怪物は静かに微笑む
古い木材が腐りかけた鼻を突くような湿った匂い。
エリアは、狭い路地の突き当たりにある荷置き場の床下、わずかな隙間に父と二人で身を潜めていた。 彼女が着ている薄汚れた亜麻色のワンピースは、恐怖で噴き出した冷や汗でぐっしょりと背中に張り付いている。編み込んだはずの栗色の髪は乱れ、泥と埃にまみれていた。
「……なんで、こんなことに」
震える唇から漏れた言葉は、外から響く地獄の喧騒にかき消された。
平和だった村は、黄昏時を境に一変した。北の森から溢れ出したのは、おとぎ話の類だと思っていた「泥喰らい」の群れだ。 牛のような巨大な骨格を持ちながら、その全身は沸き立つ黒い泥のような腐肉で覆われている。そいつらが通った後には、草木も生えない不気味な粘液の跡だけが残る。
「しっ、静かに。動くんじゃないぞ、エリア」
父が大きな手で彼女の肩を強く抱き寄せた。父の着古した作業着からは、朝まで手伝っていた畑の土の匂いがしたが、今はそれに混じって強烈な「死」の臭いが漂っている。
板の隙間から見えた光景が、エリアの脳裏に焼き付いて離れない。向かいの家に住んでいたマルタおばさんが、あの魔物の巨大な、骨が剥き出しになった顎に生きたまま引きずり込まれる瞬間。響き渡ったのは、肉が裂け、骨が砕ける「メシャリ」という鈍い音だった。
「大丈夫だ。王都の兵士団が、もうすぐ助けに来てくれる……。彼らが来れば、こんな化け物なんて……」
父の言葉は、震えるエリアを落ち着かせるための嘘だった。父自身の膝も、小刻みに板を叩くほどに震えていた。
その時、板の隙間から差し込んでいた僅かなオレンジ色の残光が、探りを入れるように遮られた。 「ギチ、ギチギチ……」 耳を劈くような、硬い殻が擦れ合うような異音が至近距離で響く。 魔物が、二人の隠れ場所に気づいたのだ。
「ひっ……!」 「エリア、奥へ行けッ!」
凄まじい力で、頭上の古い板がバキバキと音を立てて引き剥がされた。 現れたのは爛れた眼球を四つも持ち、そこから黄色い膿を滴らせる醜悪な怪物の顔だった。魔物が大きく口を開けると何十本もの細い牙の隙間から、先ほど喰った誰かの衣服の切れ端が覗いている。
父はエリアを突き飛ばすようにして床下から這い出し、手近にあった錆びた薪割り斧を振り上げた。
「化け物め! こっちへ来い!」
だが、狭くぬかるんだ路地では、素人の父が斧を振るう隙などなかった。魔物の前足――鎌のように鋭く発達した爪が、空気を切り裂く。
「アアアアッ!」
悲鳴と共に、父の右腕から脇腹にかけて深い爪痕が刻まれた。鮮血が噴水のように吹き出し、エリアの頬に熱く、鉄臭い感触を運ぶ。
父は崩れ落ちながらも、必死に魔物の脚に縋り付いた。
「逃げろ……エリア……早く!」
(行かなきゃ。お父さんを助けて、ここから逃げなきゃ)
エリアの心は叫んでいた。だが、彼女の身体はまるで凍りついた石像のように微動だにしない。膝は笑い、指先は感覚を失い、喉は恐怖で塞がって声も出ない。 視線の先では父が魔物の重圧に押し潰され、その鋭い牙が父の肩口を深く抉り取っていた。
「――おい、そこの路地から声がしたぞ」
大通りから、瓦礫を踏みしめる硬い靴音と共に、聞き覚えのある凛とした声が響いた。 二人の兵士が路地の入り口に現れる。一人はベテラン風の男、もう一人は若く鋭い眼差しを持つ青年だ。
その若者の顔を見た瞬間、エリアの胸に懐かしい記憶が溢れ出した。
(カイル……!?)
