6 誘拐犯を追って
月形コマチを置き去りにして走り去ったあと、エヌエトはイタリアの日本大使館に隣接する喫茶店にいた。月形コマチが大使館に戻るより、実際には早かった。
エヌエトは、メニュー越しに大使館に入っていく月形コマチを眺めていた。
発信機と盗聴器のスイッチを入れる。エヌエトは通常体を覆う黒いマントを愛用しているが、おしゃれだと思っているわけではなく、怪しげな機械を隠すために使用している。
マントの中には無数の装置が作動しているが、エヌエト本人が手にしているのは小さなモニターである。耳に入れたのは、電話をするための道具ではなく、盗聴器の音声を届けるための小道具である。
――やっぱり動いたか。ハイジャック事件と関係があるのかどうかは、微妙なところだが。
エヌエトは、指令どおりただのハイジャック事件であれば、関わるつもりは無かった。
警察か軍隊の仕事である。そもそも、空港に停泊している飛行機に、犯人に気付かれずに乗り込む方法など無いのだ。見晴らしの悪い空港などあるはずがなく、近づこうとすれば必ず見つかってしまう。
ゼロ課にスカウトされた少女も、まだ少女であれば、普通のハイジャックなら真っ先に殺されるなどということはないだろう。
乗員が全滅することがあっても、少女は生き残るかもしれない。何の力もなく、ゼロ課がスカウトするはずがない。ゼロ課から正式に仕事の要請があったわけではないのだ。無視しても、任務の放棄にはあたらない。
盗聴器は、月形コマチが『レンさん』と呼んだ女の声を拾っていた。大使館の職員に指示を出している。日本帝国化法人に、そんな権限はない。しかも、大使館の職員が気絶した女を袋詰めにして運び出すなど、あるはずがない。
月形コマチは、袋詰めにされたまま、車に詰め込まれたようだ。
移動速度が、人間のものではない。車道の中央を移動しているので、車に乗せられていると考えて間違いない。
声が聞こえているが、受信の状況が悪いのは、袋に入れられたままなのだろう。
どこかに運ばれるらしい。
発信機は見つかっていないようだ。月形コマチの腹の中にあるので、専門の道具で調べない限り発見されない。
急いで追いかける必要もなさそうだ。エヌエトはフォークを手に取った。
先ほどから、目の前に注文したケーキセットが置かれていたのである。イタリアといえばティラミスだ。イタリアに来た目的は四号の墓参りだが、名物を食べずに帰るということはない。
エヌエトはコーヒーの香りを嗅ぎ、ブラックのままカップを傾けた。
濃く、苦い。口の中に、鮮烈な苦味が広がる。
フォークをティラミスの表面に突き刺した。ティラミスは、コーヒーパウダーをまぶしたチョコレートケーキである。一口大に刻んだティラミスをフォークに刺し、口に運ぶ。
舌と口蓋で押しつぶされたケーキが、口腔にねちょりとまとわりつく。強烈な甘さだ。
カカオ特有の苦味が、ふんわりと広がる。コーヒーの苦味と交わりあい、芳醇な香りとなって鼻から抜ける。
――美味いな。
エヌエトに好き嫌いはない。美味いものはすべて美味いのだ。ティラミスを次々に口の中に運んだ。
いつの間にか、ケーキ皿は綺麗に片付いていた。
まるで月形コマチだ。
凄まじい勢いでマカロニを掻き込んだ、若い女性の姿が思い出された。
忘れていたわけではない。モニターを覗いた。しばらく大丈夫だろうと放っておいたのだ。
最後にコーヒーを味わいながら、モニターをじっくりと眺める。
月形コマチを表す光点はとまっていた。どこかの建物だ。
アパートの一室、あるいは地下かもしれない。
コマチの襟首に仕掛けた盗聴器が声を拾う。
女がコマチに尋ねていた。柿沼レンが尋ねたのは、接触したゼロ課職員の特徴と情報だった。
つまり、エヌエトのことだ。
月形コマチが、相手の女の名前を呼んだ。『柿沼レン』というらしい。
