていた。

 光の加減もあって、それがなんだか気がつくことに遅れた。

 どうやら道着を着た人間が、そこにうずくまっているようだ。

「あれ、もしかすっとイロハじゃないか?」

 見てしまったものの、それが現実と受け入れたくなくて確認する、という雰囲気で和紀が舞朝に訊いた。

「じゃないか、じゃなくて。そうよ」

 慌てて駆け寄ると、地学講義室の入り口で、黒くて長い髪の毛を長尺物のビニール床に散らして、何故だか竹箒を抱きしめたままの少女が、制服ではなくて紺色の道着姿でうずくまっていた。

 彼女が、いま話題になっていた久我(くが)五郎八(いろは)である。名前表記はまるで男のようであるが、その読みの通り和風美人である。

 いまはどことなく全身が埃っぽく、なにか暴力沙汰に遭ったのであろうことが想像された。

 天文部のメンバーがやって来たので、もう立ち去ってよいと判断したのだろう、美術部長は地学講義室の隣にある美術室へ消えていった。

 天文部の心配そうな顔が並んだところで、うずくまっていたその五郎八は上体を起こした。痛々しい姿だが意外にしっかりとしているようだ。

 鋭い眼差しに、意志の強そうな眉。顎のラインも鋭角といっていいほど面差しで、一本筋の通った鼻まで攻撃的であった。

 これでお化粧などして着物を身に纏い、黙って立っていれば成人式のパンフレットを飾っても不思議ではないぐらいの美人なのだが、あいにく彼女はお洒落に興味がないようだ。

「不覚」

「なんだ、また負けたのかよ」

 遠慮無く和紀は声をかけた。

「負けた?」

 舞朝の横に立った直巳が、頭越しに訊いた。学校をサボり気味の彼は、道着を着ている同級生のくわしい生態を知らなかった。

「イロハは最近、剣道部のエースを倒すことに燃えているのさ。たまにこうやって剣道部に行って、叩きのめされて帰ってくるんだ」

「まだ精進が足りん」

 和紀の説明が面白くなかったのか、五郎八はすっくと、今までうずくまっていた割には元気そうに立ち上がった。

 袴の裾を叩いて埃を払い、伸ばし放題の長い髪を背中へ追いやって、すり足ぎみの足運びで部室に入ってくる。もちろん竹箒は抱えたままだ。

 こうして立ち上がると結構な長身であることがわかる。流石にファッション誌の読者モデルで通用しそうな愛姫には負けるが(ギリギリで)平均身長の舞朝とは、目線一つ違っていた。

 それに加えて武術家特有の姿勢の良さから、さらに印象的にスタイルが良く見えていた。

 器量の方も涼やかな表情がよく似合い、分類するならば「良い」といっていいが、髪にろくに櫛を入れていないし、化粧っ気もまったく感じられない。

 もう少しの努力で美人の範疇に入れるのだが、本人にその意思はまったく感じられなかった。宝の持ち腐れとはこういうことを言うのだろうか。

「剣道部のエース? 強いのかい?」

「毎回、都大会に顔を出すほどの実力者だってさ」

「それは、無謀じゃないかい?」

 和紀から説明を受けて心配そうに振り返る直巳。その同級生の心配もまったく気にならないのか、彼女の方は振り返りもしなかった。

「それって、どんなマッチョだよ」

 五郎八の実力は知っている直巳が訊くと、和紀は事も無げに答えた。

「あれ? しんないの? 二年の、『学園のマドンナ』に毎月選出されている…」

「え? 彼女、剣道部?」

 生徒会が毎月行っている学園(裏)投票にて『学園のマドンナ』が選出されていた。それが毎月行われているのには理由があった。誰が選出されるかというトトカルチョが非公然に行われており、その胴元が何を隠そう生徒会自体なのであった。収益がどこの誰に消えるがわからないし、また当然、日本の現行法制に照らし合わせるまでもなく、違法行為なので(裏)投票と呼ばれているのだった。

『学園のマドンナ』に選ばれたから特典があるというわけではないが、一度でも選ばれれば、そのステータスはプラスにはなった。いつもは愛姫クラスの美少女が二、三人でその座を巡って熾烈な争いを起こすものだが、昨年から圧倒的な票差で、現マドンナがトップ当選を続けて独占していた。

 もちろん選出されれば、全学年男子から憧れの存在として見られることにもなる。不登校気味の直巳だって、清隆学園高等部の男子だ、気にならないと言ったら嘘になった。

 だがその直巳も『学園のマドンナ』の実力は知らなかったらしい。そんな直巳が驚いている間に、五郎八の進路をヤマト先輩が塞いだ。

「あ~、イロハ。君は夏の課題は、終わってるのかい」

 ヤマト先輩が訊くと、それに不思議そうな視線をかえす五郎八。彼女はそれがさも当然とばかりに言った。

武士(もののふ)に課題など、不必要」

 そう言った直後に、舞朝がその頭へツッコミを入れた。

「なにが不要よ。イロハの一学期補習、手伝ったの誰よ」

 怒った口調の舞朝の前で、無表情に頭を撫でていた五郎八だったが、ポツリと頭を下げた。

「すまぬ」

「で? 課題は?」

 その質問に、竹箒を肩に立てかけた五郎八は、窓からの風景を、楽しむように遠い目をした。

「しろ」

「?」

 その一言で、説明できたとばかりの五郎八に、彼女の言葉を聞いていた者は一様に首を捻ってみせた。

「白だ」

「はぁ?」

 どうやら『城』や『代』のことではなく、色彩の『白』のことを言っているらしい。

「白とは、残酷な色だ。そうは感じぬか?」

「つまり、やってないのね」

 舞朝は両肩を落とした。ずいぶんな言い回しだが、どうやらノートが真っ白で、課題は消化されていないことを伝えたいらしい。

「そんなこっちゃ、朝までかかるぞ」

 呆れて溜息をついた舞朝の横から、和紀が口を挟んだ。

「大丈夫」

 ヤマト先輩は、全員を安心させる笑顔で言った。

「今日は観測会だから、その間に徹夜で済ませばいい」

 そう。毎度こんな部員が一人はいるので、天文部の二学期最初の活動は、翌日までの天体観測会と決まっているのだった。

「え~」

 うんざりとした声を上げる舞朝に、アイコ先輩が人差し指を立てた。

「ちなみにね、部員の成績が悪いと、部長が顧問から呼び出されるから」

 アイコ先輩の言葉を聞いて、一年生全員が申し合わせたように、困ったような笑顔をしているヤマト先輩を振り向いた。

 同時に拝むように手を合わせた。

「もちろん、呼び出す方の顧問も、色々と教科担任から嫌味を聞かされるわけだ」

「小石ちゃん」

 いつの間にか、こちらの地学講義室と、地学担当教師の控え室となっている、地学準備室との境にある扉が開いていた。

 その扉に寄りかかるようにして、白いシャツに白いズボンという白ずくめの格好をした男が立っていた。

 顔にかけた剽軽ささえ覚えさせる丸めがねと相俟って、大学出の書生のような雰囲気を未だに纏っている彼が、清隆学園高等部の地学担当教諭にして、天文部の顧問である小石(こいし)健介(けんすけ)であった。

 すでに三十路に突入している彼は、若白髪がとても目立つ頭をバリバリと掻いた。

「課題の方、よろしくお願いするよ」

 口元には愛想笑いのような笑みが貼りついていた。けっして皮肉を言っているのではない。どのような状況においても、あの笑顔が崩れることはないのだ。部員たちでも、彼が声を荒立てるところを見た者はいなかった。

 一般生徒たちの中には、顔自体をシーツで隠している叶や、不愛想な表情を崩さない自称『もののふ』である五郎八などとは違って、笑顔のままで感情が一切表に現れてこない小石を、不気味がる者もいた。口の悪い生徒の中には『爬虫類』と呼ぶ者さえいた。

 そんな顧問だったが、その表情を見慣れている部員たちには、関係がなかった。

 それよりも教職員の間で権力を握っていないが、生徒たちに親身になってくれるところから『小石ちゃん』と、まるで年上の友人のように呼ばれて慕われていた。

「イロハ。先生からも、課題をしっかりやってくれと、頼むよ」

 その哀しげな響きを持った顧問の声にも、一年生全員が先程ヤマト先輩にやったように、同時に手を合わせてみせた。



「あっちがカシオペアで、こっちが白鳥座?」

 寝転がった和紀は、ほとんど真上を指さした。

 日没から相当立っているのにも関わらず、残暑の日差しに焼かれた屋上は、まだまだ熱を帯びていた。

 必然的に空を向いている彼の目の前には、一面の星が散らばっていた。

「どっち、さしてんだよ」

 中等部から天文部に所属していた舞朝と違い、彼はまだ経験が浅かった。

「さて?」

 横で寝ている舞朝が訊ねると、とうの本人から質問がかえってきた。

「あ、流れました」

 和紀とは反対側で寝そべっている愛姫が、その夜空を横切った流れ星を確認した。上体を起こして、枕元に置いた黒いピラミッドのような物へ手をのばした。

「午前〇時、ちょうどです」

 まるで白魚のような指に触られると、そのピラミッドが、現在時刻を合成された音声で教えてくれた。

 今回の清隆学園天文部の観測会は、だいたい三班に別れていた。だいたいという表現になってしまうのは、部員全員が一つの班の仕事に拘束されずに、ゆるく手伝いあっているからである。

 その一つが、いま舞朝たちがやっている物だった。

 四人が体育倉庫から借りてきた体操マットに寝そべり、東西南北の担当する方角を向いて夜空を眺め続けるという態勢であった。

 十字に寝た四人の中心には、部長の私物であるピラミッド形の喋る時計が置いてある。

 これが清隆学園天文部流の流星観測である。

「〇時に一つ南、と」

 愛姫は、赤いセロファンで光量を落とした懐中電灯を短い時間だけ点けた。

 手元の観測メモへ、観測された時間と方角を数字で、そして大雑把にどのような軌跡だったのかを図で、記録として書き込んでいく。

「一年生、頑張れよ~」

 真面目に観測を続けている愛姫に、離れた位置で反射式の望遠鏡を扱っていた、厳つい山男のような髭面の男が声を飛ばした。

 あんな髭面が校則に適合しているわけがない。しかも、課外の観測会といえども、校内での活動は基本的に制服着用なのに、暗い色のTシャツにジーンズという私服ですらある。

 ここにも直巳と同じ、制服否定論者がいたのかと思えば、そうではなかった。彼は清隆学園高等部の卒業生で、しかも元天文部の部員だった男である。いまは確か大学生だったはずだ。

 毎回このように、観測会には卒業生たちが、たくさん参加しているのであった。

 彼らの班は、天文部員でない一般生徒が参加する、普通の天文観測会であった。そこでは少し星に興味があれば知っているような、一等星や星座などの観測および説明を行っていた。