四つ年上の、近所の優しかったお兄ちゃん。
幼い頃、転んで泣くエリアの膝を優しく撫でてくれた幼馴染の少年。川遊びや山遊びをすればいつも見守っていてくれ、成長すると、目が合うだけでお互いに顔を赤らめて逸らしてしまうようになった、
あのもどかしく、こそばゆい思春期の沈黙。それは彼が騎士を目指して旅立つまでの、二人の間の淡い恋の予感だったはずだ。
「おい、カイル。生存者だ、助けるぞ!」
同行の兵士が剣を抜こうとした。だが、カイルはそれを手で制した。
「……待て。ここは俺一人で十分だ。あんたは大通りの負傷者を先に運んでくれ。人手が足りなかったはずだ」
「ふん、気をつけろよ。……任せたぞ」
もう一人の兵士が去り、路地にはカイルと、魔物に押さえつけられた父、そしてエリアだけが残された。
「カイル! カイル、助けて!」
エリアは泥にまみれた膝を突き、喉が焼けるような悲鳴を上げた。 父もまた、薄れゆく意識の中でカイルを見上げた。その瞳には、かつて面倒を見た近所の少年に対する優越感と安堵の色が浮かぶ。
「おお、カイルくんじゃないか……! 運がいい、早く……早く化け物を仕留めてくれ! 私は見ての通り怪我を負って動けない。……ああ……早く、早くしてくれ! もう、こいつを押しとどめるのも限界なんだ!」
父の言葉には切迫感があった。だが、カイルは一歩も動かない。そして魔物の顎が、父の右肩を「ミチャリ」と音を立てて噛み砕く。
「ぎ、ぎあああああああッ!!」
父の絶叫が路地に木霊する。鮮血が泥と混じり、父は泥まみれの地面をのたうち回った。
「何をしている! カイル! 早くしろと言っているだろうが! 殺せ! そいつを早く殺してくれっ!」
カイルは微動だにしない。槍の先は地面を向いたままだ。その冷淡な沈黙が、父の恐怖を逆撫でした。
「おい、聞こえないのか!? まさか、昔おまえを叱ったことを根に持っているのか!? 早く助けろ、助けろよおっ!」
魔物は父の腹部を裂き、内臓を引きずり出そうとする。父の顔は苦痛で土色になり、口からは泡混じりの血が溢れ出した。もはや父に残ったのは無様で醜い生への執着だけだった。
「や、役立たず……! 許さん、許さんぞ! お前のような薄汚いガキなんぞ、やっぱり娘に近づけなければ良かった! 騎士になれなかったのも、根が腐っているからだ! ふざけるな……殺してやる!
……なあ、助けてくれ、頼む、頼む、死にたくない、死にたくないっ!!」
罵倒は次第に情けない命乞いへと変わり、そして魔物の顎が喉笛を完全に噛みちぎったことで、奇妙な風切り音のような喘ぎへと変わった。 ボコボコと血の玉が口から溢れ、父の身体が最後の一掻きをした後、泥の中に沈んで動かなくなった。
エリアの目の前で、父はかつての面影もない、ただの「肉塊」へと成り果てた。
「お、お父……さん……」
父を殺し終えた魔物が、ゆっくりとその醜悪な頭をもたげる。 四つの爛れた瞳が、板の陰で震えるエリアを射抜いた。
「ギチギチ、ギチ……ッ!」
父の血で濡れた顎から膿が滴り、魔物がエリアへとその巨体を摺り寄せてくる。 鼻を突くのは、今さっきまで自分を抱きしめていた父の、鉄臭い死の匂い。
助けて! カイル、どうして!?
エリアは声にならない悲鳴を上げながら、近所のお兄ちゃんの面影を残す青年と、目前に迫る「死」そのものの姿を交互に見つめ、ただ絶望の深淵へと突き落とされていった。
「お父……さん……」
エリアの目の前で、かつて慈愛に満ちていた父の顔は、魔物の牙によって無残な肉の断片へと変えられた。どろどろとした暗赤色の液体が石畳の隙間に流れ込み、父の指先が最後にぴくりと跳ねて、すべてが終わった。
……なぜ?
