4 ごくありふれた日常
イタリアの石畳で舗装された狭い道を、街中の洗濯物を巻き込みながら進み、エヌエトは突然ハンドルを切った。
広場に出た直後のことである。
一八〇度反転し、あとをつけていた赤い車に正対した。
赤い車の運転手が慌てているのが見えた。
「ちょ、ちょっと、銃を構えていますよ」
後部座席で転がり続けていた月形コマチが、慌てて叫んだ。
エヌエトの車をつけていた赤い車の助手席にいた男は、ずっと銃を持っていたのだ。
月形コマチは後部座席にいたために、ミラーでの確認もできず、転がっていたために後方を覗くこともできなかったのだろう。
もちろん、バックミラーでの確認ができた運転席のエヌエトは知っていた。あえて言う必要を感じなかったから黙っていただけなのだが、言ったほうがよかっただろうか。
「撃たれる前に撃て」
「何をですか?」
銃に決まっている。エヌエトが念のためにミラーで後部座席を見ると、コマチは手を振り回して慌てていた。
どうも丸腰のようだ。
「銃は?」
「そんなもの持って、海外にこられるわけないじゃないですか! ゼロ課の職員じゃないって言っているのに!」
「俺を迎えに来るのに、丸腰できたのか? たいした度胸だ。いつから尾行されていたのか、知っているか?」
「び、尾行されていたの?」
「そうでなければ、こんなタイミングで追っ手があらわれるはずがないだろう。どうやって、俺が七号だと知った?」
こちらに、反撃の手段がない。
エヌエトは、手の中に産れ持った銃を生み出せるが、自らの銃は抜きたくなかった。車のギアをトップに入れる。銃を使わずに相手を潰す方法は、決して多くはない。
「えっ……私はただ、指令書にしたがって、用意されていた車を使ってあなたを迎えにいっただけですよ」
「『指令書』? ゼロ課では使わないな。Fめ、他所の課へ丸投げしたな」
指令書を受け取った場所、受け取り方法、車を手配されていたという事実からに考えて、どこから情報が漏れていたか、候補が多すぎて特定できない。
――Fめ。わざと情報を漏らしたのか。
エヌエトが任務を引き受けざるを得ないようにするためだ。追ってきている連中は、Fが『緊急事態』と言った内容とは、まったく関係がない可能性も高い。
ゼロ課の数字付き特殊工作員といえば、皆殺しにしたがっている連中は枚挙にいとまがないのだ。追われた以上、この街にはいられない。
どうせ休暇が潰れるなら、逃げるより任務を選ぶと思っているのだ。
「どうする気ですか? 反撃しないんですか?」
追跡してくる赤い車はホンダだった。イタリアの国産車を愛するという気持ちはないらしい。
小回りの利く日本車は、古い町並みを大切にする欧州各町で人気が高い。エヌエトに誰かが用意したベンツでは、入り組んだ下町で振り切ることはできないだろう。ただし、頑丈さでは雲泥の差がある。
「伏せていろ」
ベンツのガラスに穴が開いた。発砲されたのだ。月形コマチが悲鳴を上げて伏せる。エヌエトはアクセルを踏み込んだ。
急発進するベンツのハンドルに顔を隠した。運転席の扉を開ける。低速ギアにしたままである。速くはない。
「七号さん、私はどうすればいいんですか?」
――知るか。
叫びかけたが、月形はほぼ一般人だ。冷たく突き放すべきではないだろう。
「踏ん張れ!」
「それで?」
「祈れ!」
「そんなぁ……」
エヌエトは車から飛び出そうとした。
赤い車がバックしていくのが見えた。向こうの運転手は想像していたよりも冷静のようだ。エヌエトは舌打ちし、体を低くしたままギアを入れ替える。
向こうはバックだ。どれだけ急いでも、小さな車でも、ぶつからずに下がるのは難しい。
追い詰めるうちに、赤い車の中で白い風船が膨らんだ。エアバックが作動したのだ。運転手の身動きができなくなったことを確認し、エヌエトは広場まで後退した。
人ごみの多い大衆食堂で、エヌエトはマカロニとピザを注文した。
「このお店は、大丈夫なんですか?」
出会った当初のりりしい女性とは別人のように憔悴した月形コマチにも、同じものを注文した。食欲がないと主張したが、莫大な予算を持つゼロ課が経費で持つからといって、エヌエトが強引に注文した。厄介払いするにしても、空腹の相手は扱いづらい。
「『大丈夫』とは? どういう意味だ?」
「だから、私達を狙ってくる相手がいないんですか?」
水を自ら運び、疲れた顔をした月形の前にも置いてから、エヌエトは答えた。
「世界中に、あんたを狙っている人間がどれだけいる?」
「……命を、という意味なら、いないと思いますよ」
