【番外編 春風のあとで、君ともう一度】
春の風がまだ冷たく、桜のつぼみがふくらみ始めた頃。
屋上で交わしたあの言葉のあと、私たちは何気ない毎日を少しずつ重ねている。
この番外編は、そんな「その後」の小さな一日。悠斗の不器用な優しさと、私の小さな不安が、そっと溶け合う様子を覗いてみてください。
桜の芽がほころびかけている。電車の窓から見える道沿いの並木が、冬の灰色から少しずつピンクに染まっていくのを見て、胸の奥がぽっと温かくなった。
私は制服のリボンを軽く整え、鏡の前で笑ってみる。屋上で言い合ったあと、私たちは「恋人」になった。何か劇的に世界が変わるわけじゃないけれど、同じ朝の光がほんの少しだけ違って見える気がする。
スマホに小さな通知が来ていて、悠斗からの短いメッセージが見えた。
『今日はよろしく。いつもと同じでいいけど、あとで少し寄り道するよ』
画面を閉じると、胸が蟻のように甘く動いた。寄り道──彼がそう言うだけで、私は何をされるんだろうと考えてしまう。あの日、契約という枠をこわしてから、照れの種類が増えた。
* * *
悠斗は不器用だ。けれど、その不器用さが安心に繋がることを、私は知っている。帰りの電車で、彼が隣になにげなく差す手の感触や、重い紙袋を持っているときにさっと代わりに持とうとする指先が、私の心をいつもぬくもらせる。
今日は放課後、駅から少し足を伸ばして小さな公園に行くと言っていた。私はどこかでサプライズを期待してしまって、授業中もときどき窓の外を見ていた。
悠斗に関する小さな想像が頭のなかでふくらむ。彼は何を用意したのだろう。彼の家で作ったという卵焼き? それとも図書室で見つけた古いしおりをくれるのかもしれない──そんなことを考えているだけで、時間は軽やかに流れていった。
* * *
放課後、いつもの電車に乗る。座席に沈みながら、ふと私たちが中学時代に図書委員だったころを思い出す。あの頃の図書室は、私たちの世界の中心だった。本の匂いと紙の感触、窓辺の光。悠斗が読んでくれた詩の一節が、今でも耳の奥で優しく反芻されることがある。
「今日は、どこ行くんだっけ?」と彼が訊く。
「桜の小道の公園って言ってたよね」と私。
彼は少し照れて、「ああ、そう。ちょっとした散歩と、あと……」と言葉を濁す。私が顔を上げると、ふと目を逸らして地図の代わりに作った小さなしおりを取り出した。鉛筆で走り書きされた文字と、手描きの小さな桜の絵がそこにあった。
「これ、作ったの?」と聞くと、「うん、図書室の古い紙で」と言って彼は照れ笑いをする。その不器用な気持ちが、私の胸にじんわりと広がった。
* * *
彼が連れて行ってくれたのは、駅から歩いて十数分の、川沿いにある小さな公園だった。桜の枝がまだ満開ではないが、ところどころに薄いピンクの輪郭が浮かんでいる。ベンチには小さな弁当箱とマットが置かれていて、悠斗が私のために用意してくれたことが一目でわかった。
「わあ」と心の中で思わず声が出ると、悠斗は少し恥ずかしそうに笑った。おにぎりが二つ、卵焼き、そして小さな紙袋には図書委員時代に私が好きだと言っていた本の話題が書かれたしおりが入っていた。
「覚えてたんだ」と目を潤ませそうになるのをこらえて言うと、彼はただ頷いて手を差し出した。私たちはベンチに並んで座り、川の流れる音と時折通る自転車の音だけが周りにあった。
弁当を分け合いながら、私たちはぎこちなくも本音を交わす。最初は冗談めかして、「契約時代のベスト&ワースト」を挙げ合う。彼が「ワーストは、演技のキスをするふりをしたときのぎこちなさ」と言って、私も笑ってしまう。笑い声が桜の枝に吸い込まれていく。
* * *
そこへ、少し離れた場所から成瀬が顔を出す。彼は偶然のように見えたが、手には大きめの紙袋を下げており、中身を覗かれるとピクニック用の飲み物や差し入れのようなものが見えた。
私は一瞬動揺する。彼がずっと気にかけてくれていたのは知っているけれど、悠斗の準備を壊してしまうのではないかという不安が一瞬よぎった。成瀬はにこやかに「やあ、偶然だな」と言って近づき、軽く会釈をする。
だが私の中の小さな不安は、つい「成瀬くん、何してるの?」と問いただす言葉になって飛び出してしまった。成瀬は少し驚いた顔をしてから、「いや、近所の親戚に頼まれて差し入れを持ってきたんだ。姫野の家に寄るつもりだったから、道が同じだと思って」と説明する。
悠斗は私の顔色を見て、静かに笑った。「大丈夫。気にしないで」と。その一言が私の胸の氷を少し溶かした。誤解はすぐに解け、成瀬は軽く手を振って去っていく。彼の背中に少しだけ、複雑な響きがあったが、その気遣いは攻撃的なものではなく、どこか優しさを含んでいた。
* * *
日が落ちて、私たちはゆっくりと駅に向かった。手をつないで歩く。さっきの小さな波風はもう消えていた。帰り道、悠斗がふと立ち止まってこちらを向き、真剣な顔で言った。
「これからも、毎日を積み重ねたい。契約とか、そんな言葉はもういらない。お前が笑う理由になりたい」
その言葉を聞いて、私の目からこぼれるものをどうして止められたのか分からない。彼は私の手をぎゅっと握り、その温度が冷たい夜の風の中で私を守ってくれた。
家に帰ると、スマホに小さなメッセージが入る。『今日はありがとう。おやすみ』。私はすぐに返信する。『私もありがとう。おやすみ、悠斗』。画面の文字は短いけれど、そこに込められた安心と期待の重みが、夜の静寂のなかでこだまする。
桜の花はまだ満開ではないけれど、確かに春は来ている。契約のあとに残ったのは、ぎこちなさと同じくらい確かな温もりだった。私はその温もりを抱えながら眠りについた。
読んでくださってありがとうございました。
演技から始まった関係が、本物になっていく――そんな日常のひとコマを描きました。
梨央の視点から見た小さな揺れと、その先にある確かな温もりを楽しんでいただけたら嬉しいです。
また気が向いたら、別の視点や短い章を綴るかもしれません。これからもよろしくお願いします。
— 桜坂はる