その問いだけが、エリアの壊れかけた脳内を激しく打ち鳴らす。
「カイル……どうして……?」
視線の先に立つ青年は、彫像のように動かない。その瞳は、ゴミ捨て場の残飯でも見るかのように冷え切っていた。 信じられなかった。
幼い頃、高い木に引っかかった帽子を取ってくれた時の、誇らしげな笑顔。 雨の日に一つのマントにくるまって、震えながら笑い合った温もり。 一度だって喧嘩をしたことなんてなかった。彼はいつだってエリアの騎士であり、エリアは彼がいつか本物の剣を帯び騎士となって帰ってくる日を、心から待ちわびていたのだ。
成長し、言葉数が少なくなったのだって、思春期の気恥ずかしさだと思っていた。あの、目を逸らし合う瞬間に流れていたこそばゆい空気は、エリアの独りよがりな幻想だったというのか。
「助けて……カイル……お願い……!」
エリアは血の海を這い、カイルの方へ手を伸ばした。だが、彼はただ彼女に無機質な視線を投げ下ろすだけだった。その冷たさは、魔物の牙よりも鋭くエリアの心を切り裂いた。
ギチ……ギチギチッ!
父を「処理」し終えた魔物が、次なる供物を求めてエリアへと向き直る。 四つの爛れた瞳に、泣き崩れる少女の姿が映り込む。魔物の口からは、今さっきまで父の一部だった鮮血が、黄色い膿と共にだらりと滴り落ちた。
「いや……来ないで……っ!」
鉄臭い死の匂いが、エリアの全身を包み込む。 魔物がその泥のような巨体を揺らし、鎌のような爪を振り上げた。エリアは反射的に目を閉じ、カイルの名前を叫ぼうとした。だが、喉は恐怖で引き攣れ、掠れた吐息しか漏れない。
(助けて、カイル! 昔みたいに、私を守って!)
その願いも虚しく、魔物の鋭い爪がエリアの細い肩に深く食い込んだ。
「あ、ああああああッ!!」
焼けるような激痛。肉が引きちぎられる音。 エリアは地面に叩きつけられ、魔物の重圧が細い胸を圧迫する。視界が真っ赤に染まり、遠のいていく意識の中で、彼女は必死にカイルを探した。
彼は、見ていた。 魔物の爪が少女を切り裂き、その小さな身体が絶望に身悶えする様を、瞬き一つせずに最後まで見届けていた。
助ける時間は、いくらでもあった。 槍を一突きすれば、彼女の命を繋ぎ止めることは容易だったはずだ。 だが、彼はその一歩を踏み出さなかった。
やがて、エリアの身体から力が抜けた。 溢れ出る血が体温を奪い、世界から色が消えていく。最後に視界に残ったのは、血に濡れた路地でも、醜悪な魔物の顔でもなかった。
返り血一つ浴びていない、美しい銀色の鎧を纏ったカイルの背中だった。
「……終わったか」
カイルは短く呟くと、一度も振り返ることなく、大通りへと歩き出した。 まるで、最初からそこには何も存在していなかったかのように。 ただの清掃を終えた作業員のように、淡々と、静かに。
だが、彼は足を止めて戻ると、足元に転がった父親の死骸を一突きにし、溢れ出た血肉を無造作に掬い取った。そして、先ほどまで白銀に輝いていた自身の鎧に、執拗に、満遍なくその汚れを塗りたくってから、何事もなかったかのよう再び大通りへと歩き出した。
路地の奥には、貪り喰われる音と、薄れていく少女の嗚咽だけが残された。 かつての少女の淡い恋心は泥濘の中に沈み、夕闇が静かに地獄を覆い隠していった。
※
村の広場に設営された仮設兵舎に、重い足音が響いた。 戻ってきたカイルの鎧は、泥と返り血で無惨に汚れていた。彼は兵舎の入り口にたどり着くなり、糸が切れた人形のようにその場に膝をついた。
「ああ……ああああッ! クソッ、俺が……俺がもっと強ければ……!」
カイルは拳で地面を叩き、獣のような声を上げて泣き叫んだ。その慟哭は静まり返った兵舎に響き渡り、休息を取っていた同僚たちが慌てて駆け寄ってくる。
「おい、カイル! どうした、しっかりしろ!」
