管理人と鬼1
この町には、何かがある。けれど、それには関わってはいけない。
普通の生活をしたければ、関わるな。
安全に生きたければ、詮索するな。
実際に消えた人間もいる。記憶が消えた人間もいる。
夜には鬼が出るらしい。
そうではなくて幽霊らしい。
化け物を見た。
違う、土地の神の仕業だ。
そんな風にいくつもいくつも噂が流れて、信じる人もいれば嘲笑う人もいる。
それらの噂が正しいのかどうかは、未だにわかっていない。
ただただ噂は拡散され、尾ひれがつき、もはやどれも正しいとは言えないのだろう。
けれど、もしかしたらその噂が本当だったなら。
信じがたいことではあるが、噂で語られる常識を超えた何かが―――今もこの町を徘徊しているのかもしれない。
*
ここは、とある高校の教室。
休み時間であるらしい。
あちらこちらで声が重なり、雑音と化していた。時に叫び声、笑い声、声だけではなく物音、足音、それらが混ざりに混ざって、やがては気にならないくらいの雑音として学校内を埋め尽くしている。
そんな雑音の一部の、ある会話。
心なしか、困惑の色が滲み出る。
「おい、今日あいつ来てるぞ」
「え、マジか。怖いなぁ」
「薄気味悪いんだよな、誰かと喋ってるとこ見たことないし」
「…え、俺あるぜ。ほら、隣のクラスの…」
こそこそ、ひそひそ。
ここの教室の生徒らしい男子高生数人が、互いに顔を寄せ合いながらある一点を横目でそっと捉える。
その視線の先には、一人の男子生徒の背中があった。
机に突っ伏し、微動だにしないその男子生徒は、周囲とどことなく距離があった。
その男子生徒は、この学校で異常なほどに悪目立ちしていた。
不良と呼ぶには周りに危害を与えず、一般生徒と呼ぶにはあまりに得体が知れなさ過ぎた。
ある生徒はそいつのことを"亡霊"と呼び、またある生徒は"疫病神"と呼ぶ。
言葉通りである。
在って無いようなモノ。
周囲にいじめられているわけではない。
ただそいつは自身の存在を主張しようとはせず、何に対しても興味を示さない。周りに馴染もうとしない。周りと違うことに対しての焦りもない。亡霊のように過ごしている。
ただ、存在感はあった。
その理由は、周囲より飛び抜けて高いその身長だった。
廊下を歩くと、頭一つ必ず飛び出る。その高身長を狙って、一年の頃は部活の勧誘がこれでもかというほどあったらしいが、そいつはひたすら無視し続けた。
その甲斐あって、二年に進級したそいつに集る者は一切いない。
さらに目立つのは、そいつが肌身離さず持っている浅黒い布で巻かれた長い何かである。
そいつは、体育の授業で外に出るときでさえ持ち歩いている。その布で巻かれた長い物を持っているそいつは、まるで剣道部のようだ。一年の頃それを聞き付けた剣道部も熱心に勧誘していたが、そいつは一切興味を示さなかったらしい。
謎めいたその袋の中身を知る者は、ここにはいない。
今日も、机の脇にしっかりと立てかけてある。
弥守京助。
それが、伝説になりつつあるこの男子生徒の名前である。
京助という存在に、誰もが恐れ、道を開ける。
学校でやんちゃするような不良でさえ、京助にだけは絡まない。
先生も気を遣い、居眠りをしても極力声をかけない。
弥守京助とは、そういう存在である。
周りは、こそこそと弥守京助を見ては、ひそひそと噂を紡いでいく。
ここまで目立ち、浮いていると、普通は居づらくなるものだが―――当人の弥守京助は、やはり、全く気にしていないようだった。
そして今日も、例によって例のごとく、教室にいる皆が弥守京助という存在を警戒していた。
周りの警戒に気付いているのか、いないのか。
弥守京助は机から顔を上げ、亀のようにゆっくりと体を起こした。
ひょこん、と頭についた寝癖が揺れる。
弥守京助は、無造作に乱れた髪など気にかけなかった。そして、周りの自分に対する視線にも。京助の興味は他にあった。京助はゆっくりと視線を上に、上に、そのまま顔を天井に向けた。
「なに?」
「わかんない」
「なんか気味悪ーい」
京助の様子を観察していた女子数人は、そう言うと面倒事を避けるように去っていった。
「…?」
そして、同じく京助を観察する周囲の一人、緋村篤志は、天井を見つめる京助に、周りと同様に首を傾げた。
