9 惨劇の現場で
動き出した飛行機の中で、扇エンドルフは静かに本を読んでいた。産まれてまだ一〇年しか経たないが、慌てるということを知らなかった。武器を振り回して叫びながら歩いている男達の命令で、窓はすべて閉ざされていた。
飛行機の中は静かだった。キャビンアテンダトと呼ばれる乗務員がまず殺され、死体が通路に転がされていた。
パニックを引き起こした数人が別室に連れられ、帰ってこない。
それから、話しをすること事態が罪悪であるかのように、静まり返っていた。
座席は八割が埋まり、その数は二〇〇人を越えていた。
三人並びの座席で、両隣の両親を垣間見ると、ただ黙って祈っているようだった。時折りエンドルフと視線が絡み合うと、ぎこちない笑みを作って見せた。
死ぬのだろうか。
現実感を伴わない感想だった。エンドルフ自身は、なぜかそれが具体的な恐怖としては感じ取れなかった。なんとなく習慣になっていたように、手を左目に当てた。眼帯があてがわれている。その中には、産まれ付き黒穴が開いている。
穴に収まるべきものを、エンドルフは手に握って産まれてきたのだといわれている。
物心ついたときから、知らない人間にそれを見せるのをやめるように言われてきた。
ほとんどの人間は、生活の役に立つ何らかの道具を持って産まれてくるのだという。
エンドルフが持って産まれたのは、小さな丸い玉だった。透き通り、よく転がる。
ただ、それだけだ。
あるいは、エンドルフは産まれ付き、意味の無い人間と位置づけられたのではないだろうか。そう思うことも度々だった。両親にも言ったことは無い。だが、ずっと思ってきたことだ。
自由に具現化できるその道具を、エンドルフは最近では手にすることもしていなかった。役に立たないからだ。学校に行く年齢になると、友達は自分達の才能を磨くための学校に振り分けられた。
エンドルフは、一般教養学校と呼ばれる、何も持たずに産まれたごく一部の子供達が通う学校に行かされた。
法律上、人権は守られている。すべての人間は平等なのだ。だが、現実はそうではなかった。特に、子供達の世界は違った。
エンドルフは、産まれながらに役立たずという烙印を押されたのだと思ってきた。一般教養学校に行くことを知った友達が、口をそろえてそう言ったのだ。
ずっと、大切に育てられてきた。
現実の世界は、エンドルフにはあまりにも冷たかった。
片目で本を読んでいると、すぐに目が疲れてくる。片目しかないので仕方が無い。
エンドルフは一般教養学校に入学した歳から、熱心に勉強し始めた。
産まれ付き役に立たないなら、成長して役に立つ能力を身に着けようとしたのだ。その意味では、生きることに前向きであることは間違いない。自分を卑下もしなった。だが、神は嫌いだった。
本にしおりを挟み、一時閉ざした。
目も閉ざし、疲労の回復を待つ。
目を開けると、武器を持った筋肉質の男が、エンドルフを覗き込むようにしていた。
どうして筋肉質だと思ったのかと言えば、男はランニング一枚しか身につけていなかったのだ。
「お嬢ちゃん、目が悪いのかい?」
眼帯をしていれば、通常はそう考える。エンドルフは首を縦に動かした。
「ちょっと、それをとってくれるかな?」
男は自分の左目を指した。エンドルフに、眼帯を取れと言っているのだ。
「嫌」
死ぬことを恐れていない、のではない。誰よりも、エンドルフは生きようとしている。だが、死ぬということを、実感としては理解していなかった。飛行機が武器を持った男達に占拠されても、自分が死ぬとは感じていなかった。だから即答した。
エンドルフの返事に、左右の両親が短く悲鳴を上げた。エンドルフは、左右に座っている二人の顔を順番に仰ぎ見た。
母は小さく首を横に振り、父は首を縦に振った。
二人の意見が対立しているのではないことは、エンドルフには理解できた。
母は『逆らっては駄目よ』と言っているのだし、父は『とりなさい』と言っているのだ。
エンドルフは武器を持った筋肉質の男に目を戻した。少し顔をゆがめているのは、いらいらしているのだろうか。
「いいだろう?」
男にしては、我慢して辛抱強く言ったつもりなのだろう。きっと、エンドルフが泣き出すと面倒だと思っているのだろう。エンドルフは小さな子供なのだと思っているのだろう。確かに、その通りだ。
「嫌よ。だって、恥ずかしいもの」
「どうしてだい?」
だんだん、男の苛立ちが増しているのはわかる。だからと言って、言いなりになる理由があるのだろうか。