先ほど路地で別れたベテラン兵士が、彼の肩を揺さぶる。
「……あ、あんたか……。すまない、俺一人でやると言ったのに……。
路地の奥に、幼馴染の女の子とその父親がいたんだ。俺は必死で、必死に戦った! でも、思いもかけず、魔物が次から次へと何体も溢れてきて……
追い返すのが精一杯だったんだ!」
カイルは顔を覆い、指の隙間から涙を流しながら言葉を繋いだ。
「あの子は、エリアは……俺が王都へ行くときも、ずっと笑って見送ってくれた、たった一人の幼馴染だったのに! 目の前で、助けを求める彼女の声を、俺は……俺は……っ!!」
しゃくり上げ、過呼吸気味に胸をかきむしるその姿は、大切な人を守れなかった若き兵士の深い絶望そのものだった。同僚たちは痛ましげに目を伏せ、彼の背をさすり、かける言葉も見つからずに立ち尽くした。
兵舎の外には、カイルの叫びとは対照的な、凍り付いたような静寂が広がっていた。 かつては家畜の鳴き声や子供たちの笑い声が絶えなかった村は、今や「泥喰らい」が撒き散らした腐敗臭と、焦げた木材の匂いに支配されている。
村のメイン通りには、逃げ遅れた村人たちの遺骸が無造作に転がっていた。魔物に喰い荒らされた跡は無惨で、石畳の凹みには赤黒い血溜まりが鏡のように夕闇を反射している。 窓という窓は叩き割られ、略奪された後のように家財道具が散乱しているが、犯人は人間ではない。ただ食欲と破壊の衝動に従った怪物たちが、平和を根こそぎ奪い去ったのだ。
夜風が吹くたびに、どこからか半壊したドアが「ギィ、ギィ」と乾いた音を立てて揺れる。生き残ったわずかな村人たちは、教会の地下に集められ、魂が抜けたような顔でただ震えていた。
「……カイルをあんまり責めないでやってくれ」
炊き出しの火を囲みながら、一人の同僚が沈痛な面持ちで呟いた。
「あいつは、この部隊の中でも一番の真面目野郎なんだ。騎士試験に落ちて兵士になった時も、腐らずに誰よりも訓練に励んでいた。村への派遣が決まった時も、『大切な人たちを守るんだ』って、本当に力強く話してたんだよ」
「ああ、知ってるよ。あんなに良い奴はいない。以前、重い荷物を運ぶ老婆を見かけて、非番だってのに王都の端まで送り届けていた。自分を犠牲にすることに迷いがない男なんだ」
「だからこそ、あいつも辛いんだろうな。よりによって自分の幼馴染を救えなかったなんて……。あいつの奮戦は、あの汚れきった鎧を見ればわかる。追い返すのがやっとだったというのも、あの状況じゃ無理もない話だ」
同僚たちは、カイルの誠実な人柄を疑う者など一人もいなかった。 兵舎の奥では、今もカイルの抑えきれないすすり泣きが続いている。 その涙の裏側にある、路地裏の真実を知る者は、もうこの世界には一人もいなかった。
兵舎の最奥、湿った藁敷きの寝台の上で、カイルは毛布を頭から被り、身体を丸めていた。 時折、遠くで燃え続ける建物の柱が爆ぜる「パチン」という音が、静まり返った夜の空気に響く。 カイルの肩は激しく上下していた。
「ひぐっ、あ、あ……」
と、喉の奥で押し殺したような、掠れた呼気が漏れる。それを聞いた同僚たちは、誰もが「悲劇に見舞われた心優しき青年の、引き裂かれるような慟哭」だと信じて疑わず、憐れみの視線を向けて通り過ぎていった。
だが、毛布という暗闇の聖域の中で、カイルの顔に浮かんでいたのは、この世のものとは思えないほど深く、昏い歓喜の相だった。
※
カイルは、人一倍努力する男だった。
家柄も財産もない彼が、村を抜け出し、王都の騎士団という光の当たる場所へ行くには、人の何倍もの汗を流すしかなかった。少年時代、他の子供たちが川遊びに興じている間も、彼は一人で重い木剣を振り続けた。手のひらの皮が剥け、血が滲み、肉が硬くなっても弱音を吐かなかったのは、故郷を守るという純粋な志、そして何より幼馴染のエリアを、隣人として守りたいという無垢な献身があったからだ。