 今回も、夏休み直後で事前告知もろくにしていなかった割には、女子生徒を中心に、幾ばくかの一般参加の生徒があった。

 観測会を行っているC棟の屋上を見回せば、高等部の紺色の制服に混じって、中等部の黒い制服姿すらあった。

 だが圧倒的に多いのは、制服を身につけている者より、私服姿の男女であった。

 もちろん私服というのは、二名(直巳と五郎八)をのぞいて卒業生たちである。

 卒業生の方が多い部活動というのは、大学ならいざ知らず、高校の部活動として果たして問題が無いのだろうか、という疑問もあった。

「なにせ、一番の苦行だからなあ」

 髭面と仲がよいらしい優男が、懐かしむような声を漏らしたものが耳に届いた。

「苦行?」

 愛姫とは、部長の時計を挟んで寝ている和紀が、不思議そうな声を上げた。

「こんな寝そべっていていい観測の、ドコが苦行なんだろ?」

「それは簡単ですわ」

 事も無げに愛姫は言った。その後に言葉が続かないので、不思議に思い和紀は上体を起こして、彼女に振り返った。

 愛姫は、ピラミッドを操作したまま上体を起こしており、その姿勢のまま自分の横を指差していた。落ちてきた栗色の髪をかき上げる。

 和紀の隣で寝そべっていた舞朝も体を起こした。愛姫が指差していたのが、彼女から見てちょうど真後ろにあたる位置だった。

 長い三つ編みを揺らして振り返ると、そこでは白いシーツを体にかけた叶が、健やかな寝息をたてていた。

「あ」

「こういう罠が待っています」

「起きろ、ナナ」

 和紀が声をかけても、全然反応がなかった。

「きっと課題を片付けるので、寝不足だったのでしょう。それに、そろそろ時間かと」

 本来ならば夜通しやるべき流星観測であるが、高校の天文部程度がそこまで真面目にできるはずもなく、だいたい一時間おきに休憩を挟んで行っていた。

「寝かしておいてやるか」

 いつもは顔を隠しているシーツも息苦しかったのであろう、まるで最初から寝るために用意したかのように体にかけられていた。これならば寝冷えもしないかと思われる。

 それよりも彼女が素顔を晒していることが珍しいのか、和紀はまじまじとその寝顔を覗き込んだ。

「こらこら」

 手を伸ばして、その耳を舞朝は引っ張った。

「乙女の寝顔を。悪趣味だぞ」

「あいてて」

 悪ガキに制裁する母親のような調子で、そのまま立ち上がる。

「いたいって!」

 それでも寝ている叶に配慮したのか、大分抑えた声で和紀は苦情をのべた。

「耳がのびちゃうよ!」

 舞朝にあわせて立ち上がる。引っ張りやすくなった舞朝は、そのまま彼を、長いシルエットの望遠鏡に着いている、直巳の方へ連れて行った。

 もちろん右腕には、愛姫がすぐに抱きついてきた。

「そっちはどうだ?」

 静かに騒いでいる和紀の抗議をまったく無視して直巳に訊いた。いつも傲岸不遜な態度を崩さない直巳にしては珍しく、ちょっと困った顔をしていた。

「なかなか捕らえられなくて、苦労してる」

 望遠鏡には、年代物のカメラがアダプターを介して取り付けてあった。

「さすがに、太陽系外縁は遠いよ」

 一緒にその望遠鏡の操作をしていたヤマト先輩も、参った声を上げていた。

 その隣で、スクリプターノートを片手に、色々と撮影条件などを記録しているらしいアイコ先輩は、無言のままで眉を顰めた。

「ヤマト先輩が弱気とは、余程のことですね」

 愛姫が驚きの響きを声に混ぜた。

 その横で直巳は、器用にも片手だけで保持したラップトップを、再度確認していた。

 舞朝が画面を横から覗くと、そこには頭の上よりも鮮やかな星空が映し出されていた。

 まあ武蔵野とは言え東京は東京である。肉眼でとらえられる星の数は数えるほどだ。ただ、画面の中も本物の星空ではなかった。

 その証拠に大きな星には、その名前と座標を示すキャプションがつけられていたし、黄道や赤道などが点線で示されてもいた。

 輝度を落とした液晶画面に映し出される架空の星空に、緑色をした光点が一つ捉えられていた。

 その光点につけられた矢印には素人には、まったくわからない数字の羅列と、星の名前が同じように浮き出していた。

 星の名前はUranus。太陽系七番目の惑星である。

 こちらの班は、天体写真を撮ることが仕事であった。

 天文部では毎年、天体写真のテーマを変えており、今年は五月から時間をかけて『太陽系の仲間たち』として、各惑星の写真を撮っていた。

 火星や木星のように、暦などの条件さえあえば簡単に撮影できる惑星ならば問題が無いが、さすがに外縁部の惑星の撮影には苦労していた。

「十月に、間に合うかなあ」

 舞朝が心配しているのは学園祭であった。毎回、天文部はそこで一年の成果を発表していた。もちろん天体写真もその成果に含まれる。

「間に合わなければ、去年のパネルでお茶を濁すか」

 ヤマト先輩が顎を撫でながら、もう最悪の事態を想定して渋い顔になっていた。

「ちなみに去年のパネルは、春の勧誘の時に展示してから、倉庫に放り込みっぱなしですよ」

 アイコ先輩が補足説明をした。

「去年はなんだっけ」

 やっと舞朝に耳を離してもらった和紀が、身長差で彼女を見おろして訊ねた。

「黄道十二宮シリーズでしたわ」

 彼女の右腕から愛姫が即答した。それに舞朝が渋い声で付け足した。

「でも牡牛座あたりは、だいぶ苦しかったような…」

「いやあ、ギリまで撮り忘れていることに気がつかなくてさあ」

 去年の展示用の写真撮影もヤマト先輩が行ったらしかった。その証拠に、とても歯切れの悪い口調で後頭部を掻き始めた。

 同じ清隆学園ということもあり、昨年中等部だった彼女は、高等部の学園祭を観覧していた。もちろん同じ天文部として、どのような活動をしているのか興味があって、昨年の展示を見た記憶があった。

 太陽の黒点観察など、プロも一目置くような物もあった。その並びで展示してあった牡牛座の写真パネルは、中学生の目から見てもお粗末であった。

「ま、まあヤマト一人の責任ではありませんから」

 横のアイコ先輩が申し訳なさそうだ。その様子から、彼女は去年も記録係だったのだろうことが推察された。

「カメラが、ダメなのかなあ」

 直巳が、残念そうな声を漏らして後ろ頭を掻いた。

「ちょっといい?」

 舞朝は二人に許可を取ると、屈折式望遠鏡にアダプターで取り付けてあるカメラのファインダーを覗き込んだ。

 なにも見えなかった。真っ暗である。

 ピントか絞りか、原因は判らないが星の光がちゃんと捕らえられてないようだ。

「これって望遠鏡だけで、見えてるの? それともカメラのせい?」

 続けて覗こうとした愛姫へ場所を譲りながら、舞朝は直巳に訊いた。

「望遠鏡だけで、見えるはずなんだけどなあ」

「もう一度、最初からやってみるか」

 ヤマト先輩はちょっと戸惑ったような顔をしてから、それでも器材の分解を開始した。アイコ先輩は器材に関してはまったく知識が無いのか、横で見ているだけであった。

「マーサ先輩」

 そこに、中等部の黒い制服を着た女子が顔を突っ込んできた。

「なに? ユカっち」

 舞朝が「ユカっち」と呼んだ彼女は、中等部のほうの現天文部部長である。幼年部から大学まで揃っている清隆学園では、上下の交流も盛んに行われていた。

 歳は違えども同じ天文部同士で仲良く観測会。

 聞こえはいいが、弱小の文化系部活にとって『青田刈り』は存続に関わる部員数維持といった面もあった。舞朝自身も中等部からのスライド組になるので、彼女とは面識があった。

「あっちの先輩に、何か言ってくださいよ」

 中等部天文部部長が指差した先は、屋上の端であった。その転落予防の手すりのさらに向こう。コンクリート造りの校舎の端っこで、座禅を組んで瞑想している一つの影があった。

 あたりは天体観測の邪魔にならないように、全ての明かりが消されていたが、遠くから微かに届く街の灯で、シルエットははっきりと見えた。それで、その人物が制服ではなくて、道着を着ていることがわかった。

 こんな時間に、屋上で制服でもなく私服でもなく、そんな格好をしているのは一人しかいない、五郎八だ。

「あのね、ハドソンさん」

 理由は不明だが、ヤマト先輩は舞朝のことを「ハドソンさん」と呼んだ。博識の直巳によると、有名な探偵小説に登場する人物に由来するとのことだった。みんなに名前でしか呼ばれない彼女にとって、それは毎回新鮮に感じられた。

「本人は大丈夫と思っているかもしれないけど、見るからに危険だよ」

「ちなみに、転落でもしたら、観測会自体禁止になっちゃいますから…」

 横のアイコ先輩も、だいぶ渋い声になっていた。

 こんな言葉が出るのも、責任者としての責務を感じているからであろう。

「はい。わかっています」

 少々脱力しながらも、舞朝はそちらの方へと足を向けた。右腕の愛姫はもちろんのこと、面白いことが起きそうな予感でもあるのか、和紀まで着いてきた。

 屋上の手すりは和紀の肩ほどの高さがあった。舞朝の身長ほどである。もちろん乗り越えるなど無理な話だった。愛姫も身長が高いため首一つ手すりから出すことが出来たが、なにせ服装が制服のスカートである。女子が乗り越えて行くには、無理な話だった。

 屋上の端までは、そこからさらに一メートル近く外にあった。五郎八は端も端、ちょうどC棟の角に座っているのだ。

「おーい」

 ちょっとマヌケだなと思いつつも、舞朝は一番端から五郎八に声をかけた。

 反応は全くなかった。

「寝ているのか?」

 和紀が不思議そうに訊いた。それを受けて舞朝は断言した。

「これは、起こしてくるしかないな」

「だれが?」

 和紀の問いに、舞朝は彼を見かえした。

「おれ?」

 自分を指差す和紀に、ゆっくりとうなずき返した。

「それには心配ご無用ですわ」

 自信たっぷりの声で愛姫はこたえ、自分の背中側に回したウエストポーチへ手をのばした。

 防水性のマジックテープで止められているらしい蓋は、上部ではなく右側に設けられていた。それを一気に引きはがすと、目にも止まらない速さで中から何かが取り出される。

 ジャカリという重い金属音。

 次の瞬間に愛姫の手には、一丁の回転式拳銃(リボルバー)が握られていた。

 防水性のヒップホルスターから腰だめに構えるという動作と、その銃の後端にある撃鉄を起こす動作を、見事に同時にこなして、狙いは違わず五郎八の腹部であった。

 典型的な実践的射撃術(コンバットシューティング)の動きだった。

 しかし、その銃口は五郎八を捕らえることは出来なかった。

 舞朝は最初、この暗闇の中をカラスが飛んでいるのかと錯覚した。それぐらい軽やかに、目の前の物体は宙を舞っていた。

 そのカラスだと思った物体が、自分より大きい物だと認識したときに、恐怖を感じた。

 次に気がついたのは、カラスの羽根だと思った物が、布で作られた何かだということだった。

 そして改めて見直すと、屋上の手すりの角に一人の人物が立っていた。

 丸い鉄パイプを溶接して作ったような手すりは、足場に不向きな上に、しかも片足だけという悪条件を物ともせずに、その人物は微動だにせず立っていた。

 ピタリと手にした竹箒は、愛姫の眉間に向けられていた。

 同じ天文部の仲間だというのに、鋭い表情で愛姫を見下ろしている。鋭い刃物のような人物は、先ほどまで手すりの外で座禅を組んでいた五郎八であった。

 この『もののふ』を自称する娘は、身のこなしが非常に軽かった。体操部の器械で平均台運動どころか、鞍馬でツカハラ跳びまで披露したことがあるのだ。

 そんなに運動神経が良いのなら、そういう運動会系部活で活躍すれば良いようなものだが、彼女曰く「武士には必要ないゆえ」なんだそうである。

 ならば天文部としての活動は彼女に必要なのかと思えば、こうして座禅をしているか、手放そうとしない竹箒で素振りをしているかのどちらかであった。

 普通の女子高生である舞朝には、その動きをとらえることができなかったが、どうやら座禅の姿勢から一挙動で飛び上がり、片方の爪先だけで手すりの上、しかも縦横のラインが直角に交わる角へ、ピタリと着地を決めたようだ。

「お主、なにをする」

 手入れをしていない黒髪で、顔の右半分を隠した表情で五郎八は問うた。

「イロハさん」

 いつの間にか銃口を移動させて照準を修正していた愛姫は、どこまでもいつもどおりの笑顔で言った。

「変な修業とやらで、わたくしのマーサさんを困らせないでいただきます?」

「座禅のドコが変なのだ?」

 それが素で疑問と感じている口調であった。

「迷惑がかかると言っているんです。それに、その汚い箒を向けるのを止めていただけません?」

「それはお主が、短筒など向けるからであろう」

「短筒ではありませんわ」

 一瞬だけ不機嫌そうに眉を顰めた愛姫であったが、自分のコレクションを自慢する人間にありがちな、恍惚とした表情を浮かべて、自分が握っている銃の解説をはじめた。

「もとはS&W『チーフスペシャル』のステンレスタイプであるM六〇です。三八口径のこの銃に、アメリカの有名な銃工でいらっしゃるディブ・マッカートニーが製作販売している、一〇ミリAUTO弾が発射できるようにボアアップする『カスタム一〇(テン)』キットを組み込みました。さらにビアンキカップで有名なシューター、マイク・ファイファーがプロデュースする、バレルガードシステムキット『コットンマウス』を組み合わせ、グリップは胡桃材から削り出したという特注の逸品。この完成され、美しいと言ってもおかしくないスナブノーズが、わたくしの愛銃『アイリス』ですわ」

 …だそうだ。(著者説明放棄)

 この銃規制の厳しい日本で、ただの女子高生が拳銃を所持しているわけもなく、よくよく見ればグリップにはフロンガスの注入口があるし、銃口から覗くと一切のライフリングが切られていなかった。

 つまり長々と説明した設定を持つ、エアーソフトガンなのであった。

「こらこらー」

 いつもの睨み合いに、感情の全くこもってない声で、舞朝は仲裁に入った。

「今日のー、観測会はー、一般参加の人もいるんだからー、そんなものはー、しまっておきなさいー」(以上の舞朝のセリフ棒読み)

「マーサさんが止めるのでしたら」

 撃つことができなくて、少々残念そうな声を漏らしたのは愛姫だ。

「お主。命拾いしおったな」

 捨て台詞まで武士風の五郎八だった。

「ふん」

 お互い同時に武器を引っ込めて、そっぽを向いた。

「なかよくなー」

 慣れている舞朝は、それでもそう言って仲を取り持った。

 と、背後から、軽快な機械の作動音が聞こえてきた。振り返ると、左手で持った赤色ライトで床に寝る叶を照らし、盛んに直巳がカメラのシャッターを切っていた。

 カメラは、どうやら先ほどまで屈折式望遠鏡に取り付けていた物のようである。

「おーい、ナオミちゃん。あたしが怒る前に止めなよ」

「いや、これは。カメラの作動を確かめていただけで」

 なんとも苦しい言い訳が帰ってきた。一年女子の三人がジト目を向けると、照れ笑いで誤魔化しながらも、直巳は叶の撮影を中止した。

「そうだぞ、ナオミ」

 和紀も舞朝の横から、抗議の声を上げた。といっても彼の場合は「隣に立っているお姉さんが注意したのを、オウムの声まねのように口にする小学生」の域を超えていないのだが。

「五枚組一五〇円でどうだい?」

「…」

 直巳の提案に、和紀は大げさな溜息をついた。そうしつつも、女子から見えにくい方の右の親指を、しっかりと立てていた。まあそれは今日が思春期の九月だったせいだろう。

「おいーっす。ヤマト、アイコやってる?」

 その時、屋上へ上がってくるペントハウスの方から声がかけられた。

 天体観測の邪魔になる常夜灯の光を防ぐために、出入り口に張られた暗幕をめくって、まるで棒のように細い人影が現れた。闇の中にいる一同から逆光になって、表情までは分からなかった。

「お、きたな天才」

「そりゃ来るよ。天文部も『科学部』の仲間じゃないか」

 普通の日本語に聞こえない独特のイントネーションで話す語り口と、その物干し竿のような体格で、顔が見えなくても誰がやってきたか一発でわかった。

 若干高校二年生にして、数々の発明パテントを所持する天才であり、また弱小部の烏合の衆だった文化会系部活を『科学部連合』としてまとめ上げ、その初代総帥の席に着いた御門(みかど)明実(あきざね)である。彼は『科学部連合』とした各部活を統率し、徹底的な予算の見直しを行い、財政改革を成功させつつあった。しかも今春の予算会議では、強気な予算案をその実績などから押し通し、以前よりも潤ったものを獲得していた。

