管理人と町5
ぼんやりとした頭の中で、考えていた。俺はなにをしているんだっけ。何かをしておけと、京助に言われた気が―――なんだっけ。あー、まあいいか。考えるのも面倒くさい。ていうか、あれ、京助って誰だっけ。なんか、揺れている気がするけど……ここは、どこ。
「あっつん、しっかりして」
女の子の声が、ぼんやりとした霧の底から沈んだ意識を掬いあげた。水の中のように音が籠り、霧の中のようにぼんやりと、五感が何かに遮断されていたようであったが、声を聞いた途端、それらすべてがすっと晴れる。
「あ…」
篤志が見たのは、八重子の後頭部だった。
「そうだ、俺、」
―――おんぶされていたんだ、思い出したくなかったけど。篤志は、肉体はただの人間。いち早く虚から出るために一番合理的なのが、この方法だった。京助が行方不明だった不良二人を担ぎ、八重子が篤志を運んで外へ出ている最中であった。
八重子が案内人として召喚した子鬼が、八重子と京助を先導する。八重子の膝下程の大きさの、黒い子鬼がひょこひょこと前を走る。時々何かを見失っては、再び走る。それを先ほどから繰り返している。
「八重子、こいつ大丈夫か」
「まあ、八雲会公認の案内人だからね、信じるしかない」
京助が顔を引きつらせる。
「常夜さんのように一気に目的地までは行けなくとも、あまり深くまで入ってないし、ちゃんと最後まで案内できるよ」
京助の心配を他所に、八重子の言った通り、回り道をした気もするがしっかりと元の道まで辿りついた。大虚口は時間の流れも滅茶苦茶であるが、時間も間違えてはいない。
京助は大虚口を出たことで、深く息を吐いた。
非公認の低級の鬼を案内人にしたばかりに、数十年後の別の場所へついてしまった、などという事例もあるくらいだ。公認だからと言って、安心はできなかった。ただし、虚口による時代の移動は禁忌事項で、発覚した時点で虚流し(案内人なしに虚へ放り込まれる)の刑に処される。
また、時代の移動は成功率が限りなく低く、余程上級の鬼でないと辿りつく時間の指定はできない。元の時間へ戻るだけであれば、あまり遠ざからなければ容易である―――八雲会では、元の時間・場所へ戻るために離れてはならない距離が指定されている。この距離さえ守れば、案内人は余程のヘマをしない限り見失わないのである。
大虚口へ入ることは初めてではないし、管理人は虚に対する耐性が比較的高いため、自身の心配はしていなかったが―――不良三人組のうち二人の一般人と、一般人同然のド素人も抱えていたため、下手に迷うことはできなかった。
一件落着、か。しかし管理人として、まだやるべきことがある。
不良三人組の残り一人を、行方不明者として警察に届けなければならない。妖に理解のない警察への届けは、とても骨が折れる。町の指針として、事実上は、管理人は警察と協力関係にある。しかし、理解できない世界を説明するのは難しいものである。この町は大虚の影響もあって行方不明者が多いが、毎度のこと、厄介者扱いされては小言を言われる。
公的機関としては、こうした手続きは欠かしてはならないのだが、情報提供者が"管理職"に就く得体の知れない集団である。そして町も、この得体の知れない集団を信頼しろと言う。警察としては、確かに面白くはないのだろう。
行方不明者を出すということは、表の問題であるから、一般人がいる機関と提携しなければならないのである。
めんどくせ、と京助はため息をつく。
「―――よう」
「あ?誰だお前」
少年は黒いパーカーにジーンズというラフな格好で、そこに立っていた。京助たちと同年代だろうか。臙脂色のヘアバンドで前髪を上げ、鋭い瞳が露わになっている。
―――敵か。京助は抱えた不良組二人を放り投げ、反射的に構えた。八重子も篤志を背から下ろし、目の前の少年の様子を窺う。
少年の格好は、至って普通の格好だった―――普通の格好だからこそ、不自然だ。
管理職に就く者たちは、"仕事着"を持っている。というのも、妖との交戦では、生身の人間は不利になってしまうからである。直接的な攻撃により、身体が"傷んでしまう"こともある。管理人の仕事着は、そういった妖気による身体への影響を防ぐ仕掛けがしてあるのである。
そしてここは虚口、一般人が近づけばたちまち意識を持っていかれる。ここに一般人―――"無関係な人間"がいるはずはない。
少年は京助、八重子を順に眺め、ふ、と息を漏らした。
「こいつ、お前んとこのだろ?」
