5 月形コマチのお仕事
黒いマントにシルクハットのような帽子を被ったエヌエトが走り去るのを、月形コマチはにらみつけた。
たしかに、驚くような身体能力だ。ただ走るだけの動作を見ても、肉体の強さは推測できる。
男の肉体能力がいかに凄まじいかを理解できるのも、月形コマチ自身、日々の鍛錬は欠かしたことがないほど鍛え上げているからである。
――あの男……七号、私を『足手まとい』ですって……絶対に、後悔させてやる。
手の中から薙刀を消し、大きなリボンを取り出した。生み出したのではない。バックに入れておいたのだ。
長い髪を背後で止める。可愛らしくしたわけではない。月形コマチにとって、それは戦う準備である。
ゼロ課七号は、産まれたときに拳銃を手に握っていたと言われている。ゼロ課の職員でなくとも、日本帝国化法人にとっては比較的有名な話だった。そんな話が公になるほど、七号は優秀な捜査官として知られていた。
他に拳銃を持って産まれた男など、聴いたことも無い。特殊な能力を付与されていると考えて間違いない。
その能力が、任務の遂行に役立っていないなどということがあるだろうか。
月形コマチは日本帝国化法人、イタリア支部に向かった。
ハイジャック事件の詳細を調べるためであるが、単に自分の職場に戻るという意味もある。月形コマチは、日本帝国化法人の事務員である。
メッセンジャーを探していると聞きつけて名乗りを上げたのだ。ずっと、ゼロ課にはあこがれていた。格好いいからである。
工作員として働いている間は、莫大な報酬と多くの特権が与えられるということも知られていた。その詳細までは確認できなかったので、ただの噂かもしれない。だが、話を聞くかぎり信頼できるものであるような気がしていた。
日本帝国化法人イタリア支部は、イタリアの日本大使館内部にある。つまり、法律上は日本国内である。
三人ほどの事務員しかいない。それ以上に、仕事がほとんどない。月形コマチが戻ると、出て行ったときと同じようにのんびりとした空気が流れていた。
支部長が奥の机で、のんびりと読書をしている。イタリア語の勉強らしい。
もう一人の事務員も女性である。母親の体内からペンを持って産まれたらしい、事務のプロである。
年齢は三〇を越しているはずだが、詳しく尋ねたことはない。
「お帰りぃ」
年齢の割に甘えたような口調で、事務の女性、柿沼レンが声をかけた。黒ぶちの丸眼鏡がよく似合っている。
「無事に帰ってきたようだな」
本から目も上げずに、支部長の谷川ヤサクが興味もなさそうな声を出した。かつては日本大使館で外交官を務めていたらしいが、現在は退職している。いわば、独立法人への天下りである。イタリア語も堪能だったはずだが、日本に戻っているうちに忘れてしまったのだというのが口癖だった。そのために、現在は勉強をしなおしているのだろうか。年齢は六〇を越えているはずである。
「支部長、ハイジャック事件はどうなっています?」
自分の席を素通りし、月形コマチはまっすぐに支部長の席に向かった。
月形コマチは自らイタリア支部を志願した。それは、戦闘系の才能ある事務員を募集していたからである。
活躍の機会があると思っていた。戦闘の才能を生かせると思ってのことだった。
実際には、まったく戦闘の才能は要求されなかった。募集していたのは、事務仕事以外の能力のある職員が、法人のみならずイタリア大使館内に誰もいなかったため、万が一のための用心棒として探していただけだと聞かされた。
ゼロ課へのメッセンジャーだと聞いて、月形コマチは事件の詳細について知る前に引き受けたのである。
「新聞を読みなさい。仕事に戻ることだよ」
「ゼロ課からは、何か言ってきていませんか?」
支部長の谷川ヤサクは顔さえあげなかった。視線も本に落としたままだ。横から、事務員の柿沼レンが声を上げた。
「ゼロ課とは関わらないほうがいいわよぉ。もう忘れなさいよぉ。それに、事件のことを知ってどうするつもりなのぉ? 命が惜しいなら、この件はもう忘れるのねぇ」