 自称『道産子とスロバキアの混血でチャキチャキの江戸っ子』。その頭脳は明日のノーベル賞受賞者の候補と目されている人物であった。

 同じ二年生であり天文部部長であるヤマト先輩も、その科学部創設に深く関わっており、二人は程よい交友関係を保っているようだ。

「で、どう?」

 光が再び漏れないように、暗幕を直しながら科学部総帥が訊いた。どうやら彼も惑星の撮影がうまく進んでいないことを知っているようだ。

「いやあ、うまく行かなくてさ」

「まあ慌てても、仕方なかろうし」

 純血の日本人にはありえない色の瞳が、あるかないかの星明かりを反射した。

「うまく行かないんだったら、アメリカにいるオイラの知り合いに頼もうか? ローウェル天文台から最大倍率で撮影してもらおう」

「本家じゃんか」

「本家?」

 上級生のハイレベルなやり取りに、意味が判らなかった和紀がキョトンとした顔をした。

「ローウェル天文台は、天王星の輪を発見した天文台ですわ」

「ああ…」

 愛姫の補足に、いちおう判ったふりをして手を打つ和紀。

「ちなみに、冥王星の発見もしてるけど」

 そんなことも知らないのかと言いたげな声質で、カメラを胸元へ下ろしながら直巳が言った。

「なんだよ、知らなくちゃいけないことなのかよぅ」

 暗くて見ることはできなかったが、舞朝には和紀が子供のように口を尖らせている様子が想像できて、つい微笑んでしまった。

 その間にも社交辞令を混ぜながら、上級生の会話は続いていた。

「でな。オイラは、いちおう止めたんだが…」

「え? まだ誰か来るの?」

「いやあ、来るというか、来ちゃったというか。まだ星に興味があるツカチンはいいとして、姉さんまで来ちゃってさ」

 その時にヤマト先輩が漏らした溜息のような物には音がついていたが、到底日本語では表現できない音であった。あえて記すとしたらこんな感じの音声だった。

「Sigh(Death)Sigh」

「ダレの話し?」

 これまた話しの内容が全く判らないが、ヤマト先輩の落胆さに心配になった和紀は、誰ともなく訊いた。

「たぶん図書委員長のことじゃないかな」

 自信なさげに舞朝が答えた。

「ああ、生徒会(裏)投票で『学園最恐』に選出されてる、アノ先輩か」

「そんな投票までしてんだ」

 和紀の知識よりも、投票の項目の方に呆れた声が出た。

「ちなみに、藤原委員長だって女の子ですよ。星を見てロマンチックな気分になったって良いじゃありませんか」

 アイコ先輩が科学部総帥に、ちょっと尖った声をぶつけた。

「にしてもだなあ」

 眉を顰めた声でヤマト先輩。

「藤原が来るということは、あいつらも来るという事じゃないのか?」

「あれ? ヤマトは連中嫌い?」

 意外に感じた声で切り返す科学部総帥。溜息のままの声でヤマト先輩がこたえた。

「いや、嫌いって程じゃないが…。あれらが現れると、必ず大事件が起きるだろ」

「では、我が校の図書室は、魔物の巣窟だな」

「似たようなモンじゃん」

 ただでさえ世間一般からの評価では、変人が多いという清隆学園にあって、今年の図書室常連ほど『変態』揃いはなかった。

「よりによって、あの連中の筆頭だろ」

「まさかそれは、あたしン事を言っているンじゃないだろうねえ」

 突然暗幕が開かれると、丸い人影が逆光で現れた。その巨大な人影をあっけに取られたように見つめる一同。胴回りもさることながら、身長の方もだいぶ大きく、まるで相撲取りのようだ。

 そんな巨体から発せられたにしては涼やかな声だったので、目を点にしていると、その人影へ拳をめり込ませて道を空けさせ、小柄な人物が屋上に現れた。

「や、やあ藤原さん」

 先程は呼び捨てだったヤマト先輩は、一転して気持ち悪いほどの猫なで声になっていた。しかも、こころなしか腰が引けているようだ。

 この小柄な人影が、高等部図書委員会をそのカリスマ性と剛腕を持って切り回す藤原(ふじわら)由美子(ゆみこ)委員長その人なのであった。

 特に目立つ特徴を持つ女子生徒ではない。どちらかと言えば器量よし。声のトーンも若々しく耳障りもいい。ただ言うことを聞かない図書室常連たちを、その『拳』をもって制裁することから、図書室常連たちからは恐れられていた。

 その話しに尾鰭がついているうち、学園内にその名前が響き渡ってしまったのだ。

 別名『ワンマンアーミー』『ミス清隆に勝った女』そして『拳の魔王』。もちろん天文部にもその剛名は届いていた。

 なにしろ天文部が部室として利用している地学講義室は、図書室の向かいにあるのだ。

「いっぱんせいとのさんかも、もちろんだいかんげいさ」

「ヤマト。セリフが平仮名になってます」

 大歓迎とはとても言えない口調で委員長を出迎えたヤマト先輩へ、小声のつもりでアイコ先輩が忠告した。だが様子を見ていた者全員の耳に届いてしまっていては、気遣いが台無しであった。

「あなたも大変ねぇ」

 腕組みをした委員長はアイコ先輩に声をかけた。

「いえ、部長がこんなですから、私がしっかりしないと」

 その時だった。

「おや?」

 運動神経が良いからであろうか、他の感覚も鋭い五郎八が、誰よりも先に気がついた。

「?」

 どこかの何かしらが、カタカタと小さな音を立て始めた。

「こ、これは…」

 カメラを首から提げたままの直巳も、あたりを見まわした。

「地震ですね」

 愛姫は、銃を腰のホルスターへ戻しながら、周辺を確認した。

「震度二ぐらいか?」

 和紀が揺れ始めた屋上の照明を見上げた。電源を落としてあるポールの上の丸い水銀灯が、振動にあわせて動き始めていた。

「大きいのかな?」

 誰ともなく舞朝がつぶやいたとたんに、大きな揺れがやって来た。

 本震がやってくると、色んな事が同時に起きた。

 地下鉄が通過するような地響きが聴覚を圧倒した。一般参加の女子生徒たちが悲鳴を上げた。周りの大騒ぎで叶が上体を起こした。愛姫がどさくさにまぎれて舞朝の胴に抱きついた。天体撮影のために、三脚にセットされていた屈折式望遠鏡が、叶の方へ倒れかかった。揺れにあわせて和紀は歩を進め、三脚を押さえ込んで叶を守った。同じように舞朝は、叶を守るために駆け出そうとしたが、愛姫が抱きついていたため、途中までしか行けなかった。なにかが壊れる音がした。体型の丸い男子がドリフの真似をした。角に立っていた五郎八を投身自殺させる勢いで手すりが揺れた。五郎八は足首を手すりに引っかけて、そのまま横棒に足を絡みつかせて自身の転落を防いだ。揺れの周期にうまく乗れなかった直巳は、無様に転がった。長い銀髪をした女子生徒が舞朝の肩にぶつかった。中等部の後輩たちが、半ベソで一つに固まった。アイコ先輩がヤマト先輩に抱きついた。建物が揺すられて悲鳴のような軋み音を立てた。ペントハウスの暗幕が半分外れた。顔を赤くしたヤマト先輩が、器材の確保を命令した。望遠鏡を覗いていた卒業生が、倒してレンズを割らないように鏡筒に抱きついた。科学部総帥は現在時刻を確認しようとした。委員長は地震程度ぐらいでは動揺しなかった。

 そしてみんなが口々に色んな言葉を、揺れの騒音の中で好き放題に発した。

「キャー」「えっち! んなとこに触んな」「器材を守れ!」「うおっとと」「不覚」「あいたた」「…」「マーサさあん、ぎゅううう」「おや、腕時計が止まっているぞ」「なに? なに?」「ふん」「あ、ごめんなさい」「おっと失礼」「慌てるな。こういう時こそ、般若心経を三度唱えるのだ」「ゆれるゆれる、あっちもこっちも」「どこみてんのよ」「あべしっ!」「おかあさん!」「なんまいだぶなんまいだぶ」「南米にある海賊の隠れ家の地下に置かれた宝箱調べた?」「ガチョーン」「ママーっ」「かえって面白くない?」「くおおお」「目で見るんじゃない感じるだ」「いて! あしをふむなあ」「だめだこりゃ」



 だしぬけに静寂が戻ってきた。

 地震は、発生したときの唐突さと同じように治まった。屋上にいた全員が硬直し、動くことを忘れたようだった。揺れている間はあんなに大騒ぎだったのに、全員が声を出すことを忘れていた。

「大丈夫か?」

 ペントハウスの階段を、白い影が駆け上がってきた。

「小石ちゃん」

 ペントハウス内で無機質な光を放つ常夜灯のおかげで、それが天文部顧問だということがすぐにわかった。彼のトレードマークというべき丸眼鏡は慌てて置いてきたのか、その顔に乗っていなかった。

「怪我した者はいないか?」

 小石は教師らしく心配げな声を出した。まだ半分だけ出入り口を塞いでいる暗幕を、力に任せて引きはがした。

 遮断するものが無くなったため、常夜灯の明かりが、夜の屋上にまき散らされた。

「どうだ? 誰か怪我したか?」

 ヤマト先輩が小石の言葉を引き取って、あたりを見まわした。腰を抜かしてしゃがみ込んでしまっている女子はいるが、一見して負傷した者はいないようだ。

「一番ケガしてんのは、小石ちゃんじゃないんですか?」

 舞朝は、小石の額に出来た真新しいコブを指差した。

「ああ、これか」

 さっと撫でて小石は、口元の笑みを広げた。

「準備室にいたら、まわりにあった物が雪崩をうって襲ってきてね。アレ?」

 手をコブに当てたことで、顔の違和感に気がついたらしい。小石は、幾分か表情を情け無さそうな物に変化させると、ペタペタと自分の顔を平手で触った。

「眼鏡を落としてしまった」

 とても情けない声でつぶやいた。

「怪我人もいないようだし、とりあえず部室に戻ろうか。夕飯の予定時間でもあるし」

 直巳がシャツやパンツをはたいて、埃を飛ばしながら提案した。彼は転んだ時に、カメラを痛めないよう、体を丸めて受け身を取っていたのだ。

 それが合図だったように、屋上にいた面々は自分の感想や体験を、親しい者たちと語り始めて階段に押し寄せた。

「で」

 なるべく冷静をよそおって、舞朝は愛姫に訊ねた。

「いつまで、くっついてる気だよ」

「…(一分経過)…。きゃあきゃあきゃあ、地震恐いです、マーサさあん」

 指摘されて、改めて腰に抱きつく力を強める愛姫だった。確信犯に間違いなかった。しかも舞朝の腹部にまわされた両手が、感触を楽しむかのように動きながら、段々と胸の膨らみに、にじり寄っていた。

 そんな愛姫の下心なんてものは充分承知している舞朝は、背中にうずめてくる愛姫の顔を、両手で突っ張って引きはがした。

 その場に、不届きな変態を捨てるようにして離れることにする。他の人について階段へ行こうとしたところで、その流れに逆らうような点があることに気がついた。

 周囲の雑談も、人の気配も気にならない様子で、叶が腕を上げたポーズのままで、固まっていた。

 地震の揺れの本格的になった時に取ったポーズである。

 凍り付いたように動かないので、人込みは岩にあたる川の流れのように二つに分かれ、そしてすぐに合流している。

 叶の表情は、なにか悩み事があるような険しい表情で、目は閉じられていた。

「ナナ。大丈夫?」

 舞朝が声をかけると、他人の視線を嫌う叶らしくなく、シーツを引き上げないまま、残念そうに目線を向けた。

「電波が途切れてしまった」

「はい?」

「たしかに、山吹色をした電波だった…」

「???」

 何を考えているかまったく掴めない瞳に見つめられ、舞朝があっけにとられて首を傾げていると、横から首を突っ込んできた和紀が、二人の表情を見比べた。

「なんの話しよ?」

「あたしに聞かないで」

 叶が傷つかないように、柔らかい言葉遣いに注意しながら舞朝は和紀に言い返した。

「えーと」

 和紀は、自分が叶へ質問してもろくな答えが返ってこないことを、悟っているのか言い淀んだ。

 気まずげに和紀の視線が泳いだ。

 叶を見ようとして思い直し、舞朝へと視線が戻ってくる。そしてそのまま彼の視線は、舞朝を通り過ぎて、遥か向こうへと焦点をあわせた。

 和紀の目が大きく見開かれた。

「たいへんだ」

「?」

 駆け出す和紀にあわせて振り返ると、その先には手すりから逆さまにぶる下がった状態の五郎八がいた。

 手すりへ片足だけで立っていたという、とても不安定な体勢で、地震の瞬間を迎えてしまった彼女である。どうやらそれで手すりから落ちかけたが、何とかそこへぶる下がることに成功した模様である。

 しかし揺れがおさまっても、通常の体勢に復帰できないようで、右足の足首だけで、手すりに引っかかっていた。

 サーカスの曲芸のような身の軽さではあるが、このままではいずれ落ちてしまうかもしれない。

 ここは高等部C棟の屋上である。二階建てで、しかもこの下には、緑地との間にコンクリートが張られていた。もちろんそんな所へ頭から落ちたら、軽いケガで済むわけがなかった。

「あわわ」

 和紀が五郎八の足にしがみついたことで、事態の深刻さにやっと気付き、他の一年生も慌てて駆けつけた。

「すまぬが、引き上げてくれるか」

 竹箒を持った両手は頭の向こう側、つまり一番下になっていた。あれだけの体術を持っている五郎八なのだから、竹箒を一時落として両手の自由を確保すれば簡単に戻れるはずなのに、そうしていなかった。