京助が食い入るように見ている天井は、普通の教室と大して変わらない天井だ。男子高校生が見て面白がるものは何もない―――と、なると。
何か、見えているのだろうか。
彼は、〝何を〟見ているのだろう。
〝何かに呼ばれて、起きた〟かのようだった。
京助は見ている。ずっと、ずっと。
気味が悪い。京助が纏う雰囲気に呑まれそうになった。
緋村篤志は、眉を顰めた。
「―――…、」
暫く天井を見つめていた京助は、興味がなくなったかのように天井から視線を下ろした。首を左右に振ると、だるそうに立ち上がる。その行動に驚いたのは周囲であった。面白い見世物だと思っていた京助が、いきなり動き出したのだ。
何をしでかすんだろう、何か起こるのだろうか。
恐怖と期待と好奇心、そういった感情が周囲に満ちているのが、篤志にはしっかりと感じ取れた。京助を怖いとは思っているものの、もはや七不思議と言っても過言ではないそいつに、周囲の興味は尽きないのだろう。
篤志は、他人事のように苦笑をもらした―――京助が、こちらに向かっているとも知らずに。京助は机の脇に立てかけてあった例のボロ布袋を肩に乗せ、ゆらりゆらりと歩を進める。
「ッ…!?」
ハッと我に返ったときには、京助はすぐそこにいた。
「えッ…え、」
ぎょっとして思わず後ろに下がるが、京助は問答無用でこちらに向かっている。
なんでこっちに。
え、なに。
なんで―――長く見つめて居たのかいけなかったのだろうか。
いや、でも皆だって見てたし。
わ、来るなッ…、
「ッ…」
近づくと、改めて感じた。京助の圧倒的な体格と、周囲に惜しみなく感じさせる威圧。下からそっと覗くと、近づかなければわからない、長い前髪の下に隠れる鋭い目つき。
静かにこちらを見下ろす京助に、篤志はそっと息を呑んだ。
時が止まったようにすら感じた。
「なるほど、トメヅナか…」
ぼそりと呟いたのは、篤志ではない。さらに言えば、こちらを見て見ぬふりをしている周囲でもない。
“トメヅナ”と、そう呟いたのは、紛れもない、自分が今まさに畏れを抱いている京助であった。篤志は言葉を反復した。
トメヅナ、とめづな、トメヅナ……
いくら頭に巡らせても、その言葉がなんの意味を表しているのかわからない。今この状況のなにを指しているのかもわからない。漢字変換すらできない。
篤志が頭の中で悩みこんでいるうちに、京助は既に目の前で立ち止まっていた。
ああ、どうしよう。
トメヅナの意味がわからない。どうしていいのかもわからない。
京助の鋭い視線が、こちらを射ている。
凍り付いた体で、なんとか周囲に救いを求めて目配せしようとするも、周囲は一斉に視線をそらしていた。
「ちッ…」
京助の舌打ちが、教室全体に響いた。何か、気に障ることをしたんだろう。ごめんなさい、ごめんなさい。頭の中で謝りながら、篤志は固く目を閉じた。
周りの空気も、ぴん、と凍りついたように張りつめていた。
皆が、京助の行動に恐れを感じる。もちろん、篤志もだ。
もしかして―――殴られるのか、それとも祟られるのか、呪われるのか、はたまた食われるのか。
恐怖に歯を食いしばった篤志は、暫くしてからちょっとした違和感に気付いた。
いつまで経っても、何も来なかったのだ。
妙に静まった雰囲気、ただばくばくと自分の心臓の音がうるさい。
不思議に思い、そっと目を開けると―――京助がこちらを見下ろしていた。どことなく現実離れした光を宿した、あの鋭い瞳で。
「邪魔」
「え…」
「邪魔」
京助は苛立ちを隠そうともせずに、同じ言葉を繰り返した。目をゆっくりと細め、篤志の向こう側に視線を動かす。そして、篤志は背後に何があるのかをゆっくり考え、そういえば、とある考えに思い至った。
そう、そうだ。自分たちは、教室の出入り口にいた。
なるほど、京助はこちらに、篤志に何かをしに来たわけではなかった。
ただ、教室から出たかっただけなのだ。篤志たちが出入り口にたむろっていたから、出ることができなかった、と。とんだ思い違いだ。
誰かが手を振っていたから手を振り返したら、実はその誰かが、自分ではなく自分の後ろにいた友達に手を振っていただけで、ひどく恥ずかしい覚えをしたことがある。まんまそれではないか。
顔が熱い。自分の馬鹿な勘違いに、顔から火が出そうだ。そして何より、同級生である京助を、噂に翻弄されて必要以上に恐れてしまったことが情けない。