少年の足元には、京助たちの学校の制服を着た男子生徒が倒れている。
「あ、こいつ!」
篤志が声を上げた。よく街で悪さをしている―――神隠しにあった不良三組の、救出できなかった残りの一人である。やはりこいつは、一般人ではない。京助が目を細めた。目の前のこの少年、別段、強さを感じるわけではない。
しかし、今の状況、新たな敵と戦うには、二人とも怪我を負いすぎた。八重子は一重梅の力で傷を癒したとはいえ、無理に戦えば身体が崩壊する。京助も同様に一重梅の力を借りたものの、あの気難しい一重梅が、当然"好きでもない相手"を完全に治すなんてことはなく―――ゼンとの交戦での傷がまだ完全に治っていない。篤志は論外、常夜も今は眠っている。
―――戦えるか?否、戦わなければ。
京助は篤志たちを庇うように、前へ出た。
「わー!見つけてくれたんだ!ありがとう」
「おい」
しかし京助の行動に反し、篤志はまるで警戒心の欠片もなく少年の足元に転がる不良に駆け寄る。京助はうっかり、篤志をはっ倒したい気持ちでいっぱいになった。八重子が少年を警戒し、篤志についていく。少年は動かない―――というより、篤志の警戒心のなさに面食らったようだ。切れ目を目一杯見開き、思わず後退した。今回ばかりは篤志のお手柄かもしれない、褒められたものではないが。
京助は瞬時に、木刀を少年へ構えた。
「おいおい、俺は別にお前らと戦うつもりは、」
「なら名乗れ。お前はどこの誰だ」
京助は低い声で、唸るように言った。少年は京助の殺気を感じ取ったのか、片眉を上げる。やがて観念したかのように両手を上げる。
「庚水穂」
「庚?聞いたことないね」と、八重子は首を傾げる。
「昔、妖退治をやっていたらしいけど、今は、妖が見れるのは俺だけだ。その木刀、そろそろ下ろせよ」
水穂は横目で、自分に向けられた木刀を睨む。京助は口元を歪めて笑うと「信用できるかよ」と吐き捨てる。
「昔、妖退治をしていた家ね。今は廃業したわけだ。そんで?なんでこいつを助けられたんだよ?」
確かに、おかしな話ではある。
妖退治を生業とした、所謂管理人という職を廃業する家は少なくない。妖を見ることができる人間が、代を重ねるごとにいなくなってしまったためである。管理人の人間は、基本的に血筋によって妖力を引き継ぐが、血筋でも引き継がれないという現象もある。こうした現象を積み重ね、どんどんと見える者が消えていった家では、妖退治を生業とすることができない。こうして廃業してしまった家では、妖退治に関わることはそうそうない。
それなのに、神隠しにあった不良少年を、助けたと。ただ妖を見るだけではない。大虚口に自ら入り、連れ去られた少年を連れてこないといけない。これは普通の人間には、決してできない芸当である。
「俺が信用できないか?」
「当たり前だろうが」
水穂と京助がお互い睨み合う。しばしの沈黙、八重子も訝しげに水穂の様子を窺う。そんな重い雰囲気を、あっけなく破ったのはまたしても空気の読めていない篤志だった。
「―――まあまあ京助!この人は人助けをしたんだよ!悪い人なわけないじゃん!」
篤志が京助と水穂の間に割って入り、京助を宥める。その行動に、またしても水穂が面食らっていた。「おい、」と絞り出したような声を、水穂が京助に投げかける。
「こいつはアホなのか?」
「そうだ、アホだ」
「何同調してるんだよ!否定しろよ!」
図らずも戦闘態勢が崩れたと悟った八重子が、京助と篤志の裾を引っ張った。水穂に、戦闘の意思は感じられなかった。だとするならば、今はここで戦うべきではない。
「とりあえず、今日のところはもう帰ろう。この不良三人組を警察に届けなきゃ。みーくん、ありがとう」
「おい、ちょっと待て、みーくんて誰だ」
まさか、"水穂"で"みーくん"か。水穂の表情が引きつる。嫌がってることを察した京助が、八重子に便乗する。篤志は嫌がってることをまるで気付かず、二人に便乗した。
「お前だ、みーくん」
「みーくんていいな、かーわーいーいー」
「おいやめろ」
*
昨日は帰り道、交番の前に不良三人組を置いてさっさと帰った。「あとは警察が後片付けしてくれる」と、京助は心なしか嬉しそうに言った。篤志が首を傾げていると、八重子がそっと耳打ちした。
「一般人の行方不明者を出すと、警察と協力しないといけないからさ。警察は"こちら側"ではないし、いろいろと面倒なの」
