水の月
第一話「月」
僕は靴を脱いだ。どうせディスカウントショップで購入した安物の革靴だ。一年も履けば踵は斜めに磨り減り、底はペラペラで踏んだ感触が直接足の裏に伝わり、わざとらしくテカったフェイクの革には無数のひびが入る。まだ履けているということは、あれから一年も経っていないということだろう。
僕は橋の上にいる。 駅からここまではほんの五分程だが、どうやって此処まで来たのか記憶がない。帰り道からは離れているのに。
東京の東、縦に流れる大きな川に架かる橋、河口側の歩道に立ち、ペンキの剥げた欄干に手を掛けようとした。その時、欄干の鉄の突起に左腕の腕時計が引っ掛かり、ベルトが切れて手摺の上に落ちた。あと数センチずれていたら川に落ちていたのだろうが、使い古したデジタル時計で随分と白いボディが黄ばんでいるし、こいつのせいで酷い扱いを受け、どうせ一緒に落とすつもりでいたものだ。運が良いとか悪いとか、など考える事すらなく、それよりも気になることがあった。
僕が時計を掴んで持ち上げると、その下に「負け犬」という落書きがあった。僕に向けられた偶然の皮肉に、その通りだとクスリともしない乾いた笑いが込み上げた。
予定の決行をするのである。これで何度目の決意なのだろうか。橋から川を見下ろすと、両岸は川底が剥き出しになっており、水不足が深刻であることを訴えていた。中央辺りならば無事に溺れるだろうと、ここで靴を脱いだが、確実性を考えるならば剥き出しを選んだ方が利口である。右往左往して散々迷い、どうせ利口ではないのだからと無理やり理由をこじ付け、ここで実行することに決めたのだ。
裸足になってから、もう随分時間が過ぎた。僕は「4:13」を刻んだデジタル時計を手から離した。喉が渇いていたが、数秒で嫌ほど水を飲むのだからと自分に言い聞かせた。いくら水不足だからと言っても、人間ひとりの喉を潤すには十分過ぎる程の量はある。
川面までは随分の高さがある。「負け犬」の落書きが「早くやれよ」と急かせた。黒い口を開けた川面と負け犬の落書きを交互に見た。そこでようやく、まだ夜が明けていないのにやけに空が明るいことに気が付いた。ふと河口のほうに目をやると大きな丸が揺らめいている。そのまま顔を上げると、目の前に白い月が輝いていた。
だが、様子がおかしい。月はあんなに大きかっただろうか。小学生の頃、理科の授業で習った事がある。月の大きさは、五円玉を持って手を伸ばし、穴から覗くとぴったりその大きさになるはず。ポケットから五円玉を取り出し確かめてみると、この月はその四倍、五円玉そのもの程の大きさがある。
しかも、昨日の朝の六時のニュースでは、次の日曜日に地球の裏側で月食が観測出来るという報道があった。満月になるのは六日後のはずだ。僕は鞄の中の月曜日の新聞を取り出し月齢を確かめた。今夜の月は右側が膨らんだ上弦の月とあった。この時間は既に西の空に沈んだ後なのだ。つまり、今僕が見ている夜空に浮かんだ白く丸い物体は、月ではないという事だ。
この偽物の月の正体が気になった。予定の決行を取り止める理由がやっと見つかり、僕はベルトの千切れたデジタル腕時計をそのまま置き去りにし、再び安物の靴を履き、現実へと向かって歩き始めた。
第二話「火」
空が明るく成り始めた頃、家に着いた。玄関を入ると、一番に台所の水道へ向かい栓を捻った。蛇口から出る水は勢いがなく、コップを満たすのにも時間がかかる。数日前からの節水が原因である。コップの四分の一の水を四杯飲んだが、まだ喉は潤わず、川の水で潤う予定だった分を取り戻そうと、蛇口を開いたまま流れ出る水を、コンロの上で遊んでいた片手鍋で受けた。水が溜まるまでの時間稼ぎに隣の部屋へと移った。
僕はネクタイを外し、床に投げ捨てた。そして、テーブルの上のリモコンを取り、電源を入れた。画面は試験電波放送のテストパターンを映した。六時のニュースの放送まではまだ時間がある。
テレビは諦めてパソコンのスイッチを入れた。あの真っ白な偽物の月はいつからあったのだろう。UFOだとすればもっと動きがあるはずだ。何かの自然現象なのだろうか。はたまた、どこかの国の殺戮兵器なのだろうか。
パソコンが立ち上がり、インターネット検索に「白い月」と入力し、エンターキーを叩いた。僕が探している情報は見つからなかったが、とあるニュースサイトで面白い記事を見つけた。