「とりあえず、箒はお捨てになったら」

 和紀とは反対の足を掴んだ舞朝の、さらにその腰に抱きついた愛姫もその点を指摘した。

「ホウキを放棄」

 和紀側から手を伸ばして、袴の前紐を掴んだ叶がボソリと言った。

「ありゃ、ナナが冗談を言ったぞ」

「否。刀は武士の魂であるゆえ」

「って、箒じゃんかよ」

 手放そうとしないばかりか、魂扱いであった。

「意外に重いな」

「失敬な」

「質量保存の法則」

「なんのはなしだよ」

「言われて怒るなら、最初から落ちないようにしようね」



「で?」

 和紀は目を平たくして隣の舞朝にきいた。

「これを、どうしろと?」

「片付けなきゃ、ね」

 半ば茫然と、二人は地学準備室の前で立ちすくんでいた。

「しらんぷりは?」

 一応選択できそうな対応を、和紀は口にした。

「むりだろうな」

 舞朝は諦めた口調だった。

 たしかに地学準備室は、原則的に教職員が管轄する範囲であり、清掃なども基本的には教師自身の手で行うことになっていた。

 なぜなら各生徒の個人情報たる成績や、授業関係の物など、あまり生徒に見せたくない書類が存在するからだ。

  また、一般生徒が扱うには高価すぎると考えられた実験道具なども、こちらで保管されているというのが、その理由であった。

 そしていま、廊下から室内を眺める二人の前には、カオスそのものがあった。

「あは、は、は」

 その天と地が入れ替わったような中で、小石がやっと発掘に成功した丸眼鏡をかけて、乾いた笑いを発していた。

 理由は単純である。いつも山のように書類や本などを積み上げている小石の悪習慣が、先程の地震で破局(カタストロフ)を引き起こしたのだ。

 もちろん小石が、普段からまめに片付けていれば起きなかった事態である。管轄云々を持ち出さずとも、片付けを手伝わないからと言って非難されるいわれはないはずだ。

 だが今夜に限り、二人の事情が、それを許しそうもなかった。

 入口に立つ舞朝と和紀の手には、それぞれ白い物体が握られていた。

 何のことはない、下校時刻まで開いていた購買部で買っておいたカップメンであった。地球上どころか、近年では宇宙ステーションで食されることもあるという、ごく一般的な軽食である。

 観測会は夜に行われるから、学食が開いているわけがない。そのため、各自食料を持参して夜の空腹に備えていた。その中で二人が選んだのが、このお手軽な食料だった。

 国境も気候も、民族の壁すら関係ない。砂漠でも凍る極地でも三分程待つだけで、チープな味と、とりあえずの満腹感が感じられる、日本の偉大な発明品の一つだった。

 そう国境も気候も、民族すら関係ないが、ただ一点忘れてはいけないことがあった。

「おゆ…」

 舞朝は脱力した声を唇から漏らした。

 校内は基本火気厳禁である。そんな中でお湯を得ようとしたら購買部か、教職員のための給湯設備しかなかった。各教科準備室には、電気式の給湯機が備えられていて、教職員がお茶などに利用できるようになっていた。

 放課後どころか夜間の現在は、他の教職員が帰宅しているはずだ。その中で使える給湯機といえば、地学準備室のものだけであった。

「まず、辿り着けないな」

 おそらく大惨事発生前は、それなりに机の上へ積み上げられてあったと思われる茶封筒の山は、見事に床に散らばっていた。

「あー」

 少し凍り付いた時間をほぐすかのように、二人の後ろから声がした。

 聞き慣れていない声なので振り返ると、そこに腕組みをした図書委員会委員長が立っていた。

「こりゃ片付けないと、足の踏み場がないわ」

「いや、ほら…」

 小石はそれでも、原則を守ろうとしたのか、両手を振って否定の意思を示した。

「センセ、明日も授業あるンでしょ」

「いや、授業はないけど…」

 言葉だけで押しとどめようとする小石の意向をまるっきり無視して、委員長は、そのまま遠慮せずにズカズカと分け入っていった。二人が、その小柄ながらも(主婦的な)逞しさを感じさせる背中を見送っていると、彼女は半分だけ振り返った。

「おら、一年も手伝う!」

「は、はい」

 その有名な剛腕ぶりは、命令し慣れている口調に発揮されていた。

「センセ、こりゃダメです」

 委員長は一言で切り捨てた。

「な、なにがだい?」

 少々、小動物的な行動が見られる小石が、何故だか卓上に置いてあったアヒルちゃんの人形を抱きしめて聞きかえした。完全に気を呑まれた声だった。

「床に立つことができない」

 委員長は自分の足元を指差した。彼女の上履きで包まれた足は、遠慮無く何かの書類が入っているはずの封筒を、踏みつけていた。

「あ~」

 どうやら抗議の言葉を発しようとした小石を、手で制して委員長は廊下を指差した。

「あたしらが順に廊下へ運び出しますから、センセは外で分類整理してください」

 生徒が先生に命令していた。だが、この場合は整頓の能力が高そうな委員長の方が正しそうであった。

「う、じゃあ、よろしく」

 アヒルちゃんを抱えたまま、なるべく書類を踏まないように扉へ向かう小石。すれ違う瞬間に、委員長は彼に訊いた。

「なンか、やばいもンは混ざってます?」

「とりあえず…」

 小石の細く切れ上がった目が、スチール製の机に一番近い、事務キャビネットの下段を見た。

「見られてマズいものは、鍵がかかるところに入れてあるから」

「そうですか、よおし」

 手加減なしという意味だろうか、委員長は半袖のブラウスなのに、腕まくりをするような動作をしてみせた。

「そこの一年男子」

「オレ?」

 和紀が毒気を抜かれた顔で、自分を指差した。

「他の一年も呼んでくる」

「へえい」

「あたしは?」

 舞朝が訊くと、委員長は手近な封筒の束を差し出した。

「はい、センセに届けて」

「は、はい」

 再度確認するが、地学準備室は細長い構造をしていた。その短辺の一方が廊下への出入口となっており、もう一方の壁に設けられた窓からは、テニスコートが一望できた。

 長辺にあたる両脇には、地学講義室へ直接入れる扉部分を除いて、すべて鉄製のキャビネットが設けられていた。その中には、授業で使用する鉱物資料や、望遠鏡の部品などが入れてあった。

 キャビネットは地震対策として壁に固定されていた。そのおかげで、ずれたり倒れたり、大きなトラブルは発生していなかった。だが、問題はそのキャビネットの大きさだった。地学準備室の細長い空間に設置するには、巨大すぎるのだ。

 窓際にかろうじて空間が残されて、応接セットと事務机が置いてあるぐらいで、残りは何とか一人分の通路が確保されているだけである。

 そのため書類を抱えた人物が、他の誰かとすれ違う余裕が、室内にはまったく無いと言っていいだろう。

 和紀がみんなを呼んできたが、委員長が次々と渡す書類を運ぶことは難渋しそうであった。必然的に一年生は一列に並ぶと、バケツリレーの要領を用いて、廊下で待つ小石へ書類を送ることになった。

 委員長は手当たり次第に書類を拾い上げている印象であったが、列の最後で小石に書類を渡す役目になった舞朝が見ていると、山ごとにちゃんと分類されているようだ。

 小石は手にした封筒を、ただ順番に廊下へ積んでいくだけで、とくに再分類をしている様子はなかった。

 一時間もせずに運ぶものが無くなった。

「こンなもンでいいですか」

 室内から委員長の声がかかり、小石は舞朝の頭越しに室内を覗いた。

 先程、誰が見ても茫然とするほどだった場所に、床が出現していた。

「戻すのも手伝います?」

 長めの髪を揺らして委員長が小首を傾げると、小石は笑顔の質を変えながら両手を振った。

「いや、さすがに収めるのは自分でやらないと、どこに何を置いたか分かんなくなっちゃうよ」

「そうですか?」

 仁王立ちに準備室の真ん中に立つ委員長が、ちょっと不満そうに鼻を鳴らした。どうやら乗りかかった舟とばかりに、最後までやり遂げたかったようだ。

「いやあ」

 ニコニコと後頭部を掻きながら小石は言った。

「みんなに助けられちゃったなあ。こんど埋め合わせをするよ」

「そうですか」

 委員長は、ざっとスカートの埃をはたいた。

「ま、一年どもも、ご苦労。さすがに九人がかりだと早いわね」

 手についた埃をはたきながら委員長退場。彼女へ道を譲りながら、とりあえず廊下に置いておいた二つのカップメンを拾い上げ、舞朝は和紀の横へ行った。

「九人?」

 和紀は首を捻っていた。

「どうした?」

「いや、ええと」

 自分のカップメンを受け取ることも忘れて、和紀は指折り数えた。

「オレだろ、マーサだろ、ナオミちゃんにアキ。ナナにイロハ。委員長に小石ちゃん…。アレ?」

「単純に数え間違いだろ。はやくしないと食べはぐれるぞ」

「お、おお」



 見慣れた子供部屋に、ペタンと女の子が座っていた。

 やっと小学校に上がったような、小さな女の子。

 姿形は、あの頃の自分にそっくり。まるで、そこに鏡が置いてあるようだ。

 でも、その女の子は、舞朝のように長い髪を三つ編みに編んでいなかった。同じだけの量を、背中にただ流しているだけ。

 鏡像でないことはすぐに分かった。自分が床に両手をついているのに対し、その女の子は一人アヤトリをしているからだ。

 桃色の毛糸を輪にしただけの、お気に入りだった物。それが、きれいな形に変化した。

「チョウチョ」

 できた形を舞朝に見せるために広げた。

舞夕(まあゆ)?」

「なあに? おねえちゃん」

 ただ呼ばれたことが不思議らしく、彼女と同じ顔を持つ妹は、チョウチョの向こうで小首を傾げて見せた。

 改めて舞朝は室内を見回した。

 今では狭く小さく感じる、自分の部屋で間違いなかった。

 母が「女の子は身だしなみが大事なのよ」と言って、業者に特注して取り付けた、壁面の大鏡もそのままだった。

 その中で床に座って向き合う、同じ顔の少女が一組いた。

 もちろん自分たち姉妹だ。

 小学校の時にお気に入りで「ふわふわドレス」と呼んでいた、お揃いのシフォンのワンピースを着ていた。

「おねえちゃんも、やる?」

 苦労して編み上げた形を、惜しみなく崩して、妹の舞夕が訊いてきた。

「あたし、あまり上手じゃないもの」

 自分が妹と比べて不器用な事に自覚があった。

「でも、これぐらいはできるでしょ」

 妹が作ったのは川。これならば取るのが簡単である。

 差し出されたアヤトリを、断ることができずに手を伸ばす。小指を中の糸に引っ掛けて、外側の糸には広げた人差し指と親指をくぐらせる。

「アカちゃん、女の子かなあ」

 たったそれだけなのに苦労している舞朝に、妹が訊いた。

 そうだ、妹が元気ということは、弟はまだ生まれていないのだ。

 舞朝は、自分に未来の記憶があることから、これが夢だと気が付いた。

「おねえちゃんは、どっちがイイ?」

 母のお腹が目立つようになってから、姉妹の会話はいつもこの話題になっていた。

「わたしは、女の子がいいな」

 両手のアヤトリを崩さないようにしながら、舞夕は夢を見る顔になっていた。

「だって男の子なんて、ソーゾーできないんだもん」

「あたしは男でもいいかな」

「えー」

 口を尖らせて舞夕が軽く睨んできた。

「だって、妹ならマーユがいるもの」

 姉の告白に、妹はしばらく目を丸くしていた。

「マーユがいるから、妹はもうほかにいらなーい」

「おねえちゃん」

 うれしさに目を細めて舞夕は言った。

「いつもいっしょだからね」

 その途端、不器用な指がアヤトリを取り損なって、糸は形を失った。

「あっ」



 どこか遠くで小鳥がさえずる声がした。

 自分が布団の温もりに包まれている事を自覚した舞朝は、朝が来たことを知った。

(久しぶりに顔を見たな)

 瞼の裏に妹の姿が浮かんでこないか、しばらくそのままでいた。

 しかし願いは叶えられず、どこか遠くから聞こえてくる朝の喧騒が耳に心地よいだけだった。

 諦めた舞朝は、起きることにした。

 目を開くと、猿轡を噛まされた愛姫が、ドアップでそこにいた。

「えーっと」

「もぐもぐもぐー」

 制服姿のまま、猿轡だけでなく両手両足を縛られた愛姫が、舞朝の隣に転がされていた。

(確か昨夜は、天文部の観測会があって…)

 観測会は深夜過ぎに切り上げて、部員はみんな仮眠に入ったはずである。

 男子は部室である地学講義室で、女子は隣の視聴覚室を借りた。

「さてっと」

 床に体操マットを敷いて、上掛けはずっと前の先輩が部費で購入した毛布であった。

 舞朝は上体を起こし、朝日が差し込む窓を向いて大きなアクビをした。

 窓を塞ぐ暗幕は、常夜灯の明かりを防ぐために借りたまま、窓際に畳んである。あとでカーテンレールに戻さなければならない。

「もう朝か」

「おはよう」

 声に振り返れば、シーツを体に巻き付けた叶がいた。

「おはよう、ナナ。イロハはどうなったかわかる?」

 舞朝の質問に、ちょっと首を傾げた仕草でこたえる叶。

 夏の課題が終わっていない五郎八は、男子がゴロ寝しているはずの地学講義室で、決戦という名の最後の追い込みにかかっていたはずである。

「見てこないと、わかんないか」

 枕元に出しておいた洗顔セットへ手を伸ばし、舞朝は独り言のようにつぶやいた。それにこたえるように、叶がうなずいた。

「?」

 まだ、何か言いたそうな雰囲気を相手に感じ取った舞朝は、水を向けることにした。

「どうかしたか?」

「未知なる凍てつく荒野に魅かれてはいけない」

「は?」

「そこは忘れられた山脈」

「…」

「えーっと、椎名さん?」

 話が分からずに目を白黒させていると、改めて夢から覚めたような表情を取った叶は、舞朝の顔を見た。

「おはよう」

「う、うん。おはよう」

「一つ、例え話をしてあげる」

「はあ」

 話が分からないまま舞朝がうなずくと、叶は人差し指を立てて話し始めた。


 私の知り合い…、そう仮名を池田という者が、亡くなった叔父から聞いた『遭難した船員のAさん』という話。

 昭和四〇年代には、日本では太平洋の真ん中で行う、底引き網漁が盛んだった。

 しかし底引き網だと、魚でも鯨でも人でもないモノまでも、光の届かない海底から何でも絡めとってしまう。そういったモノを引き上げてしまった時は『わだつみさん』と呼んで、お神酒を飲ませて海へ返さなければいけないらしい。

