ある活劇
一階のロビーを見下ろす中華飯店の二階席で、エヌエトは食事をしていた。
店自慢の餡かけカニチャーハンは、確かに美味かった。
カニの身が塊で飯の上に乗り、レンゲで口の中に運ぶと、餡の甘さとぱりぱりとしたご飯の食感で、口の中がいっぱいになる。
エヌエトがチャーハンを楽しんでいると、給仕の女性が何も言わずに水を注いだ。
礼を言おうとしたとき、注がれたグラスの下に、小さなメモ書きがはさまれていることに気付いた。
――あれも組織の捜査官か。いい腕をしている。それにしても、肌を出しすぎだろう。
一瞥を投げかけようとしたが、給仕の女性は既にカウンターの向こうに消えていた。
もう一度ぐらい、眼福を楽しみたかったのだ。
チャイナドレスの下に長ズボンを穿かないのは、昔からの風習だっただろうか。いや、それ以前に、背中を大きく露出するのは伝統のチャイナドレスではあるまい。
メモに目を走らせると、小さく丸め、飲み込んだ。
いつもは火で焼くのだが、中華飯店で突然火を燃やしたら注目を集めてしまう。
素材が紙なので、体に害はないだろう。
エヌエトは自分の舌を信じた。間違いなく、天然の原料である三又の木から作成した紙だ。
味も悪くない。味はひょっとしたら、文字を書いたインクのものかもしれないが、舌がすこししびれる感じも刺激的だ。
――残念だが、あまり時間はないな。
カニチャーハンの上に、惜しみながらレンゲを戻す。
願わくは完食したかったものである。
耳に専用の受信機を入れ、懐に仕込んだ携帯装置の電源を入れた。
電話としても使用できる万能装置である。ただし、市販のスマートフォンより性能で勝るとは断言できない。
「ゼロ課か? 七号だ」
カニチャーハンの料金をテーブルに置きながら、エヌエトは立ち上がった。
エヌエトが所属する組織内でも、異質な存在がゼロ課である。
加算、減算において意味を成さず、乗算、除算においてすべてを無に返す。その性質から名づけられたものだと聞いている。
エヌエトに、課の成り立ちを研究する趣味はなかった。現実に存在し、エヌエト自身が所属するのだ。その事実だけで十分だと思っていた。
課内では、決して名前で呼び合うことも名乗ることもしない。
特に任務中は、すべてコードネームで呼ばれる。
その中でも数字のコードネームを持つ者は、現場で処理をする、いわば特殊工作員である。
『調子はどうだ?』
――Fか。
父親の意味でFと呼ばれる高齢の男の声だった。
Fが直接指揮をしているのなら、相当重要な案件なのに違いない。
現場で働くいわば数字付きは、案件の全容を把握していないことも多い。
捕まり、拷問されても口を割らないことは、特殊工作員には求められていない。
求めても無駄なことを、組織は知っているからだ。
つまり、初めから必要最低限以外の情報は与えられないし、組織から与えられた情報以上を求めることもない。
「餡かけカニチャーハンは絶品だ。あんたも一度食べに来るといい」
エヌエトは場所を移動していた。
二階席は一階から吹き抜けになっており、一階の様子はすべて視界に納めることができた。
一階席の奥の、真上に当たる場所で立ち止まった。
二階席の手すりに腰掛ける。
『それは楽しみだ。一分後に機動部隊を突入させる』
「了解した」
手すりに寄りかかったまま、エヌエトは背後に体重をかけた。
手すりに触れたまま、体を回転させ、二階席とはおさらばした。
空中で一回転すると、足が木製の足場を踏んだ。ぐらぐらとゆれる。
安定の悪いテーブルだ。
高級店の割に不安定なテーブルの周りには、強面と言っていい顔が並んでいた。中華飯店という看板に従い、丸い回転テーブルだ。
足場が悪いことには気にせず、エヌエトは懐から黒い装丁の手帳を取り出した。
周囲の顔を視界に入れる。どの顔もエヌエトに恨みでも抱いているかのように睨んでいた。
その中で、二つの顔を発見した。
長年、ある国家機関の捜査課が追い続けていた男だと、エヌエトは確認した。
「金玉聖とチャーリー・カンだな。この店は包囲した。抵抗すれば殺す」
世界をまたにするマフィアの大物と、その取引相手である。
おとなしくしているとは思わなかった。だから、エヌエトが呼ばれたのだ。