ここのところの世界規模の水不足は「火の神」の祟りであるとか。アフリカのある民族が、火の神の祟りを鎮めるための雨乞いで、数十人を犠牲に山を一座丸焼きにしたらしい。結局、雨は降らなかったそうだ。
日本でも人柱などという人身供養の風習があったそうだが、非科学的なまじないや儀式的なものは、やはり効果がないのだろう。しかし、中国がヨウ化銀ロケットで、人工的に雨を降らせた話は有名であり、山を焼いた煙の粒子が雲の核を形成し雨を降らせるという方法も、同様の原理であり、彼らのやり方もまんざら間違ってはいないのだろう。人体にはヨウ素が存在するが、山がもし銀山であれば成功していたのかもしれない。
火曜日、六時のニュースの時間である。各地で昨夜「白い月」が突如として出現し、目撃されているのだがその正体は不明である。という既知の報道に若干がっかりはしたが、おそらくUFOや兵器などの人工的な創造物ではなく、超自然現象であることは間違いないということだ。
これ以上の情報は現段階では得られないだろうと、少し眠ることにした。その前に一服しようとタバコに火を付けた。来ないはずの静かな朝が来たのだ。安堵というわけにはいかないのだが、一晩中、橋の上を行ったり来たりを繰り返したので、体は疲れを隠せない。突然、睡魔に襲われた。
焦げ臭い匂いで目がさめた。
「あっ!」
タバコの火が床に投げ捨てたネクタイを燃やしている。僕は飛び起きて台所へ向かった。水道の蛇口を開きっぱなしにしていたことを忘れていた。直ぐ様、水の満ちた片手鍋を取り、燻ったネクタイにぶちまけた。
幸いその一杯で火は消えた。危うく溺死ではなく焼死するところだった。世界の水不足はやはり火の神の祟りなのかもしれない。それより、世界の水不足を僕が悪化させてしまった。次には水の神に祟られるのだろうかと不安がよぎった。
びしょ濡れの床をそのままにし、僕はシャツとズボンを脱いでベッドに潜り込んだ。今日から必要がなくなったネクタイは、床の上で黒焦げになってしなびていた
第三話「水」
何時間眠っていたのだろうか。目覚めたのは深夜三時二十三分。理不尽な会社の解雇も好都合だ。好きな時間に眠って、好きな時間に起き、謎の物体を観察していれば事足りる。空に浮かんだ白い月だけが、僕を生かしているのだ。
問題はこの調子でいつまで生き続けられるのかという事だが、そんな未来の話は、あんなに遠い未来に考えればよいだろうと、こんなに不思議な白い月に、今は全力を注ごう。特に天体の興味を抱いていたわけではないが、ほんの些細な生きている理由にしがみつくしかないのであった。
白い月はどうなったのだろうかと窓を開けて空を探した。そいつは東の空に浮かんでいた。昨日の朝とは違う方位にある。僕は狭いベランダにパイプ椅子を置き、愛用のカメラに三百ミリの望遠レンズを取り付け、三脚に設置した。
数時間観察したが、やはり白い月は動いている。気になる事は、惑星や衛星の様に白い月そのものが動いているのか、はたまた恒星の様に、地球の自転や公転の影響で動いて見えるだけなのだろうかという事だ。三百ミリの望遠レンズは、あの物体に本物の月の様なデコボコのクレーターがない事を教えてくれた。さらに、それは真っ白の球体であり、太陽の当たる方の逆側に陰影がない。そこまでが限界だ。天体観測用の高倍率望遠鏡が欲しいところだが、最早、無職の僕にそいつを買う余裕などない。超がつくほどの自然現象だ。どんな結末に至るかを見届けた後でアレを決行しても遅くはないだろう。
水曜日、六時のニュースの時間が来た。僕はテレビの電源を入れ、世界の科学者の見解に期待した。今日は僕の知りたい情報が報道されるだろうか。
あの白い物体は水蒸気の塊だそうだ。地球を挟んで丁度月と真反対側の成層圏に浮かんでおり、月の公転の内側の円軌道を、半周期遅れで動いている。ニュースではあれを「水の月」と名付けた。水の月の直径は4km。成分は水であるため、太陽の光が当たると内部で乱反射し、全体に光って見える。雲の様な性質であるが、大気圏内の衛星として定義されるらしい。つまり、常に満月の状態である裏側の水の衛星という事だ。
月の引力や地球の重力、地球と月の磁力、総合的な電気的エネルギー、逸脱した二酸化炭素レベルなど、あらゆるバランスが崩れてしまった地球に、一定の安定と調和の均衡を保つため、あそこにああやって浮かんでいるのだという。また、ここ半年の水不足の原因は、この水の月の作用だという事だ。
