第3話 現世の記憶と、消えゆく過去
この村で暮らす日々にも、いくらかの規則が生まれ始めていた。
朝は井戸に向かい、まだ冷たい石の縁に手をかけて水を汲み上げる。
昼は畑で土を耕し、草を抜き、時に羊の群れを追いかける。
夜は藁の寝床に身を横たえ、火の残り香を聞きながら目を閉じる。
その繰り返しは単調でありながら、確かに私を「ここにいる」と告げていた。
けれど、時間が積み重なるごとに、胸の奥では別の感覚が育っていた。
現世の記憶が、少しずつ、確かな色を失っていったのだ。
ある日の作業の最中、不意に母の声が浮かんだ。
夕飯の支度を呼ぶ声。その響きは確かに懐かしいのに、顔を思い浮かべようとすると霞んでいた。
瞳の色も、口元の動きも、記憶は輪郭を欠いていた。
「忘れてはいけない」と強く思った瞬間、記憶は霧のように崩れていった。
父の背中もそうだった。
かつて何度も見送ったはずの背は、今やただの影となっていた。
肩の傾きや歩き方を思い出そうとすればするほど、像は曖昧になっていく。
それはまるで水面に映る月のようだった。
覗き込めば覗き込むほど波立ち、形は揺らぎ、やがて水底に吸い込まれてしまう。
夜、眠りに落ちると、夢の中に彼らが現れる。
けれど、その姿は完全ではなかった。
母は声だけになり、父は背中だけになり、友人は笑い声だけになった。
私はその断片に必死で手を伸ばしたが、触れようとするたびに遠ざかっていった。
夢の中でさえ、私は記憶に拒まれていた。
翌朝、目を覚ますと胸に冷たい影が残っていた。
記憶が失われるということは、ただ忘れるということではない。
それは、かつての自分が静かに削り取られていくことに似ていた。
「私」という輪郭が、少しずつ擦り減り、形を失っていく。
その感覚は、恐怖というよりも、緩やかな諦めに近かった。
けれど、諦めきれぬ自分もまたそこにいた。
ある晩、焚き火のそばでひとり腰を下ろした。
炎はゆらぎ、赤い光が木の枝を映し出していた。
火の粉が舞い上がるたびに、消えゆく記憶と重なった。
瞬間の輝きは確かにそこにあるのに、次の瞬間には闇に溶けていく。
私はその儚さを見つめながら、自分もまた同じ運命にあるのだと理解した。
私は誰になるのだろう。
記憶を失い、名を呼ばれることもなく、この村でただ生き続ける存在。
「私」とは、過去を抱えた者のことなのか、それともただ今を呼吸する者のことなのか。
答えは出なかった。
けれど、問いを抱き続けることこそが、今の私を「私」に繋ぎとめているのかもしれない。
その夜、藁に顔を埋めながら、私は目を閉じた。
記憶は遠ざかっていく。
けれど、その遠ざかりを見送る眼差しだけは、まだ私の中に残っていた。