 その叔父さんが知り合った船員のAさんも、そんな大型漁船の乗組員だった。

 ある航海の日、当番から外れていたAさんが仮眠をしていると、『わだつみさん』が上がったという。

 見てみようと甲板に上がってみたが、そこにある網の中には魚しかいない。

 どうしたのかと訊くと、甲板員の一人が教えてくれた。

『船長が中に連れて行った』と。

 そう、持って行ったのではなく、連れて行ったと…。

 その夜、海は大いに荒れた。豊漁で喫水の下がっていた漁船は波を被り、たまらず転覆してしまった。

 救難信号を発信することはできたが、大海原のド真ん中である。Aさんは救命ボートに乗り込むことができたが、他に乗れた船員はいなかった。

 だが救命ボートに乗れたからと言って、安心はできない。誰か助けに来るかは運任せである。

 そしてAさんは奇跡的に救助された。最後には食料どころか水もない状態だったが、救いの手は間に合ったのだ。

 すぐに病院に収容され、一月ほど入院することになった。

 同じ船に乗っていた者は、誰も見つからなかった。

 Aさんは、たいそう落ち込んだ。

 それを知った五人ほどの友人たちは、彼を励まそうと、ある計画を思いついた。

 生還できたお祝いのパーティを開こうというのである。

 小さな漁師村の出身だったから、会場もたいした所ではなく、幹事役を務める友人の部屋である。

 缶ビールをケースで買い込んだ。料理は、それぞれが具材を持ち寄った土鍋である。それだけでは寂しいだろうと、ヤキトリ屋を営む者が、売れ残りの幾つかも持ってきた。

 せまい部屋にひしめき合って、昔の話で盛り上がった一同。

 酔いも手伝って、一人、また一人と横になった。

 目が覚めたのは、翌日のお昼過ぎ。さすがに喉の渇きと、空腹を感じたAさんは、卓上コンロに乗せられたままになっていた土鍋に手をのばした。

 そして蓋を取って絶叫した。

『ナベの中にネギ身が…』

 誰かが、酔ったはずみで入れてしまったのだろう。よりにもよってタレであった。

 しかし、それよりも恐ろしいことが。

 一晩たった鍋の中では、汁を吸ってふやけた…。

『ああ! マ□ニー! マ□ニー!』」


「…」

 しばし視聴覚室に沈黙が落ちた。

 ジト目の舞朝が、いまだ無表情の叶を見つめ続けるという構図である。

「もしかして、笑わそうとしてるのか?」

「…」

 舞朝の疑問に、沈黙で返す叶。

「マーサ先輩、おはようございます」

 その微妙な空気を打ち破って、視聴覚室の扉が開かれた。

 視線を移すと、中学生のグループだ。中等部の天文部に所属する彼女たちも、昨夜はここで仮眠したのだ。

 寝るときに学校指定のジャージに着替えていた彼女たちの手には、歯ブラシやタオルがあった。

 おそらく女子トイレで顔を洗ってきたのだろう。

「あ、おはよう。アイコ先輩は?」

「もう学食の方へ行っちゃいましたよ…」

 と報告しつつ、中学生たちの顔が変化した。下卑た笑いを浮かべた口元を、手で隠すようにしながら続けた。

「…ヤマト先輩と一緒に」

 朝食を食べない若者が増えたという統計と、朝食を食べない生徒の学力は平均より劣るという統計があって、その対策として清隆学園高等部の学食では、モーニングメニューの営業をやっていた。

 といっても立派な物が用意されているわけではない。トーストにサラダ、あと目玉焼き程度である。和食派の人間は、学生寮の方の朝食にお邪魔するという裏技で、白飯にありつけることができる。

「そっか。じゃあ、あたしらも急がないとな」

 と、そこまでBGMのようにもがいていた愛姫の呻き声が止んだ。チラリと視線をやると、せっかくの猿轡を叶が外しているところだった。

「ひ、酷いじゃないですかマーサさん。わたくしを無視するなんて」

「いや、雑な扱いを受けたくなかったら、少しは自分の行動を見直せよ」

 舞朝の指摘に、三秒間だけ愛姫は黙った。

「何か問題がありましたでしょうか?」

 昨夜、寝こみの舞朝を襲おうとした女が、問題点なんかまるでなかったという顔で言い切った。

「そんなだから、アイコ先輩にスマキにされるんだろーが」

 もう相手していられないとばかりに、舞朝は洗顔セットを手に立ち上がった。

 叶も付き合うつもりなのか、自分の洗顔セットの方へ移動した。

「それでですね、じつは…」

 愛姫はちょっと照れたような顔をしてみせた。

「じつは、のっぴきならない事情が発生いたしまして。一刻も早くこの戒めを解いていただきたいと」

 両手足が使えない状態で、モジモジと動き始めた。それを顔色一つ変えずに見おろしていた舞朝は、普段通りの声で言った。

「あ、ナナ。準備できた? じゃあ顔、洗いに行こっか」

「こ、こんな焦らしプレイは、わたくしの趣味ではありま…、あ! マーサさあん! 行かないでください。本当に緊急事態で、切羽迫って! あっ、ああ~!」



 気が付くと、舞朝はみすぼらしい段ボールを、見おろしていた。

 場所には、見覚えがあった。

 今では再開発されて、高層オフィスが立った場所である。

 元は、地方へ移転した工場の社宅があり、小学生当時は廃墟となっていた場所であった。

 ここは結構広い範囲で、仮設の壁が設けられていた。浮浪者などが簡単には侵入できないようにするためであろう。

 しかしそこは、小学校の学区の真ん中に位置する場所だった。そのため小学生たちは、毎朝敷地に沿って遠回りしなければならなかった。

 無人の建物が並ぶ敷地である。児童たちを狙う変質者が隠れているかもしれない。よって小学校からの指導で、この場所への侵入は固く禁止されていた。

 だが、遠回りしなければならないことを嫌がった小学生たちは、周囲を塞ぐ壁の隙間を見つけ、近道として利用していた。

 団地を引き上げるときに、かつての住人が捨てて行って、回収されなかった複数の家電。その間に、その段ボールが置いてあった。

 隣には同じ顔をした妹が、目をキラキラさせていた。舞朝と同じ段ボールを見おろしていたようだ。

「かわいいね」

 舞夕が、段ボールの中を覗いて微笑みを強くした。

「うん、かわいいね」

 舞朝も同意した。

 段ボールの中には、汚れたタオルが敷き詰められていた。そこに、茶色の塊がある。

 不思議な物体なんかではない。その茶色の塊は、小さな犬であった。雑種のようだが、愛嬌たっぷりな瞳を二人に向けていた。

「すて犬かなあ」

「かもね」

 二人が見つけたのは先週の金曜日であった。下校途中に近道として利用した時だった。それから毎日様子を見に来たが、同じ位置から動いていなかった。

「なんだあ、子犬じゃん」

 突然、後ろから声をかけられて、舞朝は慌てて振り返った。

 後ろに、自分が所属する少年野球チームの帽子を被った少年が立っていた。

 日焼けした健康そうな肌に、ヤンチャ坊主のトレードマークのように、鼻の頭に絆創膏を貼っていた。背も同じくらいの高さなのは、舞朝の記憶の通りであった。

 少年は、小学生時代の和紀であった。

「なんだ、カズキか」

 二人が近道として利用している道を、小学生時代の和紀が通るのも不思議ではなかった。当時、両家は敷地を壁一枚で隔てるだけのお隣さんだったからだ。行く場所も同じならば、帰る場所もほぼ同じ。舞朝たちに近道ならば、和紀にとっても近道のはずだ。

「二人で、きゅうしょくをなかよくのこすから、なにかとおもったら」

「い、いいじゃん」

 秘密を知られたせいで、少し頬を染めた舞夕がそっぽを向いた。

「なに? すて犬? こんなとこに?」

 確かに、公式には誰も通らないはずの敷地である。

「たぶん、いえにもどってこないように、じゃないかな」

 舞朝が、この子犬に会ってから考えていたことを口にした。

 捨て犬が臭いを辿って、元の家に帰ってきてしまうことがあるということを、舞朝は知識として知っていた。

「こんなに、かわいいのにね」

 給食に出たコッペパンをランドセルに忍ばしてきた。それをちぎってやりながら、舞夕が悲しそうに呟いた。子犬は差し出されたパンの匂いを嗅ぐだけで、口にしようとしなかった。

「かわいいからって、かえるもんか?」

 膝に両手をついて屈んだ和紀が、意地悪なことを言った。

「ウチは、かあちゃんが犬ギライだから、せったいダメだし。オマイんトコは?」

「うちは…」

 そう言われて姉妹は顔を見合わせた。

「マイケルさんが…」

 マイケルは、二人の母が大事にしている猫である。二人が赤ん坊だった頃には、もう大人になっていたというペルシアンだ。猫で六歳も年を取ったら、もう老齢と言っていいが、元気一杯で食欲旺盛(食い意地が悪いとも言う)であった。

 そのせいで小学生の二人では、ダッコできないぐらいの大きさにまで(腹が)成長していた。

 このマイケルが、犬を受け付けないのだ。以前、親戚の家が海外旅行することになって、一週間だけ座敷犬を預かったことがあった。その一週間は「火の七日間」として弓原家の歴史に刻まれることになった。

「外でかうのは、ナシな」

 二人の思考を先読みしたのか、慌てて和紀が両腕を使ってバツを作った。

「かあちゃんが犬ギライだって言ったろ。舞朝(マー)舞夕(ボー)んチのにわで、そいつがほえてみろ。かあちゃんがホウキかかえてどなりこみに行くから」

 和紀の話しは例えではない。実際に、弓原家とは反対側の隣家へ突撃した実績があるのだ。

 その家で飼っていたレトリバーはムダ吠えが多く、近所の住民すべてが迷惑を被っていた。和紀の母が、その声にたまりかねて怒鳴り込んだのは、ここらでは有名な武勇伝なのだった。

 裁判沙汰も辞さないと、和紀の母の強固な態度に、相手が折れた。そのレトリバーは、次の飼い主を探すボランテイア団体へと引き取られていった。

 もちろん舞朝もその事件の事は知っていた。

「じゃあ、どうする?」

 探るように舞夕が二人の顔を見た。

 その悲しそうな瞳を見て、舞朝は和紀へ視線をずらした。

 二人の視線を受けた和紀は、そのまま空を見た。

「雨のしんぱいは、なさそうだな」

「カズキ!」

 その他人事すぎる態度に、舞朝の語尾が鋭くなった。

「うへえ」

 怒鳴られた勢いで和紀は首をすくめてから、仕方なさそうに言った。

「ここにいる三人が、かえないんだろ。学校で、ダレかかえるヤツがいないか、きいてみるしかないだろ。おひるのほうそうにでも、たのんでみる?」

「あ、そっかあ」

 舞夕が感心したように目を丸くしてみせた。

「その手があったかあ。カズキてんさい」

「まあね」

「学校でさがすったって、すぐに見つからないかもしれないだろ。そのあいだはどうするんだよ」

 仲良く微笑みあう二人に、冷や水をかけるように訊く舞朝。途端に舞夕の顔が曇り、和紀の視線がまた空へ向いた。

「ほら、青空見えてきたぜ」

 先ほどまで曇っていた空が晴れて、青空が見え始めていた。土曜日、日曜日と雨が続いたのがウソみたいだ。

「かんがえつかないんだ」

「まあ、そんなになやむことないんじゃね?」

 能天気な調子で、和紀は言った。

「天気だってしばらくはダイジョーブのようだし。エサだって、かわりばんこにもってくればいいだろうし。ここでいいじゃん」

 確かに、言われてみればそうかもしれなかった。段ボール箱の右は背の高い冷蔵庫、左は電子レンジやトースターなどが積まれているが安定しているようだ。奥は大型テレビの背面のようである。背の高い物に三方が囲まれて、風雨を寄せ付けないようになっていた。上だって廃材のトタンが、左右の家電の間に差し掛けてあった。これが屋根のかわりぐらいにはなりそうだ。

「そうかな…」

 当時、小学生だった舞朝には、和紀の意見を押しのける程の妙案を持っていなかった。

「それより。コイツ、ぜんぜん食べてないじゃん」

 子犬は、舞夕の差し出すパンに、口をつけようとはしていなかった。先ほどと同じように、匂いを嗅ぐだけである。

「やっぱりニクショクジューには、肉だろ」

「肉って言ったって」

 舞朝は、母に買い物へ行かされる近所の肉屋を、思い浮かべた。その次に、自分の貯金箱へ思いが廻った。

「たしかレイゾウコに、ソーセージがあったはず」

 いつものイタズラ坊主の表情になった和紀は、魅力のある笑顔を作った。

「もってきちゃおうぜ」

「い、いいのかよ」

 先に立って歩き出した和紀を、慌てて追いかけながら舞朝が訊いた。

「ダイジョーブだよ。ウチのかあちゃん『最近、物覚えが悪くなって、やーねー』なんていってたから。もち出すところさえ見つからなきゃ」

 母親の声真似なんかして、余裕の態度を見せる和紀。

「まってよー」

 残りのコッペパンを、すべて食べやすい大きさにちぎっていた舞夕が、慌てて追いついてきた。

「オマイらもランドセルおいてこいよ。すぐにもってくんからさ」

 廃墟を囲う壁は、学校側では一枚が外れて傾き、小学生の小柄な体でも潜り抜けなければならなかったが、家側は工事現場で見られるような仮設の門となっていた。

 もちろん両開きの門には真ん中に南京錠がかけてあった。しかし頭隠して尻隠さずという諺ではないが、片方の壁との取り付けが外れてしまっていた。

 大人にさえ目撃されなければ、そこを堂々と通り抜けることができた。

 三人は、通りの様子を確認した。

 運の悪いことに、大人が一人こちらへやって来るのが目に入った。

「げ」

 慌てて和紀が首を引っ込めた。

「キバヤシさんだ」

 キバヤシさんは、朝の登校時に車通りのある交差点で、いつもボランテアで交通整理をしている、お爺さんである。

 とても痩せていて、腰も曲がってもいない元気のいいお爺さんなのだ。小学生たちには「口うるさいジジイ」として認識されている人物であった。

 もちろんボランテアに参加するぐらいだから、小学生がここへ入ることを、学校が禁止していることを知っていた。入りこんでいるのを見かけたら、捕まえて保護者へ引き渡すことぐらいはするだろう。