もう一つ別の深刻な事態が公表された。明日から時間差断水が行われるらしい。
僕は早速、断水対策のため風呂に水を貯めておく事にした。
第四話「木」
木曜日、六時のニュースではまた新たな動きが報道された。水の月に影響された人間達が動き出した。新興宗教団体『陰樹の森』が勢力を拡大しているというものだった。この団体は本来、生態系の安定した陰樹が生い茂る森を崇め神としているのだが、あの水の月が現れるとそれを救世主と位置付け、金髪に白装束を着て、各地で布教活動と儀式的な行動をしているという。先日インターネットで見た、火の神の怒りを鎮めるための雨乞いの儀式で山を焼いた事件を発端に、過激な運動を活発化させている様だ。『陰樹の森』は、まだ安定していない陽樹の森や、人工的に作られた植樹の林を、各地で焼き払っているという。
世界の水不足はさらに深刻化し、とうとう日本でも時間差断水が実行された。昨日のうちに風呂に貯めていた水を洗面器で汲み出し顔を洗った。冷蔵庫には二リットルのペットボトルの飲料水が一本と、水道から汲み出したピッチャーが一本入っている。この水不足がいつまで続くのか、完全断水の不安も残る。ポリタンクの一つでも買っておくべきだ。僕は服を着替えて近所のスーパーへ行くことにした。
スーパーは駅の目の前にある。その駅前で異様な光景が見られた。白い服を来た金髪の人達が何かを訴えている。
「金属を捨てなさい!そうすれば、苦難から解放されるのです!」プラカードには『陰樹の森』とあった。今朝見たニュースのそれだった。彼らの中の一人の女が僕に近づいてきた。
「時計や携帯電話を今すぐ捨てるのです。人工的な金属の産物が世界を狂わせているのです。水の月様があなたをお救いなさいます。さぁ、金属を捨てるのです。」こう僕に訴えかけた。僕は、
「腕時計も携帯電話も持っていません。」と答えた。金髪の女は、
「あなたは救われます。是非、集会に来てください。」と言って、ビラとステッカーを差し出した。黄色い紙に印刷されたビラには集会場の地図やら時間が記されており、大きな文字で「あなたは今、幸せですか?」と書いてあった。紙製のステッカーには黄色地に黒で「幸運」と書かれていた。僕はそれらを無造作にポケットに押し込み、目的地のスーパーへ向かった。
スーパーに到着すると真っ先に飲料売り場へ向かった。案の定、飲料水は売り切れ状態になっていた。それから、二階の日用品売り場へ向かったが、やはりそこでもポリタンクが売り切れだった。飲料水とポリタンクは諦めて、地下の食料品売り場で数日分の食料を買い、帰る事にした。
帰り道、買い物袋を下げたまま、あの橋に行ってみた。水の月は救世主に祭り上げられたことも知らず、無表情に南の空に浮かんでいる。辺りを見渡したが置き去りにした腕時計は見当たらない。パソコンを使えばすぐにでも見つかるのだが。
欄干の「負け犬」の落書きがまた「早くやれよ」と主張しはじめた。僕はポケットに手を突っ込んで、陰樹の森の女にもらった「幸運」のステッカーを出し、「負け犬」の落書きの上に貼り付けた。もう一つの黄色いビラの方は、欄干の手摺を台にして紙飛行機を折り、水の月を目掛けて飛ばした。黄色い紙飛行機は風に乗ってどんどん上昇し、水の月に吸い込まれていった。
第五話「金」
金曜日、六時のニュースでは予想外の事態が報道された。次の日曜日、地球の裏側で皆既月食が観測されることは既に知っていた。水の月は地球を挟んで本物の月の真反対側にあることも一昨日のニュースで知った。つまりこの二つの事実を繋げると、本物の月の月食と同時に、水の月による皆既日食が起こるということなのだ
さらに、水の月は水蒸気で出来ている事で、太陽と水の月と地球が一直線に並ぶと、水の月が巨大なレンズとなり、太陽の光が地球の一点に集まり、地球の半分が黒焦げになるというのだ。子供の頃、太陽の光を虫眼鏡で集め、黒い紙を焼いた。あの現象が地球の表面で起こるかもしれないというのだ。アラスカ、ハワイ、日本、オーストラリア、ニュージーランド辺りが直撃を受けるらしい。
各地では既に脱出準備が進行しているらしく、ハワイでは全ての住人のアメリカ本土への移送が、午後にも開始されるという。日本でも金持ちの脱出組が成田空港へ押し寄せ、パニックが起こるのも時間の問題であるとか。金の無い者達は潔く丸焼きになるしかない。溺死ではなく、焼死よりも酷い、一瞬で丸焦げになるわけだ。日本滅亡まであと四十八時間。