慌てて京助に道を作ると、京助は機嫌が悪そうに眉間にしわを寄せた。こののろま、とでも言われているようだ。篤志は顔を俯かせた。すると上から、あからさまな舌うちが降ってきた。
ああ、もう恥ずかしい。穴があったら入りたい。と篤志は唸った。
そのときだった。
どん、と肩がぶつかった。
「ごめんなさい!!」
別に篤志がぶつかったわけではない、京助がふらふらしていてぶつかってきたのだ。けれども篤志は、反射的に謝罪の言葉を口走っていた。頭で、京助に対しての申し訳なさがぐるぐると回っていたからだった。
京助も、特に突っかかっては来なかった―――否、聞いていないようだった。
京助の興味は、既に別の方向へ向いていたようだった。こちらにはもう目を向けず、廊下に出ると窓の外をぼんやりと眺めていた。あんなに厳しい表情をしていた京助が、窓の外を見て面白そうに顔を歪めていた。笑顔が怖い、とは口が裂けても言えないが、彼の横顔は、窓の外に何か本当に面白いものがあるようで。何が見えるんだろう。そう考えたところで、気が抜けた。
緊張した。初めてあんな近くに、弥守京助がいた。
恐怖とは違う、妙な高揚感が体を駆け巡った。
そして京助の大きな背中を辿っていた視線を、教室へと戻した。
あれ。
なんか違う。何かが、さっきと違う。
隣で友人が笑っている。怖かったな、あいつ。と安心したように笑っている。教室全体、得体の知れない京助が教室からいなくなったことで、張りつめていた空気が嘘のように消えていた。
「いや、」
違う。それだけじゃない。そう否定し、目を擦った。
京助が今まで座っていた席の、ちょうど上。天井だった。
―――確かに、先程とは違うものが存在した。
「―――…ッ…!?」
いや、視界の違和感だけではない。
日常の、友人や周囲の騒がしい声とは別に、何か、聞こえる。
さわさわ、カリカリ、ゴトンッ!
なんだこれ、なんなんだ。
「うっわーこえぇ」
「俺初めて声聞いたかも」
「さすが噂の弥守、迫力がちげーよな。ていうか、あの袋の中身はやっぱ刀かな」
「喧嘩売られたとき用に持ってたりしてな」
「緋村ぁ、お前後で殺されるんじゃね?肩ぶっかってたよな―――て、おい。緋村?聞いてんのか」
友人たちが篤志に笑いかける。その友人の一人の肩に、妙なものが。
数えきれないほどの、親指サイズの真っ黒な鳥が友人の肩に留まっていた。それだけではない。妙な光り方をした毬藻や、床を這う上履きサイズのトカゲ。そのトカゲの頭上で、あるはずのない瞼がかっと勢いよく開き、篤志は危うく喉まで悲鳴が出かかった。
篤志は、再び天井に視線を戻した。そして一点に視線を注ぐ。京助が見ていた、”それ”を。
友人たちは篤志に目を向けた。茶化したつもりだったが、返事が来なくて不審に思ったのだろう。いつもなら乗ってきてくれるのだが、と首を傾げた。しかし、篤志の青ざめた表情を見て、京助に怯えて何も言えなくなったのだと勘違いし、これ以上の追究はしてこなかった。
そこは、さきほどまで何もなかった場所だ。
そこは、あの弥守京介がしばらく視線を向けていたところだった。
そこは、確かに何もなかった―――ついさっきまで。
いや、違うのかも。
もしかしたら何もなかったのではなく―――見えなかっただけなのか。
篤志は、息を呑んだ。
ギチギチと、何か妙な音をたてているそれらは、今は確実にそこにいる。見える、聞こえる。篤志は確実に認識していた―――先ほど何も無かった場所、〝京助が見ていた天井”に、張り付いている"それ"を。
例えるならばムカデ、そんなような物体。
ムカデではない、と完全に言うことができるのは、"それ"の大きさが人間の子供一人分ほどの巨大なものだったからだ。それらは真っ黒で、何本もの足のようなものをしきりに動かしている。
たまに、しゅうッと音を立てて、黒いガスのようなものが噴きだす。
ギチギチ、ギチギチ。この音は、足を動かす時の音。
ムカデのようなそれらは、何匹もが一緒になって一点に固まっていた。天井にこびりついて、ひたすら足を動かしていた。
けれどそれらは、信じられないことだが周りには見えていないようだった。こんな得体の知れない、気持ち悪いもの。見えていたらきっと、大パニックになるだろう。そして、このムカデだけではない。数えきれないほどの、周りにいる”普通ではないもの”もまた、篤志以外には見えていない。