あえてフルネームを呼んだのが、エヌエトの盗聴を察してのことだとしたら、コマチに対する評価を考え直さないといけない。だが、たぶん偶然だろう。
――さて、余計なことをしゃべる前に、かたをつけよう。
女はゼロ課七号に関することを執拗に聞き続けていた。エヌエトはケーキセットの代金を支払い、外に出た。
店に入る前に、ゼロ課の支援組織に連絡してあった。
エヌエトが注文したとおりに、オートバイが止めてあった。エヌエトが身分証をかざすと、何もせずにエンジンが駆動する。
川崎の四五〇ccだ。街中を走るには手ごろなサイズである。
バイクにまたがり、『柿沼レン』という名前を支援組織に連絡し、調査を依頼した。アクセルを回した。
発信機が示した建物まで、五分とはかからなかった。バイクを乗り捨て、建物に侵入する。
発信機は衛星回線から位置を知らせているので、上下の位置関係までは解らなかった。
耳を澄ませる。
レンガの壁で覆われた、古式ゆかしいアパートだ。
盗聴器の受信状況から、地下室だろうと見当をつけた。
地下室を探した。
一般の住人が使用する出入り口からは、地下室の存在さえ見出せない。だが、盗聴器の声は地下にいることを物語っている。それほど、電波の状態が悪い。
経験上、エヌエトはコマチが地下にいることを疑わなかった。
管理室の位置から、ボイラー等機械室にあたりをつける。建物内に潜伏することが多いため、ゼロ課の捜査官に建築物の知識は必須である。
少しだけ迷ったあげく、エヌエトは管理室ではなく先に機械室を覗くことにした。できれば、無用な争いは避けたかった。
機械室に、黒ずくめの男がいた。
――当たりだ。
主にボイラーの調整をするための場所に、スーツ姿はあまりにも違和感がある。スーツの男は、エヌエトの姿を認めて動揺した。
解りやすい男だ。懐に手を伸ばした。手の動きからして、名刺交換ではあるまい。懐に、武器を隠している。
エヌエトは距離を詰めた。男の手が懐から抜き出される前に距離を殺し、懐から抜き出された手を跳ね上げた。
拳銃が轟音を上げ、天井を覆う鉄パイプに穴が開く。蒸気が噴出した。エヌエトは突進を緩めず、男の体に向けてさらに進んだ。
壁とエヌエトに圧迫され、男が苦鳴をあげる。さらに押す。
男の骨が鳴った。あるいは折れたかもしれない。その感触が伝わる前に、エヌエトは男から離れた。
まるでゴミくずのように、男がくたりと倒れた。その背後に扉があった。急に設えた扉にはみえない。構造からは、地下室の入り口に間違いないように見える。
たまたま、地下室の入り口がある位置に機械室を作ったのかもしれない。そうでなければ、地下室を隠すように建てたのだ。建築した当時から、表立って公言できないことをするために地下室を作った可能性がある。
見張りを立てたことで安心しているのか、扉には鍵がかかっていなかった。
扉を開ける。
中を覗かなかった。
罠がない。そのことを確認してから、中を覗く。
暗い。
携帯端末の液晶画面で照らす。
一見石造りに見えるが、石で覆われた下に、最新設備が隠していないという保証はない。
扉を開けたとたん、盗聴器が鮮明に声を拾い出した。
もっとも、意味のある会話ではなかった。
ほぼ悲鳴しか聞こえない。
エヌエトは、焦って走り出すことはなかった。
一歩ずつ、慎重に足元を確かめる。
階段がらせん状に渦を巻いていた。
正確に三〇段降りた。部屋一つ分よりも深く降りたことになる。
明かりが見える。携帯端末を懐に戻した。
扉があった。扉の隙間から、光が漏れ出ていた。
扉を目の前にする。
なおも、エヌエトは急がなかった。
扉をじっと見つめる。
隙間から覗いた。
月形コマチがいた。
縛られている。
コマチの目の前に眼鏡の女がいた。『柿沼レン』だろう。その周りを囲むように、体格のいいスーツの男が三人、月形コマチを囲むように立っていた。
エヌエトは、一度戻した携帯端末を再び取り出した。『柿沼レン』について、問い合わせをしておいた結果を確認する。