残りの四十八時間をどう過ごそうか。家でじっとしているのも無駄である。行くところも無いので、またあの橋に行ってみた。すると、昨日「幸運」のステッカーを貼ったあの場所に、金色に髪を染めた少女が立っていた。
三メートル程のところまで近づいてみると、彼女の背負っている星の模様の付いたバックパックに、見覚えのある物を見つけた。あの時、ベルトが切れて置き去りにした白いデジタルの腕時計だ。彼女はそれをカラナビでバッグに付けていた。
ふと足元を見ると靴を履いていない事に気が付いた。靴は傍に揃えてあった。僕が彼女の方をジロジロ見ていると、彼女は僕に気がついた。
「何だよ!おっさん、ジロジロ見てんじゃねーよ!変態ジジイ!」ものすごい剣幕で僕を罵った。
「あ、いや、その時計は…」と言いかけたが、彼女はそっぽを向いて無視をした。すると、彼女は「幸運」のステッカーを剥がそうとし始めた。
「あ、それを剥がすと、負け犬って。」彼女はもう一度僕を睨みつけた。
「これ、上に貼ったのあんた?」どうやら、あの落書きを書いた張本人らしい。
「あ、いや、別に剥がしてもいいんだけど。」僕はなぜ、ほんの十代の少女に怯えているのだと、一つ咳払いをして彼女に問いかけた。
「高校生かい?」と言うと、
「うっせーな!もう高校生でもなんでもねーよ!」と水の月に向かって叫んだ。そして更に付け加えた。
「月曜日に退学になったんだよ。文句あんの?」とこちらに向き直り、また僕を睨んだ。
「あ、僕も月曜日に会社をクビになったんだ。」と言うと、彼女は大笑いをし、
「あはははー!おっさんセクハラでもやっちゃったんでしょ!ばーか!」と舌を出してアカンベをして見せた。そして更に、
「どうせ明後日には全部終わるのよ。ざまーみろ。ばかやろー!」と水の月に向かって吠えると、彼女は片方の靴を履いた。
「ざまーみろだな。」僕もぽつりと呟いた。
両方の靴に彼女の足が収まるのを見届け、僕は彼女にさよならも言わずに回れ右をし、そのまま家に向かって歩き出した。数百メートル歩いた所で気が付いた。彼女が後から付いて来ている。僕は気がつかないフリをして、そのまま歩き続けた。家に着くと彼女は電柱の影に隠れる振りをした。
「お茶でも飲んで行くかい?」と彼女に声をかけてみた。すると、
「変態じじい!」と電柱の影からひょっこり顔を出して再びアカンベをした。
僕はやれやれと、家に入った。すると、玄関のドアがゆっくりと開き、
「お邪魔します。」と小さな声で呟きながら部屋に入って来た。
彼女は入って来るや否や、勝手に冷蔵庫を開け中を物色し、パンと一つ手を打ち、「お腹空いてるわよね。」と返事もしないうちに料理を始めた。慣れた手つきの包丁さばきで食材が見る見る細かくなり、、フライパンを華麗に振り回すと、あっと言う間に料理が出来上がった。
彼女は出来上がった二人分のチャーハンをテーブルに置き、一つを僕の前に差し出した。僕は黙ってスプーンを取り、食べようとすると、
「頂きますは?」と促され、慌てて、
「頂きます。」を言い、チャーハンを頬張った。
「うまい!」
「でしょ。」彼女も「頂きまーす。」と美味しそうにチャーハンを頬張った。
食事が終わると僕はパソコンに向かった。水の月の新たな情報を探った。すると彼女は僕が眺めているノートパソコンを部屋の隅っこの机の上に追いやったので、仕方なく僕も机に移動した。何やらバタバタとかガチャガチャと音が鳴り、僕の後ろを三度か四度、彼女は行き来した。やがて、またパソコンがテーブルに戻されたので、僕もテーブルに戻った。ふと周りを見渡すと、部屋が綺麗に片付けられ、テーブルの上には冷たい麦茶が用意されていた。
「あ。」
そして、彼女は僕の棚から漫画の本を十数冊、ベッドの脇に積み上げ、寝転がってそれを片っぱしから読み始めた。
「あ、ありがとう。ご、ございます。」僕は彼女にお礼を言って再びパソコンに向かった。
次に気付いた時には、彼女は漫画本を持ったまま眠っていた。もう遅いので家に帰そうと起こしたのだが、「親はいないから大丈夫」と言って再び眠り始めた。
ベッドを奪われた僕は、水の月が東の空から出る頃、ペラペラの座布団を枕に床で眠った。金髪の少女のバッグに付けられた僕の物であったデジタル時計は「2:25」を表示していた。
第六話「土」
目覚めると、僕には毛布がかけられており、金髪の少女は消えていた。テーブルには一枚のメモがあった。「負け犬のおじさん、日本一の場所で、また、会いましょう。」と、意味不明の伝言が残されていた。