「かくれろ」

 先に、和紀が近くの茂みに身を潜めた。二人もそれに倣うことにした。

「ダメだよ。ランドセル」

 和紀の指摘で気が付いた。彼は黒いランドセルなので、こうして身を潜めるだけでも目立たないが、舞朝は明るい桃色、舞夕は緋色である。緑に溶け込むことが無い色だ。

 どうしようかと顔を見合わせる二人の前で、和紀が自分のランドセルを外して、前に抱えた。同じことをやれという意味だ。

 舞夕が習って、舞朝もそれに続こうと、肩を抜いた時だった。

「…!」

 どこか遠くで悲鳴のようなものが聞こえた。

「?」

 舞朝は来た道を振り返った。二人は、キバヤシさんに気が行っていて、気づいていないようだ。

「ギャン」

 次に聞こえたときには、明らかに犬が上げる悲鳴だと分かった。

「どうした? マーサ」

 ランドセルを隠さずに、呆然としているように見える舞朝を、和紀が訝しむように見た。

 舞朝の胸に、黒い雲が広がっていった。不安は高まり、もう一度同じ悲鳴が聞こえたときには、居ても立ってもいられなかった。

 舞朝は、ランドセルを放り出すと、一目散に走り出した。後ろで和紀が声を上げていたようが、内容は耳に入らなかった。

 それからすぐに、キバヤシさんと思われる大人の怒号も聞こえた気がしたが、もう舞朝には気にする余裕はなかった。

 段ボールが置いてある、廃棄された家電の山までとって返した。

 すると、段ボールから離れた位置に、同じ小学校の上級生が三人ほどいた。駆けつけながら、何をしているのだろうと見ると、拾い上げた石を段ボールへ投げつけているようだ。

 そしてまた悲鳴が上がった。

「やめろ!」

 舞朝は段ボールに駆け寄ると、その中で丸くなっている物に覆いかぶさるようにした。

 毛布ごと抱き上げると、小さな塊は細かく震えていた。ただでさえ汚れていた毛布に、新しい赤色のシミが増えていた。

「なんだ? お前」

 わざと荒らしたような声がかけられた。

 肩越しに振り返ると、真ん中に立つ六年生が発したようだ。他の二人も見覚えがあった。校内では乱暴者で通っているグループであった。

「オレたちの秘密基地に入るなよ」

 その一言で、この場所に住環境が整えられていたことが察せられた。犬を捨てた人物は、それを知らずに、ここへ段ボールを置いたのだろう。この週末は悪天候だったせいで、秘密基地にこのグループは集まらなかったのだろう。

「はあ? オマエか? 勝手に、オレたちの秘密基地を犬小屋にしたのは?」

「ふざけんな」

「ばかか!」

 三人の内の誰かが、持っていた石を投げてきた。それはまだ放り投げるといった感じで、直線的な軌道でなく、放物線を描いていた。

「いたっ」

 故意か偶然かは分からなかったが、それは舞朝の肩口に当たった。

「そいつをかばうんだったら、オマエも同じだあ」

 三人から石つぶてが投げられる。背中のあちこちに当たるそれらが、段々と痛みを増していた。

「やめて!」

 同じ声に、もう一回振り返った。三人との間に、両手を広げた背姿があった。

「マーユ」

 助けに来た妹であった。が、舞朝は、彼女の身の方が心配になった。

(あたしと同じで、石を投げられたら大変)

「マーユ!」

 逃げてほしいという意味で呼びかけた。すると、彼女は半分だけこちらに振り返った。

「おねえちゃんは、わたしがまもる」

「なんだ、おめえら」

「同じか?」

「兄弟なのか?」

 まだ石を手にしている三人の目が凶悪になった。

(ああ、マーユまでケガをしちゃう)

 そう舞朝が思った時だった。

「てめえら! くぁあらあ!」

 奇声を上げて突風が吹きこんできた。野球帽を勢いよく飛ばした和紀だ。

(来てくれた)

 舞朝は、和紀の声に安心感を得ていた。

(そうだった。この時から、あたしは…)

 和紀は体格差も考えずに六年生へ突撃していた。そのまま当たるのを幸いに、拳を振り回した。

「いてえ」

「こいつ」

「やっちまえ」

 もちろん三対一では勝負にならない。しかし援軍はすぐに現れた。

「こらあ!」

 その場にいる全員が肝を冷やすほどの大音声が響いた。

「ケンカしちゃあかん!」

 門のところで見かけたキバヤシさんだ。舞朝の後ろ姿が見られたのか、それとも後を追って来た二人が見られたのか分からないが、小学生が侵入禁止地帯入り込んでいることに気が付いて、追いかけてきたのだろう。

「やっべ。キバヤシじゃん」

 三人のうち一人が悲鳴のような声を上げ、さっそく逃げ出した。

「ま、まてよ」

 他の二人も後に続いた。

(よかった。キバヤシさんには怒られるかもしれないけれど、この子は助かるんだ)

 依然として腕の中に抱きしめた小さな塊の温もりを感じながら、舞朝はホッとした。

(そう。この後、キバヤシさんにお小言を言われるけど、理由を尋ねられて、この子を見せるんだっけ。それでキバヤシさんが飼うことになって…)

 毛布の中から黒猫が顔を出していた。

(あれ? ネコだったっけ?)

 見上げてくる黒猫の金色をした瞳が圧倒してきた。

「ダメじゃない、マーサ」

 黒猫が口を開いた。聞いたことのある声だった。

「あまり魅入られてはいけないと、言ったはず」

 その声が椎名叶のものだと気が付くと、深い水面から浮き上がるような感覚に包まれた。

(え? ネコがしゃべった?)

 その現実ではありえない事象に、舞朝は自分が夢を見ているという自覚が沸いてきた。

(そうだ、自分はもう目覚めるのだ)

 彼女の長い三つ編みが、ちょいちょいと引かれる感じがした。



 清隆学園高等部一年三組に在籍する舞朝は、自分の机に突っ伏していた。

 時刻は、一時間目が終了した休み時間である。

 その丸くなった背中に、まるで動物の尻尾のように、一本の長い三つ編みが垂れていた。それを後席からのびてきた手が弄り始めた。

 まるで子猫が猫じゃらしを見つけたかのように、先へ結んだリボンへとじゃれついてくる。あまりの五月蠅さに我慢しきれず、舞朝は面倒くさそうに、のそのそと顔を起こした。

「あー」

 呆けた声を漏らしてしまった。

 一年三組では、男女互い違いに着席していた。そんな舞朝の座っている真後ろは、和紀であった。腐れ縁と舞朝が呼ぶのも仕方がない席順である。

 今日は、午前中だけ授業がある予定だった。午後はロングホームルームとかで、クラスの各委員を選出する「話し合い」という名の擦り付け合いが待っていた。

 観測会は、いちおう仮眠時間を設けることで学業に影響が出ないことになっていた。とはいえ、体力的に相当きついものがあった。

 それに加えて地震騒ぎもあったし、それから派生した準備室の片付けという労働をやって、体の疲れは増すばかりの一夜であった。

 しかも、その仮眠時間とやらは、男女別に部屋が用意されていたが、舞朝には愛姫という、油断ならない相手までいたのだ。アイコ先輩がスマキにしてくれたところで、熟睡などできようがなかった。

 そして一年三組における二人の席は、窓際の教室最後尾という、居眠りに適した場所に並んでいるのだった。

「ねむいんだよ」

 振り返りもせずに言い切ると、それで充分だろうとばかりに、ふたたび机に広げたままの教科書の上へダイブ。

「聞いたか?」

 そんな舞朝の様子には構わずに、和紀は訊いた。つまんでいる舞朝の髪の先を、離す気配は微塵もなかった。

「なんのはなしだよ」

「オマイ、眠いと言葉が平仮名になるのな」

「それが、かんけーするのか?」

「いやいや。そうじゃなくて」

 和紀は、重大な事実を告げるように舞朝へ訊ねた。

「昨日の地震。どのくらいの強さだったか、知ってるか?」

「へいきで『五』ぐらいあったろ」

 舞朝も、地震大国と呼ばれる国に住んでいるだけあって、だいたいの震度は感覚でわかるつもりだった。さすがに地学部にいる「地震ソムリエ」というほどではないが、まあだいたい気象庁発表と大差が出たことは無かった。

「それがさ」

 唇をなめて湿らせる気配。

「記録じゃ『一』も無いほどだって」

「なんだそりゃ」

 舞朝は上体を起こすと、和紀を振り返った。いくら舞朝の髪が長いといっても、振り返られてしまうと、リボンを結んだ三つ編みの先っぽは、向こうに行ってしまう。それを残念そうに見送った和紀は、舞朝の顔を見つめ直した。

「気象庁発表。昨夜〇時五分頃、東京都多摩北部を震源とする地震の震度は『一』。震源はごく浅いものと推定される」

「あんなに揺れたのに?」

「お、セリフが漢字になった」

「たしか…」

 舞朝は人差し指をおでこに当てて、記憶野から必要な情報を引き出そうとした。うろ覚えながらも、それはあった。

「ウチの学園にも、地震計あったよね?」

「そうだっけ?」

「学園敷地の東西南北に一つずつ。それと、大学の地質学研究室に一つですわ。ここに一番近い物は、体育館横になります」

 横から声がしたので二人が面を上げると、そこに別のクラスであるはずの愛姫が立っていた。

「なんで、オマイがここに?」

 和紀の質問に、いつもの笑顔のままで、愛姫は口を開いた。

「わたくしのマーサさんに、話しかけないで下さいませんか。そうでないと抜きますわよ」

「こんなところでハジキ出したら、没収されるぜ」

 そうは行くもんかとばかりに、手を広げてみせる和紀。それに対して、最高の微笑みと端から見える物を返しつつ、愛姫はこたえた。

「アイリスの事ではありませんわ。あなたの死滅直前の毛根のことです」

「死滅直前ってな、どおゆうことだよ! ウチの家系にハゲは、いねえぞ」

「それは残念ですわ」

 まるで祈るように、両手を胸の前で組み合わせて愛姫。いささか憐憫の情を感じさせる物に、微笑みを変化させた。

「こんなところで、橋の下から拾って来た子供だとわかるなんて」

「がー!!!」

「ストップ! ストップ」

 椅子を蹴って立ち上がりかけた和紀の肩を押さえて、舞朝は迷惑そうに言った。

「そんなに、カズキをからかうのが面白いのかよ」

「ええ!」

 語尾にハートマークがつきそうな、ハキハキとした答えだった。

「惜しむらくは、遊佐さんが男だということです。女性ならばそれなりに『友情』を育むことができたでしょうに」

 彼女が向ける情熱的な目線に、とりあえず溜息でこたえてから、舞朝は訊いた。

「で? 地震の話し?」

「そうですわ」

 忘れていたとばかりに愛姫は、小脇に挟んでいたモバイルを広げた。必要な情報は用意してあったのだろう、液晶パネルはすぐにそれを表示させた。

「昨夜の地震ですが、気象庁を含む公的観測機関では、問題にならないほどの微震と記録されています。唯一の例外が、ココで記録されたモノ」

 二人に見えるように差し出された画面が、横線で三分割された。それぞれの段へ地震計に記録された波が、左から右へと表示されていく。

 上下のものはわずかに尖った三角形が現れるが、大きな物ではなかった。対して真ん中の地震計には、まるで映画の小道具で使われるような強震が記録されていた。あまりの激しさに、横枠をはみ出してしまっていた。

「大学の研究室でも困っているようですよ。いつもなら三角法で震源地を特定できるのに。あまりにも局地的で、直下型地震とも言えない事例のようですし」

「ええと、つまり?」

 寝不足で、考えることが億劫になっていた舞朝は、愛姫に話のまとめを求めた。

「簡単に言うとですね」

 明るい笑顔で愛姫。

「昨夜の地震は、高等部にだけあった、ということですわ」

「んなことあるか」

 いまだ不機嫌のままの和紀は、腕を組んで唇を尖らせていた。舞朝がそんな和紀の子供じみた仕草を微笑ましく眺めていると、教壇の上に取り付けられたスピーカが予鈴を鳴らした。

「あら、残念。また次の時間に」

 愛姫は丁寧に舞朝に頭を下げると、モバイルの電源を落としながら、自分の教室に戻るために体ごと振り返った。

 行こうとして、背中越しに和紀を振り返った。

「落とさないで下さいね。信じていますので」

「は?」

 和紀の頭の上にクエスチョンマークが生えたのを確認したかのように、安心を取り戻した微笑みを見せた愛姫は、前を向き直って教室から出て行った。

 その不思議な問答を見送った舞朝は、再び机上に広げたままの教科書へダイブしながら、和紀に声だけで訊いた。

「次、なんだっけ?」

「現国」

「ああ、ニンベンの仲村先生か」

「また、ねれるな」

 とりあえず上体を起こして、机の物を現国の物に取り換え始める。その時ふと舞朝は、左頬に視線を感じた気がして、そちらを振り返った。

 痩せた少女がそこにいた。見ている間に、窓枠へ組んだ腕の上に顎を乗せていた姿勢から立ち上がると、一目散に左へ走り出した。

 その方向は舞朝の背中となる。人間の一番死角となる方向だった。視界の端で、少女の黒いスカートが揺れた気がした。

「なんだ、サボりか」

(中等部の生徒がこんなとこで)

 そこまで思考が進んで、舞朝は我に返った。

(昨日の()だ!)

