序話
そっと目を開けた。
そこにあったのは、昼でも夜でもない、曖昧な光の漂う空間だった。
世界そのものが一枚の薄紙のように透けていて、手を伸ばせば簡単に破れてしまいそうだった。
光は確かに存在していたが、それは太陽のものでも焚き火のものでもなく、誰かの夢の奥に灯された残光のように、静かに揺れていた。
最後に覚えているのは、雨の夜の街だった。
舗道に散らばる水溜まり、街灯がそこに歪んで映り、まるで引き伸ばされた月の欠片のように震えていた。
耳に届いたのは、ブレーキの悲鳴のような音。
その音が世界を裂き、私は一瞬ののちに途絶えた――はずだった。
けれど今、ここで私は呼吸をしている。
胸は熱を抱き、肺は湿った空気を出入りさせている。
だが、それを「生」と呼んでよいのか、判じかねた。
ただ機械的に機能が続いているだけなら、それは存在といえるのだろうか。
足元には地面があった。
けれども、その感触は奇妙に頼りなく、まるで夢の中で歩くときに覚える曖昧さと同じだった。
私は立っているのか、それともただ「在る」という事実に支えられているだけなのか。
周囲には木々のような影が揺れていた。
だが、その枝葉は透き通り、風にそよぐたびに光を孕み、現実の森というよりも、夢の臓腑を歩いているかのようだった。
遠くで水音がした。川のせせらぎのようだが、規則正しく刻まれるその響きは、むしろ胸の奥で鳴る心臓の音に似ていた。
私が耳を澄ますのをやめると、その水音はかえって強まり、体の輪郭を曖昧にしていった。
思えば、私はかつて「存在」について深く考えたことはなかった。
教室で哲学の授業を受けたとき、「我思う、ゆえに我あり」という言葉が黒板に書かれていたのを覚えている。
そのときの私は、そんな古めかしい言葉を自分に引き寄せて考えることはなかった。
思うことと在ることは、あまりにも当然に一致していたからだ。
だが今、この奇妙な世界に放り込まれて、私はその当然を失っていた。
「転生」――そんな言葉がふと脳裏をよぎった。
けれど、それはあまりに作り物めいていて、安っぽい物語の頁を思わせた。
軽々しく口にすれば、この静けさを汚すように思えた。
むしろ、ここにあるのは「死の延長」かもしれないし、「存在の余白」かもしれない。
私は歩き出した。歩くというより、漂っていた。
足裏に伝わるのは土の感触のはずだが、それは皮膚に触れぬまま内側に沁みこんでくるようだった。
やがて小さな丘のような場所に出た。
眼下には銀色の麦畑が広がっていた。
風が吹くたびに麦は波を立て、まるで月の海が地上に降り立ったようだった。
私はその光景に言葉を失った。
けれども同時に、得体の知れない孤独を感じた。
どれほど鮮烈な景色であろうとも、共に語る人間がいなければ、それはただの静止画にすぎない。
声をかける相手のいない世界で、私はどうやって「生」の実感を見出せばよいのか。
麦畑を渡る風に吹かれながら、私は考えた。
――この世界は誰の夢なのだろう。
いや、誰の夢でもないのかもしれない。
そう思ったとき、胸の奥に小さな穴が開いたように感じた。
その穴から冷たい風が吹き込み、私は身を抱いた。
生きているというより、風に繋ぎとめられているにすぎない。
私は丘の上に立ち尽くし、長い間、麦の波を見つめていた。
やがて光は少しずつ薄れ、世界はさらに曖昧さを増していった。
その移ろいの中で、私はただ深い呼吸を繰り返した。
答えは訪れなかった。
けれど、答えを求めること自体が、この場では意味を持たないのかもしれない。
私に残されていたのは、在ることと、問いを抱き続けることだけだった。
その思いを抱いたまま、私は長い吐息をもらし、静かに目を閉じた。