「日本一の場所?」
土曜日。六時のニュースでは、各地の混乱が報道されていた。『陰樹の森』はさらに活動を活発化させ、都市近郊の人工林を焼き払っている。それ以前に水不足の影響で、気温は40度を超える程になり、ほとんどの植物は枯れ、川や池は干上がり、淡水魚や野生生物は絶滅寸前となった。どこもかしこも土色になり、緑の地球の姿はなくなりつつある。
水の月も噂が噂を呼び、多くのデマが飛び交った。海に落下して太平洋を臨む地域全般に大津波が押し寄せるとか、水の月そのものが地球外生命体で地球は侵略されるとか、白い服を着ていれば水の月のレンズで焼かれないとか黒い服は危険だとか、黒い髪は焼かれるのでスキンヘッドにした者まで現れた。情報の交錯と混乱が新たなる架空の情報を生み、飽和状態を超えて溢れ出した情報は、人間たちにさらなる奇怪な行動を起こさせた。何があっても不思議ではない状況の中で、
明日、何かが起きる。
最後の日常になるかもしれない昨日の事を思い出し、綺麗に片付けられた部屋を見渡した。ふと見るとベッドの下に白い物を見つけた。
「あ。」
彼女のバッグに付いていた僕の白いデジタル時計だ。僕はそいつを手に取った。
「これは・・・。」
あの時、ベルトが切れたはずなのだが、この時計は切れていない。裏側のシリアルナンバーを確認した。
「STーW02demo」これは試作品2号機だ。
この時計は僕と同僚が開発した『サムタック』という名の腕時計だ。GPS機能を搭載した登山用のもので、白いタイプは試作品で一般には発売されていない。
五年前、僕と同僚は小さな町工場でGPS技術の開発研究を行っていたのだが、その技術を買われてあの会社に誘われた。そこで初めて開発したのがこの『サムタック』だ。他のGPS機能付き時計との違いは、スマートフォンやパソコンを使ってリアルタイムの位置を確認できる。
発売前、同僚が実際に登山を行い、どれほどの精度かを試験的に調査した。その時、彼の奥さんと娘も同行した。しかし、不運にも土砂崩れに遭遇してしまったのである。同僚は亡くなってしまったが、サムタックが位置を割り出し、遭難した奥さんと娘さんを土の中から発見したのだ。三年前のことである。
彼女は同僚の娘なのだ。
その後、いわく付きの時計なので一旦発売が延期になったが、会社は人命救助の実話の公表と同時に発売を開始した。会社は同僚の死をビジネスに利用したのだ。僕は発売直前まで、同僚と家族の名誉のため人命救助の事は公表しないように嘆願したのだが、聞き入れてもらえず、開発チームから外され営業部に回された。皮肉にも、実話の効果で爆発的に売れ、ヒット商品となった。その時発売されたのは、黒のモデルだった。白いタイプの試作品は三本作られた。事故の後、会社が回収したと思っていたが、彼女はまだ持っていたのだ。
しかし半年前、サムタックを利用した事件が発生した。この時計の最大の魅力であるリアルタイムでの位置確認機能をある男が悪用し、女性がストーカー被害に遭ったのだ。僕は開発チームから外されていたが、開発者本人であったため、セキュリティに問題は無かったにも関わらず、裁判やら何やらの挙句、会社は全ての責任を僕に押し付け、理不尽にも僕を解雇した。月曜日のことである。
僕は置き去りにした1号機の行方が気になった。サムタックの検索マップソフトにシリアルナンバーとパスワードを入力すれば、1号機の現在地と三日程の時計が辿った軌跡を確認できる。
パソコンを開いた。パソコンは電源が入ったままで、検索マップソフトが立ち上がっていた。地図のピンは『STー003demo』と記され、富士山の麓を指していた。三つ目のサムタックも生きている。これを持っていたのは同僚の奥さんだ。彼女は母親を探している。しかし、このソフトはスマートフォン用を含め、会社のウェブサイトから誰でも入試できるものだ。
「富士山。メモにある、日本一の場所。」彼女は僕に助けを求めているのだ。
僕は1号機の行方を検索した。驚いた事に、ピンは3号機と同じ富士山の麓を示した。僕はサムタックの履歴をタブレット端末に転送し、富士へ向かう準備をした。富士山麓まで150キロ。車で2時間半程の距離だ。僕はタブレットと彼女のサムタック2号機を鞄に詰め、急いで車に乗り彼女の行方を追った。