どうやらあるのだ。母が眼帯を取るように耳打ちし、父親はその眼帯に手を伸ばした。
だが、エンドルフは左目を手で隠して反論した。
「お兄さんは、女の人にパンツの中を見せろって言って断られたら、『どうしてだい?』て聞くの?」
前後の座席に座っていた乗客から、小さな笑いが漏れた。男は笑わなかった。父親は、なぜか男に謝った。母はエンドルフを抱きしめた。
「それは聞かないし、断られないだろう。こういう状況ならね」
筋肉質の男は顔を近づけた。同時に手にしていた武器を、鉄色をした筒のようなものを、エンドルフの頬に押し付けた。引き金に指がかかっている。両親の声が響いた。
「そうかもね」
「だろう?」
「でも、私は嫌」
男の眉が寄る。もはや、両親は諦めかけているように見える。男への言葉もエンドルフへの言葉もなく。ただ神の名を呼び始めた。エンドルフに、こんなにも辛い運命を定めた、大嫌いな相手だ。
「どうしてだい?」
男は同じ問いを口にした。状況は違う。エンドルフの答えも違った。
「だって、見せる理由がわからないもの。私の恥ずかしい場所を見ても、お兄さんは興奮しないでしょ?」
扇エンドルフの頬には、銃口が押し当てられている。口径が小さなものでも、この距離から撃たれればエンドルフは死ぬ。男が持っていたのは、決して小さなものではない。
「その中に通信機とか盗聴器を仕込まれていたら、俺たちは困るんだ。だから、お願いしているんだよ。わかってくれたかい?」
エンドルフは男を見返した。男は、エンドルフの左目に眼球がはまっていないことを知っているのだろうか。眼帯をしているからといって、眼球がないとは考えないと思うが。
――眼帯がぺったりしているからかしら。
下に眼球がないので、あるいは眼帯が凹んでいたのかもしれない。あるいは、ただの推測ででたらめを言っているのかもしれない。いずれにせよ、これ以上言い訳をする方法がなさそうだ。
「……うん」
「いい子だ」
男は銃をエンドルフに突きつけながら、眼帯に手を伸ばした。
見せるのが恥ずかしかったのは本当だ。もっと小さな頃からずっと、眼帯で隠してきた。両親以外に見せたことはほとんどない。
眼帯が外された。
男が覗き込む。
さらに指を伸ばそうとした。
眼球がないため、まぶたがカーテンのようにだらしなく垂れ下がっているのだ。エンドルフは男の指を押しとどめ、自分でまぶたを押し上げた。
奥深くまで、男が覗き込む。ただの暗い穴でしかない。月面のクレーターのような凹みが、顔の重要な部分に陣取っている。
男が真剣な顔で覗き見ていた。
実際に、珍しかったのだろう。
だが、エンドルフは嫌だった。
隠したかった。
身動きはできない。銃を突きつけられたままだ。
動かないよう、左右から両親の手がエンドルフを抑えていた。
恥ずかしかった。
無意識だった。
自覚はなかった。
エンドルフは左目があるはずの場所に、持って産まれた小さな水晶の玉を出現させていた。
男がのけぞった。驚いたのだろう。驚いた男の顔が、はっきりと正面に見えた。
まるで水晶を通して見たかのように、少し歪んでいた。普段の光景とは違う。いままで、右目でしか見たことがなかった。
エンドルフは右目を閉ざした。予想した闇は訪れない。
――私は、ほんとうに左目を握って産まれてきたんだ。
だが、見えたのは男の顔だけではなかった。
男の顔の中に、戸惑いと怒りが見えた。
このままでは、殺されてしまう。
ハイジャックされてから、初めてエンドルフが自分の死を意識した瞬間だった。
避けたかった。
この男を黙らせなければならない。
見えるのは男の感情だけだろうか。
さらに、まるで凝視するかのように、右目でよくやるように、左目となるべきものがある場所に、力を込めた。
エンドルフには、男の思考の流れそのものが見えた。
――私を殺そうとしている。
見えるなら、触れられるかもしれない。
咄嗟の思いつきで、エンドルフは男の思考に自分の意思を割り込ませた。
男の思考が、書き換えられていく。
何事もなかった。
そう思い込ませた。
成功した。
そう確信したとき、エンドルフは左目の穴を隠していた。
眼帯の位置を戻す。
男は姿勢をただし、エンドルフと両親を見ようともせず、歩みさった。
左右の両親は、ものを問いたそうな顔つきをしていても、声をかけてはこなかった。
エンドルフは、自分が震えていることに気付いた。
怖いのは、ハイジャックではない。自らの産まれ持った力が持つ能力と、その可能性の恐ろしさに、震えが止まらなかった。