だが、その純粋さはある日、最悪の形で踏みにじられた。
きっかけは、エリアが森の廃屋の屋根に登り、足を滑らせて宙吊りになったのをカイルが助けたことだった。カイルは必死に彼女の身体を支え、自らも深い擦り傷を負いながら彼女を地上へ降ろした。
しかし、運悪くそれを見つけたエリアの父親の目には、娘の乱れた衣服と、震える彼女の身体に触れているカイルの姿しか映らなかった。
エリアは、自分が勝手に危険な場所に登ったと知れば厳しく叱られることを恐れた。彼女は恐怖と保身から「カイルが無理やり連れて行った」と言外に匂わせ、肝心な説明をせずに泣きじゃくって黙り込んだ。その自己保身の沈黙が、父親の疑念を確信に変えた。
数日後、父親は村の広場に近い通りでカイルを呼び止めた。そこには、一点の曇りもない「父親としての正義」が宿っていた。
『カイル、警告しておく。うちのエリアに、いやらしい手出しをしようなどと考えるな』
父親の言葉は、冷酷だがどこまでも「娘を想う親の純愛」に満ちていた。彼は本心から、幼い娘を狙う男から娘を守ることが自分の聖なる義務だと信じ切っていた。
『お前のような年頃の男が、娘をどのような目で見ているか、私にはわかる。お前がやったことは、娘の気持ちをまったく考えない、下劣な欲望の発露だ。私はお前の将来を思って、あえてこうして忠告してやっているんだ、二度とエリアに近づくな』
カイルは愕然とした。自分は命がけで彼女を助けたのだ。感謝など望んでいなかったが、まさか「正しい行い」をした結果、これほど真っ当な「善意の顔」をした男から、公衆の面前で罵倒されるとは。
最悪なことに、この説教の様子を、井戸端会議をしていた村の若い女たちが遠巻きに見ていた。彼女たちは事の真相など知る由もない。ただ、「エリアの父が、娘を守るためにカイルを厳しく叱責した」という事実だけが、尾ヒレのついた噂となって村中に伝播した。
さらに絶望的だったのは、その後のエリアの態度だった。 彼女は自分の嘘がカイルにどのような影響を与えたかなど、数日後には綺麗さっぱり忘れてしまっていた。カイルが勇気を出して、あの時のことを父親に説明してほしいと詰め寄った際、彼女は心底不思議そうに首を傾げたのだ。
「え……? そんなことあったっけ。カイルくん、なんか怖いよ。変なことを言わないで」
悪意など微塵もなかった。ただ、自分の小さな保身のために吐いた嘘を、彼女は脳内で「なかったこと」に書き換えていた。その無邪気な忘却に、カイルのなかの何かが音を立てて崩れ落ちた。
その後、少女の父親は「村の秩序を守る善意」から、カイルの両親にまで「お宅の息子さんの素行を正すべきだ」と丁寧に吹き込んだ。
「カイル、お前……エリアちゃんに何かしたのか?」
ある夜、食卓で父が重い口を開いた。母は悲しげに目を伏せ、カイルを見る目に疑念を混ぜていた。
「何もしてない! 彼女を助けただけなんだ、信じてくれ!」
必死の訴えも、非の打ち所がない「善意の塊」であるエリアの父の言葉の前では無力だった。家の中に冷たい沈黙が流れ、それ以来、両親との間には埋められない溝ができた。家族という唯一の安らぎさえ、あの男の「悪意なき、正しい忠告」によって壊されたのだ。
それでも彼は、いつか立派な騎士になれば、この不当な疑いも晴れると信じていた。自分を律し、王都へと渡り、食事を削ってまで稽古に励んだ。 騎士試験の手応えは完璧だった。実技でも学科でも、並み居る貴族の子弟を圧倒した。合格を確信していた。
しかし、結果は「不合格」。
信じられず、カイルは選考委員会へ直談判に赴いた。ボロボロの稽古着のまま、必死の形相で食い下がる彼に対し、担当の官吏は言葉を濁しながらも、冷徹な事実を告げた。