サムタックのピンが指した場所は、富士の樹海への入り口辺りだった。僕は樹海へ続く一本道で車を降りた。彼女のサムタック2号機は、車のダッシュボードに目立つように置き、「ここで待て」とメモを残した。もし彼女が2号機を検索すれば、きっとここに来るだろう。
樹海への一本道を2キロ程歩いたところの窪地の野原に辿り着いた。そこで、奇妙な光景を見た。白装束を着た者達が黒装束を着た者達を円形に取り囲み、何やら念を唱えているのだ。ピンが示した3号機のある所は、丁度その場所だった。僕は崖の上から儀式の様なその光景を偵察した。その時、背後で何かが動いた。
「負け犬のおじさん。やっと気付いたのね。遅いわよ!」金髪の少女が後ろにいた
「君はいつから気付いてたんだ?」
「おじさんは私を救ってくれたのよ。パパの葬儀の時に、一度会っているわ。命の恩人の顔は覚えているわ。おじさん、私に気づかないんだもん。」と彼女はふくれっ面を僕に見せた。
「君のママに何があったんだい?」
「ママはパパが死んでから、陰樹の森に入信したの。土の中から生還したから神だって言われてね、洗脳されちゃったみたいなの。水の月が現れて活動が活発になったでしょ。心配になって、私はずっとママを追ってるの。ほら、この金髪で。潜入捜査ってやつね。でも昨日の朝、ママからメールが来たの。『ママは世界を救うために水の神になります。』ってね。おじさんなら手を貸してくれると思って探したんだからね。会社に行ったけど、辞めちゃったって。でもパパの時計をおじさんが持ってるって聞いたわ。パパのパソコンの地図に履歴が残っていてね。検索を掛けて、軌跡を辿って、あの橋の上まで辿り着いたの。だけど、そこで軌跡は無くなってたの。」彼女はこれまでの経緯を一気に話した。
「そうだったのか。君のママは洗脳されたわけではないかもしれない。信者なら時計や携帯電話は使わないからね。やはり、あの人たちは陰樹の森の人達なんだね。あれは、何をしているかわかるかい?」
「時計やケータイを土に埋めてるの。なんで埋めるんだろ?」
「五行陰陽説だ。風水の元となった中国の古い考え方で、物質は水、木、火、土、金の五つに分類され、水は木を育て、木は火を起こし、火は灰となって土に還り、土から金属ができ、金属が冷えると水が出来る。そうやって気が流れると考えられていたんだ。時計や携帯電話なんかの金属を土に戻し、水を復活させようってことさ。」
「ふーん。さすがパパの友達ね。何でも知ってるんだ。」
「あっ!白装束がスキンヘッドになっている。黒装束の者は黒髪だ。まさか。」今朝のニュースを思い出した。
「どうしたの?」
「人柱だ。君のママは水の神になるって言ったんだね。このままでは人柱にされてしまう。助け出さないと。」
「人柱ってなーに?」
「山の木と一緒に焼かれてしまうんだ。」
「え!おじさん、ママを助けて!」
「君は車に戻ってるんだ。この道を戻ったところに止まっている。僕はもう少し近づいてママを探してみる。」
「わかったわ。おじさん、気をつけてね。」少女は後ろを振り返りながら一本道を戻って行った。
僕は崖を下り、陰樹の森の儀式に近づいた。三十人程の黒装束を円形に囲んで、スキンヘッドの白装束が膝間付き、祈りを唱えている。タブレットの地図が示したピンまであと7.8メートル。円の中心の黒装束の中に彼女の母親がいる。3号機は彼女が持っているはずだ。母親の顔は覚えているが、この距離だと確認できない。暗くなるまで待つしかない。僕は一旦、車に戻ることにした。
車に彼女はいなかった。サムタック2号機も消えている。この暑さだ、飲み物でも買いに行ったのかもしれない。少し待つことにしよう。タブレットの地図で2号機を検索しようと初期のパスワードを入力してみたが、どうやら変更されているようだ。
二時間待ったが彼女は現れなかった。また奴らに潜入しているのだろうか、奴らに捕まった可能性もある。そろそろ空が暗くなり始めた。儀式がどうなったか、もう一度あの場所に戻ることにした。
円形の周りの白装束達が火の付いた松明を掲げている。儀式はまだ続いているようだ。
その時、頭に激痛が走り、僕はそのまま気を失った。
第七話「日」
目が覚めた時には辺りは真っ暗だった。僕は手足を縛られ、身動きが取れない。周りには松明を持った白装束のスキンヘッドの男が数人いた。
「おい、どうする気だ。」だが、白装束の男達は終始ブツブツと念を呟いているだけだった。日食までの時間はあとどれくらいなのだろうか。恐らくもうすぐ雨乞いの儀式が行われるはずだ。何とか脱出して、彼女と母親を探さなければ。