「俺を狙っている人間は、逆だ。世界中に『大丈夫』な場所なんかどこにもない。それがわかったら、その無駄に情報を漏洩させる口を閉ざすんだな」
口に水を含む。コマチも同様に水を飲んだ。周囲の客を観察する。水を飲んでいる客が多い。つまり、ここの水は毒ではない。エヌエトは、確認してから口に含んだ水をのどの奥に流し込んだ。
「さっきのことだが」
「……はい」
エヌエトから黙れと言っておいてすぐに話し出したことに驚いたのか、コマチはずいと身を乗り出した。
「『命を、という意味なら』と言ったな。別の意味であれば、狙っている男がいると思っているわけだ。たいした自信だ」
月形コマチの顔が一瞬で上気する。真っ赤になって、エヌエトの頬に平手を伸ばした。エヌエトは直前でかわし、姿勢を崩した月形に向かって、任務のことを話すよう促した。ただし、忠告を施して。
「声を出さずにな」
「どうやって話すんですか?」
「唇を読む。読唇術を使える人間に見張られている心配があるなら、コップの口に当てて唇を動かすといい。正面から、つまり俺の位置から見ないと、正確に読むことはできなくなるからな」
「いやですよ。そんな恥ずかしいこと」
「お前が思うほど、回りの人間はお前には興味がないと思うがな」
またもや、月形コマチは顔を上気させた。今度は恥ずかしいのではなく、単純に怒ったのである。
料理が運ばれてくるまで、あるいは運ばれてきた後も、二人は静かに過ごした。
月形コマチが口頭で任務を伝える。ただ、唇のみを動かし、エヌエトがそれを読む。
難しい事件ではなかった。イタリア国際空港で起きたハイジャック事件だ。難しくないというのは、政治的な背景が絡んでいる傾向がないという意味である。
ハイジャックには必ず人質が付きまとい、移動機関の内部で行われるため、被害を出さずに終結させるのはきわめて難しい。逆に言えば、犠牲を厭わなければ解決は早い。
飛行機の運用会社や治安を司る政府から、ゼロ課に対して依頼があったわけではない。
なぜゼロ課の捜査官が動くことになったのかといえば、特殊な才能を持つと期待されている、ある少女がたまたまその飛行機に乗っていたからである。
人間は、すべて自分の才能を象徴する道具を持って産れてくる。ほとんどが、単純な構造を持つ簡単な道具である。万年筆や、スパナ、ナイフといったものだ。
逆に、それ以外のものを持って産れるのは極めてまれだ。エヌエトのように、拳銃のような複雑な道具を持って産れる者はほとんどいない。
全く役に立たない物をもって産れるものも少ない。少女は、手に水晶玉を持って産れた。代わりに、片目がなかったという。
――握って産まれたのは、ただの水晶ではないだろうな。自分の目を持って産まれたと考えるのが当然か。上が注目するわけだ。どんな能力を持っているか、想像もつかない。
エヌエトのように複雑な道具をもって産まれる者、何に使うのかわからない物を握って産れる者、はごく限られた例外であり、そういった例外では、ほぼ必ず、特殊な能力が備わっている。
ハイジャックされた飛行機に乗り合わせたというだけでも運が悪い。だが、エヌエトはその少女に実際以上の悲劇を感じていた。
特殊な能力を付与されて産まれるということの意味を、エヌエトは嫌と言うほど実感させられていたのだ。
塩茹でのマカロニと、ベーコンピザが運ばれてきた。
エヌエトは常に周囲を警戒している。警戒しながらも、ごく自然に食事を楽しめるのは、経験がなせる技である。
フォークでマカロニを突き刺す。短いパスタである。心地よい抵抗と共に、フォークの先端が沈み込む。
――いい茹で具合だ。
香りを楽しんでから、口に運ぶ。
暖かい湯気で、口の中が満たされる。
上下の歯ではさみ、マカロニからフォークを抜き取る。
歯で潰した。
味気は少ない。塩だけだ。
だが、マカロニ本来の味とあいまって、塩味が絶品だった。
「美味いな」
味覚をリセットするために、エヌエトは口を水ですすいだ。目の前で、コマチがすばらしい勢いでマカロニを口に運んでいた。
『美味しいですか?』
口の動きだけで、コマチが尋ねた。エヌエトの発言を受けての質問だろう。ピザに手を伸ばそうとしていたエヌエトは、小さく笑みを浮かべた。
「仕事と関係ないことを話すときは、声を出してもいいんじゃないか?」
「あっそうですね。これ、美味しいですか?」
エヌエトと同じものを食べていながら、あきらかに不思議そうな物言いをしていた。マカロニがあらかた無くなった自分の皿を指している。店の人間が日本語を理解できないであろうことを、エヌエトは祈った。