現に、生まれて初めて"それ"を見た篤志は、声が出なくなるほどパニックに陥っていた。
気持ち悪い。
怖くて、とにかく気持ち悪くて、得体の知れないそれを見ているのが苦痛で、けれどそれらは確実に周りには見えていないもので、篤志は目を見開いたまま震えた。
頭が真っ白になった。
恐怖で、口の中がからからに乾いた。
自分は、何故、いきなり見えるように―――て、いうか、こいつらは一体、
「おい、大丈夫か?緋村?」
篤志の異変に感づいた友人が篤志に声を掛ける。
大丈夫じゃないよ、なんだよそいつら。
その友人の肩に集る数多の黒い鳥は、黄色い目でこちらを見ている。
篤志は、混乱する頭で必死に必死に考えた。
なんで、いきなり"それら"が現れたのか。
「あ、」
そこで、一人の人間の顔がよぎった。
恐ろしい目つき。
でかい図体。
降り注がれる、不快が滲み出る声。
この高校の生ける伝説になりつつある、そいつ。
「―――――……そうだ」
弥守京助。
あいつは、〝これ〟を見ていた。
確実に、〝これ〟を認識し、見ていたのだ。
あいつなら、〝これ〟がなんなのか、知っているのかもしれない。
意識の端で考えを廻らせた篤志は、そのまま気絶した。
*
教室を出た弥守京助は、立ち入り禁止であるはずの学校の屋上に来ていた。
校舎ではチャイムが鳴っているようだ。微かに聞こえる音が耳を撫でた。
チャイムと混ざるように、風の吹く音が耳を掠めた。強い風が吹き荒れていた。長い前髪を鬱陶しそうに掻き上げた京助は、屋上のフェンスに手を置いた。決して都会とはいえない小さな町をゆっくりと見渡した。
京助の目は、他とは違う。
眺めのいい町。
暖かに降り注ぐ日光。
やけに霞んで曖昧になった雲。
町の周りを取り囲む深緑の山。
こうした日常の光景のほかに、〝あるもの〟を映していた。
「…あ?」
難しい顔で町の様子を見ていた京助の首元に、しゅるしゅると巻きついた。が、京助にうろたえた様子はない。
首元でうごめくのは、妙な光を帯びた半透明のひも状の物体だった。
それらは俗に言う〝妖〟とか〝妖怪〟とか〝幽霊〟とか〝化け物〟だと、好き勝手さまざまに呼ばれるものであった。見える人には見え、そうでない人には認識すらされない。そういった存在。
実はそれらは、昼間の明るい時間帯にもいる。
妖怪、幽霊などは、よく暗い場所―――つまり夜を連想させるが、それは全くの誤解である。
それらは昼間にも漂っている。ただ、光は生物の恐怖を薄れさせる。すると、〝見えないから、そこにいるわけがない〟と無意識に思い込む。いるわけがないのだから、気にもかけない。気にかけないことは、自分にとって〝存在していない〟のと同じこと。
だから、認識できない。
しかし、夜―――つまり暗闇はそういった安心感、無関心を全て根こそぎ奪う。恐怖心が生まれ、恐怖心は存在を生む。
たとえば、物音がするだけで、物が机から滑り落ちるだけで、〝そこに何かがいるかもしれない〟と思う。
そう思い込み、恐怖する。
その恐怖心こそが、"それら"の糧となる。
何かがいる、と思った瞬間、恐怖心が"それ"と人間を繋げて、認識できる状況になるのだ。
恐怖心は人の闇への耐性を鈍らせ、"それら"を強くする。
そうして、それらを通常に見ることができない体質の人間も、微かに見えるようになる。
それを、人は幽霊といい、妖怪という。
ただし、それは通常の人間の場合である。
世の中には、そう言った通常の〝見えたり見えなかったりする〟人間とは別に、〝常にはっきりと見える〟人間がいる。
弥守京助は、その一人だった。
そして、〝その世界〟に通ずる人々は、それらの曖昧な存在を総称して“妖”と呼ぶ。
そして、見えないそれらを日常的に見ることができる弥守京助のような人間は、この世界には少なからずいる。
"それら"が常に見える人間は、基本的に力が強い。ここでいう力とは、物理的な身体能力ではない。体を循環する血液やエネルギーとは別に、生きるために創りだされては空気中に放出される〝妖力〟のことである。
妖力は誰でも持つものであるが、妖力を自分の意思で制御できる者は少ない。