日本帝国化法人に入社したのは一〇年前だ。その間、怪しい動きはしていない。ゼロ課と関わったこともない。入社前は研究系の専門学校に通っていたが、研究者としては成功する見込みがないと思ったのか、日本帝国化法人の事務職募集に応募してきたということだった。
得られた情報は少ない。だが、『柿沼レン』がどんな人物か、何が起きたのかは想像できた。
――Fの奴、内通者をいぶりだすために、わざと情報を流したな。
ゼロ課がスカウトした少女がハイジャックに巻き込まれたのは、ただの偶然だったのかもしれない。肝心なことは、ゼロ課が関わる事件が起きたことと、七号を背負うエヌエトが、たまたま休暇で近くにいたことなのだ。
経歴からは、『柿沼レン』のことを疑う理由はない。だからこそ、行動を起こすように仕向けたのだろう。柿沼レンは、直接エヌエトと接触する機会だったはずなのに、月形コマチに行かせ、間接的に情報を得ようとした。
つまり、危険は冒さない。慎重な女だ。月形コマチを誘拐し、顔を晒したということは、いずれにしても月形コマチは殺すつもりだからに違いない。
エヌエトは扉を押し開け、中に侵入した。
「誰! ……まさか……ゼロ課?」
盗聴器で聞きなれた『柿沼レン』の声だ。悲鳴に近い。甲高い女の声と同時に、三人の男が懐に手を入れた。エヌエトの目は、奥でぐったりとしている月形コマチを捉えていた。まだ、生きてはいるようだ。
足に力を込め、一気に踏み出した。
男達が懐から銃を抜き出した。動きが早い。手馴れている。銃口も、的確にエヌエトを狙っていた。
届くまで三歩かかる。二歩目で引き金が引かれる。
このまま進んだら死ぬ。
エヌエトは、産まれながらに殺すための道具を握っていた。殺すことにも、死ぬことにも長けていた。同時に、どうすれば死ぬのかを心得ていた。
相手の指が引き金を引く寸前で、エヌエトは軽く体をひねった。
銃声が三つ、ほぼ同時に響いた。
エヌエトが倒れる。弾丸は避けきった。体勢は保てなかった。
「七号さん!」
月形コマチが叫んだ。エヌエトは唇を噛んだ。敵だとわかっている相手の前でコードネームを絶叫するとは、うかつにもほどがある。
エヌエトは伏せていた。うつぶせに倒れていた。
腕と足に、同時に力を込める。
一気に距離が詰まった。
月形コマチの前に、『柿沼レン』がいた。
『柿沼レン』の顔を掴み、月形コマチの目の前に迫った。
「生きていたようだな」
「七号さん、あいつら、やっちゃってください!」
月形コマチの顔は、涙で汚れていた。濡れていたというより、泥で汚れていた。手足を縛られたまま転がされ、痛めつけられたらしい。
「俺のコードネームを人前で呼ぶな。こいつら、お友達じゃないぞ」
「だったら、なんて呼んだらいいんですか?」
「こいつらの前で、名乗ると思うのか?」
月形コマチは、さも驚いたように目を見開いた。
「殺すんじゃないんですか?」
死ぬ相手になら、名乗っても問題ない。確かにその通りだ。
「俺のこと、殺人鬼だとでも思っているのか?」
涙を流し、泥にまみれ、口からは血を流している。それなのに、月形コマチに悲壮感はなかった。これが地ならたいしたものだが、エヌエトの姿を見て安心したことのほうが大きいだろう。
「……はい」
ためらうように間を空けはしたが、はっきりと聞き取れる声でコマチは言った。
エヌエトは反論する気にもならず、拳銃を構えなおす男達をにらみつけた。
銃口を正確にエヌエトに向けている。ただし、エヌエトは『柿沼レン』の首に腕を回し、抱き寄せるように盾にしていた。
「放しなさい! 卑怯者!」
『柿沼レン』は叫んだ。酷い言われ方だ。自分の同僚を誘拐して拷問するような女に言われたくはない。エヌエトは、意識せず腕に力が入ったようだ。首が絞まったのか、『柿沼レン』が苦しげな声を漏らし、舌を出した。
「この女に、人質としての価値があるのか?」
