リストカット
いつの日か、救われると信じて。
誰も、好きで血を流している訳ではない。
この「行為」でしか、感じられないから。
「生きている」という、実感が沸かないほど、ワタシは病んでいる。
生きていていいの?
罪悪感にも襲われる。
リストカットしたところで、その罪悪感が消える訳でもないのに。
余計に「罪」を背負うかのように、傷は増えていくばかりなのに。
それでも、鮮血が流れていくそれを眺めている間だけは。
どうしてだろう。
不思議と、「安心感」を得られるんだ。
血と共に、自らの「罪」が流れていくかのような「錯覚」。
けれども、時間が経つと血はやがては止まり、傷跡だけが残る。
いいえ、更なる「罪悪感」も残る。
幾つの「線」が出来たのだろう。
あるひとは、「虎のようだ」とワタシの腕を見て言った。
見苦しいね。
でも、自分を痛めつけているだけだもの。
他人に刃を向ける、愚かな行為はしない。
そんなことをしても、無意味だから。
痛みは自分に向けてこそ、意味がある。
ねぇ。
これは、中途半端に病んでいるのかしら。
他人に殺意を覚えたこともある。
憎んだことも、たくさんある。
それでも、ワタシは何もしてこなかった。
その代わりに、ココロを病んで、自分を傷つけるようになった。
ワタシを壊したアナタ。
今でも、恨んでいる。
アナタに出会う前に戻りたい。
でも、そんな出来もしないことは考えないことにした。
虚しくなるだけだから。
アナタに今、伝えたいことがある。
ワタシはアナタに会えて変わった。
人生を台無しにされた。
でも。
得られたモノもある。
アナタに出会えなかったら、この傷は生まれなかった。
アナタに出会えなかったら、この罪悪感もなかった。
アナタに出会えなかったら、病んでるひとの痛みが分からなかった。
アナタに出会えなかったら、自分のココロと向き合えなかった。
だから、ワタシはアナタを赦します。
ワタシはアナタという呪縛から、逃れます。
いつの日か、真に救われると信じて。
はじめまして、こんばんは。小田虹里と申します。
実体験をもとにして、短い詩……と呼べるでしょうか。描いてみました。
私のように、こころを病んでいる方もいらっしゃるのではないか……と思いまして。
いつもの小説では、「前向きに!」「元気に!」「平和に!」というメッセージを込めておりますが、詩の分野では、どうしてもなかなか「前」を向けない方や、今、「絶望」の中に居る方に、少しでも寄り添えるような作品にならないかと、注意しながら描いております。
私自身は、今はリストカットをしてはおりません。
ただ、やはり時折あのときの「独特」な感覚に酔いしれたい、などという闇が見え隠れも致します。
常に元気いっぱいな方は居ませんよね。
それでも、いつかは皆に幸せになって欲しい。
私自身も幸せになりたいと、願うのです。
死ぬまで苦しみ抜くなんて、嫌ですから。
せっかく「ひと」として生まれてきたのだから、楽しみながら生きたいです。
私は学校にて、いじめにもあっていました。机に「死ね」と書かれる日々もありました。蹴られたり、叩かれたりすることもありました。
でも、諦めませんでした。
今は亡き、母が助けてくれました。
また、私自身もひそかに勝気な性格だったのでしょう。いじめ相手は男子でしたが、真っ向勝負に出るようになりました。
おかげさまで、いじめは中学二年からは無くなりました。
それでも、今また病んでしまっている。この呪縛を解き放つにはどうしたらいいのか。今、一生懸命道を模索しています。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。また、別の作品でもお会いできますと、幸いです。
そして、今ここを見ている方で、いじめにあっている……いじめではないけれども、生きることが苦しい。
そう思っている方は、誰でもいいんです。ひとりで抱えこまずに、生きてください。相談してください。私でよろしければ、私もお話を聞くことは出来ますから。
みんなで支えあって生きられる社会を目指し、そんな平和な世界を望み、これからも作品づくりに励みたいと思います。