 もう一度窓の外を振り返ると、目の前を長い銀髪を揺らしながら、高等部の誰かが横切った。

「ええ?」

 舞朝は、慌ててサッシを開くと、いま二つの影が去っていった方向を見るために、窓から乗り出した。

「わああ、バカ!」

 舞朝の腰を和紀が抱きとめるのと、彼女の視界がクルリと回転したのが、同時だった。

 和紀に蹴飛ばされた学習机が、かろうじて保っていたバランスを崩して、バターンと倒れた。

 舞朝の正常な神経が、背中に嫌な汗をかかせはじめた。現在、彼女の上体は地上七メートルといったところで、宙ぶらりんになっているのだ。

 下は小さな花壇以外はコンクリート張りである。そこへ頭から落ちなかったのは、和紀が抱きとめてくれたからだ。

「寝ぼけるのも、いいかげんにしろ」

 そう怒鳴りながらも和紀は、舞朝の体を三階にある一年三組の教室に、引き摺り戻してくれた。

 室内に戻されるときに、視界の隅で確認した。

 窓の外に、人間が立てるような張り出しは一切無かった。

 もちろん窓枠に寄りかかって室内を覗くことは不可能である。さらに言えば、窓の外で誰かを追って走るなんて、誰もできないはずだった。




 お気に入りの水着。

 幼馴染のプラモデル。

 サイコロの六。

 テレビゲームのコントローラ。

 夕陽の赤。


 お線香の煙。

 黒い車。

 教室の花瓶。

 錆びていく自転車。


 約束の指切り。

 溶けていくチョコレート。

 踏切を通る電車。

 焼き芋の甘さ。


 こちらを向いて啼いている黒い子猫。




 午後のロングホームルームも睡眠に費やしたことで、舞朝の体調はだいぶ平常運転に戻っていた。

 とても断片的な夢を見てしまい、疲労感は減るどころか増えたような気がしていたが。

 ロングホームルーム自体は、決めなければならない後期委員会のほとんどを、前期を務めた者が任期延長に反対しなかったため、珍しく荒れずに終了した。

 それでも例外というものがあった。唯一、図書委員だけは『剛腕』委員長を嫌がった前任者が任期延長を嫌がり、結果として後任の図書委員をクジ引きで決めることになった。

 クラス担任の意向として、委員職が振られるのは、どの部活にも所属していない暇な者であった。いわゆる帰宅部に所属するというやつだ。

 その偏った人事のせいか、一部の委員会には無気力が充満していて、機能が果たせていないという事実も存在した。部活動に積極的で無い者が、委員会の仕事を熱心にやるわけがないのだ。

 もしかした学生たちの「自治」を遠回りに、教員が「指導」しているということになるのかもしれない。

 だが清隆学園では、その自治の中心たる生徒会が意外と(とくに金勘定に)しっかりしているため、大人たちとは良好な関係を維持していた。

 ちなみに一様に部活動と言っても、やはり活躍している部の方が上に見られる傾向があるようだ。全国大会へ顔を出すような部活は、大人たちにも一目置かれていた。

 地味な文化会系では、やはり派手な部活に対抗できないと思いきや、意外と二人が所属する天文部の地位は高い方だった。

 これも天文部が、文化会系の中でも活発に活動しているという評判のおかげである。

 それは定期的に行っている観測会や、創部以来欠かしたことのないという太陽の黒点観測という実績にあるようだ。

 とくに天文部伝統の、昼休みに行っている太陽の黒点観測は、アマチュアレベルとはいえ学園内外での評価は意外に高い物であった。

 もちろん先輩たちの功績を汚すことがないように、舞朝たちもその伝統を引き継いで、今日も黒点観測は続けなければならなかったが。

 というわけで放課後に地学講義室に足を運ぶ二人だったが、観測のために昼休みも訪れており、観測会以来初めてというわけではなかった。

 ただ部室に入った途端に、昼にはいなかった直巳の姿が目に飛び込んできた。

 もちろん観測会の翌日なんていう、身も心も重い日である。彼が真面目にクラスの方へ出席していたはずもない。着ている服だって、赤い暖色系チェック柄のシャツにジーンズという、やっぱり私服であった。

「お、来たようだね」

 なにやら小さな束を手にしていた直巳は、並んで現れた二人にちょっと不満そうな顔を向けた。ちょっと胸を張ってから、その束を舞朝に向けて振った。

「見るかい」

「なにを?」

 適当に持っていた鞄を長机に放置した舞朝は、直巳の手元を覗き込んだ。

 それは全部黒い紙に見えた。だが妙な光沢を帯びており、また光点が輝いている物もあった。

 何のことはない、昨夜撮影した天体写真であった。

「あ、もう現像できたんだ」

 主にヤマト先輩の趣味が反映されているため、デジタルカメラ全盛のこの時代に、清隆学園高等部天文部では、フィルムを使うスチールカメラで天体写真を撮っていた。

「朝一に部長からフィルムを預かって、写真屋に放り込んでおいたんだ」

 こうして仮に現像しておいて、パネル展示にどの写真を使うかの意見を集めて決定するのが、いつものやり方だった。

 昨夜は一般生徒が参加していたこともあって、ブルーとオレンジの美しい二連星である、白鳥座のアルビレオなどのメジャーな天体も撮影されていた。

 もちろん本命は、学園祭で展示予定の惑星写真であった。

「これは?」

 束を半分ぐらい見たところで、一目で夕焼けと判る緋色の写真を、舞朝は不思議そうに束から抜いた。

「それは…」

 ちょっと悔しそうに、オデコのあたりを掻きながら、直巳が言った。

「水星を撮ったつもりなんだけど」

 プリントは一面緋色になっているだけであった。ピントか露光か、技術的に問題が発生したようだ。

 そもそも被写体を画面の枠に入れ、スイッチを入れるだけで全自動にて何でもやってくれるデジタルカメラ世代に、いきなりスチールカメラを扱わせるヤマト先輩の指導方法に問題があると言えた。だがヤマト先輩はまるで昔気質の職人のごとく、この方針を変える気はないらしい。曰く「習うより慣れろ」

「この調子で、本当に大丈夫なのかよ」

 舞朝はボツ確定のその写真を机において、今まで撮影に成功した(ということになっている)惑星の写真パネルへ目を向けた。

 五月から今まで完成したパネルは、全部で五枚あった。それらは廊下側の壁の高いところで、すでに展示を開始していた。

 五枚の並べられた中で、舞朝のお気に入りは金星の写真であった。見事に半月のように写っているソレは輪郭もくっきりとしており、まるでプロの手による物のようだ。学園祭が終わったら、貰って帰ろうかと思っているぐらいだ。

 ちなみに、パネルの下に貼り付けられたキャプションは「愛の天罰、落とさせていただきます」とあった。

 まあ舞朝も、小さい頃は玩具(クリスタル・チェンジ・ロッド)を買ってもらって喜んでいたこともあるので、その言葉がなんであるかは知っていた。彼女の感想としては「いまはもう、何もかもが懐かしい」と言ったところだ。

 ちなみに、その横に展示されているパネルのキャプションは「悪霊退散」であり、写っているのは赤い星のパネルだった。

 その次はキャプションに「先輩にそっくり」と書かれていて、写真は目玉のような模様が浮き出ている星だった。

 そして、さらにその横で展示されている、帽子のような輪を持った星につけられたキャプションにいたっては「破壊と誕生、沈黙の星」であった。

 誰の趣味か分からないが、だいぶ偏ったキャプションであることには、間違いなかった。もし直巳の手によるものだったら、彼に対する評価を改めなければいけないところだ。

 月写真の展示予定はなかったが、もしなされるとしたら「おしおきよ!」と書かれた紙が、キャプションとしてつけられるのは間違いない。いや「しるばーむーんくりすたるぱわーめえーくあーっぷ」の方かもしれないが。

 展示にはもう一枚、変なパネルが並んでいた。

 一面真っ黒なところになぜか白い丸が書いてあり、矢印で引っ張って「ここらへん」と書いてあるのだ。その被写体が、写っているのかいないのか分からないパネルに着けられたキャプションは「せつなママ」であった。

「いくらなんでもさあ」

 目に止まったからというわけでもないが、舞朝は不満げにそのパネルを睨み付けた。

「いや」

 その舞朝の視線だけで言いたいことが判ったのか、直巳が言い訳がましく顔の前で手を振った。

「さすがに、高校レベルの器材じゃ冥王星は無理だよ。写るとしてもせいぜい九等星までだって」

「冥王星って何等星?」

 和紀がもっともな質問をした。ひょいと舞朝は首を捻ってみた。

「確か一二等星ぐらい?」

「正確には一四等星ですわ」

 それがさも当然のように、舞朝の右腕に絡みつきながら愛姫が発言した。三人が話している間に、部室へ入ってきていたらしい。とすると、どうやら彼女のクラスも、ロングホームルームが終わったのだろう。コトリと椅子を引く音で振り返ると、窓際のいつもの席に、頭からシーツを被った叶が座るところだった。

 彼女には色々と訊きたいことがあったが、愛姫が放してくれそうもなかった。

「撮るにはやっぱり天文台ぐらい、でーっかい望遠鏡が必要かなあ」

 和紀が愛姫に訊いた。どうでもいいことだが、和紀の発音では「ぼーえーきょー」と、幼い子が言うように聞こえた。

「さあ。くわしいデータは、ヤマト先輩がお知りなのでは?」

 それとも貴方は知っているのかしらとばかりに、挑戦的な目を直巳に向ける愛姫。向けられた方の直巳も首を捻っているところからして、そこまでは知らないようだ。

「お、今年の一年は真面目だなあ」

 噂をすれば影というわけでは無いだろうが、とうのヤマト先輩が現れた。

 いつもは真面目に制服を着こなしている彼だが、今日はネクタイを緩め、だいぶ胸元をはだけさせた緊張感のない様子である。彼も疲労を感じているのだろう。

「できていますよ」

 直巳が、現像してきた写真の束を振った。それを見たヤマト先輩は、明るい笑顔でうなずいた。

「朝に写真屋へ行ってくれる人がいると、便利だなあ」

「なに言っているんですか、ヤマト」

 ヤマト先輩に続いて入室してきたアイコ先輩が、怒った顔を作った。

「彼には授業に出てもらわないと。ヤマトのところにも、生活指導の先生がたが来ているんですから」

「まあ、いいじゃないか。どれどれ」

 アイコ先輩に脳天気な笑顔を振り向けて沈黙させると、ヤマト先輩は直巳から渡された写真を次々にめくっていった。

 見終わった写真は、そのまま一枚ずつアイコ先輩へ渡された。アイコ先輩は、自分の不満を汲んでくれないためか、写真はろくに見ずに隣に立っていた愛姫に渡していた。愛姫のチェックを受けた後に、舞朝へ渡されたが、すでに前半は見ていたので、彼女は束に戻す作業をしていた。

 写真の出来映えを確認していると、部室の扉が開かれて、道着姿の人物がやってきた。もちろん五郎八である。

 今までの経験だと、どんな観測会でも、翌日には疲労が蓄積する。そのため皆早めに帰るものだった。

 昼の黒点観測さえすれば、部室に寄らずに帰宅しても、特に問題は生じないはずだ。

 だが五郎八まで来たということで、一年生全員が部室に集合したことになった。

 と言っても五郎八の場合は、部室に来ても部活に積極的には、参加しないのではあるが。

「おや?」

 ふとヤマト先輩の手が止まった。じっくりと見るように写真を縦にしたり、自分の顔を横にしたりしていた。

 舞朝が疑問の声を上げる前に、ヤマト先輩は質問を発した。

「これは?」

 手に持った写真を見ながら質問をしたので、他の写真を見ていた者だけなく、ちょうど通りかかった五郎八までもが、なんだろうと部長の手元を覗き込む形になった。

 そこには人物が写っているようだった。

「あ」

 慌ててヤマト先輩の手元に残った束を回収する直巳だったが、少々遅かったようだ。

「ふーん」

 顎に手をあてて、したり顔でニマニマと微笑み出すヤマト先輩。その横でちゃんと見ることが出来なかったらしいアイコ先輩が、不思議そうな顔になった。

「そうかぁー」

「あ、いや、これは…」

 なにか非常に重大な誤解をされた気がして、直巳は声色を変えた。

「皆まで言うな、皆まで」

 うんうんお兄さんは判っているんだよと、言わんばかりのヤマト先輩。直巳は大げさに両手を振り回しつつ否定に入った。

「これは、ええと、純粋に…」商売として撮りました。なんて言葉を繋いだら「部の備品で金儲けをするな」と怒られると、口に出す直前に気がつく冷静な場所が、まだ彼の脳の一部にあった。

「うんうん。恋は純粋だよな」

「そうじゃなくぅ」

「悪趣味だって言ったよな」

 ジト目になった舞朝が、直巳が部長から取り返した数枚の写真を、さらに彼の手元からひったくった。

 それらには、小学生の男の子が静かに目をつむっているように見える、叶の寝顔が赤と黒のコントラストで写っていた。

 写真は全部で五枚あった。まだ話しが判らない様子のアイコ先輩へ知らしめるために、一枚ずつ手近な長机へ並べていった。

 正面からのバストショット。ちょっと近づいて上から俯瞰したようなアップ。それに少し右から見た感じの一枚。

 他は撮影が失敗したのか、一枚は真っ黒であり、もう一枚は関係ないペントハウスが写っていた。

「私?」

 声がしたので振り向くと、そこに白い物体が存在していた。寝ている間に被写体にされた本人である。今は頭までシーツで覆っているため、西洋のオバケのような雰囲気であった。

 しかも発言するまで、本物のごとく足音すら聞こえなかった。

「むう、乙女の寝顔を盗み撮りとは不謹慎な。これはオレが没収する」

 と、当たり前のようなセリフを口にしつつ、何の権限もないはずの和紀が、五枚中の三枚を素早く懐に入れようとした。

「こらこらー」

 その行動を先読みしていた舞朝が、横から攫った。

「あ、独り占めずるい」

「あたしが独り占めして、なにか得をするとでも?」

「そうですよマーサさん。写真が欲しいのでしたら、わたくしがいくらでも…」

「いや、お前のも特に欲しくない」

「では、それがしの物を」

「よけいわかんない」

「ああ、わたくしの愛は、いつになったらマーサさんの心へ届くのでしょうか」

「いや、一生ありえない」

「ということは、来世でも愛し合うということですね」

「言っている意味がわからない」

「いいから、よこせって」

「遊佐が手に入れるんだったら、代金よこせ」

「ナオミちゃ~ん、往生際が悪いよ。金は諦めたまえ」

 一年生が仲良く大騒ぎを始めるのを見て、ヤマト先輩とアイコ先輩は、うなずきあうと離れた位置へ下がってしまった。二人の視線が、まるで保護者が公園で遊ぶ幼児を見守るような物になっていた。