二人は同時に立ち上がり、背後の用心棒やら部下達にまぎれながら、懐から武器を抜こうとしているのがわかった。
エヌエトの手に、ピストルが生まれていた。取り出したのではない。生まれたのだ。なんの動作も無い。ただ、生まれた。
その現象を見た、金玉聖とチャーリー・カンが絶叫した。
「「殺せ」」
エヌエトは、引き金を二度引いた。弾は入っていない。
かちりと音が鳴った。用心棒たちが笑う。目標の二人は笑わなかった。
自分達に銃口が向けられたことを知った。
エヌエトのことを、知っていた。
テーブルを蹴り、エヌエトは金玉聖が連れていた美しい女の側に降りた。
長い金色の髪をした、見事な肢体の女だった。まるで、美しくあるために産まれてきたように見える。
「どうするつもり?」
動揺も驚きもなく、女はほぼ無表情のまま言った。
エヌエトのことを知っているのだ。
同じくゼロ課の捜査官だ。コードネームは四号、最前線の一人である。
「あと四〇秒で機動部隊が突入する。それまで持たせるさ」
「長いわよ」
「そうでもない」
二箇所で絶叫が上がった。ただの空砲を向けられただけだと思われていた、金玉聖とチャーリー・カンが死亡した。
――これで、目的は果たしたな。
エヌエトは警察ではない。別種の組織だ。すべてをゼロに返す。そのために存在している。
「全員おとなしくしろ。死ぬことになるぞ」
手帳を再び見せた。効果は絶大である。と思っていた。
背後から、背中を引っぱられた。転倒する。普通なら転ぶはずが無い。足をかけられたのだ。見事な手腕だと感心し、投げられるのに任せた。
後方に飛ぶと、エヌエトを投げた本人の背中が見えた。
四号だ。
チャイナドレスを間違って着るのが流行っているのか、スリットが空いた部分からなまめかしい太ももが見えた。
背後で金属音が聞こえる。銃を構えている。
エヌエトは背中を床についたまま、振り向いてピストルの銃口を向けた。
既に二つの組織の頭が潰されている。
エヌエトの動作に、緊張が走るのが解った。
「早く、こっちに!」
四号が叫んだ。どうやら逃げろという意味らしい。エヌエトは前方にいる人間を一瞥した。
大部分が男だ。
エヌエトに向かって正確に向かっている銃口の持ち主と、機関銃形式の乱発中を持っている者、五人に向けて引き金を引いた。
五つの絶叫が、男達を恐慌に陥れた。
エヌエトに向かって、大量の弾丸が打ち込まれる。まともに狙えていない者だけなので、簡単には当たらない。
エヌエトは銃を振り回しながら、後退した。弾が発射されていないはずのエヌエトの銃で、合計七人が死亡した。
自ら人を殺すための道具を持っている男達が、まるで震え上がるかのように硬直する。
エヌエトは背後に駆けた。カウンター席の向こうから、四号が顔を出していた。
「あと三〇秒だ」
機動部隊が突入するまでである。言いながら、エヌエトはカウンターを飛び越えた。薄い一枚板である。弾丸を防げるとは思えない。
「何てことするのよ。私がずっと内偵していたのに、台無しじゃない」
床の上に降り、足の着地音がまったくしなかったことに満足していると、エヌエトの襟首が横から掴まれた。
顔が近い。四号だ。怒っている。顔が歪んでいるのは、怒りのためだ。
実に見事な造形だ。歪んでいてさえ、美しく見える。
「俺は自分の任務を果たしただけだ」
「密売ルートを辿っていたのよ。ようやく主な取引相手と接触できて全貌が明らかになるはずだったのに。当の本人達を殺したら、また闇に潜ってしまうのよ」
「俺も、任務通りに仕事をしただけだ。つまり、時間切れ。そうことだろう? 内偵を続けるより、先に本人たちを殺害しなければならない事情が生じたということだ。もし四号が内偵を続けたいのなら、そうすることもできたはずだ。あいつらの仲間の振りを続ければそれも可能だった。なのに、どうして俺を助けようとした?」
顔がほぼ寄り添ったまま、四号が片手を挙げた。
視界に入った手に、口紅が生まれた。それが四号の能力だ。四号の手が自らの唇に伸び、朱を挿した。
唇が触れ合った。
エヌエトの意識に、霞がかかるような気がした。
「これからは、私に従ってもらうわ」
コードネームを持つ者同士の接触は希薄である。互いに顔も名も知らない。能力もしかりである。