陰樹の森の行列が富士の山に入って行くのが見えた。黒い連中を先頭にして白装束が後から続く。僕は頭から黒い頭巾を被せられ、両側から腕を捕まれ列に加わった。どうやら僕も人柱にされるようだ。山道の途中から僕の監視は黒装束に引き継がれた。しばらくそのまま歩き続けていると、監視の女が僕に囁きかけてきた。
「あなた、死んだ主人の同僚の方ね。」
「あなたは!」それは、あの娘の母親だった。
「どうしてここに?」
「お嬢さんがあなたを探しているんです。ここを離れましょう。」
「いいえ。どうせ、あと数時間後にはみんな焼け死ぬのよ。」
「ならば、最後の時間をお嬢さんと一緒にいてあげてください。」数秒の沈黙の後、彼女が言った。
「私は、主人と一緒にあの山で死にたかった。見つけてくれなくてもよかったのに。」
「それじゃ、お嬢さんも死んでよかったのですか。あの娘は髪を金髪に染めて信者のフリをし、あなたを探しているのですよ。」周りの黒装束は完全に洗脳され念を唱えたまま、こちらの会話も聞こえていないようだ。またしばらく彼女は沈黙し、再び口を開いた。
「あなたを解放します。もう少し進むと後ろの白衣の者は離れます。娘を探し出してください。私はこのまま山に向かい神になります。」
「神になんてなれる訳がないじゃないか!あなたは洗脳されていないはずだ。」
「そんなのわかってるわ。私はただ死にたいのよ!」
僕もあの子もこの母親も同じ、死を望んだ三人が、今この富士の山にいる。地球と太陽と水の月が一直線に並び、何かが起ころうとしている。奇跡が起こる時は、きっとこういうシチュエーションで起こるのだろう。
空が徐々に明るくなり日が昇る頃、彼女は僕の両手の拘束を解いた。
「あの娘は時計を持っています。パスワードを知っていますか?」
「いえ、私は知りません。」
「一緒にあの娘を探しましょう。」
彼女は完全に沈黙した。
彼女は3号機を持っており、居場所はすぐに検索できる。まずは娘を探し出そう。
僕は黒装束の列を離れた。追ってくる者は誰もいない。ここは富士の六合目辺りだろうか。登山道を離れた林の木の影で、鞄からタブレット端末を出し、少女が持つ2号機のパスワードに繋がるヒントを探した。
「確か同僚のSNSがあったはず。」僕はインターネットを巡りSNSを探った。
「まだ残っている。」彼のページのフレンドリンクに娘のページを見つけた。娘のページには、先週までの日常が刻まれていた。パスワードの手がかりは数多く見つかった。彼女の名前、生年月日、飼い犬の名、あらゆるワードで検索を試みたが、全て当てはまらなかった。
ふと見上げると、麓付近の空に煙が上がっていた。雨乞いの儀式が始まったようだ。
「待てよ。彼女は僕の家を離れる時、ここに繋がるヒントを僕に残していた。もしかしたら、僕と彼女が共有する言葉をパスワードにしているかもしれない。」僕はあのワードを入力してみた。
「M A K E I N U」
「STーW02demo」のピンが青く点滅しマップに出現した。それは、彼女のいる場所を示している。
「やった!」彼女はここから203メートル先の山道を離れた所にいる。僕は急いで彼女の所へ走った。先を見ると山道の上の方にも煙が出始めていた。
彼女は山道脇の林の中で倒れていた。僕は彼女を揺り起こした。
「おじさん。」彼女は目覚めた。
どうやら彼女は斜面で足を滑らせ、木の幹で後頭部を打ち、気絶してしまった様だ。だが、幸い他に外傷も無く、自力で動ける事を確認できた。
「君のママに会った。多分、山道の先にいる。今、山を降りれば、火の手から逃れられるが…」
「ママを連れて帰るわ!」彼女の返事は早かった。僕と彼女は母親を連れ出すため、山道の先へ急いだ。
水の月と太陽は更に距離を縮め、南東の空に浮かんでいた。目測であと数センチ。母親の居場所を示すピンは六号目と七号目の中間地点の辺りで止まっていた。陰樹の森の黒装束達は既に列を解散し、それぞれ林の中に散らばった様で、辺りの林の陰に黒い者が見え隠れしていた。
山道の先には火柱が立ちはじめた。脇道を入った辺りで、母親は林の中、一人念を唱えていた。
「ママ!」娘が母親に駆け寄った。
「早く、山を降りましょう。」僕は二人を促した。