「ああ。茹で加減といい塩の利かせ方といい、ここの料理人はいい腕をしているな」
「……そうですか? 私には、薄味すぎて、味がしないんですが」
その割には、急いで食べたものだ。エヌエトが尋ねると、美味いと思わなかったので、とにかく腹に入れてしまおうと思ったらしい。
普段の食生活がしのばれる。まだ若いから体形も崩れずにすんでいるのだろうが、十年後が楽しみだと思いながら、エヌエトはベーコンピザを口に運んだ。
ピザ生地のしっかりとした食感が口の中で楽しい。生地が歯を受けとめ、チーズとトマトソースの風味が口の中に広がる。
ベーコンの甘味がアクセントになって心地よい。
「ピザはどうだ?」
「美味しいです」
コマチがにっこりと笑った。つまりコマチの舌は、味の薄いものは理解できないのだ。味覚を感じるための必要な栄養素が不足しているのかもしれない。
――情報が少なすぎるな。
料理についての感想ではない。マカロニをじっくりと味わいながらも、エヌエトはハイジャック事件のことを考えていた。
エヌエトとしては、味の濃いピザを時折混ぜる程度で、繊細な味付けの塩茹でマカロニを堪能したかった。コマチにあわせる意味は無い。任務の詳細を伝えたら、この娘の仕事も終わりだ。二度と会うことはないと思っていいはずだ。
「ご苦労だった」
ピザとマカロニを綺麗に平らげ、伝票を持ってエヌエトは席を立とうとした。
「これから、どうするんですか?」
エヌエトはコマチの顔を見た。立ち上がりかけていたので、見下ろすことになる。コマチは、エヌエトよりだいぶ早く食べ終えていた。エヌエトが食べ終わるのを静かに待っていたのだ。
必要な情報は伝えたのだから、エヌエトにもう用はないはずだ。妙な態度だとは思っていた。
「聞かないほうがいい。命を狙われることになるかもしれない。俺もこんな場所で自分の足取りを公表するつもりは無い」
「私も行きます」
――どういうつもりだ?
月形コマチは、薙刀の柄の一部を握って産まれてきたらしい。母親の体内を突き破らないように、柄の一部だけだったのだろう。手の中で伸縮自在な薙刀は、それ自体で一つの特殊能力ともいえる。
何より、武器を持って産まれてきたのだ。戦闘における才能に恵まれているのには違いないだろう。
そういった人間に、ありがちな勘違いをしているのだろうか。
「足手まといだ」
はっきりと言った。そのつもりだった。
「役に立てます」
まったく解っていないらしい。
「無理だ」
「どうしてですか? 私の才能は……」
才能を産まれたときから自分の手で握っている、ということは、人間から努力することの大切さを奪ってしまったのかもしれない。コマチが最後までいい終わる前に、エヌエトは断言した。
「実践で使用できる水準ではないことは、証明してやったはずだろう」
出会い頭にエヌエトの不意をつこうとした月形コマチを、エヌエトは一蹴して見せた。
コマチは口をぱくぱくと開閉させたが、言葉を吐かずに動かなかった。あからさまに失望した表情をしていた。ゼロ課の捜査官になることでも、希望しているのだろうか。
エヌエトは浮かしかけた腰を完全に立ち上げ、伝票を持ってレジに向かった。
支払いを済ませ、店を出る。
車は大破した。ゼロ課の支援をする機関は無数にある。そこまでの移動は、徒歩であるのが最も安全だ。
周囲を確認し、走り出そうとしたとき、大衆食堂から駆け出す足音に気付いた。走り出すのを止める理由はなかったが、足音から感情の揺らぎを感じ取り、エヌエトは気の毒になって振り向いた。
「待って!」
言われるまでもなく、エヌエトは待った。食堂から飛び出した月形コマチは、右手に薙刀を持って仁王立ちしていた。
「どうした?」
「どうすれば……実践で戦えるようになるの?」
あまりにも、当たり前のことだ。
「俺の任務に、戦いの能力は必要ない。重要なのは戦わずに解決する能力だよ。戦わなければならなくなったとき任務がまだ完了していないなら、その任務は失敗だ」
「なのに、どうしてあなたは、この仕事で実績を残せているの?」
「俺の長所は成功率の高さではない。生存率の高さにすぎない。その意味では、コマチの才能が使えないとは言わない」
月形コマチの顔が輝いた。よほどゼロ課に入りたいのだろうか。
――きっと、金に困っているんだな。
長くゼロ課に努めてしまったエヌエトには、一般人として生活が可能な人間が、ゼロ課に入りたがる他の理由が思いつかなかった。