確かに、行方不明のままにしておくわけにはいかないのだろう。たとえもう戻って来れないとしても、体裁として手続きは必要と言うわけだ。八重子が言うには、町では"管理職"は公認の組織なのであった。管理人と警察は協力関係にあり、一般の事件は警察、"妖関係"の事件は管理人に振り分けられる。しかし基本的に、"こちら側"を信じる人々が少ない。警察もまた、然り。そして妖を信じない警察と協力するのは、面倒なのであった。
「あっつん、どうするの?家帰る?」
よく見ると、大した怪我はないが、身体中擦り傷だらけで家に帰ることが出来ず、またしても京助の家に泊まった。いろいろありすぎて忘れていたが、修行から抜け出してきていたため、直助にはこっぴどく叱られた。
「今は保護されている身なんだから、大人しくしていなさい」
確かに、出張る場面ではなかった。結局自分は、最期までお荷物でしかなかった。
翌日、疲労の溜まった体を強引に動かす。京助は今日も、何事もなかったかのように学校へ行った。しかし篤志には、到底真似できなかった。
酷い目にあった、と篤志はため息をつく。妖が関係する世界とは、思ったよりも激しく、そして血生臭い。面白半分で関わりを持ったわけではなかったが、ついこの前まで面白おかしいと感じていたこの世界が、今はなんだか、少し怖い。
八重子がぼろぼろになり、怪我を負っていくところを、黙って見ているしかなかった。
「―――転校生を紹介します」
ガコン、と派手な物音を立てたのは、口をあんぐり開けた篤志だった。衝撃のあまり、席を立ったのである。やらかした、と篤志は椅子に座る。くすくすと周囲の笑う音が聞こえるが、気にかけてはいられなかった。
篤志は思わず、視線を京助へ向ける。京助は頬杖をつきながら、うつらうつらとうたた寝をしている。おい、起きろ、一大事だぞ!篤志は、隣できょとんとする常夜に「京助を起こしてきて」と囁いた。
「わかった」
常夜はゆっくりと京助の席まで行くと、頬をちょいちょい、と突いた。
「…んだよ」
京助は常夜の行動に、眉をひそめた。常夜はまたもきょとん、としながら、篤志を指さした。鬱陶しげに篤志の方を見ると、篤志もどこかへ指を指していた。
「なんだってんだ……あ、」
担任の先生の隣に立つ男子生徒、どうやら転校生らしい。しかしその顔、とても見覚えがあった。見覚え、というか、つい昨日である。服装は昨日と異なるが、間違いない。
「庚水穂です。よろしくお願いします」
身に纏うのは、正真正銘、本校の制服。京助たちとの初対面では、得体の知れなさが不穏な空気を醸し出していたが、確かに、制服を着てしまえば年相応―――好青年のようである。昨日と同様、臙脂色のヘアバンドを巻いている。垂れた一房の前髪の下から、鋭い視線が京助を捉えた。水穂は口の端を微かに上げると、視線を他へと逸らした。
お昼休みに入ると、篤志が飛びつくように水穂に近付いた。
警戒、しなければならないのだろうが。何しろ篤志が、いの一番に懐いてしまったのである。何がどうして、お前の危険探知機がぶっ壊れてしまったのか。常夜も心なしかうきうきしていて、篤志の好奇心旺盛な性格を引き継いだように(いや、もしかしたら元々かもしれない)篤志の後へついていき、水穂をじっと眺める。妖は人間に宿ると、宿主の性格に反映されやすくなると聞いたことがある。京助は深く息をついた。
「みーくんみーくん、仲良くしようよ。嬉しいな、妖関係の友達。あ、俺、ついこの前見えるようになったばっかなんだけどさ。まだ全然でさ」
「みーくん呼ぶなボケ。お前さ、俺は得体の知れない奴なんだから、ちったぁ警戒しろ」
「じゃあ何て呼べばいい?あ、俺、緋村篤志。呼び捨てでいいよ!」
「…みーくん以外で呼べ」
「みずちん」
「水穂でいい」
「よろしくね、水穂」
篤志に圧倒され、口を閉ざす水穂。篤志は打たれ弱いくせに、どこか図々しい。京助と関わり始めたときもそうであった。いつもおっかなびっくりしているくせに、"大丈夫"とわかるとこれだ。
「おい」
京助が水穂に声をかける。
「…」
水穂は京助をの方を見ると、目を細めた。周囲の雰囲気が、一気にぴんと張りつめる。「おいあれ見ろよ」「弥守京助が転校生に目を付けたぞ」「緋村もパシリになったからな…転校早々不運な奴」周囲にざわめきが生じるが、京助も水穂も大して気にかけず、京助は水穂を睨んだ。
「ついてこい」
「…」
京助が顎でくいっと指示すると、水穂は何も言わずに立ち上がった。篤志は呆然とし、やがて我に返ったかのように京助へ駆け寄る。
「京助、この人、本当に悪い人じゃな、」