「およ」

 また愛姫に抱きつかれながら、その背中を眼で追っていた舞朝は、誰とも無しに言ってみた。

「やはり、天文部のお父さんとお母さん?」

「男女関係とは、不潔ですわ」

 お前が言うかとばかりに舞朝は、愛姫へジト目を送った。

「まあ清く正しい男女交際じゃないか?」

 直巳が、適当に離れて椅子に座る二人を、どことなくうらやましそうな目線で見て発言した。

 腕を組んだりしたり、一つのお弁当を仲良く食べたりしたり、そんなあからさまにアツアツカップルの様子など見せないが、二人ともまったく素っ気ない様子でもなかった。二人の間で、本当に清く正しい男女交際が進んでいるようである。

 たまに舞朝だって「リア充爆発しろ」と思わないこともなかったが、それだって羨む心があるからと、分かってはいた。分かってはいるのだ。(大事なことなので二回言いました)

「あれ? 怒った?」

 和紀は、シーツから硬い顔を出した叶の横顔を、覗き込んだ。

 当の商品にされた写真は、すでに舞朝の手の中にあった。残りの二枚は、教科教室の特徴でもある三人掛けの長机に、放り出したままだった。

 一年生限定で騒いでいた中で、いま叶は長机へ片手をついていた。彼女は、怖さすら感じさせる無表情で、その二枚を睨み付けていた。

「?」

 無口なのは周知な生態だが、いつもシーツの下にこんな恐い表情を仕舞っているのかと、一年生全員が不安になる。そんな中で、彼女はゆっくりと明るい方の写真を指差した。

「これ」

「???」

 叶がなにを主張したいかがわからずに、頭の上のクエスチョンマークを増やす一同。

 彼女は周囲の困惑が気にならない様子で、目を閉じると、その写真を指差すために伸ばしていた右手を開いた。途端に、まるで温度の高い物か、電気が流れている物を触ってしまった時のような反射速度で、その手を引っ込めた。

「感じる」

 叶は目を開くと、その写真を再び指差した。

「なにをだ? ナナ」

 何かあったら楯にするつもりなのか、舞朝の後ろから和紀が訊ねた。

「あの時の山吹色の波動。エーテルを通して刻まれた想い」

 叶の目線は固定されていた。どうやら今度は写真全体を指差しているのではなくて、その中のさらに一点を示しているようだった。

 スカイフィッシュかなにかでも写り込んだかと、引けた腰で(なぜか舞朝を先頭に)一年生五人は、細く工芸品のような人差し指の延長線を覗き込んだ。

「!」

「なんだこりゃ」

「これですか」

「さて?」

「?」

 そこに現像されている物を見て、五人が五様の態度をみせた。一人がよく見ようと前屈みになり、一人は微笑み、一人は左の眉だけ上げ、一人がなぜか何度もうなずき、そして残った一人が無意識に距離を取ろうとした。

 簡単に言うと、そこには斜めになった夜のペントハウスが写っていた。

 光沢のあるプリントの中には、他にも色んな物が映り込んでいた。

 手前で半分だけ見切れているのは、容姿からして図書委員長であろう。周囲の異常を確認するためか、体ごと振り返っている途中のようだ。

 それまでの写真が、赤と黒のコントラストで、できている物ばかりだった。が、これはちゃんとカラーで写っていた。それは色彩に関して何も不思議な現象が発生したわけではないようだ。

 その後ろに写っているのは、屋上へ出るペントハウスのようだ。暗幕が半分だけ外れて、床へ落ちてしまっており、光源はそこから漏れる常夜灯の光で充分だった。

 この写真までは、直巳が撮った叶のポートレート風の写真が、現像されていた。ということは彼が、叶の写真を撮った後に、地震で転んだ拍子で持っていたカメラのシャッターボタンを誤って操作し、撮影してしまった物のようだ。

 なんのこともない、失敗作の一枚。

 だが写っていたのはそれだけではなかった。振り返った勢いで翻った委員長のスカート、その脇腹のさらに向こう…。

「また出た」

「黒制服? 中等部?」

「しかし足が写っておらん」

 そこには、出入口のガラス戸に両手をついて、こちらの様子を覗くように窺う少女が一人写っていた。短くした髪といい、イタズラ気に微笑む表情といい、舞朝には見たことのある人物だった。ふと彼女が、唇へ人差し指をあてるイメージが沸いた。

 そして五郎八の指摘通り、本来ならばスカートからのびる足があるはずの位置には、何も写っていなかった。不自然といえば不自然な写真である。

「で? この娘から感じるのか?」

 和紀は質問しつつ、叶の顔を見おろした。その好奇心に輝く瞳に、焼かれるとでも思ったのか、叶はシーツを頭に引き上げて、顔を隠してからうなずいた。

「こんなところに、あの時誰かいたか?」

 和紀が答えを求めるように、皆の顔を見た。

「これ中等部の制服だよな」

 ちょっと自信が無さそうなのは、制服とは仲が悪い直巳であった。

「ユカさんあたりに確認を取ると、面白いかもしれませんね」

 ニコニコとした笑顔で、中等部の天文部部長の名前を口にする愛姫。彼女は基本的に舞朝へ抱きついていられたら幸せなのだ。

「…」

 自分の発言する時間は終わったとばかりに、シーツの向こうからは無言が返ってきた。

「分銅落として、窓の外にいて、今度は心霊写真…」

 唯一、舞朝だけが青ざめた顔をしていた。

「なに? 知り合い?」

「しらない」

 知るはずもない。弱く頭を左右に振る舞朝の様子に、異常を感じた和紀は、彼女の顔を覗き込んだ。

「どしたの?」

「これ、たぶん。ゆうれい…」

「はあ?」

 力のないつぶやきに、大きな声で反応が返ってきた。

「最近、あたしのまわりで見かけるのよ。この娘」

「それは聞き捨てなりませんわ」

 口元は微笑みながらも、キリキリと眉を寄せる愛姫。

「誰にもマーサさんは渡しませんとも」

「そうじゃなくて」

 愛姫の(変な意味の)ライバルならまだしも、幽霊に取り憑かれるなんて…。

「マーサさん」

 とても明るい声で愛姫は言った。満面の笑顔の割には、口元に小さなひくつきがあった。

「変な意味って、どういうことでしょう?」

 どうやら思っていたことが、いつの間にか口に出ていたらしい。舞朝は慌てて反対側を向いて口元を押さえた。

「ゆーれー? しんれいしゃしん?」

 和紀の顔が訝しげに歪んだ。が、見る間に瞳がキラキラと光り出した。

「それって、オマイが取り憑かれたってことか?」

 無責任にも「すげーすげー」と小学生のように連呼し始めた。

「まったく馬鹿馬鹿しい。幽霊だって? 非科学的な」

 直巳は自分の荷物の所へ行くと、迷わず細長い封筒を取り出した。現像後に写真屋から、プリントとともに返還されたネガフィルムが入っているのだ。戻ってきた直巳は、それを机上にばらまいた。

 鉱物観察用の小さなルーペを、部室備え付けの器材棚から持ち出すと、該当するネガを覗き込んだ。

「うん、現像ミスでは無さそうだ。確かに写っている」

「そういえば」

 頭の上に豆電球を点らせて、和紀は無口な仲間を振り返った。

「昨日の昼、ナナはマーサが取り憑かれたって言ってたな」

「…」

 叶は無言であった。それがただの肯定なのか、それとも今頃信じる気になったのかという非難の物なのかは、判断がつきかねた。

「これ、本当に幽霊なのか?」

 和紀が再確認すると、シーツの向こうで小さくうなずく気配がした。

「とすると、昨夜の地震も心霊現象なのかもしれん」

 竹箒を抱え込むようにしながら、腕組みをしてみせる五郎八。

「地震が?」

「あれは、ドクトルマンボウという奴であろう」

「イロハさん。それを言うならポルターガイストでわ?」

「一文字もあってねえじゃん」

「いえ、いちおうドイツ語繋がりという、ハイレベルなボケのようですよ」

 和紀のツッコミに対して、頭脳労働代表の愛姫がフォローを入れた。ドクトルというのは英語で言うドクターの意味であるし、ポルターガイストというのも「騒がしい霊魂」という意味のドイツ語であった。

 ただこうして冷静にボケを解説されてしまうと、ギャグが滑ったに近い状態になってしまうわけで…。

「む。それがしに助けを求める、乙女の悲鳴が」

 とかなんとか言いながら、五郎八は部室の後ろの方へ行ってしまった。竹箒をまるで竹刀のように使って、剣道の素振りを始める。

「あれがポルターガイストとすると、少し納得できるかも」

 少ないオカルト的な情報を、頭のあちこちから集めて、舞朝が口を開いた。

「きっとこの娘は、委員長の知り合いなんだよ」

「なんで、そう思うんだよ」

「ほら、普通は幽霊の声なんて聞くことはできないだろ。だから幽霊の方が気付いてもらいたくて、心霊現象を起こしたんじゃないかな」

「ここにいるぞってか?」

 和紀は、器用にも右の眉だけを跳ね上げた。

「まるで、小さな子供のようですね」

 舞朝の意見に賛成なのか、愛姫はただ微笑みを強めるだけだった。

「話しはできないのか」

 あからさまに残念そうな顔になる和紀。思考回路が小学生な彼にしたら、こんな面白いイベントに出くわして、見逃すことなど出来るはずもなかった。子猫の前で、猫じゃらしを振るようなものだ。

 それで捕獲が可能ならば、虫取り網を持って徘徊し始めかねない。天文部の名誉のためにも、そういった奇行は止めてもらいたかった。

「ナナさぁ」

 諦められないのか、和紀は叶に振り返った。

「この娘を呼び出すことは、できねーの?」

「…」

 叶は無言を返した。無視している態度ではなく、それが可能かどうか思案しているといった雰囲気であった。

「まったくバカバカしい」

 鼻から溜息を抜いて、直巳が見下す声を漏らした。

「もし仮に霊魂など存在するなら、犯罪捜査がどんなに楽か。なにせ死んだ本人に聞けばいいんだからね。『あなたは誰に殺されましたか?』まったくバカバカしい」

「なんだと」

 それがカチンときたみたいで、和紀は直巳を睨み付けた。距離を詰めようとする彼と、それがどこに吹く風といった態度で胸を張る直巳の間に、舞朝は入った。

「こらこら、ケンカするな」

「「だって」」

「だって、じゃありません」

 異口同音に舞朝に言い訳しようとするのに、和紀には右手、直巳には左手を向けて黙らせた。

「幽霊かどうか判断する方法が、一つだけあります」

 二人の仲裁に入るために、舞朝に振り切られた形の愛姫は、微笑みをちょっと真面目な物に引き締めて言った。

「この人物がここに存在したのなら、あの時に階段を駆け上がってきた小石教諭が、目にしているはずではありませんか?」

 三人はキョトンと愛姫の微笑みを見た。

「わたくしの記憶では、地震の際に、この場所から屋上へ出てきたのは小石教諭だけのはずです。この人物が、撮影された後にこの場所にいる、もしくは下へと階段をおりたのなら、小石教諭と出会ったはずです。そして大概、霊的存在という物は、わたくしたちの理屈の、範囲外の行動を取る物です」

「たしかに」

 直巳が、愛姫の提案を受けいれる事にしたのか、理詰めの思考を好むためか、うなずきをかえした。

「おまえら」

 ちょうど出番を待っていた役者のように、地学準備室の扉が開いて、昨日より無精髭が目立つ顔になった小石が姿を現した。

「観測会の翌日ぐらいは、素直に帰れよ」

 顔に浮いている疲れを隠そうとしないで、中年に差し掛かった男は、若さをうらやむというより、自分の休息を求める声で言った。

「おまえらが帰らないと、先生も帰れないだろ」

「小石ちゃん」

 ある者は必死の形相で、ある者は好奇心で目を輝かせ、そしてある者はただの笑顔で、天文部顧問の周りに走り寄った。

「あー、先生の言いたいこと判るよね」

「それよりも!」

 どんなに疲れていても爬虫類的な笑みを崩さない小石に、舞朝は真剣な顔で問うた。

「昨日の地震の時ですが、階段で誰かとすれ違いました?」

「はい?」

「小石ちゃん、あたしたちのことを心配して屋上へ駆け上がって来てくれたじゃないですか。その時に、誰か階段にいました?」

「いや? 誰もいなかったけど?」

 不思議そうに首を傾げた小石は、軽い調子で断言した。

「それよりも早く帰れよ。先生、疲れてるんだからな~」

「わかりました。帰ります」

 顔に、美内すずえチックな縦線をひいた舞朝が、力なくこたえた。

「おお。気をつけて帰れよ」

 舞朝の表情が暗くなったことに気がつかなかったのか、小石は投げやりに別れの言葉を口にすると、地学準備室に引っ込んだ。

「ちなみに、狼には気をつけてね」

 背後から、自分の荷物をまとめながらアイコ先輩が言葉を飛ばしてきた。

 振り返って見てみれば、ちょっとした含み笑いをしている。

「マーサさんに、そのような心配は無用です」

 愛姫は振り返り、人よりある(バスト)を張って言った。

「わたくしが最後まで送り届けさせていただきますから。もちろんベッドの中まで」

 そういうことを言うから愛姫は、舞朝に腕を振り払われるのだった。

「あら、お気に障りましたか?」

「あたりまえだろ」

「わたくしは…。いえ、わたくしたちは全力でマーサさんのことを、お守りいたしますわ」

「あー、はいはい。ありがとうな」

「ということで」

 パンと手を打って愛姫は、他の一年生に振り返った。

「みなさん、これから帰るまで『本気』でお願いいたします」

「本気?」

 愛姫のセリフに、顔を見合わせる一同。

「なにせ、マーサさんを守るためですもの」

「獅子は兎を狩るにも全力を尽くすという」

 いつの間にか素振りを止めて戻ってきていた五郎八が、腕組みをして言った。

「『もののふ』たる者そうありたいな」

 どうやらこの二人の間では話しが通じたらしい。それぞれが荷物をゴソゴソとやり始めた。

「ま、いいか」

 和紀の一言を契機に、他の者の意見が一致した。

 つまり「ほっておこう」と。


 中編に続く。

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