「身辺調査の結果だ。君の故郷で、複数の若い女性から証言があった。『幼い少女を執拗に追い回し、その父親からも厳重注意を受けていた』とな。
……悪いが、女子供を慈しみ守るべき騎士団に、そのような危険な素行の持ち主を入れるわけにはいかないのだよ」
村へ調査に行った官吏が接触したのは、あの時、広場で父親がカイルを叱りつけるのを目撃した女性たちだった。彼女たちは「よかれと思って」、村で聞いた噂をそのまま伝えたのだ。 エリアの父親の「善意の忠告」と、エリアの「無自覚な忘却」、そして村人たちの「無責任な噂」。
そのすべてが、カイルの十数年の血の滲むような努力を、一瞬にしてゴミ箱に放り込んだ。
カイルは膝から崩れ落ちた。 自分が守ろうとした人々、救おうとした少女、信頼してほしかった両親。 そのすべてが、彼の「善意」を「悪意」へとすり替え、彼の翼をもぎ取った。
「……あ、は……っ」
兵舎の毛布の中、カイルの笑い声が一段と高くなる。 あの父親が魔物の爪に引き裂かれ、臓物をぶち撒けながら「助けてくれ」と喚いたとき、カイルの耳にはあの広場での説教がリフレインしていた。
『お前がやったことは、助けなどではない』
そう、お前の言う通りだ。だから俺は、あの日のお前の「正しい教え」に従い、お前を助けなかった。
そしてエリア。 死ぬ間際、俺を騎士だと信じて縋り付いたあの少女。俺を騎士になれなくした張本人の分際で、最後まで被害者面をして俺の救いを求めた愚かな少女。
カイルは毛布を噛み締め、身体をよじって笑い続けた。 絶望の果てに生まれたのは、人間を辞めた怪物の歓喜だった。
「……は、あははっ……! あはははははははッ!!」
毛布の下で、嗚咽は完全な狂笑へと変貌した。 カイルは自分の腕を噛み、その痛みを快楽に変換しながら、路地裏の光景を反芻した。
あんなに傑作な光景が、他にあるだろうか。 かつて一点の曇りもない「正義」を盾に俺を罵倒し、人生を台無しにした張本人が、命が惜しくなった途端、かつて「二度と娘に近づくな」と蔑んだ相手に無様に縋り付いたのだ。どの口が。どのツラが。
死に際のあの男は、かつて俺を「汚物」として排斥し、両親との絆さえ引き裂いた傲慢さを微塵も捨てていなかった。助けを求める言葉の中にさえ、「騎士になれなかった出来損ない」と俺を見下す優越感が透けて見えていた。自分の娘を危険な目に合わせたのは俺の執着のせいだと決めつけ、村中に噂を広めて俺の未来を奪ったくせに、いざ自分が死ぬとなれば、その「出来損ない」の槍に縋るしか道がなかったのだ。
そしてエリア。死の直前まで、自分がカイルに何をしたかも自覚せず、都合よく『優しいお兄ちゃん』という幻想に縋り付いていたバカな女。 自分の嘘で、俺の人生がどれほど真っ黒に塗り潰されたか。自分の両親と交わす言葉がどれほど冷え切ったか。彼女は一度だって想像したことがなかったのだろう。
(あはは、そうだ、俺は必死に戦ったんだよ。誰も見ていない路地の裏で……)
(お前たちが一番惨めに、一番汚く死ねるように、『待つ』という最大の努力をしたんだ)
カイルの目から、今度は本物の「喜び」の涙が溢れた。
「あんなに、あんなに綺麗に食われるなんて。お父さんの絶叫、聞いたか? エリア。お前の父親が「二度と近づくな」と言ったから、俺はそれを守ってやったんだからな」
彼は毛布から顔を出した。その瞳は、狂気に満ちていながらも、長年彼を苛んでいた暗雲が晴れたような、奇妙な清々しさに満ちていた。 明日になれば、彼は再び「悲劇の兵士」という完璧な仮面を被る。 村の大切な幼馴染を失った、誠実で悲劇的な兵士。
カイルは、返り血がついたままの自分の手のひらを、愛おしそうに舐めた。 そこにはもう、エリアを守ろうとした少年も、騎士を夢見た青年もいない。
暗闇のなかで、一匹の怪物が静かに、そして幸福そうに微笑んでいた。