「黙ってろ」
京助は、篤志の擁護を問答無用に切り捨てる。篤志は息を呑んだ。京助はそんな篤志を一瞥し、水穂を連れて教室を出ていった。
篤志は短い間ながら、京助のことをそこそこ理解したつもりだった。いつもは割となんでも無関心、行動も面倒くささが勝ると俄然やる気を失う。京助が唯一目を輝かせることといえば、妖と戯れることだけであった。だから図々しく近づいても、京助は拒まない。拒絶するより面倒くささが勝るからだ。
しかし、水穂の件に関しては、"干渉するな"という完全な拒絶が感じられた。いつもの京助では、考えられなかった。
突然のことに何も言うことが出来なくなった篤志の背を、常夜がちょいちょいとつつく。
「管理人とはそういうものなのだよ」
「…どういうこと?」
常夜は周囲に見えないため、常夜の言葉に篤志は小声で返す。常夜は袖口を口に添え、ふ、と笑った。
「いつもとは訳が違う。今回は、管理人としての責任がかかっている、ということだ。"妖関係"の素性のわからない者を、そのままにしておくことができないのさ。人間社会に影響を及ぼそうとする"こちら側"の人間であれば、特に。大虚口は特別危険な場所であるから、責任を持って警戒しなくてはならない。何かあっては遅いからね」
そのために彼らは、ここにいるのだから。そう続けた常夜に、篤志は息を詰まらせた。
よくよく考えれば恐ろしいことである。町全体が大虚口という前代未聞の土地、どこから妖が襲ってくるかわからない。そんな中、弥守家や真成家に生まれた人間として、この町を護らなければならない責務を負わされ、彼らは生きている限り戦い続ける。
"無知"とは、何て恐ろしいことだろう。つい先日まで、篤志自身何も知らなかった。
たまたま力の強い京助と接触することで、痣がこじ開けられた。そうでなければ、自分は、この面白くも恐ろしい世界を、平然と、そしてのうのうと生きていたのだろう。管理人が命を落としながら、この街の安寧のために戦うこの町で。もしかしたら、存在すら認識することができなかったかもしれない。
町の規則として、夜に出歩いてはならないというものがある。しかし、そういったルールを護る者は少なく、篤志自身それを破って出かけたこともある。今生きているのは、奇跡に等しいのだと―――そして管理人の犠牲の賜物なのだと、今ならばよくわかる。
水穂を妙に警戒するのも、なんのことはない、管理人としての最低限の責務である。管理人として生きる彼らの、町を護る術なのだ。篤志は頭を抱えた。自分のように、ただ"保護されている身"ではないのだ、彼らは。町中の人々の命を預かっている。ただ己の勘で、"この人は良い人だろう"と決めつけた自分が恥ずかしい。
「そっか、そうだよね」
同い年でありながら、京助も八重子も、自分とは見ている世界が違う。それがとても悔しく、情けなかった。
*
立ち入り禁止の看板を避け、屋上へと入った京助と水穂は、お互い向き合いながら見つめ合う。厚い雲が太陽を覆い、外だと言うのに薄暗い。太陽の光が少ないことで、弱い妖たちがちろちろと姿を現している。
「あいつ、ド素人か?」
やけにお人好しさが目立つ奴だった、と水穂は呆れたようにため息をついた。
「まあな」
京助も同じようにため息をつくと、がしがしと頭を掻いた。
「本当はここで、てめェを始末してもいいんだがな、」
「へえ、やれば?」
「やめた。あのくそうるせェチキンが、騒ぐだろうし」
「……随分と優しいんだなあ」
水穂の紡いだ"優しい"には、皮肉が込められていた。しかし京助は、気に留めない。
「てめェが何企んでんのか知らねェけど、」
京助は長い前髪の下から、鋭い視線を水穂に向けた。睨んでいるわけでも警戒しているわけでもない、ただ水穂を見据えていた。
「この町荒らすようなら、殺す」
殺気、ではない。気迫のような、強い意志のような。敵意ではなく、牽制。とりあえずはお前がここにいることは許すが、何かしたら容赦しない、と。
京助はそれだけ言うと、くるりと踵を返した。のっそのっそと亀のように出口へと向かう。
「……背を向けるのか」
水穂は舌打ちをした。"敵かもしれない人間"に、こんなに隙を見せるのか。馬鹿にしやがって。水穂は微かに笑った。そうか、やはり"ここ"を狙って正解だった。高校生―――まだ十数年しか生きていない人間が弥守家の当主だなんて。
「甘すぎるだろうよ」
水穂の呟きは誰の耳に届くでもなく、曇天が作り出す薄暗い虚空へと消えた。