「でも……このまま見殺しにはできません。同じ組織の仲間ですよね」
「違うよ」
支部長が短く答えた。意外な言葉だった。コマチが顔をゆがめた。
「『違う』って、どうしてですか?」
「確かに、組織上は同じかもしれない。だけど、仲間じゃないんだ。むこうもそうは思っていない。ゼロ課にすべての権限が集められているんだ。ゼロ課とは対等じゃないんだよ。ゼロ課は我々を使役する権利を持つ代わりに、我々を守る義務を負う。そういう関係なんだ。ゼロ課からもとめられれば従うけど、求められない限りは一切口出ししない。イタリア支部からメッセンジャーを出すよう求められたときは……誰かが死ぬものと覚悟したけどね。無事に帰ってきてくれて、安心したよ」
ずっと本から顔を上げなかった支部長が、視線をコマチに向けた。六〇歳を越えている。
コマチからみれば、老人に他ならない。だが、優しい物言いをされると嬉しくなった。コマチは鼓動が早くなるのを感じたが、顔には何も出さなかった。出なかった、はずだ。
「新聞を借りてきます」
日本帝国化法人のイタリア支部では新聞を取っていない。
もちろん、イタリア大使館ではすべての新聞をとっている。読みたくなれば借りてくるのだ。重要な記事にはマークがしてあるので、自分で新聞をとるより時間の短縮になるし、何より便利なのである。
顔が赤くなっているような錯覚を覚え、月形コマチは顔を伏せるように事務室を出た。事務室から一歩出れば、純粋にイタリア大使館の中である。廊下を進む。
新聞が置いてある場所はわかっていた。新聞をとりに行く前に、トレイに寄った。
尿意を催したわけではない。もちろん便意でもない。トイレに入り、鏡を見つめた。いつもの見知った顔だ。変化はない。表情も顔色も、いつもの可愛らしい顔だった。
「本当に、よく生きて帰ってこられたわね。ゼロ課の数字つきと接触したのに」
声は背後からした。姿は見えなかった。鏡越しに背後を見たのだ。鏡に映らない角度にいるのだろう。
聞き知った声だ。振り返らずとも、誰かはわかっていた。事務員の柿沼レンである。
微妙に口調が違う。普段の甘えたような声は、男が近くに居る時だけなのだろうか。高齢の支部長でも、男には違いない。
深くは考えず、コマチは返答した。
「そんなに危険は無かったですよ。ああ……そうでもないですね。途中で、赤い車に追いかけられましたから。ベンツのレンタカーが大破しましたけど、ゼロ課の経費で持つから心配要らないと言っていました」
振りむいた。柿沼レンが目の前にいた。驚いた。鏡にずっと映っていなかったので、離れていると思っていたのだ。まるで、コマチの死角を狙って動いたかのようだった。
「そう言ったのは、ゼロ課の捜査官?」
「はい。七号さんです」
「ゼロ課の数字つきでも唯一、人を殺すためだけに産まれてきた男よね」
「レンさん、お詳しいですね」
黒ぶちの眼鏡の奥で、目は静かに、鋭くコマチを見つめてきた。
「別に、殺人鬼っていう感じではなかったですよ。本人はいい人かもしれません。ちょっと感じは悪いですけど。私のこと、まるで素人みたいに扱ったし」
「それは正しいんじゃない? だって、コマチは素人だもの」
聞き捨てならなかった。柿沼レンは、ペンを持って産まれてきた生粋の事務屋である。凶器を持って産まれたコマチを、素人呼ばわりするとは考え難いことだ。
「これでも、私は薙刀で全国大会に出たことがあるんですよ」
「でも、素人には変わりないわ」
「じゃあ、どうすれば素人じゃなくなるんです?」
柿沼レンの顔が歪んだ。笑ったのだとは、しばらく気付かなかった。邪悪に歪んだように見えた。口を開いた。
「まずは、自分の実力を思い知ることかしら。特に、うかつさをね」
柿沼レンは、電気式の機械装置をコマチの腹に押し付けた。電子音と共に、腹に衝撃が走った。
腹筋も鍛えていた。鍛錬の効果はなかった。
コマチは成すすべもなく、昏倒させられた。




