【第11話 届かない声、乱れる鼓動】
些細な沈黙や視線の揺れが、こんなにも胸をざわつかせるなんて。
梨央と成瀬、そして俺──三人の間に漂う空気は、もう“契約”の枠では収まりきらない。
それでも、答えはまだ見えないまま。
朝の教室は、いつもと同じような喧噪に包まれているはずなのに、今日はどこか落ち着かない。
ガタガタと机を引く音や笑い声の奥に、ひそひそとした囁きが混ざっている気がする。
黒板の前で何人かの女子が集まって談笑していたが、ふとこちらへ視線を投げてくる。
その目は、どこか探るようで、興味と好奇心が入り混じっていた。
(……なんだ、この空気)
席に着く前から、背中がむず痒いような感覚があった。
鞄を机に置いた瞬間、翔太が椅子を引きずって俺の机の横に座り込み、小声で話しかけてきた。
「なあ悠斗、お前……成瀬となんかあった?」
「は? いや、別に」
「別にって顔じゃねーぞ。さっき廊下で梨央と成瀬が話してたんだよ。しかも、結構真剣な雰囲気で」
「……」
心臓が、不自然なリズムで跳ねた。
頭に昨日の帰り道の光景が浮かぶ。あのときの梨央の沈黙。あれと関係があるのか?
翔太は肩をすくめて、「まあ、余計なお世話かもな」と言って席に戻った。
けれど、その一言はずっと耳に残り続けた。
* * *
2時間目と3時間目の間の休み時間。
何気なく廊下を歩いていると、向こうから梨央が歩いてくるのが見えた。
周囲の視線を避けるように、彼女は俺に軽く会釈して通り過ぎる。
その瞬間、ほんのわずかに唇が動いた気がしたが、声は届かなかった。
ただ、あの目は──昨日と同じく、少しだけ曇っていた。
* * *
昼休み。
弁当を食べ終えて教室を出ようとしたとき、廊下の奥で梨央を見つけた。
彼女は屋上へ続く階段の踊り場に立っていて、ドアにもたれながらスマホを見ていた。
その姿は、いつもより小さく見える。
「……さっき、成瀬と何話してた?」
声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから視線を落とす。
「ただ……“ちゃんと考えたほうがいい”って言われただけ」
「何を?」
「悠斗くんとのこと」
短い言葉だったのに、心の中に重く落ちていった。
階段の踊り場に、冬の冷たい空気が流れ込んでくるようだった。
「……俺は、別に──」
そこまで言いかけたとき、後ろのドアが開く音がした。
きしむ蝶番の音が、妙に大きく響く。
そこに立っていたのは、成瀬だった。
制服の上着のポケットに手を突っ込み、薄い笑みを浮かべている。
けれど、その目は笑っていなかった。
「お、いたのか。邪魔した?」
軽い調子の声なのに、その場の空気は一瞬で張りつめた。
梨央が小さく肩をすくめる。
成瀬は俺をまっすぐ見据えたまま、階段を一段降りてきた。
靴音が、コツ、コツ、と規則正しく響く。
そのたびに、空気の緊張が強くなっていくような気がした。
「真壁。お前がどう考えてるかは知らないけど……梨央は、本気で人を想うと、自分のこと後回しにするタイプだ」
「……」
「だから、もし中途半端な気持ちなら、ちゃんと距離置け。あいつを守れる覚悟がないなら」
その言葉は、胸の奥に鋭く突き刺さった。
呼吸が浅くなる。視線を逸らしたくても、成瀬の目から逃げられない。
まるで、心の奥を覗き込まれているようだった。
隣で梨央が小さく「やめて」と呟く。
その声には、怒りよりも哀しみが混じっていた。
成瀬は一瞬だけ梨央に視線を向け、ほんの僅かに表情を緩めた。
しかし次の瞬間には、また鋭さを取り戻して俺に言う。
「……じゃあな」
それだけを残して階段を降りていく。
残されたのは、梨央と俺、そして重苦しい沈黙だけだった。
* * *
「……ごめん」
先に口を開いたのは梨央だった。
俯いたまま、制服の袖を指でつまんでいる。
「成瀬くんがあんなふうに言ったのは、きっと私のせい。
私が……悠斗くんのこと、どう思ってるのか、ちゃんと自分でも分かってないから」
その言葉に、胸の奥が締め付けられる。
昨日も同じことを感じた。俺もまた、自分の気持ちを整理しきれていない。
「……俺も、すぐに答え出せるわけじゃない」
「うん。それでいいよ」
梨央はそう言って、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その笑顔は薄いフィルムのように脆く、指先で触れたら破れてしまいそうだった。
* * *
放課後。
昇降口を出てからも、二人の間に言葉は少なかった。
並んで歩く道はいつもの帰り道なのに、今日はやけに遠く感じる。
電線の上をカラスが飛び、街路樹の葉が風に揺れる音だけが耳に残る。
俺は何度も話題を探そうとしたが、どれも言葉になる前に消えてしまった。
(俺は……守れるのか。梨央を)
成瀬の言葉が、ずっと頭の中で反響している。
守る──それは簡単なようでいて、たぶん俺が想像している以上に重い意味を持っている。
* * *
駅のホームで別れた後、帰りの電車に揺られながら窓の外を見た。
夕焼けはすでに沈み、街の灯りが滲む。
窓に映る自分の顔は、どこか頼りなく見えた。
ポケットの中のスマホが震える。
画面を見れば、梨央からのメッセージだった。
『今日はごめんね。また明日』
短い文章。でも、その「ごめんね」の一言が胸に引っかかる。
本当は、俺が謝るべきなのに。
(……俺は、どうしたいんだ)
問いの答えは出ないまま、電車は暗いトンネルへと滑り込んでいった。
読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、成瀬の登場によって悠斗の心が大きく揺らぐ回でした。
梨央の笑顔の奥にある迷いと、成瀬の真剣な忠告。
ふたりの距離は近づいたのか、離れたのか──曖昧なまま夜が更けていきます。
次回は、沈黙の裏に隠された“本当の気持ち”が少しずつ明らかに。
ぜひ続きも見届けてください。