そのあらゆる人間から放出される〝妖力〟は、妖の活動力であり、全てのものの生命力である。そのため、妖は強い〝力〟を持つ人間に引き寄せられる。
ここにも、一匹。
力を求めて、強い力を取り込もうと吸い寄せられるように。
しゅるッと首に巻きつき、きりきりと絞めていく。
弥守京助の〝力〟に引き寄せられた妖が、弥守京助に寄生しようとしているのだ。京助は、巻きつくそいつに慌てる様子も見せず、むしろ鼻で笑った。
「なんだてめェ、遊んでほしいのか」
京助は突然それを鷲掴みにすると、鬱陶しそうに引き剥がした。乱暴に引き剥がされたそれは、尻尾の辺りが千切れ、ふっと消える。
本体は未だに、京助の手の中でもがいている。京助は、苦しげにもがいているそれを気にする様子もなく、ぎりぎりと手で絞めていく。
握られた拳の中でもがくそれは、京助の腕に巻きついたり、体を叩きつけたりした。
京助は目を細めると、あっさりそれを解放した。
それはすぐさま京助の手を抜け、逃げるように風に乗って遠くへ飛んでいった。
弥守京助は、普通ではなかった。
それは外見だとか、雰囲気だとか、そういう類のモノではない。
弥守京助は、人に見えないモノを見ることができる人間であった。
そして、それらに関する〝仕事〟をこなす人間であった。
この男にとって、妖とは―――ただのおもちゃであり、暇つぶしであり、日常であった。
この男の視界には、いつもいつも、普通の人間が見ているものと別のそれらが映る。
「京ちゃーん」
聞き馴染みのある声に、京助は振り返った。
後ろに立っていたのは、幼顔で小柄な少女だった。
切りそろえた前髪、後頭部で高く括っても腰まで伸びた、長い癖っ毛髪。可愛らしく幼い顔に似つかない、真っ黒のごついリングピアスが右耳にだけつけられている。
「八重子」
京助は少女の名を呼んだ。
真成八重子は京助に歩み寄り、ぽんぽんと軽く京助の背中をたたいた。
「今日はちゃんと授業出たんだね、偉い偉い。まあこの時間ここに入る時点でサボってるけど」
「るせェな。お前もだろうが」
「たひかひー(確かにー)」
京助は機嫌が悪そうに吐き捨てると、身長が京助の胸ほどまでしかない八重子の顔を覗き込み、ほっぺを親指と人差し指で軽くつまんだ。みょーん。抓まれた八重子の頬が餅のように伸び、口の端がおもしろく曲がる。
八重子はそれでも気にする様子でもなく、覗きこんでいた京助の頭を撫でた。
「寝癖、隈、ひっどい顔」
「黙ってろ」
再び面白そうに笑って寝癖を撫でる八重子だったが、京助にしてみれば今の八重子の顔の方が愉快である。むにむにと軽く頬をいじっていた京助は、ふと校舎に視線を向けた。
「――――またか」
「また、だねぇ」
八重子もすっと目を細め、校舎に視線を動かした。
京助のように悪目立ちをせず、うまく高校に馴染むこの女子生徒もまた、普通ではなかった。
その少女の目にも、京助と同じ世界が広がっている。そして、その少女もまた、京助と同様にそれらを〝仕事〟としている人間の一人だった。
八重子は、周辺を漂う半透明の妖を横目で追い、笑った。
ぴりぴりと肌に少しだけ感じる、静電気のような感覚。
ざわざわと騒ぎだす空気。
独特の気配を感じ取った二人は、先ほどの柔らかな雰囲気とは打って変わって、張りつめた空気を纏いながらお互いに顔を見合わせた。
「最近多いなぁ。この明るい時間帯は、普通なら妖も動きが鈍くなるから、弱い妖なら知能がないから漂うだけで無害だし、強い妖は知能がつき始めるから活動を控えるのに。この感じだと、そろそろ他の人たちに影響出そうだね」
「ちッ…だから学校は面倒なんだよ。弥守の地に、こんな人間が密集する場所作りやがって。そもそも"大虚口"に町を作るっていう発想が馬鹿なんだ」
「だから私たちが管理してるんじゃん?」
八重子は呆れたように首を振った。
「どうすっか」
「やるしかないよ」
「めんどくせェな」
京助は舌打ちをした。
しかし、何かに気付いたかのようにちらりと視線を落とすと、口角を上げた。
「で、八重子」
「なぁに」
「お前、さっきから真剣な顔してるけど、真面目な顔すればするほどおもしれェ」
未だに八重子の頬をつまむ京助の手が、軽く頬をひっぱる。真面目な顔をしている八重子の口は、京助のせいで未だに面白く曲がっている。
「うぇッ、忘れてた!そろそろ離してよッ」