エヌエトは、男達に尋ねた。構えられた三つの銃口が、迷うように揺らいだ。
「この男を殺して!」
女が叫ぶ。男達の銃口の揺らぎが止まった。引き金にかけた指に力が入るのを、エヌエトは面白くもなく見つめていた。
――仕方ないな。できれば、使いたくはなかったが……。
エヌエトの手に、突然拳銃が出現した。使いたくはなかった。その銃で、四号を殺してしまったからである。
その時、引き金を引いたのはエヌエトだった。引かせたのは四号だ。だが、死なせたのはエヌエトの能力だ。
産まれたときに、複雑な道具を持っている者は少ない。拳銃を持って産まれてきた者を、他に知らない。
エヌエトが引き金を引けば、一発で確実に一人が死ぬ。それが七号のコードネームを持つ、殺し屋に産まれついた男の能力である。
銃口が人を捕らえていれば、その人間が死ぬ。銃口の先に誰もいなければ、エヌエトの最も近くにいる人間が死ぬ。
エヌエトが遠くにいる人間を狙うときは、絶対に産まれ持った銃は使用しない。外せば、無関係な人間が死ぬからである。
望んで得た能力ではない。
いつの間にか覚醒した。
もはや、選びなおしは不可能だった。
無関係な人間を殺さないために、エヌエトは誰よりも銃の訓練をした。拳銃で正確に的を狙うのは難しい。だが、障害物がまったくない場所なら、かなり離れた距離でも狙い撃つ自信があった。それでも、至近距離でなければエヌエトは撃たなかった。
三回、引き金を引いた。当たりさえすれば、確実に死ぬ。それがエヌエトの能力だ。金属が金属を撃つ、渇いた音の後、三人が死んだ。
男達の死体が転がった。
『柿沼レン』が悲鳴を上げた。エヌエトが腕を緩める。へたり込んだ。
エヌエトが覗き込む。『柿沼レン』は、銃を持つエヌエトの手を跳ね除けようとした。
「こいつらが、撃たれて死んだわけではないことは解るだろう」
「……死んでいるの?」
「ああ。蘇生も不可能だ。銃を遠ざけたところで、引き金を引けばお前も死ぬ」
眼鏡の奥の目が震えていた。経歴に偽りはないようだ。所属する組織を裏切ったことに、なんの覚悟もない。ゼロ課を敵に回すということを、理解していない。日本帝国化法人を裏切った理由は、金か、あるいは男かもしれない。
「『柿沼レン』、お前に命じたのは誰だ?」
「どうして名前を?」
声は背後からだった。月形コマチだ。説明するのも面倒だ。エヌエトは振り向かず、女を見つめた。
「……知らないわ。お金が振り込まれて、指示書が届くのよ。逆らうことはできない」
嘘かもしれない。真偽を確かめる方法も無い。エヌエトは言葉を返さず、質問を重ねた。
「俺のことを聞き出して、どうするつもりだった?」
「知らないわ。聞いたことを連絡するだけよ。私に目的なんか無いわ」
「連絡の方法は?」
「会いに来るのを待つの……」
咄嗟に嘘を思いつかなかったのだろう。『柿沼レン』は語るに落ちた。
「会いに来る奴が、振込みと指示書だけ? 目的も教えない? そんなはずがないだろう。その男とは、何年前からの付き合いだ?」
エヌエトは、あえて下世話な言い方をえらんだ。女の目に怒りの感情が垣間見えたが、すぐに顔を背けた。
「言いたくないわ」
「もう一度、会わせてやってもいい」
「あの人も、一緒に殺すため?」
女の顔が歪んだ。自分の命にあきらめた人間の表情だった。エヌエトは見慣れていた。交渉は、ここからだ。
「一緒に死ねるとしたら、悪い話じゃないだろう」
「……そうかもね」
『柿沼レン』の口を通じて、一つの名前が発せられた。
エヌエトはすぐにその名を調査させた。
ゼロ課のブラックリストに名を連ねる、国際的なテロリストの一人だった。
――つながったか?
問題は、ハイジャック犯とのつながりだ。確信はまだない。『柿沼レン』の持ち物をすべて奪い去ってから、エヌエトは投げ出されたまま横倒しで縛り上げられたままの、月形コマチの戒めを解いた。




