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第5話 言葉の壁と自己の揺らぎ

村での日々が少しずつ流れていった。

仕事を分け与えられ、畑で汗を流し、井戸で水を汲むことが日常となった。

体はここに馴染みはじめていた。

しかし心は、相変わらず外れ者のまま、どこか宙に浮いていた。


少女と再び顔を合わせたのは、ある朝のことだった。

村の入口近くで、彼女は子どもたちと一緒に籠を抱え、野草を摘んでいた。

私に気づくと、にこりと笑って声をかけてきた。

言葉はやはり分からなかった。

それでも、声の響きに宿る柔らかさは、初めて出会った夕暮れのときと同じだった。


私は返事を試みた。

自分の言葉で「ありがとう」や「おはよう」に近いものを口にしてみた。

だが、彼女は少し眉を寄せ、首をかしげただけだった。

それは拒絶ではなく、ただ理解できないという表情だった。

その無垢な仕草が、かえって私の胸を痛めた。


言葉とは何だろう、と私は思った。

思いを伝えるための橋のようでありながら、実際には深い断崖を露わにするものでもある。

同じ景色を見ていても、同じ沈黙を共有していても、言葉がすれ違えば私たちは別々の岸辺に立つ。

その断絶の冷たさが、私の存在を震わせていた。


日が暮れると、彼女の声が耳に残った。

意味を持たぬ音の列が、かえって旋律のように胸を揺らした。

もし言葉を理解できたなら、彼女は何を語っていたのだろう。

ただの日常の話かもしれないし、あるいは空の美しさを讃えていたのかもしれない。

分からない。

その「分からない」という事実こそが、私をさらに孤独に追い込んだ。


ある夜、村の焚き火のそばで、人々が集い、賑やかに語らっていた。

笑い声が交わされ、言葉が弾み、手振りで大きな物語が描かれていた。

私はその輪の端に座りながら、彼らの声の流れを聞いていた。

音は確かに耳に届いているのに、意味は一向に形を結ばなかった。

それはまるで、透明な壁を隔てて水族館の水槽を眺めているようだった。

魚の動きは見えるのに、その呼吸は触れられない。


ふと、私は自分に問うた。

「私はこの世界で何者なのか」と。

言葉を持たぬ者は、ここで人として認められるのだろうか。

あるいは、彼らにとって私は人である必要すらないのかもしれない。

働き手であり、異邦の影であり、ただ在るだけの存在。

その揺らぎが、夜の静けさに重く沈んでいった。


けれども、不思議なことに、孤独のすべてが苦しいわけではなかった。

理解されないままにいることは確かに胸を締めつけたが、同時にその孤独は私を私であらしめた。

言葉に解きほぐされない自分が、まだここにいる。

その矛盾の中で、私はかろうじて形を保っていた。


少女が時折向ける笑みを思い出した。

意味を欠いたままの声が、それでも確かに届いていたことを。

もしかすると、言葉がなくとも伝わるものはあるのかもしれない。

そう信じたいと思った。

でなければ、私はこの壁に押しつぶされてしまうからだ。


夜が更け、火が小さくはぜる音を聞きながら、私は胸にその思いを抱いた。

孤独に揺らぎながらも、揺らぎの中でしか見えないものがある。

そう自分に言い聞かせるように、私は静かに目を閉じた。

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