「もう、遅いわ。」確かに、上も下も炎が迫り、煙が立ち込めてきている。僕は脱出ルートを探したが、風の煽りを受けて火の回りが激しくなり、逃げ場は無くなった。頭上の太陽は丁度水の月にぶつかるところだった。
「もう少しで全て終わるわ。」母親は悲しそうに娘に告げた。
ふと見上げると、空中で何か黄色い物がゆらゆらと揺れている。風で何かが舞っているようだ。
「あっ!二人共、向こうへ。」僕は、黄色い物体が流れて行く方へ二人を誘導した。炎の広がりから少しでも時間を稼ぐため、黄色い物体が流れる風下を目指した。よく見れば、あれは紙飛行機の様だ。まるで僕達を導くかのように、黄色い紙飛行機は林を抜けた所の野原へと案内し、上空をクルクルと旋回した。来た方向から、パチパチという木が燃え盛る音と共に、木がなぎ倒される轟音が響いた。上空で旋回した紙飛行機は僕達が来た元の方向へ流れて行った。
「風向きが変わった。」僕は呟いた。
あの時、橋の上から飛ばした紙飛行機を思い出した。あのビラの紙も黄色だった。まさかと思ったが、そんな筈は無い。唯の偶然だと、都合のよい考えを頭から掻き消した。
太陽の半分が水の月に隠れた。皆既日食まであと数分。この野原も周りを炎で囲まれれば僕たちに助かる見込みはないだろう。水の月のレンズで黒焦げになるか、放火の山火事の炎で焼死するか、どちらが先かというところだ。僕たちは富士山中腹の小さな野原で命を落とすことになるのだ。ようやく、母なる太陽と、子である地球と、赤の他人の衛星が、一直線に揃ったのに。
山林の炎は野原を取り囲んだ。この熱は炎の熱なのか、水の月のレンズがもたらした集約された太陽の熱なのか、それを判別する方法はない。僕たちは沈黙し、静かに死を迎えようとしていた。
その時だった。
水の月の中心に太陽が重なった。
太陽が水の月を通して紫色に透けて見える。
やがてその色はだんだんと濃くなり、
真っ黒に変化した。
黒く変色したの水の月は、
大きく膨らみはじめ、
黒い雨雲を生み出し、
放射状に伸びて、
瞬く間に空に広がった。
頬に暖かい何かが落ちた。
「あっ!」
ポツリと空から、
暖かい物が落ちてきた。
落ちてくる物が増加するに従って、
徐々に冷たく変化した。
「雨だ!」
空は一面灰色になり、冷たい雨が降り始めた。やがて雨は強くなり、さらに激しく、後に豪雨となって僕達を濡らした。
水の月がもたらした雨は、山林の炎を食いはじめ、数分の後には、周りを取り囲んでいた炎をすっかり食い尽くした。
一直線になった三人の命は、未来へと繋がった。
第八話「星」
月曜日。六時のニュース。雨はまだ降り続いていた。富士の山火事は水の月のレンズがもたらした災害として報道された。この星の水不足も一晩で解消され、今日からまた普通の日常が始まるのであろう。
昨夜、元居た町工場の「星野製作所」から電話があった。何処からか、僕があの会社を辞めた事を聞きつけ、よければ今日から来てくれないかという事だ。僕は喜んで再就職することにした。
出勤時間、外は雨。僕はあの橋を通った。すると、あの場所の欄干の手摺に真っ白なサムタックが置いてあった。時計の裏には「STーW01demo」、僕が置き去りにした1号機だ。ふと気付いた。一昨日まであったはずの「幸運」のステッカーは昨日の大雨で剥がれ、「負け犬」の落書きを連れ去って一緒に消えていた。
背後で笑い声が聞こえた。振り返ると、橋の向こう側で、赤い傘を持ったセーラー服の黒髪の少女が手を振っていた。
「あのね。退学じゃなくて、停学なんだって。へへ。」彼女は舌を出して照れ笑いを浮かべた。さらに、
「パパの机にね。時計のバンドのサンプルがあったの。」と傘を閉じた後、こちらを指差して言った。そして、彼女は大きな声で「行ってきまーす」と振り返り、傘を振り回しながらスキップをして行ってしまった。彼女のバッグの星の模様が背中で揺れていた。
自然の力は驚異である。昨日まで枯れていた草花は一晩で元通りに生い茂り、干上がった川に水も満ちて、魚が1匹跳ね上がった。
水の月があったあの空にふと同僚の顔が浮かんだ。
「もしかして、全部、君の仕業なのか?」
すると、傘に何かが当たり、欄干の手摺に置いてあったデジタルの横に落ちた。それは、黄色い紙飛行機。紙を開けると、「あなたは今、幸せですか?」と書いてあった。
僕は真っ白なデジタル時計を腕に付け、生まれ変わっての新しい一歩目を踏み出し、傘を差しながらゆっくりと歩き始めた。
雨はもうすっかり止んでいるのに。
おわり