――人を操るのが、四号の能力か。
「了解した。どうしたらいい?」
意思とは無関係に、エヌエトはしゃべっていた。
四号に支配される。次第に、それが快楽に変わる。四号をボスと仰ぐことが、当然のことになるだろう。
「このまま機動部隊と奴らの打ち合いに巻き込まれたら、命がいくつあっても足りないわ。できるだけ数を減らして」
四号は美しい女の姿をしているが、数字つきの特殊工作員である。躊躇はないようだ。エヌエトは、カウンターから顔と腕を覗かせた。
――あと、二〇秒。
近づこうとしていた数名を殺す。殺し続ける。
的が徐々に遠くなっていく。近くにいる人間をほぼ殺してしまったのと、エヌエトを恐れて距離をとり始めたからだ。
四号もエヌエトの能力を知るはずがない。ただ空砲で人を殺せるだけの能力ではない。
――これ以上は……危険だ……。
すでに的は半分以下に減っていた。
エヌエトは、危機を感じた。
敵の数は減っている。殺したばかりではなく、逃げ出した男達もいるだろう。どうして死んでいるのか解らないのに殺されていることに、恐怖を覚えた者もいるだろう。
エヌエトが危機を感じたのは敵に対してではない。自分自身の能力に対してだ。
エヌエトは四号の支配を脱しようとしたが、どうしても逆らう気にはなれなかった。
無条件に従わせるのが四号の能力なのだとしたら、抵抗するだけ無駄だ。エヌエトは頭を下げた。
抵抗ではなく、お願いすることにしたのだ。
「四号、止めろ」
「まだ、私に逆らえるの?」
支配されている者がそのことを自覚できるのが、四号の能力の限界だ。引き出したい情報を握っている相手を支配下においても、四号が知りたい情報を引き出すことはできないだろう。だからこそ、長期間潜入する必要があったのだ。支配下に置いたのは、金玉聖の部下までに留まるのだろう。
正確には、エヌエトは逆らったわけではない。能力に逆らったのか、そうでないか、四号自身が把握できていないのだ。
四号の能力は使い方によっては協力無比な力となるだろう。だが、エヌエトには不完全な能力に思われた。
エヌエトの首に、背後から四号の唇が触れた。さらに支配力を強めようというのだろう。エヌエトは逆らおうとした。自らの意思で大量に発汗し、代謝をあげることで逆らおうとした。
支配を跳ね除けることはできなかった。ただ、言葉を発することはできた。
「もう十分だろう。俺に、力を使わせるな」
「なに言っているのよ。そのために七号はここにいるんでしょう? 銃声が止むまで続けなさい。警察当局の機動部隊の流れ弾でゼロ課の職員が殺されるなんて、洒落にならないわ」
四号の唇が、エヌエトの首から離れない。
逆らえない。再び頭と腕をカウンターから覗かせた。
距離が遠い。
生き残った数は少ない。反撃を続ける者はさらに少ない。遮蔽物の陰に隠れている。
――駄目だ。
エヌエトは確信した。このままでは、取り返しのつかないことになる。
四号は許さなかった。エヌエトが懸念を表明することすら、許さなかった。
「続けなさい。私の計画を台無しにしたのよ。徹底的に利用させてもらうわ。これから、あなたを私の下僕にするのも悪くないわね。数字つきの工作員ですもの。人を殺す能力以外にも、使い道は色々ありそうだしね」
エヌエトが四号の計画を邪魔することになったのは、ゼロ課が複数の組織のために動いていることを意味している。エヌエトは、四号が動いているのとは別の組織により命じられた任務をこなしているのかもしれない。
ゼロ課の工作員はその能力ゆえ、絶対の信頼を置かれている。各国を代表する者からの依頼は、後を絶たないのだ。
反論したかった。二人で争っている時ではない。
――あと一〇秒。
引き金を引いた。一人が死んだ。
――運が良かった。次は、危ない。
「駄目だ」
「そんな能力を持っているのに、七号は臆病なのね。それとも、優しいのかしら?」
どちらも、ゼロ課の特殊工作員には不要と思われている性質である。
四号は楽しんでさえいるようだった。エヌエトは楽しめなかった。四号の唇が再び触れる。
逆らえない。
エヌエトが引き金を引いた。
外した。
誰かが死ぬ。
四号の悲鳴が上がった。
機動部隊が突入した。




